「雙」第15回
「雙」第15回 森 雅裕
なかなか興味深い刀だった。長さは二尺を越えるくらい。地鉄はあくまでも強く、しかし、刃文は破綻している。焼きの高いところと浅いところがムラになっており、沸えのつき方もばらばらだ。妙手が鍛錬し、拙手が焼入れした――。そんな印象だ。こんな刀を以前にも見ている。
安倫が仙台伊達家から持ち出した脇差だ。あれには虎徹の名前だけでなく「絃唯白色――」の銘があった。同様の作だろうか。
光温の許しを得て、茎を抜き、銘を確認した。朽ち込んで、判読に苦労するが、
「長曽祢興里 天一止雨下在餘名」
そうある。やはり、虎徹だ。コテツの文字がないからといって、入道前の銘とも限らないが、片削ぎの加州茎でもあり、初期作と思われた。地鉄は今ひとつ洗練されず、元と先の幅差はついているが、現今の流行に比して反りが深い体配から見ても、虎徹自身が明暦初めの作といっていた例の脇差よりもおそらく古い。
そして、「天一」以下は書体もタガネ運びも違っており、虎徹とは別人の切り銘とわかる。「天一」とは北極星、もしくは北極神である。「餘」を「余」つまり「自分」の意に解せば、「天一止まれば、雨の下に余の名あり」あるいは「天一雨を止める下に余の名あり」とでも読むのだろうか。
例の脇差と同様の意味ありげな銘文だが、「絃唯白色――」とは同一人ではなさそうだ。どちらも素人臭い稚拙な銘切りだが、こちらの刀の方が力強い。それも妙な力強さだ。まっすぐな力ではない、とでもいえばいいだろうか。
この銘の中にある「止雨」は、山野加右衛門の客分である菓子師の名だ。虎徹ともつきあう人物だから、刀を作ることも有り得るが……。
「虎徹師と……どなたかの合打ち(合作)ですか」
尋ねたが、光温は首を振った。
「わかりませんな。破綻した出来だから、どなたかの余技を虎徹が指南したということでしょうが」
この「天一――」が作者銘だ。例の脇差にあった「絃唯白色――」にも、虎徹と合作した者の名前が隠されている。宣伝好きの虎徹は、あちこちで有力者を指導し、売名に励んだのだ。
この刀とあの脇差は揃いの大小として作られたものでは有り得ない。それならば、脇差の方は釣り合いを計算して、もっと短く作るだろう。あれは二尺近い大脇差だった。それに刃文も違う。合作した相手が異なり、同時期の作にも見えない。となると、これはまったく別に作られたものだ。
「この刀のお持ち主は……?」
「いえぬ。おぬしには内緒で見せている。が、さるお大名からお預かりしておる」
大名の持ち物がこんなに傷むまで放置されていたわけはない。今出来の刀が朽ち込むほど錆びたとなると、
「土中にでも埋められていたのでしょうか」
助広は呟いた。刀を光温に返したが、指に鉄の感触が残った。
「左様。ある場所に眠っていたのを発見された」
江戸にあったとすると、明暦の大火で罹災しなかったのだろうか。地下なら火はかぶらないかも知れないが、鉄である以上、土に直接埋めれば、刀などひとたまりもなく錆びてしまい、救いようがなくなる。研ぎ上げて、ここまで回復できたということは、油紙や箱などでしっかり包んであったものか、あるいは死者の副葬品として、棺に入れられたものか。
「錆びて拵から抜けぬまま、なんとかならぬかと、ここへ持ち込まれた。やっとのことで抜きはしたが、拵はさらにこわれてしまい、もう使いものにならぬ。お見せしよう」
助広の前に置かれた拵は柄に糸の残骸が張りつき、あちこち割れた鞘には漆の痕跡はあるが、想像力の助けを借りて、黒の呂塗りであろうとわかる程度だった。
鐔は小さめだが厚い鉄の透かし鐔で、金山、尾張の系統のようだ。この手の鐔には銘はない。
目を釘づけにしたのは目貫の位置だった。巻いてある柄糸もその下に張ってある鮫皮も傷んでいるから、表目貫は取れ、裏目貫もかろうじて柄にへばりついている状態だが、この裏目貫は鐔寄りだ。通常の逆である。ならば、失われた表目貫は頭寄りにつけられていたことになる。目貫には根っ子があるから、これをはめ込んだ痕跡は残るはずだが、柄が腐りかけていて、判然としない。
光温はこのことに気づいているのか。
「逆目貫のようですが……」
と、水を向けると、
「発見されたのち、無頓着な者が、取れかかっていた目貫を柄糸の無事な部分に押し込んだのであろう」
光温こそ無頓着だった。
それが仕舞い込まれると、光温が地艶を作っている弟子たちに何やら指示している間に、助広とまさのは工作場の様子に視線を一巡させた。
細かな短冊状に切り刻んだ鉄片を入れた箱がある。
「なるほど。ここで、疵物が無疵の名刀に生まれ変わるわけですね」
まさのは低く、いった。さすがに遠慮がちな声だが、光温の耳に届いたとしても、気を悪くさせない何かが、この娘にはある。
人の反発を食いやすい助広は、もっと低く応えた。
「うわべの美しさに高い金を出す者たちがいるということだ」
「刀も女もおんなじですね。もっとも、女の疵物は修繕するわけにはいきませんが」
「私は、自分の刀に疵が出ても、修繕などしない」
「私に宣告してもしかたのないこと。本阿弥様におっしゃいなさいませ」
「光温様」
縁に出ている光温へ、助広は声をかけた。
「こちらで私の刀をお研ぎになる時、繕いは無用に願います」
「ああ。御前鍛錬の一本に疵が出ておりましたな。それを隠すのは余計なことといわれるか」
たちまち、光温が不機嫌になる。助広は職人としての当然の希望を言葉を選びながら口にしただけである。何故、怒りを買うのか、この素朴な男にはわからない。
「おぬしは古刀に迫らんとして、鎌倉期あたりの杢目鍛えにこだわっておるようだが、古く見えたところで、それに何の意味がある?」
「古名刀の多くが杢目鍛えである以上、それを再現しなければ、名刀ではないと考えます」
「しかし、疵っぽい杢目は研師泣かせでな。わしは江戸鍛冶どもに、密に詰んだ地鉄を推奨しておる」
「わかっています。そのために、江戸の刀は鎬地と刃寄りに柾目が現われます」
「それは非難か」
助広は答えなかった。そんなつもりは毛頭ないが、肯定したようなものだ。
「助広殿は疵のある刀をお納めになるか。ま、好きになされよ」
「つまらぬ職方の矜持でございます」
「だから、好きになされよ、と申しておる。おぬしの刀だ。わしのではない」
「父上――」
光温の娘がなだめようとした。が、腹に据えかねたのだろう、光温の言葉は終わらなかった。
「助広殿。職方は腕さえよければ世渡りできるというものでもない。お上(徳川家綱)の御前で鍛えた刀なら、将軍家へ献上するのが筋。それをおぬしは尾張様と紀伊様へお納めになるという。不遜がすぎぬか」
「この件は、しかし、会津中将様も御承知のこと」
「輔弼役の会津中将様にはお上も素直だからの。はたして、お上自身の御意志はいかがなものかな。他の刀工たちは、いずれも将軍家へ献上つかまつると申しておる」
「存じています」
「中には、御前鍛錬などという慣れぬ仕事場では満足いく作刀はできぬと、別途に献上用の刀を用意している刀工もおる」
その心がけを、光温は誉めているのだろうか。助広には理解できない。
「助広殿。今日の試し斬りとて、そうだ。山野加右衛門殿はおぬしに冷たかった。おぬしがそれなりの誠意を見せぬからだ」
誠意という言葉がここで出る理由が、助広にはわからない。
「柳生兵助殿の機転で、あの場はなんとかおさまったが……」
「機転……ですか」
「機転だ。何となれば、銅銭を斬るなど、さして驚嘆すべきことでもない。堅物を斬るにはやり方があるだけのこと。おわかりであろう。最後の一枚が斬り残された理由を」
「わかっております」
刀の刃は銅より固いのだから、斬れて当然なのである。ただ、これには方法があり、斬りつけた力が逃げぬよう、銅銭の下は固くなければならない。そのために土壇の上に厚い板を置き、銅銭を五枚も重ねたのである。四枚まで断ち割ったのは柳生兵助の技量だが、彼といえども一番下の五枚目は曲がっただけで、斬れなかった。下に敷いた厚板と土壇が衝撃を吸収してしまったのだ。あの場にいた腰物奉行は兵助が力を加減したものと評したが、まったくの謬見(びゅうけん)である。
「つまり、あれは刀のことをろくに知らぬお歴々の目先をごまかす見世物にすぎぬ。それを機転というのだ。どういうわけか、柳生殿はおぬしが贔屓らしい。なら、他の人々にも、贔屓にしてもらうことを考えるがよい。おぬしのためを思い、いうておる」
「目先をごまかす見世物、機転と申されますか」
「そんなことはもうどうでもよい。わしがいうのは、世の習いを学ばれ――」
「本阿弥様」
助広は気色ばんだ。刀に関しては意固地な男である。自分の作刀ばかりか、柳生兵助の厚意までも侮辱された気がした。
「柳生様が銅銭を斬ったのは、私の杢目鍛えに大肌交じる一刀。お渡し願いたい」
仕上げ研ぎのために、この仕事場に運ばれている。
「何……?」
「ごまかしでないものを斬って御覧に入れます」
助広は庭の竹林を見ている。光温は鼻で笑った。
「ふっ。生憎ですな。青竹なら斬るのは造作もないが、枯竹しかござらん」
竹は地下茎がつながっていて、一斉に枯れる。枯竹は固く、容易には斬れない。
「枯竹を斬ります」
「勝手になされよ」
光温は叫ぶように吐き捨てた。
「いさかいはおやめください」
と、光温の娘が割って入ろうとしたが、その娘の腕をまさのが無言でつかんだ。
渡された脇差は鞘に納まっているが、真新しい柄を傷めぬよう、茎を抜き出し、じかに手拭いを巻きつけて、助広は庭へ下りた。
手首ほどの太さの枯竹の前に立ち、助広は袈裟がけに脇差を振り下ろした。勢い余って、隣の竹の枝までなぎ払った。
枯竹はあっさりと切断された。切り口も申し分なかった。脇差にも刃こぼれはない。刃先がまくれることもなかった。
「失礼いたしました」
助広は急に照れ臭くなり、脇差を返すと、ほとんどそっぽを向いている光温に、
「研ぎをよろしくお願いいたします」
頭を下げた。光温の娘が、助広の裸足を拭く手拭いを差し出そうとしたが、まさのがそうする方が早かった。
帰り道の空は灰色の雲に覆われていたが、蝉が鳴いているので雨は降らないと思われた。それでもどことなく憂鬱な空気の中で、まさのがいやに明るく、いった。
「師匠。あんなに機嫌をそこねて、おかしな研ぎを施されたら、どうします?」
刀を生かすも殺すも研師にかかっている。下地研ぎが最悪の場合、姿形をこわされてしまう。研ぎ減った鉄はもうもとへ戻らないのだ。仕上げ研ぎはいってみれば化粧であるから、本質に影響はないが、地刃の冴え、肌の見え具合は、その化粧でどうにでもなる。
「本阿弥光温も職人の誇りがあるだろう。自分の腕を疑われるような仕事はするまい」
助広は自分にいいきかせている。世の職人の誰もが、自分のように誇りを優先して生きているわけではない。それはわかっているのだ。
「光温師が妙なことをしたら、差し違えるまでのこと」
「大人気ない」
まさのはあっさりと一笑に付した。
「それにしても、惜しいことをしましたね」
「む。光温師を怒らせなければ、いろいろ名刀を見せてもらえただろうな」
「そんなことじゃなくて、きれいなお嬢様だったのに……」
「くだらぬ」
「あら。女の美しさもわからぬ男に名刀が打てましょうや」
「美しさはわかる。くだらぬというのは、本阿弥の御機嫌をとることだ」
「ほお。師匠はああいう女性(にょしょう)を美しいとお感じになりますか」
「そんな話をしているのではない」
「では、何の話です?」
「光温師に見せられた刀だ。銘文に止雨殿の名が入っていたが……」
「やはり、刀の話ですか」
「おかしな組み合わせだ。あの刀とあの拵」
「正確にいえば、拵の残骸です」
「こわれてはいたが、特徴ある作りだった」
「尾張柳生拵ですね」
柳生兵助の差料と同じ形式だ。逆目貫で、小さな鐔、短い柄は棟方が角張り、柄頭が小さい。
「止雨様は尾張と何かつながりがあるのでしょうか」
「さて。さるお大名から預かった刀ということだったが……」
「そうすると、尾張様ですか」
「しかしな、柳生兵助様は江戸で探しものをしているといっていた。もしや、あれかも知れぬ。つまり、少なくとも今は尾張家の手を離れていることになる。それにしても、ああも朽ちている理由がわからんな。古い刀ではないから、御先祖の副葬品を発掘したというのでもあるまい」
「光温師と喧嘩なんかしなければ、さる大名とやらの名前を聞き出せたかも……」
「ふん。誰も彼もが、私が脇差を二本作ったことが気に入らないと見え、驚いたり説教したり、何かと声高に話題とする。奇妙だと思わんか」
「奇妙なのは師匠の敵を作る才覚ですさ」
「私が二本作ったのは、本来、杢目であるべき振分髪が、伊達屋敷で見せられたものは柾交じりの杢目だったからだ。伊達家の家中でも限られた者しか知るまい。しかし、あまり騒がれると、余人にも気づかれる危険が出てくる。今、伊達屋敷にある振分髪は今出来の偽物ということが、だ」
「気づかれたところで、助広師匠には恐いものはないでしょう」
「私にだって、恐いものはいくらもある」
「わかってますよ。師匠は人が恐い。人を傷つけるのは人だけ」
「そうだな。とりわけ、女は恐い。まさの殿が恐い」
風が砂埃を立てると、まさのは平然と目を閉じて歩いている。小柄な娘ではないが、どういうわけか、助広の目には小さく見えた。
「先刻、鉄の細片を指して、まさの殿はいったな。ここで、疵物が無疵の名刀に生まれ変わるわけですね――と。つまり、あの細片が何であるかを知っていた」
「…………」
「あれは埋鉄に使うものだ。刀の疵をタガネで広げ、あの鉄の細片を嵌入する。うまくやれば、疵は見えなくなる。刀鍛冶もやるし、研師も金工もやる仕事だ」
「…………」
「お前は、鍛錬のあとの刀鍛冶は指を火傷して、湯飲みが持てぬものだということも知っていたな。伊達家中で育ったお嬢様が御存知あることではない。花嫁修業にそんなことは覚えまい」
「助広師匠の手伝いをしているのですから、そのくらいの勉強はします。花嫁修業と考えていただいてもかまいません」
しばらく、二人は互いの足音を聞きながら歩いたが、今の言葉の意味に気づいて、まさのは足を早め、助広は逆にゆるめた。
「どうせ斬るなら、七夕の飾りに使える笹竹を選んで、もらってくればよかったな」
離れていくうしろ姿に怒鳴ると、
「上方の暦は江戸より遅いのですか。七夕はもう半月近く前に過ぎました」
振り向きもせずに、まさのはそういい、頭上の木枝を指した。蝉時雨というには時期が遅いが、蝉が鳴いている。
「夏の終わりに気づかない蝉と一緒ですね、師匠は」
七夕には、縁に立てた笹竹へ酸漿を数珠のように連ね、色紙を吹流しのごとくつないで飾りつける。やがて町人が経済的に台頭してくると、縁などではすまず、連なる屋根に高々と竹を立て並べ、色紙ばかりでなく様々な日用品も飾りつけて空いっぱいをふさぐことになり、その光景が江戸の風物詩
ともなる。
そういえば、しばらく前、白戸屋寮の庭先に笹竹が立ててあったような気がするが、七夕飾りは一日限りで川か海に流す風習なので、助広の目にはほとんど留まらなかった。刀しか眼中にない男である。
「お望みなら――」
まさのは言葉を続けたが、よく聞き取れなかった。しかし、今からでも派手派手しい七夕飾りを準備しましょう――とか、そんなことを口にしたのだと助広には伝わった。
刀が研ぎに回されている間、刀鍛冶と弟子はすることもないので、このところのまさのは伊達屋敷と白戸屋寮を行き来しながら雑用の日々だったが、とりあえず遅めの七夕までは寮に居座るつもりのようだ。
東叡山寛永寺は秋の始まりに焦ったような蝉の声に包まれている。五人の刀工による六本の刀は、徳川家綱を迎えて、献納式の晴れ舞台へと進んだ。
本阿弥光温が家綱の案内役として、付き従っていた。先の秀忠、家光には、光温の父の光室が、二人きりの座敷で抜き身を手にしながら講釈したというほど、将軍家から信頼されている本阿弥家である。
「いずれの刀も見事である。さすがに全国より選ばれし刀工じゃ」
並べられた刀の前を熱心に往復し、家綱は目を輝かせた。
助広へは侍臣を介して、
「尾張、紀伊両家への刀は、お前の手で納めよ」
と指示があったが、家綱の声は凛然として、控えている刀鍛冶たちの席にも、じかに響いた。
「将軍家から下賜という形をとれば、両家もそれ相応の貢ぎ物を返さねばならぬ。それでは、よけいな面倒をかける」
「おそれながら、それはいかがなものでございましょうか」
本阿弥光温がしわがれた声を発した。
「御前鍛錬の刀であれば、建前だけでも、一旦は将軍家へお納めせねば、筋が通りませぬ。そもそも、助広だけが二振りを打ったというのも、いささか公平を欠いております」
「筋というのは便利な言葉じゃ」
家綱は笑っている。が、言葉は強い。
「何かが足りぬ時の老臣たちの決め科白じゃ。わしが承知しておれば、それでよい。何が足りぬと申すか」
「あ。いや……」
「将軍家へ献上されても、折々に諸大名、家臣へと下げ渡され、流転していくのが刀剣というもの。助広の打った二振りが尾張と紀伊へ納まるのは、将軍家という途中を省いただけのことじゃ。それにな、公平を欠くこともないよう、配慮はしておる」
「恐れ入りましてございます」
光温は頭を下げるしかない。
「そうはいうても、わしも助広の刀は欲しいがのう」
欲しい――家綱のその言葉は助広の胸中に重く落ちた。
家綱は式場の下座に並んでいる刀鍛冶たちを見渡した。
「会えて、うれしかった。お前たちも、わしに会うたことを名誉としてくれるか」
刀鍛冶たちが平伏すると、押し出しの強い武士が進み出た。試し斬りの場にも臨席していた老中・酒井忠清である。
「そのような事情ゆえ――」
五人の刀鍛冶を睥睨した。
「安定、興里虎徹、長道、忠吉には上様より報奨を下さる。助広は尾張、紀伊両家より賜るように」
なるほど、それも筋である。献上とはいっても、それなりの返礼は与えられる。助広以外の四人は将軍からそれを授かるという最高の名誉に輝くが、助広には格下の尾張、紀伊家から与えるとなれば、この御前鍛錬は助広ばかりが優遇されたことにはならない。公平といえる。
家綱の治世は可もなく不可もなく、目立つところがないため、凡庸な将軍と位置づけられるが、資性仁恕にして、質素倹約を重んじ、武芸を奨励するなど、どうしてなかなかの賢君であった。『厳有院殿御実紀』には、それを裏づける逸話もある。
家綱が竹千代といった幼年の頃、小姓たちが侍臣に、
「山王祭の真似をして御覧に入れよ」
そう無理強いしたことがある。が、
「この竹千代を楽しませようとて、人を困らせてはならぬ」
と、これを戒めたという。
また、遠島の受刑者には食料を与える制度がないことを知った竹千代は、
「死罪とせずに命を助けたのだからこそ、食料を与えるべきではないのか」
と、疑問を口にした。これを聞いた父の家光は喜び、
「これを竹千代の仕置きの初めとせよ」
命じて、流人たちに食料を与えることになった。とはいうが、流刑地の実態はほとんど「渡世勝手次第」つまり自給自足が続いたようである。
長じた家綱は心根の素直な将軍となった。ただし、若年に加えて蒲柳の質で、将軍親政というわけにはいかず、幕政の中枢は家光時代の幕閣首脳が居座ったままである。
江戸幕府成立から五十年以上を経て、政治組織が整備され、文治主義の傾向が強くなっている。そんな時代に登場する新しい力が酒井忠清であり、「下馬将軍」の異名で権力を掌握し、なお将軍以上の実権を握るべく、こののち、延宝八年(一六八○)には有栖川宮幸仁親王を家綱の後継者に迎えようとさえするのである。
「御苦労であった」
それが、ひと月半に及んだ御前鍛錬を締めくくる言葉であった。告げたのは、やはり酒井忠清である。
そして、助広がこの老中からかけられた言葉はそれだけではなかった。