星光を継ぐ者ども 第十二回
星光を継ぐ者ども 第12回 森 雅裕
江戸は寛延四年(宝暦元年・一七五一)の正月を迎えたが、宮川長春一門は年賀どころではなかった。それでも義理を欠くことはできない。年始回りの客はやって来るし、こちらから出向く相手もいる。当然、長春の身に起こったことは噂となって広がっていく。
逆に、もたらされる情報もある。一笑が長春を見舞っていると、挨拶回りから戻った息子の宮川長助が報告した。
「親しい町狩野に聞きました。狩野春賀や春潮は例年と変わらず、正月は年始回りで忙しいようです。稲荷橋の屋敷は留守ですが、それを承知で、独立している弟子や客たちが挨拶に押しかけます。土産だけ置いて帰るわけで……」
「いつまでも正月じゃあるまい」
「筆の始めは六日です。日が暮れる前……七ツには終わるとか」
「そのあと、春潮は悪所へ遊びに行くなんてことはないのか」
「翌七日の朝は弟子たちと七草粥をいただくのが稲荷橋の決まり事なんだそうで、その準備もあるんで、春潮といえども夜遊びはしないだろうとは思いますが……」
「親父の春賀はいるんだな」
「七日は五節句のひとつ。御用絵師には登城日ですからね。朝が早い。屋敷でおとなしくしているはず。そもそも、春賀は武士でもないのに武士を気取って、夜は出歩きません」
有事にそなえて、夜は屋敷に待機するのが武士の決まりである。
「寝込みを襲えば、昼よりも在宅の見込みが大きいですが」
「いや。まず、謝罪と支払いを求めるのが筋だ。正面から堂々と訪ねる」
「すると、決行は六日の昼」
当日に様子をうかがい、在宅を確かめるしかない。留守なら、決行を延期するだけのことだ。
「なんだか、一笑さんが大石内蔵助に見えてきましたよ」
「滅相もない。内蔵助ほど若くねぇよ」
赤穂事件は浅野内匠頭の自刃から吉良邸討ち入りまで一年十か月を要している(元禄十五年は閏年のため八月が二回)が、これには御家再興を第一目標とした武家社会の事情もある。宮川一門には復讐を先延ばしにする理由がなかった。そもそも、こいつは討ち入りというより、殴り込みだ。喧嘩である。熱いうちに決行せねば名分が立たない。
「一笑さんは身内もいないし、この世に未練はないんでしょうねえ」
長助は感心しているようだが、一笑は苦笑するしかない。
「まあ、もう充分に生きたからね。ろくな人生じゃなかったが」
「私は少しは未練があります」
長助にはだいぶ前に別れた妻子があり、子は七、八歳だろうか。
「しかし、離縁しておいてよかったですよ。私が何をやらかしても縁座の心配はない」
長助には義理の母となる長春の後妻が顔を出し、
「松戸へ知らせをやりました」
と、小声で告げた。娘の玲伊の駆け落ち先である。重傷だった長春は身を起こせる程度には回復している。
「一日も早く次の知らせをしたいものです」
長春が半殺しにされたことを知らせたから、その仕返しを果たしたことも早く知らせたいというわけである。
「でなきゃ、一笑さんも当家の敷居をまたぐのに気が引けるでしょう」
さっさと決行しろという催促だ。事件はおとなしい後妻をこんな嫌味な女に変えてしまったのである。
一笑は曖昧に頷いた。
正月の数日は部屋に閉じ籠もって、絵を描いていた。三味線を爪弾く遊女とその傍らでくつろいでいる鍾馗の組み合わせである。
春笑はためつすがめつ眺め、吐息を洩らした。
「こいつはいいなあ。有り得ない取り合わせなのに、遊女と鍾馗の心が通じ合ってる」
「俺ももう年だからな。これが最後になるかも知れねぇと思って描いてる」
「ここ数年、師匠は絵を描く度にこれが最後かもといい続けてますぜ」
「人生五十年。俺は十年以上過ぎてる」
「この絵、納める客は決まっているんですかい」
大店の呉服商からの依頼だ。
「模写させてください」
春笑はそういい、熱心に写し取った。
そんなことをしているうちに正月三が日が明け、いつものようにふらりふらりと出入りしていた春笑は、餅を焼いて食いながら、
「俺にだって、狩野派に知り合いくらいいます」
と、切り出した。
「探りを入れましたがね。稲荷橋狩野は師匠筋の山下狩野の家に不幸があったとかで、六日は不在。翌七日は奥絵師、表絵師は登城日です。登城を妨げることはお上への逆心となりますぜ」
「何だって、そんなことを俺に教えるんだ?」
「師匠と長助さん、その日に何やら企んでましたよね」
「七草粥が食いたきゃ女のところにでも行きな」
「とぼけちゃいけませんや。宮川一門の弟子たちは、命を預けてくれと声をかけられるのを待ってるんです。なのに、俺の師匠は何もいってくれねぇ。水臭えじゃありませんか」
「祐助」
と、一笑は弟子の俗称を呼んだ。
「こいつは忠臣蔵の討ち入りじゃねぇぞ。俺たちはな、あくまでも謝罪と支払いを求めるために稲荷橋へ乗り込むんだ」
「そいつを拒絶されたら、狩野春賀の首をとるんでしょう」
「お前は宮川長春の直弟子じゃねぇ。関係ないんだよ」
年末年始の挨拶回りの時期で、人の出入りが多かったこともあり、事件は江戸画壇で知れ渡っている。なにしろ稲荷橋狩野の一門がいいふらしているのである。
「赤穂の卑怯者の血筋は金の亡者でもある。ゆえに鉄槌を加えてやった」と。
罪の意識は皆無だった。その一方では、宮川一門は稲荷橋狩野に復讐しないのか、と非難めいた声も聞こえていた。稲荷橋狩野ごときに何と罵倒されても、こちらはその何倍も軽蔑しているからかまわないが、世間から侮蔑されるのは耐え難い。春笑も宮川一門に連なる者として肩身の狭い思いをしているのだろう。
「世間は忠臣蔵と重ねて面白がっているだけだ。踊らされるんじゃねぇ」
一笑は春笑が焼いていた餅を取り上げ、おろし大根をつけて食い始めた。
「こっちが世間を踊らせるくらいでなきゃ絵師にはなれねぇぞ、春笑」
とはいえ、春笑のもたらした稲荷橋狩野の動向は事実だった。宮川家の長助もまた稲荷橋の周辺に探りを入れ、六日七日は仇敵が留守であることをつかんだ。一笑と長助は計画を延期せざるを得ない。
一月六日。
稲荷橋狩野へ乗り込むことが中止となったこの日、描き上げた絵は日本橋の角亀屋という呉服商へ持ち込んだ。角亀屋の主人は一笑の顔を見るなり、笑っているのか悲しんでいるのか不明の表情を作った。
「災難でしたなあ。長春先生は筆を持てぬどころか、歩くのも不自由な有様だとか」
事件から七、八日しか経っていないのに、画壇とは無縁の商人にまで知られている。一笑は驚き、あきれた。
角鶴屋の眼前に広げた絵は、表装していない「まくり」の状態である。角亀屋は知り合いの表具師に立派な表装をさせるつもりだ。一笑にしても、金も時間もないし、このまま渡した方が都合がいい。角亀屋も先刻承知である。
「おお。鍾馗さんに遊女……。面白い。はあああ。金に困っているとは思えない丁寧な仕事ですな。急いでいることを微塵も感じさせない」
「急いでいる?」
意味ありげに、角亀屋は微笑んだ。
「だって、ほら。……やるんでしょ? 討ち入り」
「やりませんよ」
「またまた……。あっ、これは気がつかんことで。そりゃまあ、やるとは広言できませんわな。ははは。でも、私には本当のことをいってくださいよ。ねっ」
こういう俗物には絵よりも絵師の抗争の方が興味深いらしい。
「やりませんよお」
一笑は間延びした声で否定した。たちまち、角亀屋は不機嫌になった。
「あのね、一笑さん。師匠の仇も討たない腰抜けの描いた絵なんぞ、いりませんよ」
「そうですか。じゃ、結構です」
一笑は絵を仕舞い、あきれ顔の角亀屋に背を向けた。暖簾をかきわけて外へ出る時、
「塩まいとけ!」
そんな怒鳴り声が追いかけてきた。情けない。赤穂の浪人も討ち入り前はこんなだったのかな、と一笑は嘆息した。
翌七日。
吉原の茶屋「玉ね屋」の主人が前々から一笑の絵を欲しがっていたので、こちらへ持ち込んだ。
「ほお。一笑さんと芳栄さんの絵ですな」
鍾馗と遊女だが、玉ね屋には一笑と芳栄にしか見えないようだ。
「気に入りました。しかし、値段はお安く願いますよ。なにしろ、宮川一門の名は評判がよろしくありませんからな」
これが世間だ。胸算用していた金額の半分しか支払ってもらえなかったが、一笑はそれをそのまま玉ね屋の前に投げ出した。
「芳栄を呼んでくれ。『道中』をやってもらいたい」
「へ? ああ。道中の様子を描くんですな。それなら何も自腹切らなくたって……」
「いいから、頼む」
一月七日は吉原の紋日である。遊女が稼がねばならない日で、すべての料金も割高になる。しかし、芳栄が籍を置く浦島屋のような大見世は八日から営業だ。
「わかりました。今日は芳栄さんも他に客をとらないでしょう。一笑さんのため、特別に来てもらいます」
主人は何かを感じたのか、手を叩いて、承知した。それでも気を遣ったのか、費用はおさえてくれた。にぎやかしの余分な人数は繰り出さなかったし、幇間も芸妓も職業として確立しておらず、そのようなものも呼ばない。
酒と台の物は出たが、一笑は飲めないわけではないものの、酒は好きでもないので、ほとんど手をつけずに窓から仲之町を見ていた。
やがて、人垣の中を行列が進んできた。妓楼の若い衆が長柄の傘をさしかけ、新造、禿が周囲を固める。芳栄の足運びは踵を大きく外へ回し込む、吉原遊女の意気地を象徴する外八文字である。その歩調に合わせ、一行は悠然と進む。
いわゆる「花魁道中」だが、花魁という言葉が高級遊女を指すようになるのは太夫や格子が消滅した宝暦以降であるから、この頃は単に「道中」と呼んでいる。
座敷にあがると、
「あい。お出でなんし」
と馬鹿丁寧に挨拶はしたが、あとはいつもの芳栄だった。
「馬鹿だねェ、こんなことにおアシ使って……」
「祝儀をばらまいて『道中』やらせてみな、といったのはお前さんだぜ」
「そいつは申し訳なかったけど……どういう風の吹き回し?」
「お前の晴れの姿を画紙にとどめておきたかったのよ」
一笑はこの場で覚え描きのような下絵を描いていた。
「お宅の師匠が半殺しにされたのと関係があるのかい?」
「噂は吉原にも聞こえているのか」
「稲荷橋の春潮さんが自慢たらたら吹聴して回ってらア」
芳栄は一笑に酌をし、量の少ない台の物には見向きせず、
「どん、と飯付き台を出しておくれ」
と、茶屋に求めた。新造、禿といった女たちは常に腹をすかせているから、姐さん遊女のおこぼれにあずかるのである。むろん客の金だ。江戸後期なら鮨が喜ばれたが、この頃はまだ存在しない。
芳栄は三味線を乱暴にかき鳴らすかと思えば、静かに爪弾き、いった。
「こないだの話、受けてもいいかい」
「三弦師のところに居候する話か。狩野春潮とは手を切るのか」
「そうするよ。一月十五日に私は吉原を出るけど」
「迎えに行く」
「大門は一人で出たいんだ」
「日本堤で待ち合わせよう」
何を約束しているのか。一笑は自分でも驚いた。いずれ殴り込みを決行する予定だというのに、心のどこかで実感が湧かないのだった。
一月十一日。
宮川家で鏡開きを終えた一笑が長屋へ戻ると、松戸の百姓家に隠れているはずの狩野春泉が待っていた。留守宅に上がり込んでいたわけではなく、春笑と絵画談議で盛り上がっていた。
春笑はなにしろよくしゃべる。
「鈴木春信ってのは俺より一つ年長でね、まだ売り出し前だが、美人画はなかなかのもんだ。線が細くて、童女みたいで俺の好みじゃねぇけど。でもね、奴はいずれのしあがってきますぜ。紅摺絵なんかじゃ飽き足らねぇ。もっと多色の摺物を工夫しようじゃねぇかって、絵暦の板元や金のある商人に働きかけてましてね……」
「そうか。町絵師は一途なものだなア。狩野派はそこへいくと……」
そんな話で盛り上がっていたが、一笑は春笑を蹴飛ばすように隅へ追いやった。
「ちったぁかたづけろ。家主の部屋が散らかり放題じゃ店子に示しがつかねぇ」
そして、苦虫を何十匹と噛みつぶしたごとく眉根を寄せ、春泉を睨んだ。
「春泉さん。たとえ親が死んでもしばらくは江戸へ戻るなと釘を差しておいたはずだ」
「はい。しかし、うちの親のために長春先生が深手を負ったと知らせを受けまして……」
そういえば、長春の妻が松戸へ知らせたといっていた。
「長春先生を見舞いたいところですが、私が出入りすれば、かえって御迷惑かも知れず、こうして一笑さんを訪ねたわけで」
「お前さんが心配していたことは伝えておくよ」
「……で、けがの具合は?」
「駄目だな」
長春はもはや体力だけでなく気力までも失っていた。もはや、ただ死を待っているだけの老人だ。
「申し訳ありません」
と、春泉は頭を垂れたが、一笑はせいぜい明るく言葉を返した。
「お前さんが謝るこたぁねえ。玲伊さんを大切にしてくれりゃ、うちの長春師も文句ねぇさ」
「はあ……」
「お前さんたちの所帯が末永く続けば、それが稲荷橋狩野への仕返しにもなろうってもんだ」
「それはそれとして……このまま泣き寝入りするんですか」
「お前さんには関わりのないことだ」
「ということは、やるんですね、討ち入り」
「おいおい。しがない絵描きに忠臣蔵の真似事なんぞ期待しないでやってくれ」
「あんなこといってますが」
と、春笑が横から口をはさんだ。
「決行前にね、たまっていた仕事を俺に手伝わせて、大急ぎでかたづけちまいましたよ。筆始めか七草あたりを狙っていたんですが、稲荷橋は留守と知って、取りやめになったんでさあ。しまらねぇ話で」
一笑は手近な茶碗を春笑に投げつけ、だまらせた。
そんな師弟を春泉は羨望のような眼差しで見ていたが、ふと真顔になった。
「夜なら大抵は在宅していると思いますが」
「寝込みを襲うような卑怯なことはできねぇ」
「はは。それじゃ赤穂の浪人たちが卑怯みたいに聞こえます」
「いや。俺には今ひとつ、切った張ったの覚悟ができてないのかも知れねぇ。まず話し合いだ。そんな甘いこと考えてる」
「そうですか……。十五日の昼なら、親父も兄もいるはずです」
「十五日?」
「奧絵師は一と六のつく日が登城する御定日ですが、表絵師には御用の定日はありません。しかし、年始、五節句、八朔、月次御礼には奧絵師ともども登城します。近いところでは十五日と二十八日です。朝から千代田のお城へ行き、挨拶だけすませて、昼には屋敷へ戻ります」
「寄り道せず、か」
「十五日は小正月ですから、左義長のあとかたづけをしたり、小豆粥を家族や弟子たちと食べたり……家内でやるべきことがありますから」
「ふむ。左義長かあ……」
十四日の夜か十五日の早朝に門松や注連縄をとりはずす。子供たちが町内を回ってそれを集め、川岸にやぐらを組んで、書き初めと一緒に燃やす。それが左義長である。
子供中心の行事だが、炎が大きくなる火祭りであるから、大人が監督につく。稲荷橋狩野は大川(隅田川)河口に近い鉄砲洲に屋敷を構えており、川岸で火を焚くには都合がいい。
「うちの親父は登城しますが、兄の春潮と弟子どもは朝早くから左義長に付き添っております。うちには子供はおりませんが、近所の武家と町家の仲介役なんでね。終われば、灰を持ち帰って屋敷の周囲に撒くと、その年の病を除くというので、家族の男がそれをやります。去年までは私もやりました」
「春潮はそんなもの放り出して、出かけたりしないかな」
一月十五日は芳栄が吉原を出る日である。春潮が指をくわえて見逃すだろうか。つまらぬ下心をかかえて、駆けつけられると厄介だ。
「親父を怒らせても得なことはありませんからね。遊び好きの兄とはいえ、家族の行事が終わるまでは在宅しておりますよ。そのあとはわかりませんが」
(やるなら、十五日の昼か)
一笑はつい真顔になる。だが、目の前にいるのは仇の家族である。これ以上の言葉は控えたが、春泉は彼の胸中を察した。
「御心配なく。親兄弟だからといって、守り守られる関係とは限らない。私は稲荷橋へ注進には及びませんよ。あの家の敷居をまたぐ気もない。ややこしいことになるだけですからね」
「さっさと松戸へ戻ることだ。どんなとばっちりが及ぶか、わかったものじゃねぇ」
その夜は春泉を長屋に泊めたが、翌朝早くに追い出した。寄り道せぬよう、春笑を見送りにつけた。
そして、一笑は宮川長春の屋敷へ足を運び、息子の長助に十五日決行を報告した。
「左義長のあとですか。刃物沙汰になっても、子供は巻き込まずにすむだろうね」
「稲荷橋狩野に子供はいない。近所や親族の子が居合わせたとしても、逃がしてやればいいだけのこと」
「こっちは私と一笑さんだけかい」
「弟子どもを巻き込むのは気が進まねぇ。気づかれたら、連れていけとうるさいから、当日は何食わぬ顔で出て来てくれ。日本橋あたりで待ち合わせよう」
「そうですね。俺たちだけの方が潔いかも知れねぇ」
彼らは無頼漢ではないから、ハナっから喧嘩腰で乗り込むのではない。とはいえ、交渉決裂した場合の準備も怠りない。一笑は曽祖父の村正が鍛えた星鉄刀を携えるつもりだった。
「そうと決まれば、いろいろ整理しなきゃなりませんね」
と、長助は顔料を溶く膠の準備を始めた。
「描きかけの絵は仕上げておかなきゃ。刃傷沙汰を起こす絵師の作なんか、欲しがる人はいないかも知れませんが、何もせずにはいられなくてね」
「わかりますよ。俺もそうだ。ここんとこ毎日、これまでにないくらい必死で描いてまさア」
そのせいで、長屋の家主という身過ぎ世過ぎもなおざりだ。