骨喰丸が笑う日 第十四回
骨喰丸が笑う日 第14回 森 雅裕
昭和十九年三月、第十五軍司令官・牟田口廉也中将は戦局打開をはかるべく「太平洋戦争で最も愚かな作戦」を発動した。「チンドウィン河を渡河し、アラカン山脈を越え、三週間でインパールを攻略すべし」……ウ号作戦、通称「インパール作戦」である。
第三十一師団「烈」はインパールの北方百キロのコヒマを占領して英印軍の補給路を遮断し、第三十三師団「弓」は南から、第十五師団「祭」は北東からインパールを挟撃するという作戦であった。総兵力およそ九万。これにインド国民軍六千が加わった。
しかし、大規模な空輸によって戦力充実した英印軍は日本軍を寄せつけず、補給もなく消耗し尽くした師団長たちは牟田口司令官に反発したが、牟田口は「弓」柳田、「祭」山内、各師団長を解任更迭して、作戦続行を命じた。本来、師団長は天皇が任命する親補職であり、その大権を侵す暴挙であった。
六月初め、「烈」佐藤師団長は独断で撤退を開始。彼もまた解任され、軍法会議で牟田口の無謀無策を糾弾する覚悟であったが、後日、心神喪失と決めつけられ、ジャワ島に軟禁されることになる。
こうして師団が撤退を始める中、コヒマ・インパール間の街道遮断を継続する任務を与えられた残存部隊があった。最前線で死闘を繰り広げていた歩兵第五十八連隊を主力とする宮崎支隊である。率いるのは名将の誉れ高い宮崎繁三郎少将。しかし、この精鋭部隊も五十日に及ぶコヒマの戦いで、兵力は六百にまで激減していた。
街道死守を命じられて三週間。宮崎支隊はコヒマから南へ三十数キロのマラムまで後退し、さらに南のカロンへの後退を準備しつつ、持久記録を作るべく粘ったが、戦力差はいかんともしがたく、六月二十日、ついには突破された。隊列を組んでインパール街道を驀進する戦車から顔を出した英印兵は、なすすべもなく見送る日本兵に手を振る余裕であった。
ちなみに英印軍とはイギリス領インド軍の俗称で、インド人の志願兵によって構成される軍隊であるが、前線ではイギリス軍とインド軍をいちいち区別もできず、合同軍という意味合いもなくはない。
街道を突破されたのちも宮崎支隊はゲリラ的な戦闘を続けたが、日本軍拠点のひとつであるウクルル方面に英印軍の大部隊が進出中と知り、これに夜襲をかけるべく準備にかかった。
各地に分散していた兵を集め、戦傷者は後方へ送り、夜襲隊は宮崎自らが指揮をとる。これが最後の戦闘。自分たちの死に場所だと誰もが覚悟を決めた。しかし、出発直前の深夜になって、中止が伝達された。
間断なく雨が降っている。
八七橋謡太は光機関の士官である。大男で、大仏というのが子供の頃からの渾名であった。
F機関、岩畔機関と続いた日本の諜報機関は、東南アジアの植民地からイギリスを駆逐するべく、独立運動を支援してきた。それを受け継いだのが光機関である。インドで縁起がよいとされる「ピカリ」という言葉と「光は東方より来たる」の意味を合わせて命名された。緒戦において、東南アジア諸国は日本が制圧したため、光機関はインド専門組織となり、インド国民軍に対する軍事顧問団でもある。
その宣撫工作部隊の一員として、八七橋はビルマ、インドで活動してきた。インド国民軍は戦意旺盛で、インパール作戦にも参加したが、日本軍とともに撤退してしまい、八七橋は取り残されて、宮崎支隊の居候となっている。
夜襲にも加わるつもりだったが、中止という肩すかしを食らって、掘っ立て小屋で雨をしのぎながら横になっていると、雨音が変わり、人の気配が近づいてきた。
「八七橋さん」
八七橋は一応は陸軍中尉なのだが、軍隊の枠から「はみ出た」存在なので、娑婆と同じく「さん」づけで呼ばれている。
「支隊長がお呼びです」
呼びに来たのは相笠曹長で、勇猛で知られる第五十八連隊の中でも名物男といわれている。
「俺と一緒に来るようにと」
雨衣のポンチョを頭からかぶり、暗闇の設営地を二人で歩いた。
「夜襲中止というのはどういうわけですかね」
「撤退命令が届いたんだろう」
「あの山と河をまた踏破してビルマへ逃げ帰るなんて、うれしくないですな。作戦開始の時には、インパールを占領すればカルカッタ(コルカタ)の港から日本へ凱旋できるぞと勇ましく出発したのに。しかも、撤退となれば、優勢な敵軍が追いかけてくる」
「追いかけてきてくれなきゃ、敵から物資が奪えない。どうせ撤退途中には友軍の補給なんかないだろうからな」
「前向きだなあ、光機関の人は」
支隊司令部といっても、原住民が放棄した空家で、材木を寄せ集めた掘っ立て小屋である。いたるところから雨水が流れ込み、宮崎繁三郎少将も雨衣を着込んでいる。敵からの分捕り品だ。
宮崎は昭和十四年のノモンハン戦でソ連戦車百五十両を相手に歩兵一個連隊で奮戦し、停戦を有利に導いた人物である。戦術に長けているばかりでなく、人格者としても部下の信望があつい。
司令部には宮崎だけでなく、ひさしぶりに見る顔があった。世良中尉。光機関の僚友である。最後に会ったのは半年前のラングーン(ヤンゴン)だった。
八七橋と世良は目を合わせて会釈だけ交わしたが、まずは宮崎が口を開いた。
「撤退命令が来た。わが支隊はウクルルへ向かう。敵軍も大挙してウクルルへ押し寄せている」
「撤退というより、殿(しんがり)部隊ですね」
「そうだ。名誉ある殿部隊だよ。しかし、八七橋には別の任務が届いた」
宮崎は傍らに立っている世良に発言を促した。世良は冷ややかに八七橋を見据えている。
「生きていたか、八七橋」
「お互い様だ」
「しかし、この再会はうれしくないかも知れん。お前に命令を伝えに来た」
「聞こう」
「ディマプールに日本陸軍の少将が孤立している」
「はあ。何の話だ?」
ディマプールはコヒマの北西へ直線距離で四十数キロ。ベンガル・アッサム鉄道とコヒマ・インパールを結ぶ道路の結節点であり、英印軍の物資集積所である。牟田口司令官はコヒマ占領後の烈兵団にディマプールへ侵攻せよと命じたが、彼我の戦力差を無視した無理難題であり、実現しなかった。コヒマにしても、英印軍の本拠は陥落しておらず、完全占領できたわけではない。
「親日派の寺院に隠れているが、周囲は敵だらけで身動きできない。救出して連れ帰れ。綿貫平蔵少将という人物だ」
「そりゃ何者だい」
「予備役だが、元は陸軍航空技術研究所にいたらしい。新兵器の開発研究を担当する部署だと思うが」
「そんな人物がなんでディマプールなんかにいるんだ? 大体、わが軍が到達していないディマプールへどうやって行ったんだ?」
「金銀財宝がある場所には、万難を排してもたどり着く人間がいるものだ」
世良中尉は不潔で不快な戦場でも涼しい顔だ。講義でもするように、語った。
「ボースの宝石という噂は聞いているだろう」
「宝石だの財宝だのという噂は東南アジアのそこら中にあるわな」
チャンドラ・ボースは「ネタージ(指導者)」と呼ばれるインド独立運動の中心人物である。ガンディーの非暴力主義に反対し、国の内外から危険人物視されていた。
第二次大戦が勃発すると、支援を求めて、ソ連、イタリア、ドイツと接触したが相手にされず、最後の希望を日本に求めた。昭和十八年、Uボート、伊号潜、飛行機と乗り継ぎ、五月に東京へたどり着いて、東條英機と会談した。ボースの東亜解放思想は大東亜共栄圏の理想と一致したのである。
ボースはイギリスからの祖国解放を目指すインド国民軍最高司令官となり、十月には昭南(シンガポール)で樹立された自由インド仮政府首班に就任した。
インド国民軍の本拠はラングーンに置かれ、ボースは兵力の拡充に奔走したばかりか、ビルマ方面軍司令官河辺中将に対して、インパール作戦の実現とインド国民軍の作戦参加を執拗に迫った。インパール作戦はインドと中国を結ぶ連合軍の補給路「援蒋ルート」を断つことが主目的だったが、日本軍上層部には慎重論もあった。しかし、ボースの熱望が日本軍を動かしたのである。
真偽不明の逸話も流布している。昨年七月、シンガポールの政庁舎前広場で開かれたインド民衆大会や今年一月にラングーンのシュエダゴン・パゴダ(仏塔)前の広場で行われたボースの誕生祝賀会では、数千数万の聴衆が先を競いながら、壇上に金銀や宝石を投げ込んだという。インドでは、尊敬するネタージの誕生日には、その体重に相当する重量の財宝を支持者たちが贈る習わしなのだと語る者もある。ボースは百キロを超える偉丈夫だ。
「ボースの宝石」は自由インド仮政府の資産でもあるわけだが、それがアッサム州のどこかに隠されているとまことしやかに囁かれている。コヒマやディマプールを含むナガランド州はアッサム州の東隣である。
光機関は、捕虜インド兵や東南アジア在住のインド青年をマレーやラングーンで工作員として教育し、潜水艦でボンベイ(ムンバイ)沖などに運んで、インド国内へ潜入させた。彼らによって、ボースの宝石が活動資金として持ち込まれた可能性はある。あるいは綿貫少将とやら
もそうしたルートでインドへ入ったのかも知れない。
「しかし、インドのイギリス軍は拡充する一方で、工作員や独立運動家には逮捕者や脱落者が続出した。そして、インパール作戦の失敗だ。敵軍に奪われそうなボースの宝石を綿貫少将が隠匿し、持ち出そうとしている、という話もなくはない」
世良は平然とそんなことをいい、八七橋は冷たく彼を睨んだ。
「航空技術畑の将官がやることかね。そんな与太話を信じろと?」
「いや。俺も信じちゃいない。まあどうせ、軍人には命令の意味や理由を問うことはできない」
「綿貫少将とやらが親日派のインド人にかくまわれているなら、彼らの手引きや国民軍の協力があれば、自力で脱出できるのでは?」
八七橋が疑問を呈すると、
「綿貫という男は変わり者でな」
宮崎が会話に入り、四角い顔を悠然と崩して微笑んだ。
「陸士で俺より一期上だったが、人に好かれる人物ではない。助けてやろうという気にならない」
「はあ」
「しかし、変人とはいえ、物見遊山で戦時下のインドへ入るほど暇でもあるまい。ボースの宝石かどうかは知らんが、何らかの任務を帯びている。見捨てるわけにはいかんだろう」
「光機関が救出命令を出すんだから、それなりの重要人物なんでしょう。それなら、俺一人を行かせませんよね」
八七橋は同行した相笠曹長を見やった。この男が呼びつけられた理由がわかった。宮崎も相笠へ温和な視線を投げた。
「相笠曹長。お前の班を八七橋の指揮下に入れる」
「あー。そう来ましたか」
相笠はかしこまるでもなく、苦笑さえ浮かべた。
「了解です」
相笠曹長以下七名の班は烈兵団の囚徒兵や持て余し者の吹き溜まりである。インパール作戦前にラングーンの陸軍刑務所に収容されていた者、作戦中に前線で問題を起こした者などで、さっさと死んでくれとばかりに師団の先鋒をつとめる宮崎支隊へ配属された。班長の相笠も元は士官だったが、降格されたと噂されている問題児である。
しかし、八七橋は「烈」の士官ではない。宮崎の部下ではなく、相笠の上官でもない。
宮崎は表情は柔らかいが、言葉は重く響いた。
「この期に及んで、指揮系統にこだわっても仕方あるまい。相笠班をお前にまかせる。綿貫のような男を迎えに行くなら、お前たちのごとく抜け目のない兵隊でないとな」
「恐縮です」
「師団司令部も移動しているだろうが、必ず追って来い。待っているぞ」
宮崎らしい激励を受けたが、世良からは、
「また会おう」
あきれるほど冷徹にそういわれ、八七橋と相笠は支隊司令部を出た。
「えらいことになりましたね」
相笠は他人事のように呟き、八七橋も緊迫感のない声を返した。
「ボースの宝石が本当だとしても、俺たちに分け前が入るわけじゃないもんなあ」
「あれっ。本気にしたんですか」
「楽しいことを想像しないと、こんな旅はできない」
八七橋は相笠班の野営陣地へ足を運び、命令を伝えた。兵たちにたちまち不平不満が炸裂した。
「師団が撤退するというのに、俺たちだけコヒマへ戻って、その先のディマプールまで行くだとお。正気かよ」
「正気じゃねぇ作戦には慣れてるが、こいつは特にひどい」
「どうせジャングルの中を半死半生で潰走してる軍隊だ。命令もへったくれもあるか」
相笠が面倒そうに手を振って、彼らを制した。
「宮崎支隊長の命令だ」
「弱いですなあ、その名前を出されると」
「わが班は支隊長のお気に入りということだ。期待に応えろ。夜が明けたら出発する」
部隊は上官に抜刀したという噂の相笠を班長に、三文、和尚、ハカセ、五右衛門、バク、カノン、合計七名である。軍法会議で有罪が確定した者は階級章を剥奪され、そこまで至らない者は階級章をつけているが、彼らは官姓名ではなく、渾名で呼び合っていた。
彼らに敗残兵の悲惨さはない。インパール作戦では補給の途絶が最大の問題となっているが、最前線の宮崎支隊に飢餓は発生していない。敵軍から物資を奪いながら戦闘を継続してきたのである。後方部隊よりも最前線の方がモノがあるという奇妙な現象が起きていた。
八七橋と相笠班は英印軍から鹵獲した短機関銃やリー・エンフィールド銃で武装し、チャーチル給与と呼ばれる食料も携行して、マラムの陣地を離れた。装備だけ見れば、皮肉にもこの方面の日本軍の中では精強部隊である。
敗走する日本軍とは逆にインパール街道沿いを北上する彼らの存在を英印軍に知られるわけにはいかない。身を隠しながらジャングルを踏破し、先日まで激闘を繰り広げたコヒマへ戻った。
コヒマはインパールの北方、直線距離にして約百キロ。三千メートル級の山脈が南北に走るアラカン山系の切れ目である。ここからディマプールまで続く渓谷にイギリスはインパールへつながる軍公路を建設した。大型トラックもすれ違える幅広のアスファルト舗装道である。
しかし、戦火によって、その街道も穴だらけで、周囲の樹木は焼き払われ、いたるところ禿げ山となっている。山の形が変わるほどの砲撃は英印軍の仕業で、日本軍にはそんな火力はなかった。
谷間の水を汲みに歩いていた原住民と出くわした。このあたりは標高二千メートル。初夏ではあるが、八七橋たちは英印軍の外套を着ており、頭にはカウボーイみたいなテンガロンハット、日英両軍のヘルメットや略帽をかぶり、あるいはターバンを巻いている。別に偽装しているわけではなく、物資不足のためだ。英印軍にはアジア的な容貌の者もいるから、この囚人部隊は一見したところ、正体不明である。
「見られた。殺るか」
カノンがボソリと呟いた。この男は砲兵で、体力自慢である。アラカンの山岳地帯では、野砲を牽引する馬が次々と斃れたため、砲兵隊は野砲を放棄し、残る山砲を分解して、人力で運んだ。神輿でもかつぐような彼らの姿を見て、よその兵隊は「砲兵隊でなくてよかった」と実感したものだ。
八七橋は表情を動かさず、カノンを制止した。
「やめとけ。家族が騒ぎ出したり、死体が見つかると、英印軍が警戒する」
八七橋は宣撫工作員であり、現地の人間に溶け込むことを第一と心得ている。靴下に入れた米を原住民へ二本与え、
「我々は特殊任務中である。出会ったことは家族にもいうな。さもないと英印軍に拘束され、拷問を受ける」
英語とヒンディー語を混ぜながら、日本軍とも英印軍とも名乗らずに脅した。恐縮する原住民と別れて歩き出すと、カノンが嘲笑した。
「甘いですなあ、八七橋さん。奴ら、兵隊の死体からフンドシまで剥ぎ取る連中ですぜ」
「日本軍が現地人に恨まれるようなことはしない。それが俺の任務だ」
コヒマを通過すると、十数キロでズブザである。川に橋梁がかかっているのを谷間から遠望した。当然、警戒厳重だから、迂回して渡河しなければならない。
「立派な橋だよなあ」
工兵のバクが因縁でもつけるように、いった。バクは「爆弾」に由来した渾名だ。彼が因縁をつける矛先は光機関である。
「俺の工兵中隊は歩兵第百三十八連隊に配属されたが、四月の初め、爆破命名をうけて、俺の班がここへ向かった。たった八名。爆薬は十六キロの黄色薬だ。ちゃちな木造だという情報をもたらしたのは光機関だったぜ。しかし、たどり着いてみりゃ、御覧のごとく、大型トラックや戦車が往来する二条の鉄橋だ。あまりの光景に茫然自失しちまった」
八七橋は眉を寄せ、さらに奇妙な形にひねった。
「はて。光機関では、頑丈な鉄橋だと報告しているが」
「へえ。そうですかい」
「他ならぬ俺が師団司令部に報告した。師団から連隊やら工兵隊やら伝達されるうちに希望的情報に変わってしまったんだ。よくあることさ。……で、どうした?」
「手に負えないから、小戦闘をまじえながら帰隊しましたよ。そしたら人員を増やして、また行かされた。しかしね、敵もさるもの、一段と警戒厳重になっていて、橋に近づくこともできずに半分が戦死だ。またしても帰隊したが、次はアンパン(爆雷)を竹棒にくくりつけて戦車に突入しろと来たもんだ。そんなもん、敵のM3やM4には通用しないと文句いったら、ぶん殴られた」
「で、殴り返して、囚人部隊か」
「俺がやられたんなら我慢もしますよ。うちの中隊長が臆病者どもの上官ということで、師団の参謀に殴られたんだ」
「なるほど。そりゃ許せん」
「戦死は覚悟しているが、犬死には御免ですぜ」
ズブザ川はさほど大きくもないが、雨季で水量が増しており、泳ぐことは避けたい。八七橋には顔馴染みの原住民がおり、舟を借りることができた。謝礼として、外套を渡した。このあたりでは布が貴重なのである。
「現地人とは仲良くしておくものですな」
兵たちは感心したが、
「盗んだ方が手っ取り早い」
と、悪ぶる者もあった。たぶん、口先だけだろう。宮崎支隊では原住民からの略奪は厳禁である。
ズブザを通過した二日後、彼ら囚人部隊はディマプールに到達した。インド北東部では最大都市である。町の中心部へは向かわず、街道と並走するダンシリ川沿いに北上すると、開けた平地に石造りの建物が現れた。大規模ではないが、外壁は神々の彫刻で飾られ、一部には極彩色が施してある。ヒンドゥー教寺院である。
「このあたりはキリスト教徒も多いと聞きますが……派手なお寺ですなあ」
和尚は合掌して拝みそうなくらいに感心している。この男は和尚と呼ばれているが、実際のところ、娑婆ではキリスト教の神父だった。
「キリスト教なら、日本軍の味方はしてくれないかも知れないぜ」
相笠曹長がそういうと、和尚は心外そうに口を尖らせた。彼は上野の美校出身で、宗教美術にも関心があるらしく、壁の彫刻について解説した。
「インド彫刻の特徴の一つがミトゥナ像です。男女合歓を神と一体になる宗教的歓喜として表現しています」
「博物館に来たわけじゃない」
八七橋はそういい、周囲を慎重に見回って、脱出路など確認した。
「インド国民軍に協力的な寺らしいが、ここは敵地だ」
見た目は茫洋としている八七橋だが、相笠に命じて、見張りを配置させながら、屋内へ忍び込んだ。廃墟かと思うような静けさだ。クルタパジャマを着込んだ男と鉢合わせし、銃口を突きつけた。
「撃たないで。どちらの兵ですか」
男は英語で訊き、八七橋も英語で答えた。
「日本兵だ。隠れている人物を迎えに来た」
「ああ。待っていました」
男が発したのは日本語だ。この寺院の僧侶だった。
「私は戦前、日本への留学経験があります」
イギリス支配に反発して日本へ渡った留学生は多く、彼らはインド独立を目指す運動家となっている。
僧侶に案内され、奥の部屋に通されると、男が二人、女が一人、そこにいた。彼らもクルタパジャマを着込んでいる。本来は男の民族衣装だが、女も同じ身なりだった。
一番年長と見える男だけが床に座り込んで、飯を食っていた。これが綿貫だった。カマキリのような逆三角形の頭で、三白眼が異様にキツイ。意地の悪い校長先生という風情だ。