骨喰丸が笑う日 第二十二回

骨喰丸が笑う日 第22回 森 雅裕

 ヘロウから南西へおよそ十キロ。泥道を歩くと、次第に腐臭が強くなり、囚人部隊はようやくシッタンに達した。腐臭は傷病兵と死者が放っている。後年、この敗軍の渡河地は幽鬼の森と語り継がれる。

 野戦病院には三千人以上の患者が治療も受けられずに転がり、意外にも日本人の看護婦がいたが、彼女たちも骸骨のように痩せさらばえ、それでも健気に働く姿は痛々しく、正視できなかった。

 イギリス機の空襲を警戒し、各部隊は森の中に潜んでいる。いたるところに張られた天幕はまるで穴蔵だ。陣地や野営地に便所を設置しない日本軍の常で、そこら中に異臭が漂っている。

 八七橋は烈兵団の現地本部で渡河を交渉したが、身なりのいい中尉が応対し、

「噂は聞いているぞ。囚徒兵の隊か」

 歓待する気はないらしく、

「烈のガラクタども。渡河点を死守して、お国に奉公したらどうだ?」

 といわれる有様だった。

「五八(第三十一師団第五十八連隊)の第二大隊がピンポンサカンに反転して撤退を掩護している」

 第二大隊は大隊長が三回も代替わりしている「捨て石」部隊で、ピンポンサカンはシッタン西方二十キロの山中である。

「貴様らも五八なら、協力してもバチは当たらんと思うがな」

「あのな、関ヶ原の島津義弘みたいな捨て奸(がまり)を我々に期待するな」

 八七橋は破れ窓の外を見やった。囚人部隊は本部の周辺にたむろし、そのだらしない姿に前線を知らぬ者たちは眉をひそめ、露骨に鼻をつまむ者もある。 

「奴らは宮崎閣下の命令で、光機関の任務に協力している。寄り道している暇はない」

「命令書はあるのか」

「最前線でいちいち文書のやりとりなんかするか」

「そうかい。なら、勝手にしろ。渡河なんか一番最後だ」

「いいのか。囚人部隊が毎日このあたりをうろつくぞ。喧嘩はするわ盗みはするわ……」

「クズどもが。そもそも帝国陸軍では部隊と呼ぶのは大隊以上だ。中隊以下は単なる隊である。ましてやたかだか数名の囚徒兵どもなんぞ、ただの寄り合いだ。不良クラブだ」

「寄り合いでも不良クラブでも歴戦の連中だ。馬鹿にするなら、あんたも敵に弾の一発でも撃ってからにしろ」

 捨てゼリフを残し、八七橋は背を向けた。

 本部となっている掘っ立て小屋の近くに糧秣小屋もあったが、配給しているものは何もない。ほとんどの兵には文句をいう元気もなく、ぐったりと周囲に座り込み、その体力さえない者は横たわっている。

 見張りの兵と揉めている元気者は綿貫だ。マラリアは小康状態で、本人は普通の声量のつもりだろうが、腹立たしいほど響く。

「この空っぽの小屋を見張ってる暇があるなら、便所に改装したらどうだ? 前線を知らない兵隊でも穴くらい掘れるんだろ」

 この男の目的は配給ではなく見張りの兵を罵倒することのようだ。ひとしきり、その目的を果たすと、囚人部隊がへたり込んでいるカヤの木の下へやってきた。

 八七橋の顔色を見て、吐息をぶつけてきた。

「渡河のメドは立たんようだな。どうするんだ、光機関」

「工兵隊に軍票でも握らせて、舟に乗せてもらいますか」

「まだまだだな。交渉事はな、一番上の人間とやるもんだ」 

 綿貫は因縁をつけるような眼差しを樹林の先へ向けた。大名行列みたいな一行が半死半生の兵たちに敬礼されながら近づいてくる。「師団長」という声が聞こえた。新任の河田槌太郎中将である。

 着任するや、着の身着のままで潰走する兵たちに激怒し、捨ててきた装備を拾いに戻れと命じたという噂の将軍だ。その河田師団長と参謀たちが肩で風切って闊歩している。

 野垂れ死に寸前だった将兵がのそのそと身を起こし、兵に支えられて、一人の少佐が敬礼しようと立ち上がりかけたが、同時に股下から流れ出たものがあった。高熱のために垂れ流した小便である。

 飾緒を右胸に吊った参謀が半狂乱でわめいた。

「貴様あ、師団長閣下の足元に垂れ流すとは何事かっ」

 指揮杖で頭といわず肩といわず殴りつけ、相手がうずくまると、背中を執拗に打ち続けた。

「貴様のようなフヌケがいるから負けるんだっ」

 少佐であれば大隊長クラスで、六百人からの部下の指揮官である。それがまるで虫ケラ扱いであった。

「帝国陸軍のツラ汚しめ」

 八七橋たちの耳にも、その罵声は届いた。

「ツラ汚しはてめぇらじゃねぇか」

 ぼそりと誰かが吐き捨てた。

「その杖で、敵に向かって殴りかかってみやがれ」

 囚人部隊がふてくされていると、綿貫が挑発するように、いった。

「おい。お前たちの根性の見せどころだぞ。ヘイコラするなよ。お前たち、補給もないままに圧倒的な敵と戦い、死体で埋め尽くされた山道とジャングルを歩いてきたんだろ。その地獄を知らんくせに威張り散らすお偉方に敬礼なんかしたら、死者に申し訳ないぞ」

 綿貫も傲慢な男だから、師団長に敬礼などしたくないのだろう。この男の指示に従うわけではないが、八七橋たちには敬礼する気力も体力もなかった。

 参謀が彼らに目をつけ、歩み寄った。

「貴様らはどこの兵隊か」

 八七橋が答えた。

「光機関と『烈』の五八です」

「貴様、士官か」

「はい」

 参謀は指揮杖の先で八七橋を小突いた。

「光機関の工作員はおよそ軍人の規律も慣例も守らんと聞くが、敬礼もできんのか」

 八七橋はしらばっくれることにした。

「目がかすんで、よう見えんのです。どなたですか」

「師団長だ。河田閣下だ」

「それは失礼しました。佐藤閣下なら、気配でわかるんですが」

 前師団長の佐藤中将は部下を全滅から救うために独断で撤退命令を出し、罷免された。あえて、八七橋はその名を出した。

「佐藤閣下はピカピカの長靴ではなく巻脚絆に地下足袋で兵たちの間を回り、煙草を配ってくださいました」

「貴様あ……。立て。立たんか!」

「はい、ただ今……。負傷と病気で、足腰が思うようになりません」

 八七橋は立ち上がろうとしたが、大袈裟によろけて倒れ、握っていたものを師団長の足元へ転がした。卵形をしたイギリス軍のミルズ型手榴弾である。参謀たちはあとずさった。

「な、何だ、これはっ」

「はあ。飯も薬もなく、渡河の順番はいつになるかわからず、多くの戦友たちと同様、こいつで自決しようかと」

 三文、バク、五右衛門も手榴弾を握っている。

 綿貫が唐突に叫んだ。

「こいつらに自決なんかされては困るっ」

 綿貫の顔色は黄ばみ、目つきが一層悪くなっている。だが、だみ声は神経を逆撫でするほど、よく響いた。 

「俺は特殊任務を帯びている。安全なところまで、こいつらに護送してもらわねばならん」

 参謀が興奮のあまり声を裏返らせながら、怒鳴った。

「何だ、貴様。その口のきき方は何だっ」

「何だ貴様と問われて名乗るもおこがましいが、航空技術研究所の綿貫平蔵少将である。出世争いからはどうせ落ちこぼれている。予備役なので、好きにやらせてもらっている」

「そんな都合のいい予備役があるかっ。特殊任務とは何だっ」

「ベラベラしゃべっては特殊任務にならんわ」

「何だとぉ。ほんとに将官なのかぁ」

 参謀たちの方が階級は下なのだが、無遠慮に嘲笑した。河田師団長だけは真顔である。

「待て待て。綿貫……。そうか、貴様か」

 河田の語調には毒がある。 

「五、六年前、俺が満州の歩兵第四十四連隊長だった頃、航技研のハルビン出張所にいた男だな。当時は佐官だったが」

 河田中将は不快そうに顔をしかめた。いい思い出ではないらしい。

「もっと昔の話をすれば、陸士で喧嘩ばかりして、いつも負けていたデコン(最劣等生)がその名だったな。どういうわけか、勝った喧嘩相手はことごとく事故にあったり装備を盗まれたり、災難に見舞われた」

「へっ。そのうち、誰もが俺を避けて通るようになったよ」

 河田は陸士二十三期。宮崎が二十六期。綿貫は宮崎より一期上であるから二十五期である。

「綿貫を光機関がビルマへ護送する話は宮崎から聞いている。宮崎はシェボーの軍司令部へ出頭したが、お前らが現れたら便宜を図ってくれといい残していった。遅いから、途中で全滅したかと思ったぞ」

 河田は目を細め、皮肉をこめて唇の端を吊り上げた。

「しかし、宮崎お気に入りの連中が、立ち上がることもできんほどの傷病兵の集まりとはなあ……」

 八七橋は少しばかり申し訳ない気分になったが、綿貫は嘔吐でもするのかと思うほど不気味に笑った。

「ぐへへへ。まったくお話にならんガラクタどもで、俺も困っているが、なァに、こいつらは俺が立てといえば立ちますわ」

「そのようだな」

 河田は汚物でも見るような目だが、綿貫は意味ありげにニヤニヤとほくそ笑んだ。 

「河田師団長。満州時代の楽しい楽しい思い出話を俺が始める前に、さっさと追い払いたいだろう」

 この恫喝するような表情は綿貫の特技ともいえた。

「渡河させてもらいたい」

 河田は苦虫を噛みつぶしながらも、侮蔑を浮かべた。

「シッタンは空襲も砲撃も激しく、渡河の順番を待つ間に死んでいく者も多い。工兵隊が下流のオークタンにいる。そちらへ行け。連絡を入れておいてやる」

「信じていいんだろうな。いつぞやハルビンでは、あんたの言葉を信じたばっかりに……」

「うるさい。やめろ。さっさと出発しろ。チンドウィンの深い河底が待っているぞ」

 その時、空気を切り裂く音が頭上を横断し、チンドウィン河に重砲弾が落ちた。河岸近くの兵たちがクモの子を散らすように逃げ惑い、立て続けに水煙があがった。

 河田はその阿鼻叫喚に背を向け、綿貫の薄笑いをも振り払い、参謀たちを引き連れて、早足で逃げ去った。

 

 シッタンの混雑からあふれた撤退部隊は南へ十五キロ、オークタンに集結していた。待機休養中といえば聞こえはいいが、空襲や砲撃に脅え、ジャングルの中に息を潜めているのである。白骨街道をチンドウィン河までたどり着いた兵たちの半数は渡河を待たずに命を落としていた。

 烈兵団の渡河を担当している工兵第三十一連隊の天幕を見つけた。バクの本来の所属部隊である。

 大尉の階級章をつけた中隊長は囚人部隊を見るなり、周囲に怒鳴った。

「おおい。身の回りに気をつけろ。手癖の悪い連中が来たぞ」

「御心配なく」 

 と、バクは中隊長の目の前にウェブリーリボルバーを置いた。弾丸の詰まった弾薬盒も差し出した。

「こっちから進呈しますよ。コヒマで英印軍から分捕った拳銃です。勇敢に戦った戦利品として、孫子の代まで自慢できますぜ」

 中折れ式の拳銃である。中隊長は珍しげにいじり回しながら訊いた。

「……で、用件は渡河か」

 八七橋は頷いた。

「河田師団長から連絡があったはずだが」

 中隊長は面倒そうに首を振った。

「聞いてないぞ。工兵連隊は渡河資材を持ってモニワへ移動せよというのが師団命令だ」

 綿貫が八七橋を押しのけ、もたれかかるように割り込んできた。

「河田め。そういう奴だ。そもそも満州であいつは……」

 八七橋は、熱発がぶり返して震えている彼を押し戻し、

「昔話はまた今度。さっき買ったキュウリでも食ってなさい」

 子供をあやすようにいい、中隊長へ向き直った。

「これでも少将閣下だ。師団長はこの閣下に悪口をいいふらされる前に渡河させたいらしい」

 中隊長は大仰に「うーん」と唸った。門前払いという雰囲気ではない。こいつは買収可能だ。

「二、三日後には俺たちは撤収する」

「それまでに全軍の渡河が終わるのか」

「八月三十一日をもって渡河終了というのが日本軍の決定事項である。完遂できたかどうかは問題ではない」

 八七橋はうしろに控えていた五右衛門に合図した。五右衛門が軍粮精(キャラメル)の小箱を取り出すと、中隊長はそっぽを向いた。見栄っ張りの将校としては付け届けなど欲しくないという建前だ。しかし、彼の物入れ(ポケット)へ五右衛門が勝手に押し込むことは拒絶しなかった。

 囚徒兵は反抗的な連中だから、幹部からは嫌われている。中隊長はいまいましそうな表情だが、言葉は変わった。

「今夜来い」

 それだけである。ハエでも追い払うように手を振った。

 

 渡河はイギリス機の攻撃を避け、夜間に行われる。日が暮れると、工兵隊が隠しておいた資材を運び、準備を始めた。順番を待つ兵たちもぞろぞろと集まってきた。姿を確かめる必要はない。不潔な日本兵が動くと、闇の中でも異臭で察知できると清潔なイギリス兵は語っている。

 わずかに星明かりがあり、河面に波が光った。八七橋が灌木の間にうずくまってそれを見ていると、アーシャがいった。

「残してきた人たちはこの河を越えられるでしょうか」

 ハカセ、相笠、カノン、和尚、四人を白骨街道に置き去りにした。

「さあ……。戦死や病死は仕方ないが、自決だけはして欲しくないなあ」

 もはや日本兵が持っている銃や手榴弾は自決用でしかない。

「向こうへ渡ったら、そのあとは……?」

「ピンレブまで山越えだ。その先はウントーまで道が開けている」

 明け方近くになってようやく順番が回ってきた。何時間も待たされると全身が錆びついたように動かない。囚人部隊は懸命に立ち上がり、互いに支え合い、引きずり合いながら仮桟橋へ身体を運んだ。

 河幅千メートルの大河を渡るために、各地の渡河点では工兵隊の門橋や鉄舟、ゴム製の浮◯舟が奮闘し、原住民の丸木舟までもが挑発され、それで足りなければ筏が組み立てられた。

 ここオークタンでは長さ十メートル、幅六メートルほどの筏が使用された。孟宗竹を縦横二段に組んだ堂々たる大筏で、両岸を横断する二条のワイヤーが筏の両端に取り付けた鉄環へ通されており、ワイヤーに並行して渡したマニラロープをたぐって進む。ロープウェイのようなものだが、牽引するのは工兵の鉄舟である。綿貫の荷物は鉄舟に積んだ。

 岸から百メートルも進むとチンドウィン河の威力は圧倒的で、筏の上は濁流に洗われた。振り落とされないように筋力の落ちた腕で必死にしがみつく。悲鳴や呻き声が水音に混じった。

「俺を落とすなっ」

 綿貫が筏の上で溺れそうになりながら叫び、近くの兵に抱きついた。

「助けてくれっ」

「知るか。勝手に落ちろ」

「俺が死んだら日本は負けるぞ」

「墓参りくらいしてやるよっ」

 そんなことを皆で怒鳴り合った。声を出していなければ手足が動かなかった。

 空が白み始める頃、対岸のクントウにたどり着くと、彼らはさらに呻いたり叫んだりしながら這い上がった。英印軍の砲撃が始まり、河面に水柱が林立した。しかし、この対岸までは届かない。

 綿貫は泥だらけになりながら、ぬかるんだ地面をびちゃびちゃと叩いた。

「へへへ。やったな。これでクソいまいましい戦場ともおさらばだ」

 だが、八七橋は短機関銃を杖がわりに立ち上がり、冷淡に吐き捨てた。

「ピンレブまで兵站も病院もありません。生き残るための戦いは続きますよ」

 ピンレブまで図上距離は八十キロだが、実際に歩く距離は百二十キロにはなろう。しかも二千メートル級のジビュー山系を越えねばならない。

 チンドウィン河を渡れば路傍の死体も減るかと思えば、まったくそんなことはなかった。湿原で道に迷うと、ぬかるみの中に日本兵の死体を探した。腐臭でわかる。死体が道標であった。下っ端の兵ばかりだった。士官の死体はまず見ない。

 体力を振り絞って渡河した兵たちを日本軍は放置したのである。チンドウィン河を渡れば、とりあえず敵軍の捕虜となるおそれはない。軍の上層部が避けたかったのは大量の投降者を出すこと、それだけであった。

 見捨てられた兵は骨と皮ばかりなって力尽き、横になったらもうおしまいだ。一、二日で腹にガスが溜まって膨れあがり、目、鼻、口、さらに肛門にまでウジが入り込み、三日もすれば食い尽くされて骨しか残らない。

 ジビュー山系のけもの道は人一人通るのがやっとの狭さで、気づくと死体を踏み越えていることもあった。それも一体や二体ではない。八七橋たちには、もはや死体をかたづけたり埋葬する気力も体力もなかった。

 クントウから北寄りの撤退路をとり、ヤナン、カウンカシとたどってジピュー山系を越え、ワヨンゴン、そしてピンレブに至る。

 英印軍の追撃はチンドウィン河の東側にはまだ到達していない。もはや使うこともない銃は途中の集落で売り飛ばし、食い物にかえた。これが菊の御紋の三八式なら多少は良心がとがめただろうが、囚人部隊が装備していたのはイギリス製の鹵獲品だ。

 ピンレブには掘っ立て小屋ではない「建物」が並び、兵站も療養所もあった。

 光機関出張所で所長の戸板中尉に会った。所長といっても、所属しているのは軍属を含めて三人程度である。白骨街道の実状を報告すると、

「よく生きて戻ったなあ」

 戸板は八七橋の肩を叩いた。

「大変だっただろう」

「もう歩かんぞ。食い物も薬もない」

「ウントーまで車を出してやる」

 ウントーからは鉄路でマンダレー、さらにラングーンへと南下できる。

「食い物と薬もないか。うん、兵站へ案内してやるよ」

 戸板と八七橋が出張所を出ると、林の中で囚人部隊が休んでいた。見知らぬ兵隊が彼らに話しかけ、何やら交渉しているようだが、

「おいっ。消え失せろ。いつから帝国軍人は物売りになったのか。陸軍の恥さらしめっ」

 戸板が怒鳴りつけて、追い払った。あとには飯盒一杯の栗が残された。

「あ。栗を売りつけられたか。ビルマ栗は猛烈な下痢を引き起こす。だまされちゃ駄目だ」

 バクと三文がニヤニヤと笑った。

「余計なことしてくれましたな。こっちが売りつけようとしたんです。うちの兵に、こいつを食って下痢が止まらない奴がいますぜ」

 五右衛門の顔が見えない。そのへんの物陰でしゃがんでいるのだろう。

「噂にたがわぬ抜け目ない連中だな」

 あきれ顔の戸板だが、木陰で寝転がっている綿貫に敬礼した。といっても、会釈のようなものだった。

「光機関の戸板中尉です」

「ドブ板? 覚えやすい名前で結構だ」

 綿貫はどんよりした視線を向けた。熱発のために身体が重く震えている。

「抜け目ない連中でも食い物と薬は足りん。寄こせ」

「兵站に病院もあります。行きましょう」

 彼らがヨタヨタと移動を始めると、軍袴(ズボン)を引き上げながら五右衛門も追ってきた。

 戸板はそれを振り返り、なにしろ不潔の見本のような連中が臭気を発しているから、息苦しそうに、いった。 

「病人がいるのか」

「ここいらの日本兵に健康な者がいるか」

「列車はスシ詰めだ。感染症だと厄介だぞ」

「そんなこといっていたら、日本兵の大半は列車に乗れない」

 綿貫が杖がわりの木枝で戸板の足を叩いた。 

「おい、ドブ中尉」

 ドブ板とさえ呼ばない。

「ビルマも平和ではあるまい。五月に蒋介石の軍が怒江を渡ったよな」

「はい。第三十三軍(ビルマ方面軍隷下)は反撃に転じましたが、拉孟と騰越の守備隊はもういけません。敵さんにはアメリカの支援があります。玉砕は時間の問題です」

「前門の英印軍、後門の中国軍だな」

「追っ手を防げば搦め手へ回る。火を避けて水に陥るってやつです」

「ふん。日本語をよく知っている奴とおしゃべりができてうれしいよ」

 年が明ければ、連合軍は雪崩を打ってビルマ領内へ侵攻してくる。日本軍はインパール作戦で崩壊した戦力の立て直しが間に合うだろうか。

「もっとも、大陸じゃあ一号作戦(大陸打通作戦)が発動されて、わが軍が進撃していますから、蒋介石も調子に乗ってばかりはいられないでしょう」

 戸板はそういったが、中国大陸で勝利したところで、太平洋戦線で連敗していては無意味なのである。