「雙」第23回

雙 第23回 森 雅裕

 紀伊の頼宣も剛毅で聞こえた家祖だが、尾張の義直もひけを取らない。

 御三家は将軍側近からは「尾張様」「紀伊様」と呼ばれていたが、三代将軍・家光はこれを聞きとがめた。

「将軍家の家臣である三家に将軍と同じく『様』をつけるべきではない」

 以来、将軍の前では御三家は「尾張殿」などと呼ばれるようになったが、こうした将軍家の専横には、猛反発を見せた義直である。

 寛永十年(一六三三)十一月、家光が病に伏した時、義直は馬を飛ばし、自ら江戸へ向かった。しかし、小田原まで来たところで、病状好転の知らせを受け、江戸城へ向かわず、自分の江戸屋敷へ入ってしまった。のちに家光はこの無断出府の真意を糾問した。反乱かと疑ったのである。将軍家と尾張家の対立はこうして表面化した。

 翌寛永十一年八月には、上洛した家光が帰路、名古屋に宿泊するというので、義直は急ぎ御殿を建築したが、宿泊は取りやめとなった。面目をつぶされた義直は、参勤をやめて籠城するとまで息巻いて、紀伊頼宣と密談し、それを水戸頼房が探ったという記録が『南龍言行録』『水戸紀年』に残る。

 寛永十九年二月、家光の世嗣・竹千代(のち家綱)が山王祠に参詣する際、御三家に随従が命じられた。尾張、紀伊は大納言、水戸は中納言だが、当時、竹千代はまだ無官である。

「大納言、中納言の官職を帯びている者が、無官の者に随従する例はない」

 と、これを一蹴したのも義直である。

 義直は将軍家よりも朝廷を尊重して、甥の水戸光圀にも影響を与え、これが水戸学の尊王思想の礎となったとさえいわれる。

 つまり、由比正雪のうしろだてとなる要素は紀伊家のみならず、尾張家にもあったわけである。

「ただし、源敬公(義直)は慶安の変の前年、慶安三年六月に病没しておる」

 とはいえ、幕府覆滅の計画は一朝一夕のものではあるまいから、義直が正雪と生前に何らかの交渉を持っていたことは有り得る。

「尾張の当代は光義公(のち光友)じゃ。これまた父に劣らぬ硬骨の人物」

 のちの元禄頃の話だが、三葉葵紋の使用は御三家といえども遠慮するよう、という申し渡しがあった。紀伊、水戸の両家は不承不承ながら従ったが、尾張は改築した江戸屋敷のいたるところに葵紋をつけるということをやってのけた。光義あらため光友いわく、

「自分の名古屋城は相国様(家康)がお建てになったものであり、その時からすべてに葵紋がつけられている。したがって、尾張家は家屋敷に葵紋をつけてもよい」

 こういう尾張二代目である。慶安事件当時は二十七歳の血気盛り。何らかの形で関与していたかも知れないし、真実がどうであろうと、尾張と正雪が共有した過去は消し去りたいだろう。

 助広はそんな消えそうな糸をほぐし始める。

「会津中将様は刀を発見した陸奥守様とともに、筋書きをお書きになりましたな。秋の予定だった御前鍛錬が夏に早められたのは、悠長に構えていられなくなったため。そして、狂言回しの役に、急遽、私が選ばれ、御前鍛錬の一人に加えられたのでございます。というのも、酒井雅楽頭様が私を抱え工にとかねてよりお考えだったこと、何よりも私は大坂ですみの殿を見知っており、虎徹入れ替わり説の証人として、適任だったからでございましょう。

 振分髪の写しを作るようにという私への御下命も公方様の御意思にあらず、会津中将様がそう仕向けられたこと。柾目が目立つ振分髪を虎徹師の作と気づかせるのが狙い。人づきあいが悪いはずの虎徹師が私を仕事場へ招じ入れ、鐔作りに使う枡がこれ見よがしに置かれていたのは、虎徹と興光兄弟の入れ替わりを疑わせるため。つまり、虎徹師も自分の正体が興里でなく興光だと知らしめる企みに一枚噛んでいるということです。御前鍛錬で腕前を見せず、いかにも替え玉めいた焼入れをあえて見せた。私が振分髪の写しを二本作っていることを安定師が声高にいい立てたのも、周囲の方々に振分髪への偽物の疑惑を起こさせるため。誰も彼もが芝居の役者仲間だったということ」

 もっとも、虎徹と綱宗が合作した脇差を助広に見せたのは安定である。それがこの計画を見破るきっかけともなったのだから、安定もただ権力者のいいなりにはならぬ職人ということだろう。

 同業者の助広が権門の掌中で踊らされることに反発したのか。刀鍛冶としての若き助広の力量、洞察力を見極めたかったのか。安定なら、どちらもありそうだ。

「そうした芝居の狂言回しがお前なら、芝居を見る客は酒井雅楽殿というわけか」

「今の虎徹は興里にあらず、弟の興光である……と、私に雅楽頭様の御前で語らせる筋書き」

「虎徹が死人となれば、もはや雅楽殿にも追及できぬからの。正雪と尾張のつながりを、な」

「会津中将様によれば、振分髪の偽物を手がけた虎徹師は、それを取り引き材料として、法度破りの古鉄の入手を図り、口封じのため処刑されたとのこと」

 虎徹を抹殺する方法は他にもあっただろうにと疑問だったが、後年、調べられた時にそなえ、刑死の記録が残されたということか。そして、双子の兄弟の入れ替わり説に信憑性を持たせるのが助広の役どころだった。が、

「はたして、本当に虎徹師は死に、弟の興光師と入れ替わったのでございましょうか」

「ほお……」

「興光師は病身であったと聞きます。兄の身代わりとして自ら罪をかぶり、どうせ長くない生命を小伝馬町に棄てたとも考えられます」

「つまり……?」

「刑死したのは興光師の方で、生きているのは本物の興里虎徹……」

「ふ……」

 綱宗は呻くように笑っただけだ。肯定したのである。

「さぞかし衰弱していたであろうが、囚人の健康など誰も気にしてくれまいからの」

「虎徹師自身も病のために面変わりしたといっておりますが……」

「弟を身代わりにした自責の念でやつれたということも有り得るわけよ」

 ただしかし、虎徹が刑死したのは振分髪の偽物作りを隠蔽するための口封じということになっている。替え玉では口封じにならないし、見破れぬ保科正之でもないだろう。では――。

(虎徹師の刑死は、ほんまに口封じのためなんやろか) 

 そんな疑問が湧いてくる。だが、助広にはもうどうでもいいことだった。この男には、もっと気がかりなことがある。

「陸奥守様。すみの殿は佐賀鍋島屋敷に四年間、奉公にあがっていたと聞いております。しかし、虎徹師も興光師もすみの殿と仙台伊達家のつながりを知らなかったとは思えませぬ」

「それはそうだ。なのに、どうして吉原へ墜としたか、疑問に思うておるのか」

「今さら、事情を知ったところで、何の救いにもなりませぬが、その鍋島屋敷を追われたと聞きました」

「鍋島信濃殿(勝茂)はすみのに目をかけておられたようじゃ。妙な意味ではないぞ。しかし、信濃殿は大火の翌々月(明暦三年三月)に亡くなられた。で、すみのには暇が出されることになった」

 その暇を出された理由は――つまらぬこと、とまさのに化けたすみのは語った。綱宗もまた話すつもりはないようだ。よほど「つまらぬこと」らしい。

「四年も鍋島屋敷におれば、伊達屋敷に同じ顔をした娘がおることが知れもする。大火前には、両上屋敷とも外桜田にあったからの。まさのとすみのは互いの存在を知り、父の義山公(伊達忠宗)の耳にも入った。わしもまた旧知の虎徹の弟である興光がすみのの養父と知った。そして、すみのは伊達兵部殿が領地の一ノ関へ引き取るということになった。翌年(明暦四・万治元年)の七月、病の床にあったわが父は、将来のことを気にかけ、一ノ関にいるはずのすみのを江戸に呼び寄せようとして、実は行方知れずであることを知った」

「……どういうことでございましょうか」

「兵部殿は、すみのは出奔したと言い訳したようじゃ」

 むろん、真実ではない。

「父は死に際、わしにすみのを探すよう、いい残した。その時、すでに興光は虎徹の身代わりとなって、刑死しておる。虎徹もすみのは一ノ関にいるものと思っていた。が、興光が借金を清算していることから、すみのは売られたのではないかと遊郭を調べた。伊達家の名前を出して探すわけにはいかぬ。あの朴念仁の虎徹だけにはまかせておけず、わしも吉原へ通い、三千人の遊女の中から、ようやく見つけ出したのは今年になってからじゃ」

「それにしても、どうして……」

「兵部殿は最初から一ノ関で預かるつもりなどなかった。伊達の宗家の足を引っ張るべく、妾腹の娘が遊郭に墜ちたという醜聞を作りたかったのよ。二、三年もすれば、立派な恥さらしの遊女となる。興光が兵部の狙いを承知していたかどうかは、もはやわからぬが、金に窮して、どうせ血もつながらぬ娘ゆえ、手放してしもうた。養父がそんな有様では、すみのは救われぬ。あわれよの」

「あわれといえば、御船蔵の川辺にあがった死体こそがまさの殿でございましょう」

「いずれ、お前にはわかると思うていた。お前の女弟子こそがすみのじゃ」

「…………」

「一ノ関へ身を寄せるようにと、すみのに言葉巧みにすすめたのはまさのであった。すみのは気を許して、興光のもとを離れた。まさのは兵部殿に加担していたのじゃ。すみのは今も恨みがましいことは口にせぬが、まさのはこの妹を伊達家へ入れることを拒んだ……」

「どういう理由でございますか」

「すみのが鍋島屋敷から暇を出されたのと同じ、つまらぬ理由じゃ」

「気安く口にできることではないと仰せられますか」

「いずれ、お前も知るであろう」

「いずれ……?」

「助広。お前はすみのを抱いたか」

「そんな……」

「はは。首を振っているようでは、知ることはできぬぞ」

「虎徹師を替え玉ということにしたいなら、すみの殿に偽証させれば簡単なこと。それをしなかったのは、すみの殿は死んだことにせねばならなかったのでございましょう。その理由もまた同じですか」

「いかにも」

「では、一方のまさの殿は……」

「保科家との縁談が長門守正頼殿の急死によって流れ、兵部殿のはからいで、ようやく酒井日向殿との婚姻が決まろうとしていたのじゃから、まさのが兵部殿のために働こうとするのは当然……。わしがすみのを身請けすると知り、本屋敷(愛宕下の伊達家中屋敷)へ報告しようとした。そこに兵部殿や一門お歴々の御殿がある」

「え。では……」

「ゆえに、わしが手討ちとした」

「すみの殿と同じ血が流れている双子の片割れをお斬りになったのですか!?」

「妹を遊郭へだまし売るような姉ぞ。それに、わしには酒乱の気味があってな。激して、部屋にそなえた槍で首許を貫いた。苦悶はなかった」

 短絡的にすぎないか。何か事情があるのかも知れない。

「お前と初めて会うた日の夜のことじゃ」

「つまり、薫ことすみの殿を身請けに行く前夜。その時すでに、まさの殿は死んでいた……と」

「すみのを死んだことにするには、都合よく死体が調達できたということじゃ」

 都合よく、なのか。初手(はな)から計画の一部ではなかったのか。

「しかし、兵部殿の目をくらますためには、まさのには生きていてもらわねば困る。すみのと入れ替わらせることにした。あれこそ替え玉というわけじゃ」

「あの日、神田川川口に近い船宿でお乗り換えになるということでしたが、船が大きかろうが小さかろうが、仰々しく飾り立てたりせねば、汐留から山谷まで往復してもかまわなかったはず。乗り換える必要もない船宿で、私を待たせたのも筋書きのうちでございますな」

「吉原からの帰路、襲われるのを目睹(もくと)させるためじゃ。襲ってきた船はいうまでもなく会津中将差し回しの狂言。水に落ちたすみのを探し回るのも真に迫っておったであろうが、一連の芝居のうちじゃ。すみのが吉原から世間へ出てくれば、困る者がいる。お前はそう考えてくれた。すみのはわしとは別の船にて、隅田川を下っておる。そして、その夜のうちに、まさのの死骸は流されることもない御船蔵の乱杭の間に沈められた」

 水死体の名所は両国橋より上流だが、ここは釣人が多い。まさのの死体は発見してほしいが、遺棄する行為は人目を避けねばならない。漂着には不自然な下流を選んだのはそのためだろう。山野加右衛門が釣りをしながら意味ありげにいっていたのは、こういうことだ。

「いうておくが、わしとて、平然とそうしたわけではない。以来、酒量がさらに増えたわい」

「会津中将様はそこまで悪役に甘んじられ、酒井雅楽頭様にいわば尻尾をつかまれることになっても、さきほど仰せられた御公儀の闇の政策とやら、それに尾張様と謀反人の関係をお隠しになりたかったのですか」

「政事は清濁を合わせ飲み、小事を殺して大事を生かすこと。闇の政策は幕閣でもごく一部しか知らぬ秘密。わしとて、あくまで推測するのみじゃ」

 綱宗は着座した時から盃を離さない。他人への酌に慣れぬ助広はぎこちなく、何度も注いだ。

「それにまた、紀伊大納言の疑惑が晴れたと思えば、今度は尾張大納言が謀反人と関わっていたということになれば、天下騒乱は起こらぬまでも、お上の御威光、御政道はどうなる? 酒井雅楽殿は真実にこだわるあまり、そこまでお考えが及ばぬ」

 つまり、酒井忠清は「闇の政策」には関わっていないということなのか。しかし、保科正之とて将軍輔弼役とはいえ、単独で政策を立案、実行はできない。幕閣老中に担当者、協力者がいるはずなのだ。虎徹の死罪を裁決したのも老中の職掌であり、正之自身は老中ではない。では、一体、誰だ?

「陸奥守様」

「何か」

「私が察しまするに、雅楽頭様の狙いはむしろ、尾張様ではなく、正雪ではないかと」

「それはつまり……」

「由比正雪は今なお生きて……いるのかも知れませぬ」

「助広」

 綱宗はようやく盃を置いた。

「お前はすでに狂言回しの役を終えたのじゃ。あとはもう事情を知りすぎた部外者でしかない。したがって、尾張の刺客が差し向けられた。会津中将様も黙認。もっとも、さすがに柳生は手を下す気になれなかったようじゃが……。金や損得で動かぬ者は、つくづく扱いにくいものよの」

 権力者にとっては、そうだろう。柳生兵助も大和守安定も「扱いにくい」男たちだったのだ。

「今後も私は狙われるのでございますか」

「いや。わしが止めた。それくらいの発言力はある」

「…………」

「しかし、お前が口を滑らさぬよう、今後は監視をつけねばならぬ。すみのを大坂へ連れて戻れ」

「え……!?」

「それがいいたくて、今日は呼んだ」

「それは……」

「伊達の一門、家臣どもの中には、お前をかばうわしを優柔不断と嘆き、六十二万石の太守の器にあらずと評する向きもあり、若隠居と相成った。しかし、頼りない陸奥守ではあるが、お前とすみのは守る」

 綱宗は何故そこまでするのか。この若き隠居も保科正之に加担している。それはいかなる理由なのか。

 助広の胸中のそんな疑問を払いのけるように、綱宗は扇子を使っている。

 御坐船が速度を落とした。接舷した船があるようだ。しばらくして、

「お屋形様」

 と、侍臣が声をかけた。

「船売りの西瓜を買い求めました。召し上がられますか」

 身分の高い者はあまり口にしない西瓜だが、

「もらおう」

 綱宗が応じると、簾が巻き上げられた。侍臣が屋根の下へ皿を運び込んだ。後世の種と違い、あまり甘いものではない。

「砂糖なんぞかけて食らう者があるが、千利休はそれを避けたという話がある。茶人とはつまらぬものだな」

 綱宗はどこまでものんきである。虚勢を張っているわけでもない。

 が、皿を置いた侍臣の手が思わぬ動きを見せた。狭い船上ではこの侍臣も脇差しか帯びていなかったが、それを抜いた。

「御免!」

 白刃が綱宗へ向けて、奔った。

 綱宗はさすがに独眼龍政宗の孫である。敏捷に酒膳をはね上げ、簾を肩で破りながら、一撃を避けた。

 助広は侍臣に組みついた。もつれ合いながら、隣室との境にある障子の桟を砕いた。揺れる船から落ちぬよう這うだけで精一杯だった。

「太守(綱宗)!」

 安倫が叫んだ。加右衛門は屋根の外へ飛び出した。もう一人の侍臣も脇差を抜いている。加右衛門は振り下ろされる刃を料理の大皿で受け流し、相手の手許を組み止めた。

 左右に傾(かし)ぐ船の中で、無我夢中の助広が侍臣から振りほどかれた時、侍臣の脇差は勢い余って、屋根の軒天井に食い込んだ。悲鳴のような金属音を発して、脇差は折れた。

 綱宗は外へ抜け出している。その傍らで、水音が響いた。加右衛門がもう一人の侍臣を放り込んだのだ。

 綱宗だけは佩刀を大小とも手許に置いていたから、丸腰ではない。残る侍臣が折れた脇差を手にしているその前に、綱宗は仁王立ちした。

「さすがに先日までの主君に向けた刃筋には、一瞬の遠慮があったようじゃな。わしも侍臣を斬るのは忍びない。さて、どうする?」

 侍臣は、今度はためらわなかった。自らの咽喉を斬り裂いた。あたりに赤いものを飛散させながら、どさり、と船の中へ倒れ込んだ。即死ではない。人間が発する声とは思えぬ断末魔の苦悶がしばらく響いた。

 その呻き声と血の匂いで、助広は吐きそうになった。

「陸奥守様、これは……!?」

「仙台伊達家ではわしを隠居させただけでは満足できぬということ」

 安倫が、

「伊達兵部様の指図ということでございますか」

 これまた吐きそうな顔色で、歯噛みした。

 加右衛門が川面へ放り込んだ侍臣は、後続の侍臣たちの船へと抜き手を切っている。

「あの船の者たちも一味じゃ。わしの生命が欲しいじゃろう。わしが信頼する者も乗っていたが、斬られてしもうたようじゃな」

 あたりには運搬船、吉原へ向かう猪牙船(ちょきぶね)が往来しており、何事かと棹を止める船頭もあるが、近づく神経の持ち主はいない。

「預けた刀はすべてまとめて投げ棄てられた。まずいな」

 加右衛門はそういったが、あまりまずそうでもない。生き生きとしているようにさえ見える。

 助広もまた刀鍛冶の性というべきか、侍臣の折れた脇差を手に取り、検分した。身幅の半分以上に焼きが入っている派手な作風だが、武器として失格のその醜態を他山の石とするべく肝に銘じた。

 船は隅田川を両国橋の上流まで進んでおり、西岸には白壁の蔵が居並んでいる。浅草の米蔵である。

 御坐船には屋根の上で棹を操る者もいて、三人の船頭が乗っている。震え上がっている彼らへ、

「山谷堀へ着けろ」

 加右衛門は命じた。吉原へ向かう気だ。

「船の上で始末つけようとしたくらいだから、人が大勢いる場所では乱暴狼藉は働くまい。何なら、揚屋に籠城でもしますかな」

 江戸中期の宝暦頃まで、吉原の遊びを仕切るのは引手茶屋ではなく、揚屋だ。

「揚屋に迷惑をかけることになるぞ」

 綱宗も冷静だ。

「やむを得ませぬ。われわれは丸腰です」

「わしの大小があるだけか」

 その小の方は、綱宗と虎徹の合作である。

 浅草聖天町に着岸すると、死体を船に置き去りにし、船頭には、

「伊達屋敷へ届けよ。ただし、他言無用」

 と、金子(きんす)を握らせた。綱宗に持ち合わせなどないから、加右衛門がごく自然にそうした。

 山谷堀からは船宿の者が吉原まで案内するのが慣例だが、そんなものは振り切った。侍臣たちの船が着岸するより早く、綱宗、安倫、加右衛門、それに助広は日本堤を駆け出している。聖天町から吉原入口まで、八町(約八七○メートル)。

 堤の周囲には田圃が広がり、木立越しに妓楼の屋根が見下ろせる。居並ぶ葦簀張りの掛茶屋をかきわけ、遊客の誰もが衣紋をつくろうという衣紋坂を血相変えたまま下った。

 武家は夜には在宅し、非常時にそなえるものと決まっているので、遊ぶのは昼である。したがって、まだ明るいこの時間の吉原の客は武家ばかりだ。

 吉原大門の脇には面番所があり、与力、同心が詰めて、犯罪者の出入りに目を光らせている。異様なこの一行ではあるが、今や噂の伊達綱宗と知ったか、ただ口を開けて見送った。

 綱宗馴染みの揚屋に入ると、

「お殿様。なにやら風変わりなお供をお連れでございますなあ」

 長々と挨拶を始めそうな主人をさえぎり、綱宗は、

「屋敷へ使いを出してくれ」

 筆記道具を用意させ、簡単な書状を書いた。

「応援をお求めか」

 と、加右衛門が諭すようにいった。

「造反の火の手が上がった屋敷内に、陸奥守様のお味方はもうおらぬのでは……?」

 綱宗の隠居と同時に側近たちは粛清されている。しかし、加右衛門には悲痛さは微塵もなく、目の前の現実を一直線に睨んでいる。そんな風情がある。そして、さらにもっと切実さを感じさせないのが当事者である綱宗だ。

「救援ではない。着替えを届けるよう命じたのだ。わしの隠居生活の用意をととのえている下屋敷ならば、それくらいやってくれる者たちもおる」

 船上の乱闘でいささか汚れはしたものの、綱宗も他の者も着替えを要するほどの身なりではない。綱宗は能天気なのか器が大きいのか、わからない人物だった。