星光を継ぐ者ども 第十三回
星光を継ぐ者ども 第13回 森 雅裕
一月十四日。一笑は春笑に告げた。
「お前、今後は春水の弟子ということにしろ。先方には頼んでおいた」
「春水? 誰です、それ」
「宮川一門でも目立たねぇ奴さ。だからこそ都合がいい」
「よかねぇですよ。師匠。どこへ行く気か知りませんが……いや、知ってますけど、ついていきます」
「駄目だ。俺はどうせ年寄りだが、お前には将来がある。せっかくの画才をドブに捨てるんじゃねぇ」
「画才なんかあるんですかい、俺に」
「お前は一家を立てる男だ。だからこそ、お前を見込んで頼みがある」
一笑は部屋を埋めるゴミの山に一枚の絵を立てかけた。出来上がったばかりである。表装どころか、水張りした画板から剥がしてもいない。芳栄の「道中」を描いた絵だった。時間がないから濃密な絵ではないが、さらりと描いた姿にささやかな彩色を施している。
「これを剥がしてな、芳栄に渡してやってくれ。年明けで、明日あいつは吉原を出る」
「明日あ! それじゃあ……」
「俺はもう迎えに行けねぇ。日本堤に葦簀張りの水茶屋が並んでるだろ。金時屋という店で待ち合わせの約束だ」
「あの土手には水茶屋なんて、百軒以上あるんですぜ」
「あんなところに徒者じゃねぇ美女がいりゃ目立つから、すぐわかるだろ。それからな、亀戸天神の裏に散々屋という三弦師がいる。面倒見てもらう話はついてるから、連れていってくれ」
「嫌だ。嫌ですよ、師匠。そんな役回りは御免だ」
「お前しか信用できる奴がいねぇんだよ」
一笑は破れ畳に額をこすりつけた。
「頼む。この通りだ。俺に心残りを持たせねぇでくれ」
「えええい、畜生ぉ……」
春笑は背を向け、土間の水甕から乱暴に水を飲んだ。そこには近所の婆さんが寄こした沢庵があった。春笑は一本つかみ、丸ごとぽりぽりと食い始めた。
一月十五日。昼過ぎである。よく晴れていた。日本橋の上から西を見やると、白壁の蔵屋敷が居並ぶ彼方に千代田城の櫓とさらに富士山が望める。もう二度と見ることはないかも知れない。
この絶景の場所で待ち合わせた一笑と長助は、互いを認めると、挨拶も交わさずに肩を並べ、しばらくは無言で歩いた。
一笑は星鉄刀の長脇差だけでなく、関物の短刀も用意した。長助は脇差を一本、腰に差している。
「弟子どもに見つからねぇよう、羽織の下に隠してきた。歩くのに苦労しましたよ」
「長助さん。喧嘩になったら、先手必勝。わかってますな」
「若い頃には剣術道場にも通った。ぬかりはない」
「短い得物は斬るよりも刺すべし。浅野内匠頭も吉良上野介に斬りつけたりせず、どうして刺さなかったのかと赤穂の遺臣たちは嘆いたとか」
「心得た」
稲荷橋狩野の通称の由来となった稲荷橋は、八丁堀と隅田川の合流点に架かる橋である。橋の南側に水運業者から浪よけ稲荷と呼ばれる鉄砲洲稲荷神社が鎮座している。
表絵師は御家人格とはいうが、狩野春賀の屋敷はなかなか広く、庭は自給用の畑になっていた。
訪ねると、弟子が薄気味悪そうに一笑たちを迎え、「お腰のものはこちらへ」と、玄関脇の刀架けへ置くよう指示された。武家屋敷でもないのに、格式張っている。
一笑は脇差は預けたが、短刀はしらばっくれて帯に差したままだ。しかし、長助は丸腰になってしまった。想定内である。
迎えた春賀は侍気取りで脇差を差している。長助は視線で(これを奪う)と、一笑に伝えてきた。
春賀の横に座る春潮は丸腰だ。
「事前の約束も前触れもなく訪問するのは武家なら無礼である」
と、春賀。一笑はとぼけた声で、
「こちとら、しがねぇ町絵師でしてな。お武家とはつきあいがありません」
稲荷橋狩野なんぞ武家ではないという皮肉をこめた。
「ふん。何の御用かな」
春賀は尊大に尋ね、長助が切り口上で応じた。
「わが父に対する乱暴狼藉への謝罪。それから東照宮修復に携わった賃金の支払いをしていただくため参上しました」
「謝れとか金を払えとか、無礼というもの。赤穂の卑怯者の血縁者が東照宮修復に関わるなど、迷惑千万。しかも、たった一人の跡取り息子までたぶらかされた。こちらが賠償を求めたいくらいだ。なあ、春潮よ」
長男の春潮は口元を侮蔑の形に歪めた。
「そうですな。しかし、当家に息子は他にもおりますが」
「ん? 誰のことだ?」
「親父殿……」
春潮の顔色が変わった。父の春賀は別にとぼけているわけではなく、春潮なんぞ眼中にないらしい。
「親父殿。狩野家では長子が家督を継ぐことになっていますぜ」
「それは当主が殿様と呼ばれる奧絵師の話。わが家のような表絵師にはあてはまらぬ。人品、手腕の優れた者が跡継ぎだ。第一、妾腹なんぞ長子とはいえぬわ」
訪問者の前で情け容赦なく否定され、春潮は青くなったり赤くなったり、忙しい。だが、春賀の視線は一笑と長助にしか向けられていない。
「手ぶらで来るような客の応対をするほど、当家は暇ではない。帰れ帰れ。無礼を勘弁してやるから帰れ」
春賀は犬猫でも追い払うように手を振り、一笑は怒りで目がくらんだ。
「金持ち喧嘩せず、という言葉を知っているか、春賀さん」
「何をぅ?」
「俺はどうせ先のない年寄りで、失うものは何もねぇ。そんな奴に喧嘩を売るもんじゃねぇぜ」
「何をいってやがる。おい、つまみ出せ! 塩をまけ!」
弟子に肩へ手をかけられた時、一笑の腹の底で、ぶっつりと堪忍袋の緒が切れた。身体が勝手に動き、腰の短刀が鞘走っていた。
ばさ、と畳に落ちたものがあった。弟子の腹から吹き出した血だった。
同時に長助は春賀を蹴り倒し、脇差を奪った。怒号と悲鳴が交錯する中、部屋に猛烈な灰神楽が立った。逃げる春潮が火鉢にぶつかり、鉄瓶をひっくり返したのである。さらに鉄の火箸を振り回して抵抗し、まくし立てた。
「や、やい、一笑! おめぇはどっかの家主なんだろ。家主といやあ住民の世話役で、旅の通行手形の取り次ぎもすれば自身番に詰めたりもする、お上の手伝いをする町役だ。そ、それが刃傷沙汰やらかしていいのかよ!」
「ゴミを掃除するのも仕事だよ!」
一笑は春潮を刺したが、充分な手応えは得られなかった。弟子たちが一笑に飛びつき、これと揉み合ううちに春潮には逃げられてしまった。春賀の姿もない。
長助は奪った脇差を手にさげているが、
「逃げたぞ」
叫んで、廊下へ出た。
「外へ逃げられぬよう、庭から回れ。俺は玄関から回る」
一笑はそう指示して、廊下の途中から玄関方向へ走り、刀架けの星鉄刀と長助の脇差を回収した。それを手に屋敷を回り込むと、弟子たちが悲鳴をあげて逃げ散った。
喧嘩は損得勘定を捨て、狂った方が勝ちだ。一笑も長助も命を捨てるつもりでいる。このような狂人に対しては、分別や常識を持つ者の負けである。しかし、駆け歩きながらも建屋を取り巻く庭地に目を配り、春賀と春潮親子が塀の外へ逃げてしまうことを警戒した。頭の隅ではそんな冷静さも生きていた。
弟子は逃げてくれてかまわないのだが、長助が巨漢の弟子に組み敷かれて苦戦していたので、一笑は相手の頭へ跳び蹴りを食らわせた。怯んだところを長助が刺し貫いた。長助はひん曲がった得物を捨て、持参した脇差に取り替えた。
刺された弟子は血を流しながら這っている。その涙まじりの呻き声をかき消す人間のものとも思えぬ絶叫が、建屋の陰で響いた。縁側をたどると、厠の扉が開いている。中に血まみれの春賀が倒れていた。厠に隠れようとしていたのだろう。胸には鉄の火箸が刺さり、さほど鋭くもない先端が背中まで貫通している。まだ息があった。
「痛い痛い。は、春潮が……。あの不孝者……」
断末魔の呻き声はそう聞こえた。
「春潮の仕業か」
と、長助は冷たく見下ろしている。一笑は胸が悪くなる血の匂いをこらえながら、いった。
「跡取りとして認めてもらえなかったからな。火箸が背中まで抜けてるんだから、よほど恨みをこめたと見える」
その春潮の姿は見えない。しかし、落ちている血痕をたどり、部屋から部屋へと歩くと、物陰から白刃が突き出された。一笑は星鉄刀で跳ね返し、障子を蹴破りながら、激しく斬り結んだ。火花が散り、血の匂いが鼻の奥を突く。相手は稲荷橋の弟子だった。
その向こうに春潮がいた。水に溺れるように手を振り回し、
「行け、行けよ、殺してしまえ!」
弟子を押し出して、自分は庭へ飛び降りた。弟子は長い刀を振り回し、刃が鴨居に当たって止まった。その隙に一笑は彼の喉元を斬り裂き、春潮を追う。長助は他の弟子どもと争っていた。勇敢に立ち向かう者はいないが、なにしろ数が多い。棒きれを振り回されて囲まれると、思うように動けない。
庭の先は畑につながっている。春潮は垣根沿いに裏木戸へと向かうが、一笑に腹を刺されているから、足はもつれている。彼はいつ手にしたのか刀を持ち、杖がわりに突いていた。追いつめた一笑めがけて、そいつを投げつけたが、届かずに落ちた。
その拍子に春潮は体勢を崩し、転んだ。畑の隅には小さな肥溜めがあった。そこへ腰からドブンと落ちた。這い上がりながら屎尿を掻き出し、あたりかまわずぶちまけた。
一笑は思わず手にした脇差を後ろ手に隠し、あとずさった。その隙に、春潮は裏木戸から逃げてしまった。この男が転がるように走ったあとには、汚物が点々と続いていた。
一笑が屋敷の軒先へ戻ると、長助は肩で息をしながら、縁側にへたり込んでいる。
「どうしました? 春潮は?」
「クソまみれで逃げる奴を追いかける気にならなかったよ。あいつ、ひどい有様で外へ飛び出していきやがった」
二人は殺気混じりの苦笑を交わした。
「一笑さん。これは本当のことなんですかね。自分の人生にこんな突拍子もない経験があるなんて、今ひとつ実感がないんです」
「俺もだよ。夢じゃねぇかとさえ思う」
疲労のせいで、驚くほど重くなった身体を引きずり、厠の前へ戻った。すでに春賀は息絶えていた。
「私たちがやったことにされそうですね」
「いいさ。どうせ、やるつもりだったんだ」
「春潮は私たちに濡れ衣着せて、跡継ぎにおさまる気ですぜ」
「ふん。生き恥さらすがいいさ」
周囲にはもう抵抗する弟子もいない。物陰から見ているだけだ。当然、番所へ急報するため走った者もいるだろう。このあたりは有力武家の屋敷が多く、八丁堀の与力や同心の組屋敷も近い。
長助は急に震え出した。正気が戻ったらしい。
「引き上げましょうや。わが家の連中に報告せねば」
一笑もいつまで立っていられるかわからないほど疲労困憊し、血の匂いで吐きそうだ。二人は返り血を羽織で隠し、江戸の中心部を避けて、川岸沿いに両国経由で下谷へ向かった。
このまま、芳栄が待つ吉原へ向かうことができたら……。道すがら、未練たらしいと自省しながら、一笑がそんな思いを何度も振り払っていると、長助が妙に明るく、いった。
「宮川の一門もおしまいですね。もっとも、殴り込みをかけずに堪え忍んでも、世間からは蔑まれ、家名は続かなかったでしょうが」
「俺たちがどうなろうと、玲伊さんと春泉、弟子たちもいます。画流は絶えませんや」
「私たちは死罪ですかね」
「さあ。しかし、恥じることはねぇ。堂々とお裁きを受けましょうぜ。それがあとに残る者たちのためでさあ」
長助がどんな表情で聞いているか、一笑は見ていなかった。
宮川長春の屋敷に入ると、ただならぬ一笑たちの気配に弟子たちは息をのんだ。
「やったんですか、若先生。一笑さん!」
「とうとうやりましたか。首尾は?」
口々に問いかけ、長助が荒い吐息まじりに答えた。
「稲荷橋はもう終わりだ。宮川一門も同様だがな。お前たち、家のある者は帰れ。ない者はどこか行ってろ。ここは、じきに役人が押しかけてくる」
「そんな、水臭え……」
「ぐだぐだいう奴は破門だ!」
どうせもう廃絶となる運命だから、破門もへったくれもないが、長助は弟子たちを一喝し、長春の部屋へ入った。長春は床は離れたものの、身体の自由は取り戻していない。何をするでもなく火鉢に寄りかかっていた。
「血の匂いをさせて帰ってきやがったな」
「春賀は死にました。弟子も二、三人……」
「何だとぉ」
「倅の春潮は逃げましたが、稲荷橋狩野の評判はガタ落ちでしょう」
長春は瞑目した。
「そうか。やっちまったか。俺が不甲斐ないばっかりに……」
再び開いた目に涙を滲ませ、長助と一笑を見やった。
「すまなかったなあ、長助。迷惑をかけたな、喜平次」
と、一笑を俗称で呼んだ。
「なぁに。いい冥土の土産ができましたよ」
「お前は今にも寿命が尽きそうなことばかりいっているが、長生きしたらどうするんだよ」
さて、表絵師に刃をふるった凶悪犯が生きられるだろうか。一笑は投げやりに視線を泳がせた。その視線の先に長春の妻が現れ、
「本懐を遂げたそうですね。よくやってくれました」
忠臣蔵みたいなセリフをいつものように小声でぼそぼそと呟いた。
長助が、
「役人が来る前に……ちょっと整理してくる」
とこの場を離れると、一笑も仕事場の弟子たちを見回った。彼らはここから離れろと命じられたものの、素直に実行できるわけもなく、右往左往している。その中の信用できる一人に、一笑は星鉄刀を託した。
「春笑にな、俺の形見だといって渡してくれ」
「役人に差し出さなくていいんですかい」
「もう一本、短刀を持ってる。使ったのはこっちだ。そういうことにするさ」
その時、
「うぎゃあああえええええ!」
女の悲鳴が炸裂した。一笑と弟子たちが廊下を回って裏庭へ駆け込むと、長春の妻が血まみれの長助を抱きかかえ、
「この家はどうなるの、この家はあああ」
と、泣き叫んでいる。
長助は喉を掻き切って、息絶えていた。手元に脇差が転がっている。
稲荷橋の修羅場にも動揺しなかった自分に安堵していた一笑だが、ここで叫びたいほどの後悔に襲われた。長助が自裁することは予測できたはずなのに、まったく油断していた。いや、予感のようなものはあったが、気づかぬふりをした。馬鹿である。愚かである。やはり心は平穏ではなく、判断力が鈍っていたのだ。
かねてから用意していたのか、遺書があった。
そこには「此度の刃物沙汰は父の仇を討ったものであり、一笑は門下生として助力してくれただけである」旨が書き記されていた。
心身とも虚脱してしまった一笑の耳に、どたどたと足音が、そして怒声が聞こえた。押し寄せた捕り方だった。
この事件で、稲荷橋狩野では当主の春賀と弟子たち合わせて四人が死亡した。現場から逃走していた狩野春潮もじきに拘束されたが、父の春賀を殺したのが誰か、一笑と主張が対立し、裁きが下るまでには長い時間を要した。首謀者の宮川長助は自決しており、師匠の長春は病床のため、一番弟子の一笑が身代わりとなって、罪を一身に背負うことになった。
宝暦二年(一七五二)十一月、一笑は伊豆国新島へ流罪。仇討ちとは認められずに喧嘩両成敗となり、稲荷橋狩野家は断絶。狩野春潮も同年十月、八丈島へ流罪。年内には宮川長春も病没した。
遠島は専用の流人船が仕立てられるわけではなく、寛政年間には伊豆諸島へ向かう交易船に便乗するようになるが、それまでは島から漁船か廻船で迎えに来させる制度であった。いずれにせよ、諸事情で船が出ない時期には何カ月も牢で待機ということになる。出航前日には髪結いにかかり、役人からお手当銭をもらい、牢食にはお頭付きが出たという。
一笑が流される当日。まだ暗い明六ツに伝馬町の牢から永代橋へ護送され、ここから艀舟で出て、川岸から離れて停泊する本船へ移乗させられた。
日の出とともに流人船が動き出すと、佃島あたりで、客を乗せた数隻の小舟が近づいてきた。船頭たちが、
「お願いでございます、お願いでございます」
と、決まり文句を叫ぶ。その中の一人が、
「宮川一笑こと喜平次の縁者でございます。御慈悲をもって一目だけでもお会わせ願います」
一笑の名を告げた。他の船頭たちもそれぞれ流人の名を呼んでいる。乗船前には許されなかった別れの対面を、流人船の甲板と小舟の上から行うことを「お目こぼし」してもらう。それが慣例である。むろん、対面者は船頭に高い料金を払うのであり、船頭は船頭で、役人に日頃から袖の下を渡している。
流人は船底の船牢に入れられると浦賀番所へ寄港するまで出られないから、その前のわずかな時間を狙うのである。
一笑は船頭が自分の名を呼ぶ小舟を舷側から見下ろした。芳栄の姿がそこにあった。もちろん互いに声はかけられない。視線を交わすと、
(ばか)
と、芳栄の口元が動いた。船足がだいぶ違うので、距離はたちまち開いていく。
一笑は彼女の姿を忘れまいと心に刻んだ。
(朝妻舟だなア)
落ちぶれた平家の女房たちが京都朝妻川で「浮かれ女」となった姿そのものだ。悲しく、美しかった。
朝妻舟は定番の画題である。元禄の頃、英一蝶はこの情景に柳沢吉保の妻と徳川綱吉を仮託して描いたために八丈島へ流罪となったという。
一笑は無性に絵を描きたくなった。江戸の見納めに美しいものを目に焼きつけた。新島では地獄を目のあたりにするだろう。美醜両極端な世界を経験できる絵師など、滅多にいるものではない。決して、一笑が望んだことではなかったが。
その後、流刑地の新島でも一笑は絵師として生きた。流人は自給自足が原則であるから、原始的な生活の果てに困窮死する者も少なくなかったが、親類縁者から仕送りを受ける者や手に職を持つ者は比較的恵まれた生活を送り、水汲女という名目の現地妻を持つ者もあった。一笑は福神や仏画を描いて露命をつないだ。吉原から流れてきた女を妻にしたとも伝わるが、真偽は不明である。
安永八年(一七七九・一七八〇)十二月十四日、一笑は赦免されぬまま、新島で没した。遠島生活は二十八年に及ぶ。九十一歳であった。
(心積もりがはずれて長生きしちまったな。こんなことなら……)
そう思い、少しは悔いたであろうか。
一方、八丈島に流された狩野春潮はといえば、宝暦三年(一七五三)十二月、八丈島に中国船が漂着し、その乗組員六十三名(七十一名とも)の肖像を描き残している。皮肉にも、これがこの狩野派絵師の唯一の代表作となった。しかし、絵画史では見向きされず、春潮という画名さえも春湖、春朝などと混乱して伝わっている有様である。「八丈島流人銘々伝」では、春潮は文化七年(一八一〇)正月に八十歳で病没したとあり、逆算すると殴り込み事件当時には二十一歳の若者となるが、この労作の書冊は「春賀」を「春雅」とし、宮川長春が三宅島へ流罪となったと記すなど、絵画史の通説とは異なる部分も見られる。
一笑の弟子の春笑は表向き宮川春水の門下となるが、この一門は名前をはばかって、宮川に勝る「勝宮川」さらに「勝川」と称した。そして、春笑は「春章」と改め、やがて江戸中後期の浮世絵界に大きな一家を成すことになる。
一笑が新島で没する前年、この勝川春章のもとに十八歳の若者が入門し、勝川春朗の画名を与えられた。その俗称を中島鉄蔵という。のちの葛飾北斎である。