「雙」第21回
雙 第21回 森 雅裕
安倫は切迫感のない表情と口調で言葉を続けた。
「酉年の大火後、伊達家の上屋敷は外桜田と芝を行ったり来たりしましたが、今後は愛宕下の中屋敷が上屋敷になるようです。居場所を追われたお屋形様は品川の下屋敷へ移られます。その途中にあちこち寄られて、色々と始末なさることがおありのようです」
「吉原は品川への途中ではないがなあ」
「私もお供を仰せつかっています」
「家臣ではないはずのおぬしが……?」
「いじめないでください。伊達家を離れたのは方便にすぎません。お屋形様の側近たちは粛清され、付き従う者も少なくなっています」
「粛清とは?」
「切腹、あるいは斬殺です」
「大名屋敷とは魑魅魍魎の跋扈する場所だな」
「お屋形様におっしゃりたいことがおありなら、助広師匠もどうぞ御同行を」
「私は一介の刀工にすぎない」
「さて。お屋形様はそうともお考えではないようです。実は、助広師匠をお誘いしろといわれています。あとで本所の寮をお訪ねするつもりでおりました」
「危険はないといえるかな。私はどうやら何事かの企みに巻き込まれたようだ」
「何のことですか」
「先ほど、尾張の剣客に襲われた」
「それは……よく御無事で」
「山野様に救われた。あの仁を見直した。ただの金の亡者でもないようだ」
「山野加右衛門を見直したというなら、助広師の警護役として、呼んではどうです?」
「仙台侯の試し斬り依頼を断わった男、それを恨んで、おぬしが一度は斬りかかった相手だぞ」
「だからです。加右衛門が件(くだん)の脇差の試し斬りを断わった理由は、虎徹銘ではなくお屋形様の銘にあった。少なくとも、あの仁は仙台伊達家の飼犬ではない」
「もとは伊達家の家臣ではないか」
「はい。私とは違い、本当に嫌気がさして、勤めを辞した人物です」
「……わかった」
明日、陸奥守様(綱宗)の吉原行きに同道する、と助広は告げた。それから、吉原という地名の意味をあらためて思い出し、戸惑った。
白戸屋の寮へ戻ると、表では助直と使用人たちが芋茎(いもがら)を焚いていた。
「直。盂蘭盆会にしては時期が遅いな。御先祖をはるばる江戸で送り迎えしとるんか。お前は近江の産やろ」
「この寮にいる白戸屋さんの使用人たちも遠い田舎から出て来た連中ですわ。あの世の御先祖がここを探し当てるのに日数かかりますやろ。とはいうても、わしは芋茎ではなく、芋を焼いているだけです。琉球芋(薩摩芋)ですわ」
「私が帰るまでめしを待たされ、腹が減ったか」
「めしはもういただきましたがな。今夜こそ鰻です。あれ焼く匂い嗅がされて、我慢できますかいな」
「……お前は足が完全にようなるまで江戸に残って、勉強せえ」
助広はいつもの勝手口ではなく、表から座敷へ上がった。まさのと顔を合わせたくなかったのだが、使用人が知らせたのだろう、夕食の膳を運んできた。
「送り迎えするような祖先の霊が、こういう寮に来るのかな。一体、誰の祖先だ?」
「子孫があちこちにいたら――」
まさのはいつもと変わらぬ明るい声だ。
「祖先もどこへ呼ばれていったらいいのか、迷うでしょうね。掛け持ちするのかしら」
「祖先が誰で、子孫が誰だか、互いにはっきりわかっていれば、まだ苦労はない」
「まだ……? トゲのあるいい方ですね」
膳には鰻の蒲焼きがのっている。
「遅かったところを見ると、今日も寄り道をなさいましたね」
「だが、茶菓子しか食ってない」
「今度こそ、江戸の鰻を召し上がっていただきます」
「毒なんぞ入ってはおるまいな」
「あら。御自分が生命を狙われるほどの嫌われ者だということは自覚していらっしゃるんですね」
「私が生きていては邪魔なお歴々がいらっしゃるようだ」
「……何かありましたか」
「心当たりがあるかね」
まさのは答えない。助広の傍らで、給仕をしている。
「胡瓜のザクザク」
「……何だ?」
「出合い物です。鱧は手に入りませんでした。江戸では穴子になります。それでよろしければ、今度……」
「穴子は穴子だ。鱧の代用では穴子に失礼というものだ」
いいながら、目の前の鰻に満足している。しかし、今は味わう気分ではなく、素直に言葉も出てこないから、
「鰻釣りにはまっすぐな直針を使うことがある。かえしがついていると、はずすのが厄介だ」
そんないい方になる。
「そうそう。釣鈎は古いほど鉄がいいそうだ」
「そんな話が千代田のお城まで出かけた収穫ですか」
「いや。会津中将様のお茶席で、虎徹師は大火の翌年に首をはねられていると聞いた。事情を知りすぎたその帰り道で、襲われた。刺客に熱意がなかったので、助かった」
「で……?」
「明日、陸奥守様にお目もじする」
「お屋形様が師匠を害するとお考えですか」
「わからぬが、伊達様の家中に剣呑な空気があるのは確かだ。山野加右衛門様が同道してくれると心強いが」
「山野様を用心棒に……? どうしてあの方なのですか」
「仙台侯を憎んでいる。お前も知らぬわけではあるまい」
「私が……?」
「山野様はもとは伊達家家臣で、娘は義山公(伊達忠宗)の側室にあがり、人ではなく物のように扱われて、伊達家を離れたそうだ」
「…………」
「さすがに諸大名から試刀を依頼される人斬り加右衛門だ。仙台侯から脱しても、話題には困らないようだ。そして、お前もまた話題の豊かさでは人後に落ちない」
「どんな話題ですか」
「陸奥守様を隠居に追い込んだ伊達一族一門のうち、野心と実力の第一は伊達兵部少輔様(宗勝)。その兵部様と御刀奉行・楢井俊平様とは通じ合っている。そんな話だ。ならば、お前が陸奥守様の指図で刀鍛冶ごっこなどやっていたら、御刀奉行にそむくのではないか」
養父は兵部派、娘は綱宗派だというのか。
「しかし、養父養女の関係にすぎませぬ。血のつながりからいえば、兄であるお屋形様の側につくのが当然」
「さて、どうかな。御刀奉行の養女のまさの殿は保科長門守様(正頼)との婚約が流れたあと、伊達兵部様と交誼ある老中・酒井雅楽頭様(忠清)の弟・日向守様(忠能)との間に縁談が持ち上がっている。まさの殿は和歌のやりとりをするほど乗り気だという。つまり、陸奥守様の足を引っ張りこそすれ、陸奥守様のために働くような女ではない」
助広は膳に半分残る鰻を見下ろした。
「上方風に、蒸さずに焼いてくれてもよかったのだぞ、すみの殿」
「…………」
「まさのとすみのという双子の姉妹がいたことは確かなようだ。しかし、お前は御刀奉行の養女となったまさの殿ではなく、大坂で、私の幼馴染みだったすみの殿だ。鍛冶屋や金工の仕事にくわしかったからな。御船蔵の川辺にあがった死体がまさの殿だろう。いつ、どうして入れ替わったのか、それはわからぬ」
「私の口から申し上げられるのは、いかにも私はすみのだということだけ。吉原での通り名は薫といいました」
「嘘や冗談ということにしてもよいぞ」
「明暦三年の夏から、先月、お屋形様に身請けされるまで、丸三年間……。嘘や冗談なものですか」
そうはいいながら、深刻さを感じさせない。助広が江戸で出会ったのはこんな奇妙な人間ばかりだった。
「お前を苦界から救おうとなさった陸奥守様のお気持ちは真実か」
「真実です。お屋形様は私の身売りには関知していませんでしたから」
「身請けされる前から打ち合わせはしてあったのだろうが、身請けされた二日後には、まさの殿になりすまして、私の前に現われた。安定師もそれは承知。安倫ともその間に口裏を合わせたな。それにしても、見事すぎる武家娘への化けぶりだった」
「十二から十六までの四年間、佐賀鍋島家の江戸屋敷へ行儀見習いにあがっていました。吉原での生活より長いくらいです」
「肥前忠吉はお前が顔を覚えていなかったことで、傷ついていた」
「覚えていましたよ。忠吉師が泰盛院様(鍋島勝茂)を見舞われたのは大火の前でしたね。泰盛院様は虫の知らせでもあったのか、何本かの名刀を国許へ運ぶよう、忠吉師にお預けになりました」
その中に、鍋島家の名物ともいうべき「題目」村正もあったのだろうか。
「何故、お前の奉公先が佐賀屋敷なのだ?」
「山野様の紹介です」
山野加右衛門は諸大名から試刀の依頼を受ける。鍋島家にも伝手があるだろう。そして、すみのは加右衛門に無縁の娘ではない。むろん、まさのも……。
「興里虎徹師と興光師はお前が伊達家につながる素姓だと、知らなかったのか」
「母は口外せず、亡くなるまで江戸を避けていました」
「避けたその理由を、江戸へ出てきたお前たち父娘は山野様から知らされたか」
「けれど、わけあって、私は佐賀屋敷から追い出され、売り飛ばされてしまいました。世間知らずな小娘だったとはいえ、間抜けな話ですよね」
「わけあって……とは?」
「つまらぬこと。つまらぬ理由です」
「すみの殿が漂泊流転しているのに、本物のまさの殿は御刀奉行の養女のまま安泰だったのか」
いや、安泰ではなかったからこそ、死体となって隅田川に浮かんだのだ。
助広は食事を続けた。心づくしの江戸の鰻も砂を噛むのと変わりなかった。
「お嬢様の正体が遊女と知って、がっかりされましたか」
「いや……」
「遊女風情に鍛刀を手伝わせたとあっては、汚れますか」
「そんなことはいっていない。思ってもいない」
無理をして、めし碗を空にした。まさの――ではなく、すみのがそれをひったくるように奪い、二杯目をよそった。
「お手伝いは楽しゅうございました。吉原では年に二回、桜の花時と盂蘭盆会しか休みがなく、具合が悪い時は身上がりと称し、妓楼に玉代を払い、自分で自分を買って、休まなきゃなりません。刀鍛冶は夢のようでした」
「さて」
助広はこの場の空気を手探りするように恐る恐る、しかし、穏やかにいった。
「拗ね者の山野加右衛門を用心棒に仕立てるには、どのように口説けばよかろうかな」
「山野様が反発しているのは仙台伊達家そのものではなく、亡くなられた義山公、そして誰よりも伊達兵部でしょう。なら、助広師に同道してくださるかも。ただし、師匠を守るためではなく、兵部によって当主の座から引きずり下ろされたお屋形様をお守りするためです。山野様は、すみのを苦界から救おうとなされたお屋形様を見直しているはず」
「そうだな」
助広は視線を手許の食べ物から動かさなかった。女の顔を見られなかった。今、すみのの視線が何に向いているのかも、助広にはわからなかった。
「仙台屋敷でお屋形様にお目もじなさるのですか」
「いや……」
吉原へ繰り出すなどとはいえなかった。
翌朝、山野加右衛門の屋敷を訪ねたが、朝食中だからと待たされ、約束の来客があるということで、さらに待たされた。助広は武家の習慣を守らず、事前の約束もなしに押しかけてきたのだから、文句はいえない。
ただ、庭を勝手に歩いてもよい、と加右衛門の言葉が伝えられた。助広は屋敷の裏庭を散策した。別に庭園というほど工夫が凝らされているわけではなく、屋敷が建てられる前から植わっていたであろう雑木しかないでこぼこの土地だ。
藁を置いた小屋があって、門弟たちが截断用の巻き藁を作っている。毎日、どれほど作り、消費するのだろうか。おびただしい量の使用済みの巻き藁が庭の隅に寄せてあり、百姓がそれから竹芯を抜き、荷車に積み込んでいる。畑の肥料にするのだろう。
助広は、まさのこと実はすみのから止雨に届けるよう託されたものがある。彼女が作った求肥餅だ。止雨の住居を探すとはなしに、しかし、期待しながら歩いた。木立ちの向こうに細い人影が動いた。止雨だ。生け垣で仕切られた茶室のような建物へと消えていく。
気軽に声もかけられない助広は、ゆっくりとそちらへ歩いた。止雨がいた木立ちの中に、視線をめぐらせた。小さな石碑がある。表にも裏にも何の文字も刻まれていないが、確かに石碑だ。赤小豆餡に白玉を入れたものが供えてある。汁粉とか善哉というものだが、庶民がこうした甘味を知るのは江戸中期以降のことである。止雨が作り、たった今、置かれたものだろう。
見てはいけないものを見た気がして、助広は加右衛門の門弟たちが働いている庭へ戻った。
「助広殿」
加右衛門が屋敷の縁から声をかけた。四十過ぎの悠揚迫らぬ武士が一緒だ。供侍も従えている。助広は深々と腰を折った。
「仙台伊達家評定役の原田甲斐様(宗輔)だ」
と、加右衛門が引き合わせた。いかつい顔つきで、目鼻立ちもしっかりしており、鋭い眼光を重そうな二重瞼で和らげている。善人の相ではない。
「噂は聞いておる」
と、甲斐は助広を見据えた。
「太守(伊達綱宗)もおぬしのことをお気に入りのようだな」
「恐れ入ります」
「刀工ならば、太守に淫酒をすすめることもあるまいな」
綱宗の吉原遊郭での勇名を快くは思っていないようだ。仙台侯の重職なら、それが当然だった。助広は、これから自分が淫酒とやらに相伴するとはいい出せなかった。
甲斐は供侍に長く四角い包みを持たせている。刀箱だろう。
「加右衛門に刀の目利きをさせたところだ。おぬしも見るか」
「よろしければ」
縁にあがり、端座した。
「拝見いたします」
甲斐は脇差を助広に示した。
「わしの父・原田民部(宗資)が医王野の戦功により、貞山公(伊達政宗)から拝領した吉光だ。『午王』の号で呼ばれている」
同じ号の名刀が江戸後期、鶴屋南北の『於染久松色読販』にもどういうわけか登場するが、山城国粟田口派の藤四郎吉光は短刀の名手で、相州正宗、越中郷義弘と並んで、天下三作に挙げられているものの、太刀は「一期一振」と号する一本しか作らなかったといわれるくらいで、長い作品はまずない。そのため、この刀鍛冶は片腕が不自由だったという説さえあるくらいだ。脇差も薙刀を仕立て直したものが二本知られているだけであり、しかもこれらの真贋については意見が分かれる。
吉光なら、試し斬りなど行なうような刀剣ではない。芸術性や真贋判定のための「目利き」なら、本阿弥などしかるべき鑑定家に持ち込むべきで、加右衛門に見せたということは、実用性いわゆる「武家目利き」を依頼したのだろう。加右衛門ほどの経験者なら、刀剣の姿、地刃、刃角などの見た目からでも、斬れ味が予測できるはずだ。
原田甲斐の「午王吉光」は板目肌の流れる地鉄で、味わいの乏しい直刃が焼かれている。時代も若い。正真とは見えなかった。むろん、そんなことは口に出せない。
「いかにも物切れしそうなお刀でございますな」
しかたなく、助広はそう誉めた。関物だろう。実戦向きの刀だ。加右衛門の「目利き」も真贋には触れていないはずだ。
「屋内においても常時たばさみ、生命を託すのは脇差だ。刀よりも吟味したものを差すべきと思わぬか」
「仰せの通りでございます」
「名前よりも刃味で選ぶべきよな」
甲斐はこれが偽物と気づいている。しかし、武器としての能力が第一といっているのだ。それもまた見識というものである。
「では、わしはこれにて」
仙台侯評定役は微笑み、袴を翻した。
玄関に従者が控えている。そこまで見送った助広の脳裏に、隙のない後ろ姿が焼きついた。
(原田甲斐……様)
加右衛門に疑問を向けた。
「山野様は仙台侯にわだかまりをお持ちなのでは……?」
「特に伊達兵部の一派には、な」
「あの原田様は……?」
「伊達兵部の懐刀だ。いずれ奉行にもなられよう」
仙台伊達家の職制に家老はおらず、その役職は奉行と呼称する。
「そのような人物の刀剣目利きをなさるとは、どういう風の吹き回しですか」
「原田甲斐は急ぎ仙台から江戸表へ召喚されたようだ。家中に何やら胡乱な動きがある……。その甲斐が、おのれの刀が使えるか使えぬかを見ろというのだ。興味が湧かぬか」
「…………」
「仙台伊達家は加賀前田家、薩摩島津家に次ぐ日本(ひのもと)第三の大藩とはいえ、小石川堀の拡張普請は財政を圧迫する。遊び好きの陸奥守様にまかせてはおけまい。伊達兵部は権勢欲の塊まりだが、それに釣り合う才腕も持っている。新田開発、年貢の増徴をはかり、物産の移出、移入に規制を加えて、収益につなげる、そんな策を練っておるようだ」
保守派に対抗して、財政再建とともに戦国体制を一新し、近世藩幕体制へと脱皮をはかろうというのだ。
「もっとも、頓挫するだろうがな」
加右衛門は保守派の抵抗を予想している。そして、それは的中する。
十一年後の寛文十一年三月、大老・酒井忠清の屋敷で、原田甲斐が午王吉光をふるい、伊達兵部宗勝の政敵である伊達安芸宗重を斬殺、酒井家にも死傷者を出すという「伊達騒動」の修羅場が演じられることなど、助広には知る由もない。やがて、これが江戸後期の『伽羅先代萩』を代表とする十数題もの芝居となり、仙台高尾事件ともども人口に膾炙していく。
「……で、おぬしの用件は何か」
ようやく、山野加右衛門が尋ねた。
吉原へ同行していただきたいと腫れ物にさわるような言葉遣いを駆使すると、加右衛門はあっけなく、
「本日は小伝馬町でのお役目はない」
と、これを受け入れた。
「では、支度をする。しばらく待て」
「止雨殿に御挨拶してきてもよろしいでしょうか」
「勝手に会ってこい」
加右衛門を待つ間、助広は再び屋敷の裏手に回り、外露地から潜り戸を抜けて、止雨の住居へ声をかけた。質実な造作で、賢人の庵という風情である。
返事のあった土間を覗くと、止雨は大鍋で赤小豆を煮ている。というより、巨大な杓文字ともいえるヘラを突っ込んで、船の櫂を漕ぐように練っている。餡作りである。かなりの熱気だ。
「おお。助広殿か。焦がさぬよう、手が離せぬ。このまま失礼する」
「お邪魔でしたか」
「かまわぬ」
助広は土間の広敷の上に持参した包みを置いた。
「うちの女弟子が求肥を作りました。お試しください」
「焼入れの時、寛永寺で会うた、あの娘か」
「はい」
「おお。それは楽しみ。――加右衛門殿には会われたか」
「はい。仙台侯の御重役がお出ででした」
「原田甲斐様か。山野加右衛門の屋敷へ来て、私のところへ顔を出さぬのは、あのお方くらいのものだ」
「菓子がお嫌いなのでしょうか」
「では、何なら好きなのかな、ああいう人物は」
「さあ……」
「理屈と感情のどちらで動くのか、肚が知れぬ。思いつめると、厄介なことをしでかすのが、あの手の男だ」
「たとえば……?」
「謀反」
無造作に、とんでもないことをいう。
「では、天下の謀反人、由比正雪もあんなふうだったのでしょうか」
「さて」
助広もとんでもない名を出したのだが、止雨は動じなかった。
「正雪は孫武や呉起の再来と評判だったようだが、せいぜい秦に謀反をして、復興した楚の王を自称した陳勝がいいところだろう。『燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや』と大言壮語しながら、半年で部下に殺されてしまう将軍だ」
「半年でも、王になれたなら、たいしたものです」
「そうだな。原田甲斐様は王を殺す臣下の方かも知れぬ。正雪も、王になったわけではない。なろうとしたわけでもあるまい。世にあふれる牢人の窮乏を公儀に訴えればよかっただけのこと」
その後、公儀の大名統制策が緩和されたことを見れば、正雪の謀反もあながち無意味ともいえない。
「大猷院様(家光)薨去の機会に乗じて、蜂起しようとしたといわれるが、事実は逆だろう。前将軍葬儀と新将軍宣下のために江戸城周辺の警固がきびしくなり、正雪は計画を延期した……。その隙に訴人された。違うかな」
「そうかも知れません。おそらく」
「訴人した者たちは報奨を受けはしたが、軽侮もされているようだ。それでも有卦に入ったといえるのかな」
謀反とはいえ、武家社会では密告は恥ずべき裏切り行為とされる。報奨として幕臣に取り立てられた者も同輩からは嫌われている。