骨喰丸が笑う日 第十五回
骨喰丸が笑う日 第15回 森 雅裕
八七橋はかしこまりもせず、別に敬礼もしない。
「光機関、八七橋中尉です。第三十一師団、宮崎支隊からお迎えに来ました」
「なんだ。あやしい連中だな。身なりは日英印の混合じゃないか」
自分こそ軍人らしからぬ格好だが、この将軍閣下は軍服など似合いそうもない。
「味方の補給がないので、食料、弾薬、被服も敵軍から奪っています」
「何人で来た? 一個小隊か」
周囲に五人を配置し、この部屋には八七橋の他はハカセと五右衛門だけだ。
「合計八人です」
「あーあ。こんなのを迎えに寄こすとは、宮崎もこの綿貫をなめてくれたものよのぉ。あいつはな、陸士の一期下だ」
「歩兵団長(宮崎)から聞いています。綿貫閣下は予備役だそうですが」
「ふん。ちょいとワケありでな。冷飯食いだよ」
自嘲というより軍の上層部を批判しているようだ。
僧侶は若い修行僧に声をかけ、寺の周囲を警戒するように指示した。
「ここには十人以上の僧がいます」
「迷惑をおかけする。しかし、長居はしませんから」
八七橋が無愛想ながらも僧に軽く会釈すると、綿貫は食事の手を止めないまま、難癖をつけるように訊いた。
「長居は無用とは俺も同感だが、お迎えのガラクタどもの指揮官は陸士何期か」
「陸士じゃありません。東大です」
「けっ。学士様に戦争はできるんだろうな。どこで訓練を受けた」
「東部第三十三部隊」
陸軍中野学校の表向きの通称だ。綿貫は表情に侮蔑さえ浮かべた。
「道理で軍服が似合わんし、敬礼もしないわけだ。ふん。俺こそ軍服なんか似合わんといいたそうだな」
この閣下、まったくの愚者ではないようだ。
「お前の子供の頃の渾名を当ててみようか。スパイだ」
「よくおわかりで」
「顔つきには外国の血が入っているようだからな」
八七橋の祖母には異国の血が入っていたと聞いている。それが隔世遺伝したようである。
「本物のスパイには好都合というわけだ。ふはははは」
綿貫はカン高い音程をつけて笑った。なるほど、これは宮崎がいったように人に好かれる人物ではない。
「東大といえば、うちの副官と同じだ」
綿貫は傍らに立っていたクルタパジャマの男を指した。知的だが、気の弱そうな男である。事務的に名乗った。
「手柄山中尉です」
「大学では何を?」
陸士出身でない副官に違和感を覚え、八七橋は尋ねたのだが、綿貫がさえぎった。
「お前らの身の上話なんかいい。同窓会は戦争が終わってからやれ」
手柄山は軍人というより学者か技術者のようだ。
「随伴は副官だけですか」
「女もいるのが見えんのか。現地の案内係だ」
「案内係?」
綿貫は食卓で給仕をしている女を目で指した。三十代前半。東洋人なのか白人なのか不明な顔立ちで、混血だろう。
「アーシャだ。ベンガルから一緒に行動している」
「ベンガルへ行かれたのですか」
ベンガルといってもインド北東部の広範囲に及び、漠然としている。
「俺がどこを巡り歩こうとお前らには関係ない。アーシャはチャンドラ・ボースの従姉妹だか又従姉妹だか知らんが、とにかく親類縁者らしい」
「ほお。女だてらに革命家ですか」
「イギリスから見ればお尋ね者の血縁者だ。インドに残しておくわけにはいかん」
そんな義理堅い人物とも人道主義者とも見えない綿貫だが、いちいち詮索していてはこの任務は果たせない。しかし、八七橋はこの状況を歓迎できなかった。
「これからの退路は女の足では困難かと思いますが」
「車で来たんじゃないのか」
冗談なのか本気なのか、綿貫という男は腹が知れない。
「移動は徒歩。それが日本陸軍の基本です」
「おい。俺は少将だぞ。しかもこの荷物だ。まあ、運ぶのはお前らだから、俺はかまわんがな」
背嚢や革トランクなどが合計三つ、置かれている。
「何です、この荷物は。インパール街道で行商でもする気ですか」
「ふん。お前らにはこの荷物の価値はわからん」
窓の外を見張っていた五右衛門が、
「女の可愛いおべべでも入ってるのかな」
揶揄する笑いを放つと、綿貫はもっと大袈裟に哄笑した。
「ぐははははっ。アーシャはそのへんの女とは違うぞ。ジャンシー連隊の士官だ。光機関ならこの連隊の訓練のきびしさは知っているよな」
百年前にイギリスとの戦いで死んだ王妃の名を冠したラニー・オブ・ジャンシー連隊は、昭和十八年にチャンドラ・ボースの肝煎りによって、昭南(シンガポール)で特設された婦人のみの正規軍である。在マレーのインド人の名家の子女はこぞって志願した。光機関も顧問や連絡係として関わっているが、彼女たちの厳正な軍規と猛烈な訓練は昭南市民も広く知るところである。単なるお飾り部隊ではない。
「足手まといにならないよう、頑張って歩きます。自分の荷物も自分で運びます」
流暢な日本語で、アーシャはいった。
「なるほど、そのへんの女ではないようだ」
感心する八七橋に、アーシャは冷徹な表情で尋ねた。
「歩く行程はおよそ一か月でしょうか」
「そうですな。チンドウィン河を渡り、マンダレー方面へ向かう。そのあたりまで行けば、ラングーンへ向かう交通機関がある」
「負け戦とは情けないものだな」
と、綿貫が愚痴った。
「カルカッタあたりから洋上へ出て、潜水艦に迎えに来させるつもりだったが、役立たずの海軍に断られた。そんな危険は冒せんとな」
インパールの激戦に連動して、連合軍は海上作戦をも展開している。今やインド洋は制海権も制空権も連合軍に握られているのである。
「俺としても、潜水艦という鉄の棺に閉じ込められて死ぬのはまっぴらだけどな。そもそも、カルカッタまで敵地を縦断するのも命がけだ」
アラカン山脈を越え、チンドウィン河を渡ってビルマへ向かうのも命がけだ。敵は英印軍ばかりでなく、ジャングルは疫病の巣窟なのだ。食料をどうするかという難題もある。しかし、八七橋はそんなことは口に出さなかった。
「あの……。お話の途中すみませんが」
と、青ざめたハカセが腹を押さえながら、いった。
「腹の具合が悪いんで……。便所はどこですか」
「こいつっ」
綿貫は手にしていた木の匙を投げつけた。手づかみの現地人とは違い、こんなものでカレーを食っていたのである。
「裏庭の川っぷちに建っている掘っ立て小屋が便所だ。おい。変な病気じゃないだろうな。俺に感染させると国家の損失だぞ」
「一応、自分は医者だったもんで、ただの腹下しと診断します。へへっ。これがホントの日本陸軍の黄禍ってやつですわ」
ハカセは小銃を置き、銃剣だけ腰にぶらさげて、教えられた方向へ駆け出した。衛生事情の悪いアジア各地では、日本兵は腹を下しやすい。
「医者が兵隊かよ。ふざけた部隊だな」
不機嫌な綿貫に八七橋はのんびりした声を返した。
「剽軽者が多くて退屈しませんよ」
「結構だ。しかし、食事中にシモの話なんかしおって……。もうやめた」
綿貫はカレーを放棄し、手柄山の助けを借りて、着替えを始めた。戦闘服に似ているが、軍服ではなく、南方での狩猟や旅行用の上着である。
八七橋はカレーを見ていた。入っている肉は豚である。
「ヒンドゥー教徒は牛はもちろん、豚も食べない人たちがいると聞きますが」
「先祖の魂が動物の形に生まれ変わるというのが彼らの考えだからな。基本的に殺生禁止だ。インド軍とインド国民軍に分かれて戦争してるのにおかしな話よ」
僧侶が床に並べられた鍋と食器を指し、八七橋に訊いた。
「召し上がるか」
「有難いが、急ぎますから」
「せっかくの御馳走だ。飯盒にもらっていきましょうや」
と、五右衛門が飯盒にカレーと野菜炒めを詰め始めた。僧侶はさらに八七橋にすすめた。
「あなたもパンをお持ちになって、道々お食べなさい」
チャパーティーという円形の薄いパンが積み重ねてある。
「遠慮はいらん。もらっておけ」
綿貫が挑発するようにいい、八七橋は試されていることに気づき、食いたくもないパンに手を出した。一枚、また一枚とそれを取り、傍らの五右衛門にも渡した。八七橋がパンを取るのに使ったのは左手である。そのパンを折り畳んだり巻いたりしながら背嚢に押し込んでいると、綿貫が冷たく笑った。
「ふん。少しはインドの習慣を心得ているようだ」
重ねられたパンを右手で取ると、残りのパンは不浄な食いかけと見なされる。だから左手で取るのである。
「インド人は右手で直接食うから、熱い食い物もない。俺は木の匙で食うから熱いものを出すように命じてある。冷飯を食わされるのは軍隊だけで充分だ」
「郷に入っては郷に従えといいますよ」
「それは中国の歴史書『五灯会元』にある言葉だ。お前、敵の思想にかぶれているのか。さすがスパイ学校の出だな」
アーシャもジャングル探検隊のような服装に着替えたが、人目にかまわず、何を隠すわけでもない。堂々たる態度は感心だが、禁欲生活を続けてきた兵たちには目の毒である。
「俺たちは礼節ある日本兵じゃないぞ」
八七橋はそれだけいい、彼女に注意を与えた。アーシャは黙って左の腋下にストックホルスターを装着した。そこに突っ込んでいるのはモーゼルC九六という重量級の大型拳銃である。この女なら、余計な心配は無用かも知れない。
寺の周囲を警戒していた相笠がドアを破るような勢いで駆け込んできた。
「八七橋さん。英印兵がこっちへ来るぞ。五、六人だ」
緊張が走ったが、傍らの僧は悠然としている。
「ヒンドゥー教徒のグルカ兵です。時々、ここに礼拝に来る。大丈夫。うちの僧が適当にあしらいます」
八七橋は小さな窓から外をうかがった。特に危険な匂いはしない。
「うちのろくでなし部隊は?」
「寺の裏手へ回した」
と、相笠。
「よし。川原から脱出する」
ここへ来る前に周囲の地理は確認している。
「珍しい食い物を見た」
相笠は自分の飯盒を五右衛門に渡した。
「その魚の蒸し物を入れろ」
「はいよ」
「ところで、少将閣下は?」
八七橋はぼそりと答える。
「目の前だ」
相笠は副官の手柄山中尉を凝視した。
「こっちだ。俺だ!」
綿貫が犬でも呼ぶようにパンパンと手を叩いた。
「人を見る目がない奴だ」
「失礼。行商人かと思ったもんで」
「き、貴様あ……」
相笠は肩をすくめながら銃口をドアへ向けている。八七橋も短機関銃を構えた。潜り込むように男が入ってきた。
「英印兵が一人、裏へ回ったようです」
男は英語でそういった。白いクルタパジャマ姿のインド青年である。八七橋に緊張感はないが、油断なく彼を見つめた。
「次から次と出入りのにぎやかなところだな。誰だ」
青年は両手を振りながら愛想笑いを作った。
「インド国民軍の工作員です。ラジープといいます。光機関に教育を受けました」
「英印兵は俺たちに気づいたか」
「いえ。そんな様子はありません。裏へ回った兵は便所が目的でしょう」
それはそれで、まずい。ハカセが用足しの最中だ。相笠が助けに向かおうとしたが、それより早く、ドン、とドアにぶつかりながら、そのハカセが部屋の中に倒れ込んだ。血まみれだ。
「どうした。やられたのかっ」
「いえ、腰が抜けた。あははは」
彼の血ではないようだ。
「べ、便所で英印兵と鉢合わせしちまって、お互い、敵か味方かわからなかったんですが、二言三言交わしたら、向こうが銃を構えようとしたので、咄嗟に刺し殺しましたぁ。よ、よかったんでしょうか」
「よかったんだよ。落ち着け」
英印軍も国民軍もインド兵は同じ軍服を着ているので、最前線の戦場でも混乱するのである。
「その死体はどうした?」
「便所の中へ隠しました。大自然の水洗なんでね、川へ流れていくと思いますが」
「見つからんうちに逃げるぞ」
「この寺の地下から川原へつながる抜け道があります」
と、僧侶が得意気に提案した。
「川沿いに歩くなら、途中には険しい山林や行き止まりの崖もある。ラジープに案内させましょう」
ラジープは武器を持たず、ネパール山岳民族が使うククリと呼ばれる大型のナイフを腰にさげているだけだ。戦闘用というより草ヤブや木の枝を払う道具である。
八七橋は僧侶に向き直り、いった。
「便所の死体が見つからなければ、そいつは脱走したものと見なされるだろうが、見つかったら、あんたたちに迷惑がかかるな。知らぬ存ぜぬで頑張ってくれ」
八七橋は少しは恐縮したのだが、綿貫のガサツな声が響いた。
「おい、スパイ中尉。坊さんに金払っとけ」
綿貫は小声でも怒鳴っているような圧迫感がある。僧侶はニンマリと微笑んだ。
「日本軍が来たら謝礼はたんまり……と綿貫さんがいうから、かくまってきたんです」
「しょうがねぇ将軍だな」
八七橋は現地人懐柔のために持ち歩いているイギリス軍の軍票を束のまま差し出した。敵軍陣地から奪ったものである。日本軍の軍票など通用しない。
八七橋と綿貫たちは地下から寺院の裏へ出て、見張りに配置していた兵たちも合流し、川沿いの山林へと駆け込んだ。
しばらく進み、崖を迂回すると、
「この山林の中を南下すれば、川と街道の交差路に出ます」
ラジープは先を指差したが、
「わかった。案内はここまででいい」
八七橋は突き放すように、いった。
「俺にもこのあたりの土地勘はある」
「あ。いや、しかし……」
「俺たちといると危険だ。君は君で、祖国独立のために戦え」
茫洋とした八七橋がキッパリそういうと、逆らえない空気がある。ラジープは承服できない様子だったが、
「そんな目立つ白服で一緒にいられても困る。戻れ」
強い口調で指示し、肩を叩いた。彼の後ろ姿が見えなくなるまで、八七橋は見送った。目には警戒の色を浮かべている。
相笠曹長が尋ねた。
「八七橋さん。以前にこのあたりへ来たことがあるのか」
「ない」
「何だってぇ」
「あいつは信用できるかどうかわからない。だから追い返した。教わった道とは別を行くぞ。この川なら歩いて渡れる。対岸から下流へ歩いて、街道の脇へ出よう」
綿貫少将が露骨に舌打ちした。
「けっ。なんとも疑い深いスパイ中尉よのぅ。さっきのカレーもあいつが作ったんだぞ。あんな炊事係が俺たちを敵軍の中へ案内するかも知れないと思ったか」
「あるいは閣下の荷物が金目のものだとすると、仲間に襲わせて、奪う算段をしているかも」
「ふん。俺が財宝でも隠し持っているってか。俗物の考えそうなことだ」
「違うんですか」
「俺自身が日本の宝だ」
ははは、と笑う者があり、
「誰だあああ、笑ったのは!」
綿貫は囚人部隊の面々を睨め回したが、皆はかまわずにさっさと川原へ下りていく。
「おいいっ。俺にザブザブ水をかきわけろというのかあ」
「どうせ雨季だ。地べたを歩いていてもそこら中がぬかるみです。グズってると置いていきますよ」
その夜は天の底が抜けたかと思うような雨となった。