「雙」第13回
「雙」第13回 森 雅裕
法華堂の屋根下には、この数日で見知った関係者に交じり、柳生兵助の顔があった。この男がどうしてここにいるのか、助広にはわからない。しかし、公儀腰物方さえ、礼を尽くして、彼に接している。
もっとも、剣客一人にその礼を尽くすのも飽きたらしく、刀鍛冶たちが雨宿りに駆け込むと、兵助の傍らから離れて、話しかけてきた。
「名工も雨には勝てませぬな」
安定が答えた。
「屋根や壁があっても、夏の雨は最悪です。高温多湿の中で鍛錬などやれば、やたらと金肌(表面の酸化鉄)が落ちて、あっという間に鉄が減ってしまいます」
「一時の夕立なら、日程に響くこともありますまい」
「一番、忙しいのは助広殿です。仕事熱心ゆえ、二本もの脇差を打っております。誉めてやってくだされ」
初代兼重が没し、他の刀工たちがまだ若く、虎徹も雌伏しているこの時期の江戸で、安定は頂点に立っている刀鍛冶である。その実力者がこんな安っぽい皮肉を口にするのか。
助広は腹が立つよりも不思議だった。安定は狷介な面はあるが、小人物とは思えなかった。弟子たちを見ていれば、師匠の器量はわかるものだ。
腰物方は皮肉とさえ気づかず、
「おお。助広殿の仕事ぶりは、わしも目にとめておる」
素直に膝を打った。刀のことなど何も知らず、仕事を見たところで、何が行なわれているかもわからない腰物方だ。
「紀伊様へ献上の名刀作りを無事果たしてもらえば、わしもこの場の世話役としての面目が立つ」
安定は頷いたが、なおも毒のある言葉を放った。
「左様ですな。余分な陰打ち(予備の作刀)を御前鍛錬と銘打って、他へ渡すような不遜なことなど考える助広殿でもあるまいからの」
「あ。不遜はいかんぞ。何よりもいかん」
権威や格式を有難がる刀鍛冶は、こうした式典における刀作りを経歴に加え、その「余鉄」をもって制作したことを誇らしくうたう刀を世間へ送り出す。が、助広にそんな商売っ気はない。
「もう一本は尾張からの依頼でござる」
そういったのは、柳生兵助である。
「名刀ならば、紀伊様ばかりでなく、わが尾張も欲しい。それも不遜ですかな」
「……いや。尾張様なら、これは話が別。失礼いたした」
腰物方は恐縮したが、安定は驚くほど自然にそっぽを向き、この場から離れている。
夕立の雨音が一段と強くなった。雷鳴さえ落ちてくる。周囲の者たちは法華堂の奧へ姿を消し、兵助と助広だけが回縁に残った。暗い空を写している兵助の目だが、輝くものがある。
「鉄の匂いがするといったのは、当たっていましたな、助広殿。またお会いできた」
御船蔵、牢屋敷に続いて、三度目だ。偶然とは思わないが、この剣客とは縁があるのかも知れない。そして、兵助の方も助広に好意を持っている。
「柳生兵助様……で、ございますね」
「む」
「私の刀、尾張様へお約束は……」
「しておらぬ。なら、今、わしとすればよい。尾張家の重役へはわしから話を通しておく」
「紀伊様へお納めする際、いずれかをお選びいただくつもりでおります。残った方でもよろしゅうございますか。御三家筆頭の尾張様に対し、順序が違いますが」
「かまうものか。公儀、紀伊のお偉方どもに刀を見る目があるとも思えぬ。残り物に福、というぞ」
「時に、尾張の柳生様が江戸で何をしておいでなのですか」
「探しものだ。ここへ来たのも、探し歩くうち道に迷ったのよ」
「探しもの……。見つかりましたか」
「何かを追えば離れ、離れれば近づく。見つからぬものを探すのが、人生の妙というもの。いや、これはちと抹香臭いことをいうたな」
笑った。そこらの僧侶よりも悟りに近づいている表情だった。
水煙の立つ鍛錬場は無人となり、刀鍛冶たちは庫裏の方へ移動していく。
助広にも、まさのが声をかけた。
「師匠。今のうちに食事をなさってください」
刀作りも火作りに入ると、弟子の出番はほとんどなく、刀工一人が赤めた鉄棒を刀の形へ叩いていく。塔頭の庫裏のひとつが御前鍛錬関係者の賄い場になっており、まさのはもっぱらそちらの手伝いだ。
八ツ(午後二時頃)には刀鍛冶に食事を出す。寺だから、味気ない精進料理だったが、それをまさのが工夫することで、誰もが楽しみとする食事となっている。
「今日は鍋に味噌を焼きつけて、味噌粥を作ってみました。それから、どこからどう見ても鰻の蒲焼きという焼き芋です。すりつぶした山芋に葛粉を加えて揚げました。皮の部分は海苔を張りつけてあります」
「どこからどう見ても……といわれても、こんなふうに開いてタレで味付けした鰻なんて、あまり見かけるものでもないがな。普通はブツ切りにして串焼きにするものだ」
兵助も一緒にどうか、と誘いかけた助広だが、その前に兵助は背を向けている。まさのを避けた。というより、この稀代の剣客は女が苦手のようだった。無愛想なのは照れのためである。助広には、わがことのように理解できた。兵助が、たとえ母親でも女の縫った衣服さえ着ず、生涯、妻帯しないことなど、むろん知る由もないが。
セン(鉋の一種)とヤスリで整形すると、灰汁(あく)洗いした刀身に焼刃土を塗り、日が暮れるのを待って、焼入れとなる。
安定、長道、忠吉はすでに前日までに焼入れを終えており、助広と虎徹が同日の焼入れとなった。
その当日、昼過ぎに虎徹は弟子たちを引き連れて現われたが、焼刃土を塗ったのは彼自身だった。この土は秘中の秘だから、刀鍛冶各々の持参である。
鍛錬や素延べ、火作りは弟子にまかせても、焼入れはいわば刀に生命を吹き込む作業だから本人がやる、というのが、世の多くの刀鍛冶だろう。しかし、世には本人がまったく手を触れない代作も数多く存在する。
助広はまさのと準備を進めた。
「焼入れの手伝いは、私なんかでいいんですか」
「刀鍛冶に手伝いを頼むと、何を盗まれるか、わかったものじゃない。お前なら、睫毛の間に秘事を見たって、それと気づくまい」
「素直じゃないこと」
「何だ……?」
「どうせ、見られることは覚悟の上の御前鍛錬じゃありませんか」
刀作りには秘伝の部分もある。特に焼入れは弟子にさえ見せたがらない師匠がいる。今回は隠れるものがない仮設の鍛錬場でやるのだから、各刀鍛冶とも秘伝を白日の下にさらすことはせず、直刃、あるいは互ノ目交じりののたれ刃という、あたりさわりのない土置きだった。
助広も自分流の備前伝に使う筆ではなく普通のヘラを使って、相州伝の土置きを施し、振分髪に似せた刃文ではあるが、安定に触発された角張った互ノ目を交じえた。大和守安定なら箱刃、正宗なら馬の歯と呼ばれる乱れ刃だ。
「私をもはや弟子がわりではなく弟子と認めて、頼りにしていると、素直に申されませ」
「ふん……」
虎徹一門ばかりでなく、仕事はないはずの長道、忠吉たちも弟子を引き連れ、日暮れ近くに現われた。助広と虎徹の焼入れが目当てである。安定は姿を見せなかったが、安倫は来ている。
焼入れに使う水舟は底に小さな車がついた移動式のもので、五人の刀鍛冶の共用だ。焼入れの水温は秘伝というほどではないが、軽視できない鍵である。備前伝の丁子刃であれば、低い水温が条件なのだが、相州伝は湯を使う刀鍛冶もいるくらいである。
数日前、他の刀鍛冶の弟子たちと一緒に、まさのにも井戸水を汲ませ、この水舟へ運ばせた。今は一日の最高と最低気温の中間くらいの水温にはなっているだろう。
まさのは労働にも弱音を吐かず、愚痴もこぼさなかった。助広にしても、甘やかさないのがまさのへの礼儀だと考えている。いってみれば、一人前の弟子と認めたのだ。
水舟は二槽が用意されているのだが、使用されるのは一槽だけだ。ある程度、汚れた水の方が焼入れには適するのである。最初に新しい水で焼入れすることを躊躇する長道、忠吉を尻目に、前日、先頭を切ったのは安定だった。そのあと、若い二人も当然、同じ水舟を使い、刀身からはがれ落ちた焼刃土や塵が今は底に沈んでいる。もっとも、安定の場合は、年長者の貫禄とばかりもいえない。
助広は、安倫にいった。
「お宅の師匠は夜も明けぬ早朝に焼入れしたようだな。人目を避けたのか」
安定一門以外の刀鍛冶はその場にいなかったのである。
「何。年寄りだから、朝が早いのではありませんか」
「虎徹師はもっと年上だが、焼入れは今夜だぞ」
と、長道が声をかけた。
「汲み置きの水につまらぬ悪さをされるのを警戒したかな」
刀鍛冶には独自の見解を持つ者がおり、水舟に塩を入れたら、焼入れの際に刃切れが生じるなどと発言することがある。刃切れは刃先の微細な割れ疵だが、実用に使えばそこから折れるといわれ、刀としては価値がなくなる。しかし、塩を入れれば刃切れどころか焼入れ性がよくなるというのが鍛冶屋の常識である。
それはともかく、水舟は板で蓋をして、夜も警固役人の目の届くところに置かれていた。
そもそも五人の刀工は選ばれた男たちであり、いじましい妨害工作などするわけもない。職人や芸術家の世界においては、足を引っ張るなら、作品ではなく人間関係において行なう。それが普通だ。自らは有力者に取り入り、他工の悪評を広め、じわじわと追い込んでいく。それとて、いじましいことではあるが。
「安定師の場合、焼入れよりも焼戻しを人に見られたくなかったのだろう。焼戻しは斬れ味に響く」
といった忠吉がおそらくは正しい。
焼入れしたままの刃は固くて脆く、砥石にもかからない。そこで、再度熱して、若干、焼きを戻す。安定はその方法を余人に見られたくなかったのだ。
「熱した油に入れるか、火床であぶるか、一度でなく数度の焼戻しをやるか、いずれにせよ、方法は奇抜でもなかろうが、見られたくなかったということは、秘伝を尽くして、本気で刀を作ったわけだ」
「あるいは、本気で作っていると御前鍛錬の関係者に思わせたかったのだろう」
これは長道の言葉だ。
「この鍛錬場で作ったわけではない刀を用意している刀鍛冶もいそうだからな」
「甚さん。あんたは今回、普段と違う鉄を使った。やはり、焼入れは夜明けの方がよかったのではないか。失敗を人に見られずにすむ」
と、忠吉。
使い慣れぬ鉄を使うと、焼入れの感度がわからず、赤める温度、水温とのかねあいは賭けに等しい。ここに至るまでの鍛錬の手応えによって、勘を働かせるしかないのである。普段の仕事なら、思ったような刃文が入らなかった場合、焼きを完全に戻して、焼刃土を塗り直し、もう一度、焼入れをすることもある。しかし、刃切れなど生じようものなら、ごまかしようはない。衆人環視のこの場で、そんな失敗をするわけにはいかない。一度きりの勝負だ。
「何。大坂鍛冶の心意気を見せてやる」
焼入れには月明かりさえ邪魔だが、鍛錬場となっている庭のあちこちに、篝火が据えられている。いくつかは火を点けぬよう役人に指示し、いくつかは移動させた。
そうして作り出した光と影の間(はざま)に浮かんだ人影が、近づいてきた。軽装の町人だ。山野加右衛門の屋敷に寄寓する止雨である。
「いよいよ焼入れですな」
「はい。今夜は、私と虎徹師の焼入れです」
「私は御両人の焼入れを見せていただこうと、やってきました」
部外者が気軽に入れる場所ではない。いくつかの門をくぐらねばならない。見張りの役人たちが巡回もしている。この菓子師はどこへ行こうと天下御免なのか。
「止雨殿。虎徹師は、焼入れを御自分でおやりになるのでしょうか」
「焼刃土は自らが塗ったのでしょう」
「そのようです」
「焼入れも自分でやりますよ。ただし、御前鍛錬の作として献納される刀がそれであるかどうかは、他人にはわかりませぬな」
刀鍛冶たちは御前鍛錬の成否に腹を切る覚悟ではあるが、不慣れな条件下の作刀が成功するとは限らない。したがって、御前鍛錬は見世物と割り切り、献納用の刀を前もって用意することは考え得る。それは方便というもので、責めるべきことではないかも知れない。
ただし、見世物となれば、御前鍛錬に参加している同業者に腕のよしあしを見抜かれることになる。技量ばかりでなく、方法も見られてしまう。通常の焼入れは、刀を火床から出し入れして赤め具合を調整する「引き焼き」だが、箱状の火床に刀身を横たえ、団扇で炭火を煽ぐ「デンガク」という、備前伝の丁子刃に向くとされる方法もある。が、今回の五人はいずれも引き焼きを採用している。
「助広殿は、山野加右衛門殿に付け届けはなさいましたか」
加右衛門は御前鍛錬の期間中、何度か寛永寺に顔を見せている。が、付け届けどころか、ほとんど口もきいていない助広は首を振った。
「いえ……」
「見上げた性根だ」
止雨は笑っているが、皮肉ではないようだ。御前鍛錬で打ち上げた刀は、加右衛門の手で試し斬りが行なわれ、武器としての評価が下されることになっている。
「ところで、女の弟子がいるようだが……」
まさのが役人と一緒に篝火を移動させている。
「仙台侯からの預かりものです。あんななりをしていますが、酉年の大火がなければ、会津中将様の若様に嫁ぐはずだったお嬢様です」
「保科長門守正頼様か」
「御存知ですか。虎徹師が相鎚をつとめていたということですが」
「大火の前から、私はいくつかのお屋敷に出入りをさせていただいておりましたからな。会津屋敷にも。そういえば、会津、仙台両家の若様方は友誼ある仲だった」
「長門守様と陸奥守様が、ですか」
「左様。当時、綱宗様は陸奥守ではなく美作守であられたが、正頼様とは同年で、親しかった」
初耳だが、大名としての格、屋敷の位置関係を考えれば、交流があっても当然だった。
「止雨殿は虎徹師とは長いのですか」
止雨が虎徹の古い友人ならば、替え玉かどうか、この男にはわかっているだろう。
「古い」
とだけ、止雨は答えた。それ以上は口にする気はなさそうだ。
「で、あのお嬢様の名前は?」
「まさの殿と申されます」
「まさの殿」
まさのに、止雨は唐突に声をかけた。
「どんな菓子が好きですか」
「は……?」
まさのは立ちすくんだ。
「今度、お届けしましょう」
「餡ものが一番……。あ、でも、餡は自分で作ります。自信ございます」
「では、こちらにこそ届けていただきたいものだ」
「かりんとうがうまく作れません。以前、虎徹師のところで、止雨殿のお作りになったものをいただきましたが」
「花梨糖ではなく花林糖の方だな。小麦粉と水飴の混ぜ具合が肝要です。作って差し上げましょう。――では」
離れる止雨を、まさのはぼんやりと見送った。性格の強いこの娘には珍しく隙だらけの表情だ。
「あの方が止雨殿とおっしゃる菓子師ですか」
「お前が気に入ったようだ」
「私も気に入りました」
「いろんな人間が出入りする鍛錬場だな。役人は何をしているのか」
「止雨殿といえば、寛永寺にもその菓子を喜ぶ方々がおられましょう。ようこそいらっしゃいませ、です」
「刀鍛冶より、あちらに弟子入りしたらどうだね」
「かりんとうだけ教えてもらえれば結構です。母が好きで、よく作っていましたけれど、私にはあの味が出せません」
「それはつまり、養母ということか」
まさのは実の母から離れて育っている。返事はなく、まさのは水舟を押して、助広の火床の傍らへ寄せた。止める時、慣性で水面が波打ち、まさのの足許を濡らした。
周囲は闇となっている。
「先にやります」
助広は虎徹に声をかけた。たちまち、刀鍛冶たち、腰物方や役人たちが助広の火床を囲んで、群がった。
火床の炭に火を入れ、鞴を吹いた。焼入れ用の炭は鍛錬用よりも小さいものを使う。紫色の炎が噴き上がり、やがて明るくなる。
焼き柄をはめて延長した刀身をしばらく炭の上であぶり、焼刃土を乾かして、火中に沈める。温度を見るためにそれを火床から出し入れするたび、炭火が崩れるから、まさのが十能で寄せ直す。
鞴の音が早く、小刻みになり、刀身を引き出す。鞴を止めると炎が鎮まり、闇が落ちるが、月の色に染まった刀身が水舟の水面を照らし出す。そこへ沈めた。鉄に生命の宿る手応えがあった。
焼戻しを行なう。火床であぶり、水舟へ沈める。これを二回繰り返した。
わずかな曲がりを木台の上で叩いて直し、一部を砥石にかけ、窓明けする。刃文の調子を見るのである。
篝火の近くまで歩いて明かりにかざし、焼きの入り具合を確認した。小沸え出来の激しい互ノ目乱れである。
「いい匂い口だ。うまくいった」
二本目も同様に焼入れをすませ、とりあえず、助広の御前鍛錬は最大の山場を越えた。
続いて虎徹の焼入れだが、
「同じ火床を使わせてもらおう」
虎徹は助広の火床の前に座った。この場の五基の火床は同じ造作なのだから、虎徹の火床に火を入れる必要はない。
備前伝の丁子刃であれば、破綻なく焼くためには刀身をむらなく赤める温度管理が肝要となるが、相州伝は多少の破綻は面白いものと見られる。相州伝の焼入れはさほど神経質ではないとはいえる。この虎徹が、本当の虎徹は刑死したという二年前から替え玉であるとすれば、うわべの作業くらいはやってのけるだろう。
虎徹の弟子たちが炭を補充し、彼は鞴を吹きながら、刀身を棟(峰)の方から赤めていく。すでに助広の脇差二本を焼入れしている火床は熱の回りが早い。虎徹の手際は悪くない。が、切先に近い方を羽口に置いている。通常、重ね(厚み)のある元の方が温度は上がりにくいので、こちらを先に熱するのだが、逆である。
(なるほど。相州伝なら、こないな焼入れもあるな……)
刃文を構成する粒子の細かいのが匂い、荒いのが沸えである。基本的には高温で焼入れすると、沸え出来となる。備前伝から出発した助広は、匂いにしろ沸えにしろ元から先まで一様に焼くことが身に染みているが、相州伝であれば、元の方が匂い出来、先が沸え出来となるのが格好はいい。
それはわかるのだが、火床に出し入れするさまを見ていると、真ん中あたりの上がりが遅い。
(あれでは、匂い出来になってしまう)
助広が見ていると、今度はその部分を羽口に当てすぎ、温度が上がった。むら沸えがついてしまうだろう。
虎徹は刃を返して、さっと炭をくぐらせ、火床から引き出す。
水舟へ沈めた。鉄が身をよじるような産声をあげる。引き上げると、ところどころ焼刃土がはがれ、やや曲がっている。焼きが入った部分は膨張し、そのために日本刀特有の反りも生じるのだが、焼きの入り方にむらがあるのだろう。
曲がりを直す前に焼戻しだ。まず、刀身に残った焼刃土をこすり落とす。虎徹のやり方は助広とは違い、指を水桶で濡らして、水滴を刀身に落とし、蒸発するその音で焼戻しの温度を判断する。焼刃土を落としておくのは、その音を聞き取りやすくするためだ。
うっかり熱を上げすぎると、せっかくの刃文も消えてしまう際どい作業である。それを恐れたのか、戻しが弱いのでは、と助広が感じる程度で、やめた。
それから銅の手鎚で叩いて刀身の曲がりを直し、大雑把に砥石をかけて、刃文を確認する。それを刀鍛冶たちに示し、助広にも回ってきた。大きな沸えが撒き散らされ、豪放といえばいえる刃文が入っている。
このあと、熱した銅を棟に噛ませて、棟焼きを取ったり、反りの調整を行ない、最終的には茎も焼戻すことがあるが、夜の闇の中でやる仕事ではない。明日だ。
虎徹の弟子たちが火床をかたづけ始めた。
「蚊がうるさくって、たまりません。長居は無用です」
まさのは初めて泣き言をいい、控えの間となっている法華堂へ足を早めた。
「どうでしたか。虎徹師の焼入れは」
助広は自作の二本を手に、まさのを追いながら、答えた。
「今夜、見た限りでは上手ではない」
「刃文は……?」
「研ぎ上げてみなければわからんが、むらがありすぎる。普段、弟子がすべてをやっているなら、虎徹師自身がうまい必要はないわけだが……」
「やはり、あの虎徹師は替え玉でしょうか」
「なら、どうして私ら同業者に仕事ぶりを見せた? 人目のない夜明け前にすませてしまう手もあったのに」
助広は振り返った。見学していた者たちも散らばり始めた。火床の火が落ち、あたりの薄闇に陰影の部分が広がる。
「どなたも備前風の丁子は焼かなかったですね。師匠は振分髪の依頼がなければ、どうするおつもりでしたか」
「助広流の丁子を焼かなきゃ大坂から来た意味がなかろう」
「意外と見栄っ張りですね」
「しかし、備前にこだわりはない。伝法など時とともに変わる。人はすぐに類を分けたがるが、五カ伝というものも商売の便宜上、作られたようなものだ」
五カ伝の体系化は慶長頃から始まり、はるか後世の昭和期に完成するが、基本的に本阿弥は古刀のみを代付けし、慶長以降の新刃(あらみ)など眼中にない。そもそも、江戸期には有力刀工の多くは都市部に居住しており、五カ伝から見れば「脇」つまり「その他」なのである。
「作り手にしてみれば、類別など大きなお世話――」
愚痴りそうになる助広をさえぎり、まさのはいった。
「焼入れを祝して、今夜はおすもじをいただきましょう」
「おすもじ……?」
「白戸屋さんの風炉先屏風に師匠が書いたお好きなものです。白戸屋さんは心憎い言葉だと罪もなく勘違いしていましたが、私があれから鯖を買ってきて、作ってあります」
おすもじは押し鮓の上方での婦人語である。古くは塩漬けにした魚を使い、重石をかけて桶に漬け込み、半年から二年、自然発酵させるという、乳酸菌を利用した気の長い馴れ鮓だったが、桃山時代以降、数日から二十日ほどですませてしまう生成(なまなれ)が増えている。
「すし」は上方で「鮓」、江戸で「鮨」の字をあてるが、この頃はともに「鮓」を用いる。江戸前の握りの出現は江戸後期の文政あたりまで待たねばならない。
「何日も置くのはまどろっこしいので、酢をかけてみました」
酢を使うのは早鮓というものだが、まだ一般的ではない。
「そんなもの、匂いがきつそうだが」
「慣れりゃ病みつきになりますって」
病みつきになって、どうするというのだろう。じきに江戸を離れるのに、気に入ったところで、再び食える機会があるだろうか。