鬼鶴の系譜 元禄編 第二回
鬼鶴の系譜 元禄編 第二回 森 雅裕
毛利小平太の手際はいい。半端な身過ぎ世過ぎの腕前ではない。
江戸前期の蕎麦に使われた醤油は味噌の「たまり」から発生した上方醤油で、これに大根などの辛みをからませたりしたが、棒手振りが現れた頃には関東の醤油も出回り始めており、蕎麦は冷たいツユをかけた「ぶっかけ」が普通である。しかし、小平太が縫之助たちの前に出した蕎麦は冬らしく温かいツユだった。
小林平八郎は油断なく観察している。
「麺は蒸すのでなく茹でてあるのか」
「蒸すのは茹でると切れてしまうからだ。しかし、手間がかかって、棒手振りには向かない。そこで、ツナギを入れて、切れないよう工夫してある」
「蒸した方が蕎麦本来の甘みや香りが生きると思うが」
「茹でた方が食感がよくてうまいという者もある。蒸すにせよ茹でるにせよ、味のよしあしは作り手の工夫次第ということだ。ぶっかけなら蕎麦の風味よりもツユが勝ってしまう」
「なるほど。鰹節がよそのものと違うな」
「燻した上で表面にカビをつけて乾燥させてある。土佐の方で作られるようだ」
平八郎は美食家というわけではないが、上杉、吉良という名門の上級家臣だから、口も奢っている。そんな男が棒手振りの蕎麦を完食し、
「本物すぎるほどの蕎麦屋だな」
と、感想を洩らした。毛利小平太の緊張した眉間が少しだけ緩んだ。
「おぬしは吉良家の賄い方か。舌が何のためについているか、知っているようだ」
「賄い方ではない。吉良家を狙う者を拷問して半殺しにするのが役目だ」
「本気にするな」
と、縫之助は割って入った。彼もまた自分の器を空にして、小平太へ返した。
「こないだの娘だがな、品川の猪之松という料理茶屋で働いているらしい」
「知っている」
「おや」
「猪之松は自分の店を構えているが、棒手振りの元締めでもある。要はやくざの親分だ。お上につながりがあるから、行商の鑑札も取りやすい。何十人も抱えて、食材、屋台を貸し出している。俺もその一人だった」
「だった……?」
「お粗末な蕎麦じゃ飽き足らず、独り立ちした。あの娘のことは以前から見かけていた。口をきいたことはないが」
「そうか。先夜はせっかく口をきく機会だったのに、惜しいことをしたな」
「おぬしは口をきいたのか。あの娘は饒舌とも思えぬが」
「話してくれなかったが、釣谷という不良旗本の屋敷にいることはわかった。名前はイトというのだな」
「そのようだ」
「釣谷にも猪之松にも、イトはこき使われているらしい」
「だろうな。想像はつく。彼奴らは外道だ。猪之松に従わぬ俺のような者がここいらで天秤棒かついでいると、奴の息がかかった地回りどもに難癖つけられる」
平八郎が射抜くような目つきで、小平太を睨んだ。
「お前、どうせ場所を変えるつもりではないのか。つまり、本所だよ。このあたりで蕎麦屋の腕を磨き、『本物』として本所で商売しながら、吉良屋敷を探る……。この味なら、赤穂の浪人の世を忍ぶ仮の姿とは思われぬ」
「腕を認めてくれるなら、すでに本所へ移動しているはずだとは思わぬのか」
「ふむ。それもそうだ。今なお品川にとどまる理由があるのかな」
「何にしても……」
毛利小平太は平八郎の追及をはねつけるように、いった。
「おぬしに知られた以上、もはや本所で商売はできぬな。迂闊にうろついて、拷問されてはかなわぬ」
「なぁに。うしろめたいことがなければ、堂々と吉良邸の周りで商売すればよいだけのこと」
「いいのか、それで」
「アブナイ奴は目の届くところに置いておく。それが利口というもの」
「つまり、俺が品川でじっとしている間は赤穂の浪人が吉良邸へ討ち入る予定はないということだな」
「ふん。面白い奴」
ちっとも面白くなさそうに平八郎はいい、
「……で、お前が品川にとどまる理由だが」
「しつこい」
小平太はそっぽを向いてしまった。
夜鷹がまた二人やって来て、蕎麦を注文し、小平太はなかなか忙しい。だが、話はまだ終わっていない。縫之助は小平太の手が空くのを待って、呟いた。
「猪之松へ行ってみようと思う」
「暇を持て余した旗本の酔狂か」
「イトの身の上が気になる。もしかしたら、俺たちの知っている人の娘かも知れん」
そういう縫之助に、平八郎が眉根を寄せた。
「おや。『たち』というのは、俺も入っているのか」
「平八も、それから毛利小平太殿。おぬしも」
「どういう意味か」
「赤穂の者なら、山鹿素行先生を知っているな」
幕閣や大名たちも門弟の礼をとった儒学者、兵学者である。元来は浪人の身だが、承応元年(一六五二)から万治三年(一六六〇)まで赤穂浅野家に勤仕していた。致仕(退職)後には時の権力者・保科正之に疎んじられ、寛文六年(一六六六)から延宝三年(一六七五)まで、赤穂へ配流謹慎となった時期もある。
だが、毛利小平太は首を振った。
「あの先生は赤穂では著述に専念され、藩士を教導指南したわけではない。第一、俺はまだ子供だったから、面識はない」
保科正之の死後、赦免された素行は江戸へ戻り、浅草田原町に居を構えて、これを積徳堂と称した。
「俺とこの平八はともに十六の歳で山鹿素行先生の門を叩き、そこで知り合った」
平八郎が補足した。
「しかし、先生は諸侯とのつきあいに忙しくて、門下生などとっていなかった。俺たちは有力者の紹介で出入りを許してもらったが、ていのいい下働きみたいなもんだったし、一年もしないうちに先生は亡くなられた。十七年も昔の話だ」
山鹿素行の没年は貞享二年(一六八五)。赤穂から江戸へ戻って十年後である。
「その素行先生の積徳堂に松戸出身の女中がいて、先生の没後は郷里に帰った」
と、縫之助。平八郎は頷いた。
「覚えている。なかなか美しい人だった。名はユイさんといったかな」
「先生の三回忌の法要の時、そのユイさんは幼い娘を伴って現れた」
当時、米沢藩の若侍だった平八郎は国許に戻っており、三回忌には出席していなかった。だが、縫之助は参列している。
「ユイさんに亭主はいなかった。素行先生の子かも知れん、と苦々しく笑う方々もいた。その子がイトと呼ばれていたんだ。今は十七くらいになっているはず」
「つまり、猪之松で働いている娘が、素行先生の忘れ形見かも知れんというのか」
山鹿素行には七人の実子があったが、四人は妾腹である。素行の婦人観は封建的な家父長制度を固守するもので、子孫断絶を防ぐためには妾も必要だというのが持論であった。
素行を嫌った保科正之にしても複数の女に多くの子をなさしめ、その挙げ句には「婦人女子の言、一切聞くべからず」と家訓を残している。これがこの時代の常識だった。
山鹿素行の七人の子供のうち四人は早世し、素行が没した時には二人の娘と一人の息子が残っていたが、人知れず、もう一人いなかったとは断言できない。
「しかし、亡くなった時、先生は六十四だぞ」
「先生の子息の藤介殿は二十歳だった。だから、藤介殿の子ではないかと声をひそめる人もあった」
「何だか、うっとうしい話だ」
そんな下世話な会話を交わしていると、夜鷹たちが、
「お武家。蕎麦食ったなら、女も安物買いしてみないかい」
声をかけたが、小平太が明瞭な声でこれを押し返した。
「このお武家たちは口が奢ってる。これから猪之松で口直しだ。俺が案内する」
猪之松は二階建ての大きな料理茶屋である。高級感と胡散臭さが見事に混在する店だった。
店の横に小平太が屋台を置くと、見覚えある娘が通りかかった。イトである。
「屋台を見ていてくれ」
小平太がそう声をかけ、返事もできずに戸惑っているイトに縫之助が尋ねた。
「お前さん、母親の名前は何という?」
「え?」
「母親の名前だ。ユイさんというのではないか」
「はあ……。はい」
この娘、あと一言でも問い詰めれば、逃げてしまいそうな顔色だ。困惑顔のイトを残し、男たちは猪之松の暖簾をくぐった。小平太は使用人と面識がある。
「客をお連れした」
そういって、案内を請うた。彼らは喧嘩を売りに来たわけではないから、座敷で料理を注文した。使用人は小平太までもが同席していることに怪訝そうというより不満そうだった。
食事を終え、
「主人に会いたい」
縫之助は起き抜けみたいな眠たげな声で告げた。
現れた主人は松太郎と名乗った。やくざの親分然とした貫禄ある体型かと思いきや、長身痩躯で、声の静かな男だった。しかし、能面を思わせる無表情な顔に狡猾そうな細い目をしている。
「これはこれは、武右衛門さん」
と、小平太が使っている偽名を呼び、二人の侍を見やった。
「結構なお客様と御一緒で……。今日はまた、どうされましたかな」
縫之助が応答した。
「ここにイトという娘が働いているな」
「はあ」
「それがどうも、我らの知る人物にゆかりの娘ではないかと思われる」
「へ」
「そこで尋ねるが、身元はどうなっているのかな」
「私どもは釣谷様からお預かりしているようなもので、事情は何も……。釣谷様のことは御存知で? それでしたら、釣谷様の御子息がおいでになっておりますから、お引き合わせいたしましょう。そちらへお尋ねください」
「釣谷殿の御子息か」
「へえ。釣谷様には三人の御子息がおありですが、御長男でございます。釣谷新吾様とおっしゃる。……ご案内しましょうか」
松太郎のその言葉に、縫之助は屈託なく腰を浮かしかけたが、平八郎は動かない。幕臣の釣谷よりも陪臣である平八郎の方が格下なのだが、こちらから出向くのは業腹だ。そういうことだろう。むろん、釣谷新吾とやらも、向こうから来るほど腰が軽くもあるまい。
松太郎は如才なくその空気を察し、
「別室を御用意いたします」
と、妥協案を申し出た。
あらためて通されたのは、茶室のような小さな座敷だった。料理茶屋は接待や秘密会議に使われることもあり、そのための一室だろう。
平八郎は待たされるのも不愉快という表情である。その横顔を覗き、小平太が呟いた。
「さすがに吉良家の家臣ともなると、旗本より貫禄だな」
「その『旗本』とは俺のことか」
と、縫之助。
「俺は旗本を代表しているわけではない。まあ特別のんきにできているだけだ。もともとは旗本に四家ある森家の中でも大身の森六兵衛(長重)の次男だったが、今の家に後継者がなかったので、養子に入った。ガキの頃には自由勝手やってたから、いささか砕けてる。そういうことさ」
「どうして、俺にそんな話を聞かせる? 俺にも打ち明け話をさせようというのか」
「ただの暇つぶしだ。気にするな」
そこへやってきた釣谷新吾は、図体はそこそこ大きいが、貫禄はまるでない若侍だった。縫之助たちよりも十歳近く若いようだ。聞けば、小普請組だという。要するに無役である。暇を持て余しているから、評判の悪い不良旗本はこういう手合いと決まっている。
互いに名乗りをかわしたが、むろん、小平太は蕎麦屋として偽名を口にした。
釣谷新吾は縫之助たちを値踏みするように順に見やり、いった。
「イトのことでお尋ねとか。どういうことですかな」
「あの娘の親は何者だか御存知か」
「さてさて。あれは身寄りがなくて松戸の大きな百姓家に引き取られていたのを私が見つけましてな。わが家の飯炊きにでも……ともらい受けてきたのだが、父親はどこの誰やら知れません。母親はイトが幼い頃に亡くなったようです。この母親は町家の出で、江戸で奉公していたらしいが」
「母親はその奉公先で子を宿したのかな」
「でしょうな。そういや、母親の形見に橘紋のついた短刀があったらしい。ま、イトを引き取った百姓家では、さっさと売り飛ばしたと申しておりましたが」
「橘紋……」
縫之助と平八郎は顔を見合わせはしなかったが、考えることは互いにわかった。橘は山鹿素行の家紋である。素行は家紋の起源についての研究家でもあり、自分の紋にもこだわりを持っていた。お墨付きとして、手をつけた女に与えた可能性はある。
釣谷新吾は面倒かつ迷惑そうに尋ねた。
「イトの父親に心当たりがおありか」
「今となっては、確証などないが……。ところで、釣谷家ではイトの今後をどうなさるおつもりか」
「わが家や猪之松も歳末は何かと人手が必要ですからな。この時期が過ぎたら、品川の遊女屋へ売ることに決まっております」
こともなげに新吾がいい、縫之助は彼の神経がおかしいのか自分の感覚がおかしいのか、迷ってしまった。
「充分にこき使っているようだが、この上さらに身売りさせるのか」
「実は、私は年明けには妻を娶ることになっております。あのような女が屋敷にいたのでは、うっとうしい」
「つまり、釣谷家専属の遊女みたいな女が一つ屋根の下にいたのでは、ということですな」
釣谷新吾は相手が反感を持っていることにようやく気づいたらしく、たじろいだ。不快も隠さなかった。狭量であり、利口な男でもない。
「イトは松戸の百姓家でも、村の男たちの慰みものだったのですぞ。そのために幼い頃から村人たちに養われていた娘だ。わが家で玩具にして何が悪いか。鎖でつないでいるわけではないのだから、嫌なら逃げればよろしい。もっとも、逃げたところで、あの娘に行く先などありはしませんが。ふははは」
この男は悪人というより無神経なのである。悪びれずに言葉を続けた。
「……で、そのイトに何の御執心ですかな。よもや、そちらの蕎麦屋どのから縁談を持ち込もうとでも?」
新吾は愚弄する笑いを浮かべた。無神経でも色事には勘が働くらしく、彼は小平太の顔色を読み取っていた。
「今にも噛みつきそうな顔をしているぞ。飼犬の餌を遠くから睨む野良犬のようだ」
釣谷新吾の言葉遣いは、縫之助と平八郎に対して、上手に出るべきか下手に出るべきか迷っていたが、小平太にはぞんざいだ。もっとも、小平太も負けていない。
「縁談などではありません。しかし、野良犬とは誉め言葉であると受け取っておきましょう」
野良犬には野良犬の誇りがある、ということだ。新吾はしかし、鼻で笑った。
「誉め言葉といえば、おぬしの噂は聞いている。棒手振りとは思えぬ、なかなか評判の蕎麦屋らしい。もとは西国の浪人だそうだな。どこの……」
新吾の言葉を縫之助がさえぎった。
「イトを何とか救ってやれぬものかな」
この場の全員が息をのみ、しばらく沈黙が落ちた。それを破ったのは、釣谷新吾の哄笑だ。
「はははは。何をいい出すかと思えば……。物好きというか無茶というか」
縫之助に同意してくれそうな小平太までもが、
「女の身の上を一時の酔狂で助けてやるべきではありません」
きびしい語気で、いった。人助けは「一時の酔狂」ではなく、生涯に責任を持つべきというのだ。
「だが、面白い」
と、新吾の笑いは薄笑いに変わった。
「話次第ではイトをそちらにくれてやってもよろしい」
「くれとはいってない」
「イトを自由にしてやるといっているのだ。野良犬とはいえ、お犬様には餌を差し上げよう」
釣谷新吾が「野良犬」と視線を向けたのは毛利小平太である。
「蕎麦屋どの。どうかな。おぬしの蕎麦とイトの蕎麦と勝負してみぬか」
「どういう話だ? それは」
「イトは身の程知らずにも料理人を夢見ている。この猪之松でも厨房に立つことがある。なかなかの腕だ。おぬしの腕前と比べてみようではないか」