「雙」第10回

「雙」第10回 森 雅裕

 まさのが台所へ立つと、何かいいたげな善兵衛の機先を制して、助広は尋ねた。

「酉年の大火は大変だったようですね」

「何ですか、突然」

「善兵衛さんは噂に通じておられるらしいから……。江戸の町も人も、大火から一変したようだ」

「日本橋のうちの店も跡形なく焼けました。堀や川には水を求める人々の死骸が折り重なり、それを鳥がついばむ、ひどい光景でしたな。本所にも飛び火したのですが、まあ、このあたりはもともと焼けるものもない田畑や沼地でしたから、文字通り対岸の火事でした。それまで丸ふた月も一滴の雨も降らなかったものが、皮肉にも大火の翌日夜半から大雪で、焼け出された人たちも今度は凍死です」

「本郷の本妙寺とやらが火元で、どういうわけか処罰されなかったと聞きましたが」

「ああした災害には、流言飛語はつきものでございますからな。大きな声ではいえませんが、御公儀がおいいつけになって、本妙寺に火をつけさせたとさえいわれました」

「馬鹿な……」

「いえ。それがそうでもございませんで」

 際限なく膨張し、混乱する江戸を整理し、都市計画を断行するために、一切合切を焼き払ったというのだ。あまりにも乱暴な話だが、結果として、明暦の大火を機に江戸の都市機能は充実していくのだから、信憑性はなくもない。江戸都市計画の推進者は松平伊豆守信綱。家光の近習から出世した人物だから、すでに若くはないが、「智恵伊豆」の異名をとる才気煥発の老中である。

 信綱はかねてから牢人や無頼の徒を江戸から締め出す考えを持ち、江戸の再建にあたって、木戸制の強化、町屋の自身番と武家地の辻番所増設という宿願を果たし、無為無産の者には住みづらい町を作っている。

「火をつけたといわれるのは本妙寺だけじゃありません。不逞牢人ども――由比正雪の残党の仕業ではないかと、大火後も江戸の町では取り沙汰されておりました」

 慶安事件からわずか六年しか経っていない時点での未曾有の大火である。由比正雪と結びつけられるのも無理からぬことだろう。

「お城の天守まで焼け落ちたとはいえ、謀叛らしい事件など何も起きておりませんから、そうした噂も消えていきましたが、小悪党どもはたくさんいたようです」

 火事場泥棒を目的とする放火が江戸には多いのである。明暦の大火の折も、無数の便乗犯が火勢を大きくした。放火犯の中には公儀御家人である黒鍬者の姿も目撃されたという。鎮火後も焼け残った家屋に火をつける者があとを絶たず、業を煮やした公儀は、放火犯を訴え出れば褒美を与えると、再三の触を出している。

「大坂でも、由比正雪の党与の捕り物があったくらいだ。よほどの道場を構えていたのかな」

「噂じゃ、門弟千五百とか三千とか聞きますが、実際はうらぶれた裏店でしょうな。住処は神田連雀町だったとも牛込榎町ともいいます」

 連雀町は伊達家が拡張普請をやっている小石川堀の沿岸で、榎町もまったくの地理違いではない。

「そんなことより、師匠。『おすもじ』というのは、何か由来のある言葉なのでしょうかな。中国の故事とか」

「……まさの殿はどうしたかな」

 逃げるように、助広は腰を上げた。

 台所では、まさのが寮の使用人と一緒になって、竈(かまど)に向かっている。

「ここらにあった魚、蔬菜に玉子を入れた葛の粉をまぶして、胡麻油で揚げました。今、お運びします」

「いい。ここで食う」

 助広は座敷よりも台所の方が気楽だ。板の間に座り込んだ。

「白戸屋さんは……?」

「うまかったら、善兵衛さんにも運んでやるがいい」

 助広は、皿に盛られたものを無造作に口へ運んだ。汁物は大根の吸い物だった。梅干しを使った塩仕立てで、山椒を吸口にして、手間はかけていないが、職人技を思わせるところがある。

「善兵衛さんに食わせてやれ」

 助広はまさのの目を見ずに、いった。

 
 
 翌日。

 助広が一人で朝食をとっていると、まさのが裏木戸から庭先へ現われた。まさのの部屋は寮の一室に決まり、食事の準備は使用人たちを陣頭指揮したらしいが、給仕もせず、姿を見せなかったところを見ると、出かけていたのだろう。

 助広は部屋の中から声をかけた。

「上方では、昼にめしを炊くが、江戸では朝、炊くのだな。帰ったら、うちもそうしてみよう。――うまい蜆汁だ」

 江戸で、ようやく料理の誉め言葉を口に出した。

「その蜆売りが教えてくれましたよ。御船蔵に女の死体があがりました」

「御船蔵……?」

「御公儀の船蔵です」

「お前、見に行ったのか」

「ええ」

「では、それが……」

「薫こと、すみのらしいですね。人垣の隙間から覗くのがやっとで、顔も何も見えませんでしたけれど」

 助広はしばらく無言で食事を続け、箸を置くと、立ち上がった。

「行ってみよう」

 白戸屋の寮から堀沿いに歩くと、御材木蔵(のち御竹蔵)の白壁が続く。明暦の大火後、下町の河岸は商売の地、江東地区は物資保管の場と地域的分担が決められ、公儀の諸倉庫も隅田川沿岸へと移されている。その広大な御材木蔵を回り込み、両国橋東詰を過ぎ、回向院前から竪川を渡ると、十四棟の御船蔵が隅田川沿岸に連なっている。

 物産船着場もあって、桟橋と水路が入り組んでいるが、堅川の側から見ると、そうした敷地の手前が小さな入り江になっており、乱杭や竹矢来が打ち込まれたあたりに波が立っている。

「隅田川は両国橋より上流を浅草川、下流を大川ともいうようです」

「おかしいな」

 助広は「大川」の流れを振り返った。

「どうしました? 師匠」

「このあたり、隅田川は両国橋を頂点にする形で大きく蛇行している。水死体があがるなら、上流側から見て、蛇行の外側だろう」

 つまり、御材木蔵から両国橋にかけての「浅草川」東岸である。実際、ここはのちに百本杭と俗称されるほど、水除けのために大量の杭が打ち込まれており、釣りの名所であるとともに水死体が多いことでも知られる。しかし、両国橋より下流の「大川」東岸は蛇行の内側になり、漂着の確率はずっと低くなる。

「でも、師匠。御坐船が襲われたのは隅田川の蛇行が始まる手前と聞いています。ちょうど川幅が狭くなるところですから、流れも速い。東岸に寄る暇もなく、両国橋を越えて下流に入ったとも考えられます」

「う……む」

 川岸にはすでに人だかりはない。数人がたむろしているのは、御船蔵裏の番所の前だった。水死体はここに運び込まれていた。もっとも、江戸の水死体は珍しいものではなく、江戸後期の海保青陵『経済話』には、

「浮死ハ江戸ニハ甚多シ。海ヘ出レバカマハズ。屋敷ノ裡ニ有レバカマハズ。川ノ中ヲ流ルヽハ構ハズ。唯、町地ノ内ヘヨリ掛リ居ル死骸計リナリ」

 と、ある。

 あまりに水死体が多いので、いちいち引き上げて検死などせず、町役人が調べるのは、町地の水辺に漂着した屍だけである。堀割や池、川を漂う死体は突き流してもよいことになっている。

「伊達様が身請けした三浦屋の高尾太夫らしいぜ」

 野次馬たちの噂である。薫は太夫という最高位の遊女ではなく、その下の格子女郎なのだが、尾鰭がついている。

「いうことをきかねぇ高尾太夫を伊達様がお手討ちにしたってぇ話だ」

 そんな話になっている。

「女郎は泥水商売とはいうが、ほんとに泥水に浸かっちまったな」

「仙台高尾か。芝居になりそうじゃねぇか」

 その騒々しさに助広が眩暈さえ覚えていると、

「確かめますか」

 まさのが、いった。どうする気か、と助広が訊き返すより早く、まさのは番所の戸を開けている。

 まさのは簡素な身なりではあるが、立居振舞いに度胸があり、その場にふわりと入り込む才覚も持っている。

 怪訝そうな番士と居合わせた役人に、

「先日より消息不明の当家に有縁の者かも知れませぬ。見てもよろしゅうございますか」

 堂々と告げ、有無をいわさず、戸板の上で死体を覆った薦(こも)をはがした。

 これがすみのなら、三日間、水中にあったことになる。身なりも髪も無惨に崩れているが、粗末な「つくり」ではなさそうだ。

「しばらく水中の杭にでも引っかかっていたものが、今朝になって、浮いたと思われる」

 役人の言葉には、検死への熱意など皆無だった。

 助広は息をのんだ。変色し、変形した顔ではあるが、確かに目の前のまさのと共通する造作がうかがえる。

 首の下あたりに深い刃物の傷があり、肉が覗いている。無惨であった。

「いかがかな」

 役人が訊いた。

「思い違いでした」

 まさのは平然と答えたが、役人は首をかしげた。

「はて。気のせいか、似ておられるような……」

「お気のせいでしょう」

「御無礼ながら、いずれの御家中ですかな。町の者たちがあらぬ噂を口にしておりますが」

「主家の名を出せば、あとが面倒になりかねませぬ」

 そういわれれば、役人も関わり合いにはなりたくないだろう。詮索せずに見送った。

 番所の外に出ると、助広とまさのは足早に野次馬をかきわけた。

「さぞ美しかっただろうに、残念なことだ」

 そういう声があった。助広の横に肩を並べた男だ。武家である。

「しかし、溺死は腹がふくれるほど水を飲むとか、流されるうち身にまとったものすべてが脱げ落ちるとかいうが、そんな様子はなかったな」

 助広に話しかけている。三十代半ばだろう。決して大柄ではないが、奇妙な存在感がある。魅力といってもいい。助広の直感である。

「刀を振り回したくてたまらぬ侍なんぞに斬り刻まれなかったのは、まだましかな」

 江戸、地方を問わず、人体を用いる刀の試し斬りが盛んで、路上の行き倒れや水死体を勝手に斬り刻む武士があとを絶たない。

「おぬし、鉄の匂いがする」

 と、唐突にその男はいった。

 助広がろくに返事もせぬうち、男は離れた。すでに数歩先を歩いていたまさのが振り返ったからだ。

「何? あの侍は」

「尾張様の御家中のようだが」

「方言、訛りでもありましたか」

「拵だ」

「お国拵ですか」

「伊達家にもあるだろう。柄の立鼓が強く、中央が大きくくびれるのが特徴だ。それから――」

「やたらと黒が好きで、鮫皮に黒漆をかけ、柄は黒、鞘も黒塗りと定められています。それが仙台拵です」

「尾張の拵、とりわけお家流の柳生拵は逆目貫になる。鐔も小さく、特徴あるものだ」

 目貫(柄の飾り金具)の位置は、表が縁寄り、裏が頭寄りになるのが通常の拵で、刀を構えた時、指先に目貫の突起が当たるが、尾張柳生拵はこれが逆になっており、掌の中に目貫が来る。この方が柄を握りやすいというわけだ。もっとも、これは刀の場合で、脇差の目貫は尋常であり、目貫は本来の握りにくい位置にあるからこそ余分な力が入らずにすむのだとする説もあるが。

 むろん、尾張家の拵がすべてその規格に統一されているわけではない。第一、柳生拵は世間にまだ流布しておらず、助広にしても、柳生家にそうした特異な拵を創始した武芸者がいると、上方の刀剣関係者の間で噂に聞いた程度だ。

「あの侍の腰のもの、柄頭が細めで、棟方は角張った作り込みのようだった。中身も幅広の剛刀だろう。身体つきといい、身のこなしといい、かなりの遣い手と見えたが」

「私には、内気な男にしか見えなかったけど」

 男と女では、見る目が違うらしい。

「ところで、屍はどうなる?」

「あれが仙台高尾という噂話が大きくなればなるほど、伊達家としては遊女の屍を引き取ることはいたしますまい。すみのがお屋形様(綱宗)の妹という事情は内密。どこぞの寺に金を渡して、ひそかに葬ることになるかと思います」

「陸奥守様はそれでよいのかな」

「よいわけがありません」

 まさのは、出会って以来、初めて感情的に声を尖らせた。

「お屋形様は、誰よりも御心痛なはず」

「あの創傷が命取りだったな。襲ってきた連中の中には、槍を突き立てた者もあったようだ」

 しかし、槍なのか他の刃物なのか、傷口からは判然としなかった。

「おかしなものです。御坐船に火をかけられたのに、噂ではお屋形様が斬ったことになっています。しかも流布するのが早い」

「人は信じたいことを信じるという。つまらぬ真実よりも面白おかしい虚構がもてはやされる」

「誰かが煽動しているのかも知れません」

「誰か……?」

「伊達家内部には、お屋形様に対抗する勢力もあるということです」

「陸奥守様を貶めようというわけか。何者だ?」

「私の口からは……」

「いえる立場ではないか。まさの殿は利口だ」

 伊達家は戦国以前から続く名家であり、領地をあまり削られることなく生き残った。それだけに戦国の体制を今なお引きずっている。つまり、一門親類衆が元気なのである。青年藩主の周囲には叔父や兄たちがずらりと居並び、藩政に掣肘を加えているのだ。そればかりか、天皇と血縁関係にある綱宗には公儀さえも好意的ではない。

 開削されたばかりの竪川を本所の岸へ戻ると、助広は白戸屋の寮とは反対へと歩いていく。両国橋の方向だ。

「師匠。このまま東叡山へ行かれますか」

「小伝馬町の牢屋敷だ」

「江戸見物にしては趣味が悪いこと」

「なら、お前は来なくてよい」

 助広は振り返りもせず、いった。

「来るのか、来ないのか」

「まいりません。寮に帰って、吐いて、寝込みます」

 平然としているように見えたが、死体を目のあたりにしたことは、やはり衝撃だったのだろう。

 
 
 この日、御前鍛錬参加の刀鍛冶たちは山野加右衛門から試し斬りの見学に呼ばれていたのである。助広とて、刀の実用性に興味がないわけではない。

 加右衛門が罪人の首斬りに使う刀は自前のものだ。試し斬りの依頼があった刀はそれとは別に、首なしとなった死体を据え、様々な斬り方で刃味を確かめるのである。場合により、生きたまま試し斬りも行なう。

 将軍家の刀であれば、試し斬りも格式ある晴れなる行事だから、腰物奉行とその配下が列席する。しかし、そんなことは年に何度もあるわけはなく、多くは大身武家、刀鍛冶からの個人的な試刀依頼である。

 助広が板塀に囲われた通路をたどって、牢屋敷の奥庭へ踏み入った時、武士は数人だけだった。肩衣姿は牢屋奉行、羽織姿は同心、打役、鍵役たちだが、いずれも顔色が冴えなかった。こんな血腥い場面には辟易しているのだろう。刀剣関係の職方なのか、町人の姿もあったが、彼らの方がよほど生き生きしている。

 そして、刀鍛冶たち。虎徹、安定、長道、忠吉が神妙な顔を並べている。彼らに床机など用意されていないから、板塀沿いに立っている。

 牢屋敷の敷地内に板塀は幾重にもめぐらされ、この区画の内側に建っているのは検役場だけだ。場違いな風情で柳の枝が垂れている。死罪場である。そこからやや離れ、土壇を盛り上げてあるのが様場(ためしば)だった。いわゆる土壇場とは、この死罪場あるいは様場を指す。

 様場では、山野加右衛門と彼の門弟たちが準備している。その前段階である首斬り処刑の現場には見学者は同席せずにすみ、助広はとりあえず安堵した。

「試し斬りには、それ用の柄を装着するようだ」

 と、長道が助広に耳打ちした。

 仮鞘や白鞘の柄は続飯(糊)で張り合わせてあるだけだから、斬撃に耐えないが、試し斬りの刀にいちいち拵をつけるわけにはいかない。したがって、斬り柄というものを用いる。三箇所を鉄環で締め、目釘穴部分を鉄板で補強した、通常よりも長い柄である。金具は使わず、柄糸を巻くこともある。口のあたりのガタつきはクサビを打ち込んで、固定する。

 のちに山野家の後継者として首斬り役となる山田浅右衛門の流派では、扇子のように開く斬り柄が考案されるが、基本的には同様である。重量の釣り合いをとるため、鉛の鐔をつけることもある。

 が、助広は他のことに気を奪われた。あの男に再会した。御船蔵の番所の前で、言葉をかけてきた尾張武士である。様場を隔てた向こうで、白塗りの土塀を背にしている。

 視線が合った時、助広は目礼すべきかどうか、迷った。挨拶の下手な男なのである。相手から頭を下げれば、返しただろう。だが、むろん、武家の方からそんなことをするわけがない。

(何者か……)

 まるで花見の席にでもいるような飄然とした風情だ。ここに植わっている木といえば、死罪場の柳だけだが。

 土壇には四隅に挟み竹が立てられ、首のない死体がくくりつけられている。試し斬りには女子供、それに武士の死体は用いないが、生前には何者だったのかと考えそうになる心の動きを振り払わねばならなかった。

 山野加右衛門が肩衣から両肩を抜き、刀を手に進み出た。手間暇かけた精神統一などしない。剣術の試合ではないから、両足を揃え、大上段どころかうしろへ大きく反り返って、刀を振りかぶった。

 が、尾張の男の顔はよそへ向いていた。何を見ているのかと視線の先をたどると、軒先に燕が数羽、止まっている。

 しかし、加右衛門が気合いをほとばしらせ、刀をふるうと、鳥たちも逃げ散った。

 男は淋しげにそれを見送った。空を仰いだ顔が地上へ戻った時、鋭い表情に変わっていた。

 すでにふたつの肉塊にすぎなくなった死体の傍らで、加右衛門は筆を執り、紙片に試斬の結果を書きつけている。

 男は声を発した。

「その刀は新刃でござるな」

 薄氷の張った水面へ石を投げるような声だ。場の誰もが硬直したが、加右衛門はさすがに動じない。

「長曽祢虎徹入道でございます。まずは、当代随一の刃味かと」

「山野加右衛門殿はこれまで、もっぱら大和守安定の作を称揚してまいられた。今は虎徹入道に肩入れなされるか」

「柳生殿」

 と、加右衛門はその男を呼んだ。

「お貸しいたすゆえ、虎徹の刃味、御自分でお試しになってはいかがか」

「わが流儀に死体を斬る法はござらん」

 柳生、と呼ばれた男は笑っている。

(やはり、尾張柳生か)

 と、助広は悟った。

 将軍家指南役の柳生新陰流は、江戸柳生が本家ではあるのだが、本家は「兵法師範」つまり政治色が強く、「剣法指南」つまり剣の相伝は尾張柳生が継いでいる。

「あの仁は、どなたですか」

 試し斬りが終わると、助広は周囲に尋ねた。

「柳生兵助」

 と、教えられた。名乗は厳知。のちに厳包。隠居後の連也斎という号の方が、後世では通りがよいだろう。慶安四年(一六五一)春、徳川家光が没する直前の上覧試合で、江戸柳生の当主・飛騨守宗冬の右拳を砕き、圧勝した男である。柳生家の歴史の中で、最強とうたわれる剣客だが、むろん、助広の知るところではない。

(おもろい人物や)

 そう直感しただけである。