第2章 宣教師のみた日本社会(3)

第3節 宣教師のみた日本の社会と布教活動の展開

 本節では、来日した多くの宣教師らによって展開された布教活動や社会活動について取り上げる。とりわけここでは宣教師のルイズ・デ・アルメイダとバルタザール・ガゴの2名によって大きく推進されることになった間引き反対運動、つまり、幼児保護運動について注目したい。
 当時の日本の社会における間引き(嬰児殺し)の実態は、以下に挙げたガゴとガスパル・ヴィレラという2人の宣教師の書簡から明らかになる。

 

[史料41]
 “Alem de muitos males que esta gente tem, he hum de matar as criancas, ou no ventre ou em nacendo, ou porque lhes nao nasse o que eles desejao, ou por sua pobreza ou por o trabalho de os criarem.”

(日本語訳)
 “この民族の様々な罪の中には子どもを殺す罪もある。妊娠中または生まれた途端に殺してしまうのである。生まれた子どもが親に望まれた子どもとは違う場合や、貧しい生活で子育ての面倒を避けるために殺されてしまうのである。”

[史料42]
 “Tem estes huma cousa orrenda entre todo pecado que e matarem os filhos. Algus porque dizem que nao hao mister tantos que abastao huim ou dous para sua geracao fiquar alevantada, e que os mais, que vivem pobres e miseraveis. Que em quanto sao meninos nao sintem tanto em huma hora que os matao como sentirao depois todo tempo que vivetrem pobres Matan os porque nao tem por onde sostentar, de maneira que uns por onrra e a outros por desesperanca lhes faz matar seus filhos.”

(日本語訳)
 “この民族(日本人)が犯す罪の中で、最も恐ろしいのは自らの子どもを殺してしまうことである。人々は自らの系統を保てるように子どもが1、2人生まれれば十分と考える。それ以上に生まれてきたならば、その子どもたちは貧しい人生しか送ることができないとみなすのである。だからこそ、後々貧乏な生活を送るよりも彼らが子どもの間に殺したほうが悩まないと考え、彼らのことを養えないということで殺してしまうのである。名誉または絶望のために。”

 

 [史料43]は、ガゴが1555年9月23日にポルトガルとインドの宣教師らに宛てた書簡であり、[史料34]はヴィレラによって1557年10月29日にポルトガルの宣教師らへ宛てた書簡である。当時の日本社会においては、妊娠中または生まれた途端に子どもを殺す罪、つまり、間引きが広く行われていたという。生まれてきた子どもが親の意向とは異なった場合や、貧しい生活の中で子育てという面倒を避けるために殺されてしまうのであった。
 また間引きの理由として、人々が系統を保持できるようにするために、最低限の子どもで十分であるという認識、そして、たとえ生まれてきたとしても貧しい人生しか送ることができないであろうとみなし、将来に貧乏な生活を送らせることよりもまだ子どものうちにに殺してしまおうと考える点などを挙げている。
 こうした日本に続く間引きの実態を目の当たりにした宣教師たちによって新たに救済活動が展開されていくことになるのである。

 

[史料44]
 “E doutros males que ha antre esta gente he o de matar as criancas tanto que nacem, polo trabalho de as criar ou pola pobreza. E porque este anno sucedeo ficar neste Bungo hum portugues,por nome de Luis Dalmeida, para estar recolhido e tomar os exercicios spirituaes da Copanhia, dando-lhe conta do caso se moveo logo e deu pera isso mil cruzados.”

(日本語訳)
 “様々な悪い習慣の中で、貧しさや面倒だからなのか、子どもが生まれてからすぐ殺してしまう習慣もある。今年イエズス会の修行のためにこの豊後に滞在することになったルイス・デ・アルメイダというポルトガル人は、その話を聞くとすぐ動いて1000クルザードを寄付した。”

[史料45]
 “E que pedissemos ao duque quisesse dar hum mandado sob alguma pena que ninguem matasse criancas, e que secretamente as tragao a hum hospital que para isso averia com algumas molheres pobres christas de leite, com hum par de vacas e outras cousas, pera remedio de nao perecerem a mingoa, as quais em chegando se fariao logo christas.”

(日本語訳)
 “我々はその土地の伯爵(領主)に対して、もう誰も子どもを殺さないように罰則をつくるようお願いした。そして、密かにそうした子どもを我々の病院へ連れてくるよう命じることも頼んだ。我々の病院には乳をあげられる貧乏なキリシタンの女性や2頭の牝牛もいる。これは子どもたちが栄養失調で死なないようにするための解決策である。こうして病院へ集められた子どもたちはみなすぐにキリシタンになった。”

[史料46]
 “Demos conto disto ao duque dando lhe as rezoes do bem que dahi se seguia. Folgou muito, e mostrou muito boa vontade, dizendo que elle sabia que era grande pecado matar os meninos, e que maneira que quisessemos se faria. Cedo, com ajuda do Senhor, se dara pera gloria sua e edificacam destas gentes, e mostrar-se-lhe por esta obra muitos secretos da outra vida, de maneira que lhes seja huma continua pregacam e confusam de seus maos costumes. ”

(日本語訳)
 “我々は伯爵に対して孤児院について説明をしながら、そこからもたらされるメリットについても説明した。すると彼は大変喜んで、自らも子どもたちを殺生することが大罪だと知っているとし、我々が好きなようにやることを許可してくれた。我々の主の助けによってすぐにこの活動は始まった。我々は神の栄光のために神に期待する。我々の活動はこの民族の成長のためにもなるだけでなく、彼らが他界についてもいろいろ学ぶことができ、彼らの悪い習慣をやめさせることにもなるのである。”

 

 以上に挙げた[史料44][史料45][史料46]はガゴによって1555年9月20日にポルトガル王ジョアン3世へ宛てて送られた書簡である。ガゴは王に対して、日本における間引きという罪深い行為の存在を紹介し、こうした日本人の行為に対して、同年に豊後に滞在することになったルイス・デ・アルメイダによって間引きに処されうる子どもたちのために1000クルザードものお金を寄付されたことを伝えている。こうした寄付によって豊後の府内には孤児院施設を兼ねた病院が建設されることになるのである。
 そして、ガゴを中心とした宣教師は、豊後の領主であった大友宗麟に対して、領内においてもうこれ以上誰も子どもを殺すことがないように、法をもって規制を強化するように掛け合ったようである。彼ら領主に対して殺される運命にある幼児を、自らが建設した整備の整った施設に連れてくるようにお願いし、これに対して大友宗麟も歓迎し、イエズス会の活動を認めたのであった。ここから府内における幼児救済運動は本格的に始まることになったのである。
 布教活動の展開に関する書簡で、洗礼を受けた日本人による癒しの奇跡、悪魔祓いなどが頻繁に記されている。先ずガゴ宣教師、1555年09月23日インドとポルトガル宣教師宛ての書簡を挙げたい。 

 

[史料47]
 ”Neste lugar tambem tivemos a ajuda do demonio, porque avia uma mulher indimoninhada, e quando havia maior auditorio entao estrovava. Mas Deos dava tanta grace aos novos convertidos que dali se faziao mais fortes, vendo que prezava ao demonio.”

(日本語訳)
 “ここの土地(日本)には悪魔の協力もあった。なぜなら、悪魔に取り憑かれた女の人がおり、集会所で皆と一緒にいると、雷のように悲鳴をあげていたからだ。しかし、デオスが皆の信仰をいつも強めていたので、新しいキリシタン達が悪魔の働きを見ると、怖がるよりも、もっと信仰が強くなった。”

[史料48]
 “Os dias passados me chamarao per air obra de huma legoa ver hum mancebo que estava indimoninhado de a vida e como entravado, e prouve ao Senhor que pouco a pouco milhorou. Huma Irma deste, molher que tinha ja dous filhos, tambem de toda a vida indemoninhada, veo aqui a nossa casa. Acabada de ser batizada, a oprimio o demonio de tal maneira que 6 pessoas nao podiao com ella. Prouve Deos nosso Senhor que esteve ai huma tarde, e dizendo-lhes alguns exorsismos e oracoes, e cessou algum tanto.Mas com tudo esteve aquella noute sem lhe ir.”

(日本語訳)
 “数日前、ここから7キロ離れたところにいる、体が動けなくて悪魔に取り憑かれた若者を訪ねるため、私が呼ばれた。主の許しで、その若者が少しずつ治ってきた。子供が二人いる彼の妹も、昔から悪魔に取り憑かれていた。しかし、彼女が私達の家に寄り、洗礼を受けると、憑かれた悪魔の苦しさのせいで急に彼女が暴れ始め、彼女を抑えるために、男が6人が必要だった。エクソシズム「悪魔祓いの祈り)をすると、彼女はおちついた。”

[史料48]
 “(…)logo disse Jesus Maria e Sao Miguel e comeo e bebeo, que depois do batismo nao este ve em sim . Dai sempre se achou bem e nunca mais a tornou o demonio a vexar.”

(日本語訳)
 “(中略)その若者は自ら「イエス、マリアそしてミゲル聖人」と囁いてから、少し食べ、そして飲んだ。それから洗礼を受けた。それ以来、復活して、もう二度と悪魔に苦しめられることはなかった。”

 

 [史料48]と[史料49]ではガゴが数々の悪魔祓いを目撃している。悪魔に憑かれた日本人が、エクゾシズムされると、すぐに悪霊が追い出され、癒されたりしたと、様々な史料に記してある。精神医学がまだ進んでいない16世紀に、原因が分からない精神病は多かったであろう。宣教師達自身が、「憑かれた人の悪霊を祓った」と思った事件は、単なる癲癇の発作だった場合もあるのではないだろうか。
癒しの奇跡も頻繁に書簡に記されている。例として、後に宣教師になった元医師ルイス・デ・アルメイダが、ハンセン病から完全に清められた患者の奇跡を、下記の通りに記録した。

 

[史料50]
 “O outro era hum mancebo, o quoal tinha todo o corpo coberto de huma fea lepra, e pela devacao e fee que os christaaos tem de lhe permanecer que com a ajuda do Senho lhe podia eu dar saude, mo trouxerao. Mas eu, em o vendo, lhe disse que nao tinha meizinha para aquela doenca. E por que nao se fossem desconzolados mandei-lhe fazer uma uma meizinha muito facil e disse-lhe que toranase dali a tres dias .”

(日本語訳)
 “他の人(病人)は若者で、体全体が酷いハンセン病で覆われていた。キリシタン達はとても信仰が強かったため、おそらくその若者を私のところへ連れて来たら、私がその若者を助けることができると思っていた。しかし、その若者の状態を見て、「あの病気には治療法がない」と私は皆に言ってしまった。だが、私はキリシタン達に絶望して欲しくなかったので、簡単な薬を作り、三日後また私の所に来るよう命じた。”

[史料51]
 “Aprouve o Senhor Deos de lhe dar saude, porque veio a cabo dos tres dias todo limpo como se nunca tal doenca tivera.(…)”

(日本語訳)
 “デオスがその若者の病を治した。なぜなら、三日後、彼の体から病がきれいに消えていたからである。”

 

 [史料50]と[史料51]では、府内の病院を担当していたアルメイダ宣教師が、当時治療法が存在していなかったハンセン病の、癒しの奇跡を描写している。簡単な薬を処方したアルメイダは、「ハンセン病」とはっきり述べている。しかし、当時の日本には様々な皮膚病があり、その病いが必ずしもハンセン病だとは限らない。宣教師が、出会ったことがない皮膚病を、すぐに「ハンセン病」だと定義した可能性があるだろう。アルメイダが「ハンセン病」と描写したことには、疑問があると考えられる。