銘 |
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星光を継ぐ者ども 第十六回 |
星光を継ぐ者ども 第16回 森 雅裕
十月十二日。米西海岸から六百海里。ここまで来れば、敵艦艇に出くわすこともあるまい。艦長は「横須賀に帰港するまでは戦場だ」と訓示したが、雲が低く、敵の哨戒機に見つかることもなかろう。
これまで浮上は夜に限っていたが、昼間も水上を航行し、乗組員たちには交替で煙草を吸う余裕が生じていた。
すると、
「左艦首、主力艦のマスト二本!」
見張りが叫んだ。警報が鳴り響き、急速潜航の緊張が艦内に走った。こんなところに主力艦とはどういうことか。
「魚雷戦用意!」
一本だけ残った魚雷は不調のために使わなかったものだが、連管長はあきらめずに調整を続けていた。彼の娘と同じ名前をつけ、丹精込めて仕上げた魚雷である。
深度十八メートル。艦長が潜望鏡を覗き、冷静に告げた。
「敵は潜水艦二隻。こちらへ向かってくる」
発見した主力艦とは別物か。それとも見誤ったのか。いささか拍子抜けしたが、潜水艦を侮ることはできない。その脅威は同じ潜水艦乗りとして、よくわかっている。
「先頭の艦に五百メートルまで近づくぞ。深度二十メートル」
波が高いので、深度調整に苦労しながら忍び寄った。さらに深度十五メートルに上げる。艦長の号令一下、魚雷が艦体を震わせて飛び出し、圧搾空気が耳を打った。時計を見つめ、三十秒も計らないうちに爆発音が起きた。近い。目の前で爆発したかと思うほどの轟音だった。
「命中!」
歓声があがった瞬間、さらに爆発が繰り返された。揺さぶられて艦内のペンキが剥げ落ち、電灯が消え、艦が大きく傾く。爆雷攻撃でも味わったことがない、反撃されたかと錯覚するほどの衝撃だ。敵艦の搭載した魚雷が誘爆したのである。乗組員たちは思わず近くにしがみついた。
電灯が点くと、誰もがひきつった顔を見合わせた。海中から金属のへしゃげる音と吹き出す気泡の音が伝わってくる。巨大な怪物が泣き叫んでいるかのようだ。水圧につぶされ、海底へと引きずり込まれる潜水艦の断末魔だった。明日は我が身。もう歓声をあげる者はいない。
一隻は沈めたが、残る一隻が恐慌をきたして闇雲に砲撃を始め、爆発音が間断なく続いた。しかし、こちらの位置はつかまれていないらしく、爆発音は遠い。伊二五は息をひそめながら、離脱した。
その夜は猛烈な荒天となり、歴戦の乗組員たちも枕を並べて倒れ込むほどの船酔いに見舞われた。
「沈めた潜水艦の祟りだ」
誰からともなく、そんな声が出た。
翌日、水上航行で「帰心矢のごとく」日本を目指していると、
「右三十度、漂流物」
見張りが叫び、先任が問い返した。
「漂流物とは何か」
「人間のようです」
「何だとお」
近づくと、転覆した水上機である。正確には水上機の残骸だ。かろうじて浮かんでいるフロートに一人の男がしがみついていた。日本機ではない。国籍マークは海面下にあって、見えなかった。
男は搭乗員である。引き上げるとまだ若く、どうも米兵ではないようだ。憔悴して声は小さいが、英語だけでなくもうひとつの言語が混じっている。
先任将校が洋上の残骸を指し、信雄に訊いた。
「飛行長。あの飛行機、わかるか」
「ソ連艦が搭載している複葉水上機のようですが……北太平洋にいる理由がわかりませんな」
こうした水上機はバルト海、黒海の艦隊や沿岸基地に配備されているはずだ。日本とソ連の間には中立条約が結ばれており、今のところ敵ではない。もっとも、盟邦ドイツの敵であり、アジアにおいては中国への軍事援助を続けているソ連であるから、心を許せるわけでもない。
救助された搭乗員は軍医長の診断を受けたあと、士官室の隅に居場所を与えられた。ソ連海軍少尉だった。敵ではないから捕虜という扱いではないが、監視も訊問もしないわけにはいかない。
信雄は飛曹長という准士官なので士官室の使用を許されており、訊問の様子を傍らで見ていた。訊問は英語で行われた。艦長は海軍兵学校出身だから英語教育を受けているし、軍医長も語学力はある。
ソ連士官はアルセン・バカーチンと名乗った。それを聞いた軍医長が眉根を寄せた。
「バカチン? ふざけてるのかな」
「いやいや。日本人の名前だって、向こうの人間が聞けば笑えるものがあるでしょう」
信雄は同じ水上機乗りということもあって、何となく親近感を覚えている。訊問が一段落し、軍医長がビタミン剤でも打ってやろうと準備を始めたところで、艦長と信雄は士官室を出た。
「まずいことになったぞ」
艦長はあまりまずそうでもなく、いった。
「あいつはソ連の巡洋艦から飛んできたようだ。仲間の潜水艦が攻撃されたので哨戒していたらしいが、飛行機がソ連でも札付きの欠陥機で、エンジン不調で不時着水……というより墜落したらしい。偵察員は死んだそうだ」
「仲間の潜水艦というと……」
「俺たちが撃沈したフネだよ。あれは米艦じゃなくソ連艦だったらしい」
「それはまずいですなあ。しかし、何故、ソ連艦がこのへんの海に?」
「あいつは答えないが、アメリカとの連絡にあたっていたか、艦艇を極東から北氷洋へ回航しているんだろう」
バルト海のソ連基地はドイツ軍に封鎖され、黒海もまたボスポラス海峡の軍艦通過は国際条約によって禁じられている。ソ連艦が往来できるのは北氷洋と極東の間だけである。
連合国の援ソ物資の輸送が始まった北氷洋方面へウラジオストックの艦艇を回航しているわけだが、水上艦は北極ルートでムルマンスクへ向かい、氷に弱い潜水艦はアリューシャン、サンフランシスコ、パナマ運河を経由する遠大な太平洋・大西洋コースをとる。むろん、ソ連軍にしてみれば極秘行動であり、伊二五の乗員が知るところではない。
伊二五の幹部たちが当惑したのは、敵ではないソ連艦を撃沈すれば重大な国際問題になるということだった。日本の潜水艦がこんなところにいたら、当然、下手人として疑われる。
艦橋で指揮をとっていた先任将校がラッタルを降りてきて、話を聞いていないのに内容は察したらしく、
「面倒だ。殺して海へ放り込みますか。死人に口なし」
ブッキラボーにいった。もともと愛想などないが、心は熱い男だ。本気なのか冗談なのか、わからない。しかし、艦長は、
「一度は救助したものを殺すというのはシーマンシップとして、どうなのかね」
と、却下した。
「ただし、本艦が潜水艦を撃沈したことは、あいつにはいうな。すっとぼけておけ」
いわれるまでもない。
その後はアルセン・バカーチンに日本の雑誌を見せてやったり、トランプに興じたり、慣れぬ日本食に顔をしかめさせり、和やかなやりとりが続いた。そうしたうわべだけの国際交流の合間に、
「仲間の潜水艦は何者に攻撃されたんだ?」
しらばっくれて質問すると、
「Uボートにやられたかな」
アルセンもまたそらとぼけた。本気でいっているのではあるまい。日米開戦以来、北氷洋はドイツ海軍の跋扈を許さなくなっており、昭和十八年以降はモンスーン戦隊と称されるUボートがインド洋と太平洋に進出するが、それにしても北太平洋は活動範囲ではない。昭和十七年十月の北太平洋でソ連艦が攻撃されたなら、日本かアメリカによる誤認と考えるのが自然だ。
「ふふ、冗談だよ。あの海域はアメリカが機雷を敷設しているから、そいつに触れたんだろう。ソ連海軍はアメリカ海軍が情報交換を申し出ても無視しているからね」
アルセンはそう語りながら、苦笑と真顔を交互に見せた。まあ、そういうことにしておくのが懸命だろう。
信雄は志願ではなく徴兵で海軍に入り、三等水兵で操練二十期に選抜されたので、兵学校や予科練のような英語教育は受けていない。暇な軍医長が通訳である。
「日本軍の士官は軍刀を持っているそうだな。それがそうか」
アルセンが士官室の壁にかけられた数本の軍刀を指した。
「俺は美術学校に通っていた。日本の工芸品に興味がある。見せてくれ」
軍医長はかなりはしょった翻訳をしたが、手振りをまじえながらだから、大体は伝わる。
信雄が自分の軍刀を抜いて渡すと、アルセンは目を丸く見開いた。
「凄い。水の流れに石を投げ込んだような肌模様が出ているな」
軍医長はすました表情で、アルセンの感動を伝える。
「……たぶん、そんなことをいってる」
さらにアルセンは尋ねた。
「飛行機にも持ち込むのか」
信雄は答えない。
「日本の潜水艦は飛行機を積んでいるのだろう」
「日本じゃ潜水艦が空を飛ぶよ。秘密兵器だ」
「とぼけるな。俺は馬鹿じゃないぞ。馬鹿だと思われているとしたら通訳が悪い。この艦の前甲板にはカタパルトが装備されてるじゃないか。士官室には飛行帽や飛行服もある」
艦長さえ通路の脇に寝ている潜水艦の中では、隠し事はできない。
「飛行機も見たいというのか。まあ、そのうち機会があるさ」
と、信雄はしらばっくれた。
潜水艦では本格的な整備はできず、どうせ横須賀へ入港する前には追浜の水上機基地へ飛ばすのだから、アルセンの目から隠し通せるものではない。だが、日本近海といえども会敵を警戒し、ハッチも艦橋しか開けていない。ましてや招かざる客のために格納筒を開けることはできなかった。
その機会が来たのは十月二十四日である。朝霧の中、軍艦旗を掲げた伊二五は房総半島を回り込み、浦賀水道へ近づいた。
上空を日の丸つけた哨戒機が飛び、懐かしい日本の漁船があちこちに見える。手を振る漁師に伊二五の乗組員も振り返す。そんな光景を眺めながら、信雄は艦長に声をかけた。
「風がないですね」
「うーん。浦賀水道で全力走行はしたくないな」
「水上発進にしてもらえますか」
無風の海上では、伊二五が全力走行しても、カタパルト射出に充分な速度を得るのはむずかしいだろう。ゆえに潜偵をデリックで海面に降ろし、水上滑走するのである。
「そうだな。そうしよう」
「バカチンを閉じ込めておかないと飛行機を見られますが」
アルセン・バカーチンは親愛の情をこめてバカチンと呼ばれるようになっている。
田上艦長は泰然と構えている。
「よかろう。日本海軍の優秀さを見せてやれ」
発艦準備の号令がかかった。アルセンは艦橋前に陣取り、見物している。しかし、飛行関係員が格納筒の前扉を開けようとするが、これがまったく動かない。
掌整備長が頭を抱えた。
「まずいな。浸水したかも知れん」
濡れたため、重い鉄の前扉が開口部に吸着してしまったらしい。密閉用のゴム部をハンマーで叩いてもビクともしない。整備員が数人がかりでケッチ(留め具)のハンドルを揺さぶった。
バン! と破裂音を発し、前扉がはじけるように開いた。整備員の一人がその前扉に直撃され、吹っ飛んだ。
「あぶない!」
整備員の身体は右舷の起倒式デリックに一旦ぶつかり、そこから海へ転がり落ちる寸前、アルセンが飛びついた。咄嗟に手首をつかむ。二人とも落ちそうだ。
「落とすな!」
乗組員たちが殺到して、必死で引き上げた。助け上げた整備員は動けず、呻いている。
掌整備長が浸水した格納筒を調べ、
「何が起きたんだ。何か匂うぞ」
目を瞬かせ、息苦しそうに甲板へ出て来た。
「揮発油の缶がひっくり返っていた。そいつが充満して、格納筒内部の圧力が上がったらしい」
軍医長が負傷した整備員に応急処置をほどこした。
「腕と肋骨を骨折したな。入港が近い。甲板で横になっていろ」
前甲板は潜偵発進の準備があるから負傷者は後甲板へ運ばれ、先任将校がアルセンに煙草をすすめた。
「よく乗組員を救ってくれたな、バカチン」
礼をいったが、名前の呼び方には親しみなのか皮肉なのか、やたらと力がこもっていた。
「ここは邪魔だから、煙草は後甲板で吸え」
「ありがとう。しかし、飛行機を見ていますよ」
そんなやりとりがされたことは信雄にもわかった。
飛行機が格納筒から引き出され、旋回盤の上で点検を行った。海水をかぶっているが、見たところ破損はしてない。
「飛ばせるかどうかは試運転してみなきゃわからんな」
掌整備長のその言葉にも余裕がある。ここは前線ではなく母国なのである。
「俺が追浜へ飛んでいったら、置いてある羊羹はやるよ」
信雄がそういうと、掌整備長は力強く潜偵の機体を叩いた。
「そうか。じゃ、ぜひとも飛ばしましょう」
組み立てられた潜偵に整備の先任下士が乗り込み、エンジン始動を試みる。だが、バタバタと力のない音だ。カウリングを前方へ開き、掃除と調整が始まる。
アルセンが格納筒の脇の手摺をつかみながら、その様子を見ている。信雄と目が合うと、呼んだわけでもないのに近づいてきた。
「こいつはいい。俺が乗っていたオンボロのベリエフBe-2とは違う」
零式小型水偵は日米開戦とほぼ同時に配備が始まった新鋭機で、潜水艦搭載の飛行機を実用化したのは日本海軍だけである。
「ずんぐりして尾翼がでかい形状から、金魚と呼ばれている」
「小さい飛行機だな。こういう細工は日本人は得意なようだ」
「骨組みは木金混成。外皮も金属と羽布張りを混用している。浮舟は金属製だ」
「今日は念入りに時間をかけて組み立てたようだが、本気を出せば何分でやれる?」
浮上から発進まで、夜でも十五分ほどだ。十分を切る潜水艦もあるようだが、急ぐあまりミスをしては元も子もない。いずれにせよ、ソ連士官に教える義理はない。
「軍機密だ」
アルセンは苦笑しつつ、各部を熱心に覗き込み、撫で回した。こいつも飛行機乗りなのだ。
整備の甲斐あって、エンジンは咳き込みながら息を吹き返した。時折、機嫌が悪くなるが、戦場では整備万全な飛行機など望めない。それに追浜の水上機基地は目の前だ。
艦橋に上がり、準備完了を艦長へ告げた。
「行けるか」
「やってみます。水上発進ならエンジンの機嫌をうかがいながら離水できます」
「うん。無理するなよ。おかしいと思ったら引き返せ」
信雄と奥田兵曹は飛行機とともにデリックで吊り上げられ、海上へ降りた。信雄はアルセンを振り返った。敬礼している。信雄も返礼した。
エンジンは一旦停止していたが、奥田兵曹がフロートの上に立ち、
「発動します!」
エナーシャを回し、回転が上がったところで、
「コンタクト!」
信雄がスイッチを入れると、エンジンが咆吼した。奥田兵曹は後部席へおさまり、いつもと変わらぬ明るい声で、いった。
「こちら、よろしいです」
「よし。行くぞ」
滑走を始める。エンジン、機体ともに異音も震動もなく、操縦装置にも異常はない。そのまま離水した。
伊二五の上空で旋回し、大丈夫だと合図すると、艦上の乗組員たちも手を振っている。
作戦を終えて横須賀に帰港した海軍軍人の多くは鶴岡八幡を参拝する。信雄はペアを組む奥田省二兵曹とともに参拝し、それから横須賀の刀剣商へ足を運んだ。
「自分も刀には興味あります」
奥田がそういうので同道した。借りていた村正の軍刀を携えたのだが、その店は固く出入口を閉ざしていた。近所で尋ねると、ひと月ほど前に主人が急死し、後継者もなく閉店してしまったらしい。
修理を依頼した軍刀がどうなったかもわからない。借金があったらしく、店の商品は債権者が洗いざらい持ち去っていた。泣き寝入りした客は多いようだ。
奥田兵曹は肩を落とし、しかし明るい声で、いった。
「飛行長も泣き寝入りですか」
「それはどうかなあ。俺が預けた軍刀は家伝の刀ではあるが、借りた村正の方が価値は高いだろう」
「しかし、こういうことがあるんですねぇ」
運命だと奥田はいいたいのだろう。老いたあの刀剣商も語っていた。
「刀には運命というものがあり、巡り会うべき人がいる」と。
戦火をくぐると人は運命論者になる。戦場で生き残るのに能力や人格など関係ない。ほんの数秒、数センチかそこらの違いで生と死が分かれるのだ。
村正の軍刀は思いがけず信雄の手に残った。これには何かしら意味があるのだろう。
米本土爆撃から帰還した伊二五潜は、さらに南方作戦に参加するべくトラック島基地へ進出。ガダルカナル、ニューギニアを転戦して年を越し、昭和十八年二月、トラック島へ帰港した。
その後、艦長が交代し、藤田信雄と奥田省二にも転任命令が待っていた。以後、信雄は霞ヶ浦の鹿島航空隊で教官として後進の指導にあたり、また昭和二十年二月には、複葉水上機である零式観測機を駆ってグラマンF6Fを撃墜するという熟練技も発揮した。
終戦間際には搭乗員の誰もがそうであったように特攻を志願し、九州指宿基地へ進出することになったが、直前に終戦となった。最終階級は海軍中尉。
アルセン・バカーチンは大船の海軍警備隊植木分遣隊へ送られ、そこから横浜へ移されたと聞いた。捕虜収容所である。敵兵でもないのに、どういうことかと信雄は疑問に思ったが、戦争の激化にまぎれて忘れてしまい、その後の消息は耳に入らなかった。
そして、藤田信雄の人生は飛行機を降りた戦後こそ、この人物の真骨頂というべきものとなっていくのである。