骨喰丸が笑う日 第二十一回
骨喰丸が笑う日 第21回 森 雅裕
和尚は指導僧に向かって手を合わせた。
「恐れ入ります。正直申し上げます。自分は高僧などではありません」
「お前はキリスト教の神父だそうだが、インドの神像を拝み、珍妙な経を読んだとか」
「無節操とは思いますが、仏道を蔑ろにするつもりはまったくないのです」
「はたして、本当に日本人は宗教に寛大なのか。日本の自由主義神学、簡易信条主義が異教に対して抵抗する力を持たぬだけではないのか」
「そうかも知れません。しかし……」
和尚は神像を取り出し、膝元に置いた。踊っているようなヒンドゥーの女神は異教徒の目には不埒に見えるかも知れない。
「私は偶像としてではなく、この神像の美しさ、力強さ、気高さ、重ねた年月の重さに惹かれました。宗教宗派を超えた人類の宝だと思います」
「イギリス人も同じ考えのようだ。自分たちの所有物が奪われたと、この神像を追い求めている」
「これがイギリス人のものに見えますか」
「いや。イギリスこそインドから盗んだ泥棒だろう」
「その通りです」
「しかし、泥棒からなら盗んでもいいことにはならぬ」
「はい。私ごときが私物化すべきでないと反省もしています」
「仏道とは執着を断つ道である。キリスト教でも執着は戒めているはず」
「はい……」
「異教徒だからといって、仏陀は憎しみを抱くものではない。しかし、偽りの経を読んで仏を冒涜し、村民を侮辱したことは許されぬ」
「申し訳ございません」
「腹が減り、足を痛め、思慮分別をなくしたか」
指導僧は和尚の不自然な座り方に目をとめた。
「見せてみよ」
和尚が足に巻きつけたボロ布を剥がすと、青黒い皮膚とただれた肉が現れた。指導僧は顔色も表情も変えず、ためらいもせずに申し渡した。
「しばらく当寺院に滞在せよ。宗旨替えせよとはいわぬ。仏の道を知ることはキリスト教徒としてもよき修行となろう」
「お待ちください、セヤドー」
八七橋はいささか焦った。
「この者には日本軍人としての任務があるのです。この地にとどまっている時間はありません」
「偽の高僧のまま、この地を離れられると思うか」
集落の村人によってたかって撲殺されるかも知れない。むろん、囚人部隊の武装からすれば勝ち目はこちらにあるが、戦う気には到底なれなかった。ここは従うしかない。
「やむを得ん。和尚。一月もすれば解放されるだろうから辛抱しろ。すまんが、他の者はつきあえない」
「わかりました。修行なら、私としても望むところです。第一、この腐りかけた足では、皆の足手まといになるだけです。先に行ってください。あとから追及します」
この夜、和尚は寺院に泊まり、八七橋はタン・テンの家へ戻った。綿貫もアーシャや兵たちも撲殺されることなく、床下の部屋と土間に疲弊した身体を投げ出していた。
「偽の高僧はどうなりましたか」
と、アーシャ。
「居残りで修行だ。足も治療できるだろう。タン・テンは俺たちを疑ったり怒ったりしていないか」
「半信半疑というところですね。でも、彼は日本が好きだといってました。日本軍は統制がとれている。道路を整備し、学校を建て、農作業も手伝ってくれた、と」
ビルマの西端(インド寄り)はチンドウィン河で分断され、この大河の西と東では人情も違う。西側は日本からの恩恵はあまり受けておらず、東側ほど親日的ではないが、それでも、こうして好意を示してくれる現地人がいる。
「恥じ入るばかりだ。日本は欧米とは違うといいながら、結局、現地の人たちを見下している」
疲れ切った八七橋は壁にもたれ、重い瞼を閉じた。
「貧すれば鈍する。まったくだ……」
呟きながら、眠りに落ちていた。
翌日、兵たちとアーシャは村人の畑仕事を手伝い、八七橋は綿貫をトンへの野戦病院へと同道した。ふらつく綿貫に肩を貸すため、バクが随伴した。
「畜生……」
と、綿貫は震えながら、繰り返し唸るばかりだ。トンへの野戦(病院)もウクルルと同様、患者は野ざらしで、これまた病人のような衛生兵たちが水や粥を手にして、ふらふらと患者の間を巡っている。
軍医はおざなりに綿貫を診断し、事務的に告げた。
「熱帯熱だな」
そんなことはわかっている。治療してもらいに来たのである。しかし、軍医は実に無愛想だった。
「栄養をとって安静にしているしかないな」
こういう傲慢な人間に対して下手に出るとよけい増長させる。八七橋は大きな体格にモノをいわせ、圧力をかけながら相手を見下ろした。
「栄養がとれるのか、ここで」
「無理だな」
「じゃ、キニーネでもアクリナミンでも、とにかく薬を寄こせ」
軍医は八七橋の高圧的な態度に戸惑い、顔色をうかがうように口調を変えた。
「わずかな医薬品や糧食も空襲や砲撃で吹っ飛ばされたからね。ない袖は振れないんだよ。ここには千五百人の患者があふれています」
ついには敬語になった。
「あとからあとから半死半生の連中がたどり着きますが、収容を断ることも多いんです。収容したところで……」
「自決の強要か毒の注射か」
「…………」
「こちらは少将閣下だぞ。優遇してくれ」
「特別に屋根のある寝床を提供できるくらいです。ただし床はありません。地べたに枝葉を敷いただけです。それでよければ」
「よくはない」
こんなところに入院させても、食い物もろくに与えられずに重篤化するだけだろう。八七橋は綿貫を連れ、集落へ戻った。途中、綿貫は歩きながら小便を垂れ流した。高熱のため筋肉が弛緩しているのである。
「ざまアねぇなあ」
バクが肩を貸しながら無遠慮に舌打ちすると、
「貴様、いずれ銃殺にしてやる」
綿貫は負けずに悪態をついた。こういう男は生命力が強い。
「へいへい。銃を持てるほど元気になってくださいや」
バクは鼻で笑った。
集落へ戻り着くと、タン・テンが困り顔で迎えた。
「病院へ行ったのに、ナーブー閣下はよけい顔色を悪くして戻りましたな」
「病院とは名ばかり。治療どころじゃない」
「困りましたな。どうされます?」
「下流のシッタンを目指したいんだが」
チンドウィン河の渡河点はいくつかあり、ここトンへもそのひとつのはずだが、組織的計画的な渡河は行われていない。一か八か、筏を組んで漕ぎ出す兵たちもいたが、昼間はイギリス機の餌食となり、夜間は浮流物にぶつかり、転覆して濁流に沈んだ。岸近くの流れは比較的おとなしいが、中央部は表面と河底が二層に分かれ、河底は急流のため、表面には轟々と大きな渦が重なり合っている。吸い込まれたら浮き上がることはできない。
多くの部隊はシッタン周辺に集結し、渡河の順番を待っている。シッタンなら野戦病院も規模は大きいはずだ。しかし、トンへからは直線距離でも五十キロ。徒歩なら倍はあるだろう。河岸はいたるところ氾濫し、多くの支流も暴れ放題で、膝まで没するぬかるみが広がっている。踏破するのは困難である。
「シッタンの手前まで舟を出しましょう」
と、タン・テンは申し出てくれた。チンドウィン河は岸辺付近なら流速も急ではなく、現地人は舟で上流下流を往来している。
囚人部隊は脱落者が相次いだので、綿貫少将とアーシャの他には、八七橋以下、三文、バク、五右衛門、合わせて六人に減っている。とはいえ、大きめの舟は日本軍に徴発されてしまい、現地人が隠している小さな丸木舟では六人は窮屈すぎるだろう。漕ぎ手も必要である。
「二艘用意しましょう。漕ぎ手もおります。しかし、マスター。シッタン周辺は日本兵が各地から押し寄せ、トンへよりも混乱しています。病人が治療を受けられる保証はありませんよ」
「そのことだが……」
垂れ流しの綿貫を見ているうち、彼の症状が切迫していることを実感して、八七橋には突飛な考えが浮かんでいた。
「イギリス軍が俺たちを探しているといったな。そんなに神像が欲しいなら、返してやろう。引き換えに薬をもらう」
「泥棒のイギリスにインドの宝を返してやりますか」
「インドの女神はあんたたちに功徳を施すためにここまで来た。もう役目は終えた」
「おお。なるほど」
よくも口から出まかせがいえるものだと八七橋は自分にあきれたが、まんざら嘘でもない。タン・テンも素直に頷いた。
「よろしい。イギリス軍の野営地はわかっている。連絡してあげましょう」
タン・テンに英軍との橋渡しを依頼し、八七橋は和尚が「修行」する寺院へ足を運んだ。一人の僧が声をかけてきたので、挨拶だけで通り過ぎようとしたが、ふと気づいて振り返った。
「あ。和尚か」
敝衣蓬髪だった和尚だが、剃髪し、赤茶色の僧衣をまとっている。
「なかなか似合ってるじゃないか」
「頭がカミソリ負けで痛いです」
「和尚。女神像を渡してくれ。英軍に返す。薬を手に入れないと少将閣下は死ぬ」
「正気ですか、八七橋さん。敵と取り引きできるんですか」
「駄目モトだ。奴らの騎士道とやらに期待するしかない」
「光機関の考えることはわかんねぇです」
和尚は納得した様子でもなかったが、青銅の女神像を渡してくれた。
集落のはずれにある広場が待ち合わせの場所だった。
八七橋は腰に拳銃を吊っただけで、一人で向かった。軍服は日本陸軍将校用防暑衣である。普段通りの日英混合でもかまわないと考えていた八七橋だが、それでは取り引き相手に何をいわれるかわからない。五右衛門がどこからか調達してきたものだ。
ジープが現れ、後部席では下士官が銃を持って警戒しているが、運転しているのは士官だった。日本軍では考えられない。その運転手が車を降り、無造作に近づいてきた。この男が取引相手だった。
「ヤナハシ中尉かね」
「いかにも。ヤナハシです」
「私はフォスター少佐。ブルース大尉から君の部隊のことは聞いた。彼は今、インパールで任務についている」
少佐は煙草を取り出した。
「やるか?」
「じゃ、こちらも特製のやつを」
八七橋もポケットから手製の煙草を取り出し、英国製JPSと交換した。トウモロコシの皮で巻いた超特大の一本だ。少佐は目を丸くした。
「……凄いな」
八七橋が耐水マッチで火をつけてやると、目をしばたたき、咳き込んだ。
「君たちがチンドウィン河を渡る前にこうして会えて、よかったよ。向こうへ行かれたら、わが軍の追走もスローダウンせざるを得ない」
「挨拶はすんだ。取り引きしよう」
八七橋は背嚢から女神像を取り出し、少佐へ渡した。少佐は撫で回すように無事を確認した。
「インド美術の至宝だ。こいつを持ち逃げするとは……日本兵もなかなか見る目がある」
「アジア人が作ったものだからな。欧米人より見る目があるかもな」
イギリスの植民地支配に皮肉をこめながら、八七橋が手を差し出すと、少佐は小さな紙箱を寄こした。キニーネと希釈液のアンプルが数本ずつ、それに注射器が納まっている。
「使い方はわかるかね」
「心配無用だ」
「病人がいるのか。敵軍に薬を求めるくらいだから、重要人物なのかな。降伏したまえ。こちらの野戦病院なら治療を受けられるぞ。階級にふさわしい、兵隊とは別の特別待遇もできる」
八七橋が将官を護送していることは察知しているようだが、フォスター少佐はあまり興味なさそうだ。八七橋も余計なことはいわない。
「気持ちだけ頂いておく。では、これにて」
少佐に対して敬礼し、背を向けた。着慣れない軍服は窮屈だった。
綿貫少将に薬を与えて一日休ませたあと、囚人部隊は雨の合間を縫い、チンドウィン河へ漕ぎ出した。二艘の丸木舟に分乗し、漕ぎ手は前後に二人ずつの計四人で、すべて女だった。前後で「ヘイ」とか「ホイ」とか掛け声を交わしながら、でかい杓文字のような櫂を操るのである。下流へ届ける野菜の他に擬装用の葦や雑草を積んでおり、八七橋たちはその下に身を隠した。
夜が明け、周囲が明るくなると、女たちは笑いながら空を指した。「ブーンブーン」あるいは「ズーンズーン」と騒いでいる。「Zoom」は英語圏の「ブーン」である。陽気な彼女たちにも緊張感が漂い、頭上に爆音が近づいてきた。雲間に現れた飛行機が降下してくる。
女たちは頭から笠を取って大きく振った。現地の女と見れば、イギリス機は攻撃してこない。翼を傾けながら、低空を飛ぶ機内にパイロットの顔が見える。
納得したらしく、上昇して飛び去った。爆音が聞こえなくなると、腹を下している者は尻を河面に突き出して用を足した。日本兵には当たり前のことだが、ビルマの女たちの目の前でこれをやるのは無礼千万である。彼女たちは大声で騒ぎ立てたが、怒っているのか笑っているのか、わからない。
とりあえず謝れ、と八七橋は日本語で怒鳴った。
「大袈裟に身振り手振りで謝れ! 泣き真似くらいしろ! このガラクタども!」
女たちが本気で怒り出す前に、八七橋が率先して叱りつけた。叱ったり謝ったりするうち、イギリス機は何度も飛来し、そのたびに同じことが繰り返された。
トンへとシッタンの中間点となるインターバンで一旦上陸し、女たちは積んできた野菜を市場へ運んだ。烈兵団司令部の移動先でもある。八七橋たちは岸辺の小屋で副官の一人をつかまえ、宮崎少将の消息を尋ねた。返答は素っ気ないものだった。
「宮崎閣下は現状報告のためシェボーの第十五軍司令部へ向かった」
と聞いた。シェボーは北ビルマ平原の中心で、マンダレーの北百キロ。宮崎繁三郎はすでに烈兵団の歩兵団長ではなく、宮崎支隊からも離れていた。烈兵団には河田槌太郎新師団長が着任しており、宮崎にも新たな任務が発令されるはずだ。
(追いつかねぇもんだなあ)
ディマプールで綿貫を拾って以来、一月半も歩いている。囚人部隊がシェボーに達する頃には、宮崎はそこにいないだろう。
「渡河の状況は?」
「八月末日には師団すべての渡河を終わらせる予定だ。他の師団も同じようなもんだろう」
「終わる見込みがあるのか」
「間に合わなかった連中は英印軍と一戦まじえ、命があれば各自で渡河してもらうことになる」
「つまり、見捨てて置き去りということか」
副官に文句をいっても詮ないことである。八七橋はおとなしく呟いただけだが、綿貫はあたりかまわぬ大声を発した。
「兵隊なんかどうでもいいが、俺は最優先で渡河させろ」
凄んだところで、副官には暖簾に腕押しである。
「ここにはあんたたちみたいなのが毎日押しかけてくる。うしろを見ろ」
小屋の中にも外にも順番待ちの汚らしい士官や下士官が列をなしている。
「河田師団長に談判する。どこにいるのか」
と綿貫はわめき続けた。
「ヘロウとシッタンの状況を視察されています」
「へっ。そりゃ逃げ回るだけの軍隊じゃあ、師団長閣下も視察しかすることがないよなあ」
熱が下がり、少しばかり元気になると、綿貫の狷介さも復活した。
「けっ。ははははは」
勝ちどきでもあげるように粗暴な嘲笑を放ったので、副官はあきれ顔でそっぽを向いてしまい、もはやこれ以上の会話も交渉もできなかった。
八七橋たちはインターバンで舟を降りるつもりだったが、漕ぎ手の女たちがもう少し乗せてくれるというので、さらに日が暮れるまで河を下った。
シッタン手前のヘロウでは遠くに砲撃音も聞こえ、前線のキナ臭さが漂っている。舟旅はここまでだった。女たちにイギリスの軍票を渡そうとしたが、彼女たちは笑って受け取らなかった。しかし、五右衛門が金平糖を一袋持っていたので、これを差し出すと、大喜びで受け取った。彼女たちはこれからトンヘまで濁流を遡上して戻るのである。その労苦に報いるにはまったく足りない謝礼だった。
彼女たちと別れ、八七橋は五右衛門に尋ねた。
「どこで手に入れた?」
「へっ。司令部という宝の山に行って、手ぶらで帰ってくる奴がありますか」
「お前がいてくれて、よかったと初めて思ったよ」
「恐縮です」
五右衛門は落花生の袋を掲げた。これも盗んだらしい。
「食いますか」
「今のは取り消す。ほめたわけではない」
夜、チンドウィン河の岸辺に広がる葦原には無数の鬼火が燃えた。その下には日本兵の死体が折り重なって埋もれている。