雙(津田越前守助広物語) 一覧

「雙」第26回(最終回)

雙 第26回(最終回) 森 雅裕

「本郷の本妙寺が火元でありながらもとがめられなかったのは、そういう理由じゃ」

「どういう理由でございますか」

「放火に協力し、大火後は残党どもの集合場所となった。そこを一網打尽に捕らえ、単なる放火犯として処刑した。が、逃れた者もおる。もともと正雪一味にはうしろだてがあり、そのうしろだてが彼奴らをかくまった。いや、ただの夢破れた罪人どもごとき、証拠湮滅のために闇へ葬ったかも知れぬ。ありそうなことじゃ」

 うしろだてとは、いうまでもなく尾張家である。尾張もまた「闇の政策」の同調者だ。疑惑の目を尾張でなく紀伊へ逸らさせたのも、その政策のうちだ。伊達綱宗がいっていた「尾張と幕閣は秘密を共用する仲」とはこのことだった。

「そのうしろだてに、正雪は踊らされたということでしょうか」

 ならば、利用された正雪が名前を変えてまでも生に執着する意地は理解できる。

「『うしろだて様』は最初こそ公儀への反発から、正雪を援助もしたであろう。しかし、謀反が成功するはずのないことは明白。公儀が肝を冷やせば、それで充分。うしろだてとしては、危険を冒す気はない。で、幕閣にも色目を使い、両天秤にかけた。そんなところじゃ。いや、あくまでも仮の話よ」

「仮の話にしては、生々しいことでございますな」

「左様。雅楽殿には聞かせられぬな。これでやめよう」

 松平信綱はすべてを知った上で、助広が沈黙を守ることのできる男かどうかを試した――。そのために、二条城へ呼んだのだ。

「女房を大切にいたせ」

 そう締めくくった言葉が、信綱の真意を語っている。

 

 鴨川べりの宿に戻ると、すみのは埃よけと雨合羽を兼ねる浴衣を羽織っていた。手甲、脚絆をつけた道中着である。荷物もすでにまとめられている。

「まだ発たぬぞ」

「なあんだ。二条城で不始末しでかして、追っ手でもやってくるかと思いました」

「私も人と衝突ばかりしているわけではない」

「伊豆守様のお話は何でしたか」

「振分髪は実は焼けてはおらぬという話だ」

「…………」

「ならば、虎徹師は振分髪の絵図などでなく、本歌を見ながら、偽物を作ることができたわけだな」

「ええ。姿形だけは同じに」

 と、すみのは認めた。仙台屋敷でまさのと名乗るすみのに見せられた刀絵図も絵図そのものは伊達家の御刀奉行が採録した本物だとしても、異様にくわしかった寸法の数値は、助広に示すために後補されたものだろう。

「酒井雅楽頭様が由比正雪の生存を懸念しておられる。その追及をかわすために、興里虎徹は死んだことになった」

「そうですか」

 すみのは追及せず、いつものように凛然と背筋を伸ばしている。

「会津中将様が過去の謀反人よりも政事(まつりごと)の安定を優先し、そんな大嘘をでっちあげ、虎徹殺しの汚名に甘んじようとなさっている。その中将様に陸奥守様が協力なさる理由が今ひとつわからなかったが……」

「が……?」

「陸奥守様がまさの殿を手にかけてまでも由比正雪をかばおうとしたとは思えぬ。陸奥守様には正雪との接点も義理もない。かばうなら、もっと近い人物だろう」

「それは……?」

「お前だ」

 あとの言葉は助広の脳裏で空回りした。

 伊達忠宗の側室あきの――すみのの母親は山野加右衛門の娘で、御刀奉行へ下げ渡された。産んだ双子は忠宗の種ということになっているが、忠宗の側室にあがったのは二十年近く前だと加右衛門はいっていた。近く――つまり、十八、九年前ということだ。すでに子を宿していたとしたら、その頃、あきのに近かった男を考えねばならない。仙台侯の家臣だった頃の山野加右衛門が入門した軍学者、今は加右衛門にかくまわれている菓子師……。そう考えれば、辻褄は合う。すべては由比正雪の遺児の存在をくらますための筋書きだった。すみのに小豆餡の作り方を教えたという母――あきの。そのあきのに教えたのは……。

 男どもの勝手にもてあそばれることから逃げたあきのだが、正雪のもとへ走ることはできなかった。正雪に刑死した妻があったことは記録に残っている。慶安事件に縁座したのである。正雪と妻、あきのという男女三者にどんな事情があったのか、今となってはそれはわからない。

 あきのは江戸を棄て、興光へ縁づいて、大坂で暮らした。あきのの存命中、この家族は江戸を避けていたが、興光がすみのを連れて江戸入りしたのが十年前。慶安三年だ。正雪が事件を起こす前年である。

「お前は十二から十六まで佐賀屋敷で過ごしたが、追い出された。つまらぬ理由だといったな。理由は正雪の子だからだ」

「…………」

「徳川嫌いの信濃守様(鍋島勝茂)は正雪の消極的支援者とでもいうのか、何らかの関わりを持っていたのではないか。佐賀屋敷へあがったのも、山野加右衛門様の仲介というより、正雪のつながりだろう。お前が実は正雪の娘であることも鍋島家中では知る者があり、信濃守様の死後は居所がなくなった」

 勝茂次男で小城(おぎ)領主となった硬骨の鍋島元茂が健在なら、まだしもかばってくれたかも知れない。しかし、元茂は父に先立ち、承応三年(一六五四)に没している。

「まさの殿がお前を伊達家中に迎えることを拒んだのも、自分もまた正雪の娘である事実を受け入れたくなかったからだ。おそらくは義山公(伊達忠宗)もあきの殿が産んだ双子が自分の種でないことはわかっていただろう。だから、家臣に下げ渡したとも考えられる。伊達家ではそれを知ってか知らずか、ともかくも秘して、まさの殿を保科家へ嫁がせようとし、先方の長門守様(保科正頼)が急死すると、今度は酒井家との縁談を伊達兵部様は目論んだ。まさの殿もそれを望んでいた。権門へ嫁に入れば、まず後ろ指さされることはあるまい。――かつて、正雪の一族郎党は打ち首となっている」

「まさのも生きるためには必死だったでしょうね」

「伊達兵部様もお前たち姉妹の真の素姓を知っていたのか」

「ええ。そもそも、まさのに出生を教えたのが兵部。無能な人物ではありません。双子の姉妹が義山公の種でないことを察し、山野加右衛門の周囲を調べ、実の父親を知った……。私のことが忌わしいなら殺した方が簡単ですが、義山公の娘ということにしたまま遊女に墜とせば、宗家の恥辱になるという誘惑も棄て難かったのでしょう。万一、実は由比正雪の遺児と発覚しても、吉原に封じ込めておけば、伊達家は絶縁したことになります。そういう打算です」

「その場合、同じ顔を持つまさの殿もただではすまなくなる。気が気ではなかっただろうな。お前が吉原から出てくるのを恐れて、伊達兵部様へ注進に及ぼうとして、陸奥守様に手討ちとなったわけだ。その死体を利用し、生きていては不都合な大罪人の娘であるすみの殿――お前を死んだことにもできた。決して、酒乱の蛮行ではない。そこまでして、陸奥守様は――」

 すみのを守りたかったのだ。そして、もう一人。

「止雨殿は生き恥さらしながらも、見守らねばならぬものがあるといった。それはお前だった」

 綱宗もいった。抱かねば、すみのが鍋島、伊達両家から疎まれた理由を知ることはできない――。それはこの危険なすみのと一蓮托生の身内となれ、ということだった。

 助広は、道中着のすみのに重く視線を落とした。

「白戸屋へは……行かなかったのか。向こうは待っていただろうに」

「嫁でもないのに、祝いをいただくわけにはいきますまい」

「その旅支度は……?」

「江戸へ戻ろうと思います」

「ここまで来て、怖じ気づいたか」

「それは師匠ではありませんか。女が恐い、私が恐い、いえ、私が嫌いというべきでしょうか」

「せっかちだな。出会って、まだふた月ではないか」

「だから……?」

「嫌いになるには短すぎる」

「では、好きになるにも短すぎますか」

「男は女をいきなり嫌いにはならぬものだ。まず好きになり、いろいろあって、嫌いになる。ひと月やふた月は好きになり始めだ」

「…………」

「女は男を嫌いになることから始まるのかな。私こそ嫌われているのではないかと身の細る思いだったが」

「嫌いなら、ここまでまいりません」

「ならば、白戸屋へ行って、祝いをもらってこい。祝言用の衣裳を、な」

「私は伊達家の血筋ではなく、天下の謀反人の娘ですよ。他の菓子はうまく作るくせに、花林糖だけはへたくそな謀反人の」

 すみのは止雨の正体を知っている。しかし、この頑固な二人のことだから、親子の名乗りをあげてはいないだろう。

「江戸で出会った何人もが、お前を守るために懸命だった。誰にも大切ということだ」

 助広は自分の荷物の中から、刀装小道具を取り出した。端午の節句の縁頭と馬の目貫である。

「これで、お前に短刀拵を作る。この縁頭を使うとなると、鐔も必要かも知れん。図柄の合うものを探すにしろ新規に作ってもらうにしろ、しばらく時がかかる。中身の短刀も作らねばならん。鐔がつく小さ刀拵となれば、懐剣よりは大きくなるが、女持ちの短刀ならば、柾目で作るものだ。実をいうと、柾目は得意ではない。だから、完成はだいぶ先になる。江戸なんぞへ戻られたら、届け先がわからぬ」

 こんな会話を続けても埒があかない。助広はすみのの腕を取り、手甲を、旅支度を解き始めた。しかし、脚絆にまで手を伸ばすこと、合羽がわりの浴衣を脱がすことはためらわれた。が、すみのの方から身体を預けてきた。助広の両腕には彼女を逃がすまいと力が入った。

「さきほど、鱧の皮を買ってきました。胡瓜のザクザクと一緒に出してくれるよう、宿の料理人に頼んであります」

「一緒に食おう」

「はい」

「紀伊屋敷へ刀を納めに行った時、会津の加須屋左近(武成)様いわく、押しかけ女房もなかなかよいものだそうだ」

「押しかけというより、押しつけでしょう、この場合」

「鮓に重石をかけて押すのも得意そうな女房殿で、結構だ。病みつきになった早鮓(はやずし)を、これで大坂でも食べられるな」

「そうはいきません。早鮓を作るのは名刀ができた時だけです。『雙』と銘を切った時だけです」

「思い出した」

「何です?」

「京都の寺をめぐって、何の願をかけた?」

「決まっています」

「お前は、初めて会った時、霊験あらたかで焼けぬというなら、刀ばかりでなく多くの寺院仏像が焼失するものかといった無信心な女だぞ」

「あはは」

 助広の腕の中で、すみのの肩が弾んだ。

「霊器といわれた本物の振分髪が将軍家から伊達家に返されたのに、義山公(伊達忠宗)は本復なされませんでしたからね」

「しかし、お前の願がかなうように私も力を尽くそう」

 助広には精一杯の愛情表現だった。すみのは小さく頷いた。

 風が、薫った。

 

 仙台城主の座を追われた伊達綱宗は、品川高輪の下屋敷に生涯、逼塞の身となった。

 逼塞の刑は原則として昼間に限った外出禁止であり、短期で終わるのが通常で、刑期中も夜間の人目につかぬ外出ならば黙認されるものだが、綱宗の場合は正徳元年(一七一一)六月四日、七十二歳で没するまでの五十年間、それが許されなかった。

 綱宗の隠居は、こののち十年以上に及ぶ伊達騒動の発端となり、伊達兵部、原田甲斐らと田村右京、伊達安芸らが対立、寛文十一年(一六七一)三月二十七日、原田甲斐が伊達安芸を殺害し、時の大老・酒井家をも巻き込んだ刃傷事件の果てに、終息することとなる。

 原田甲斐は事件現場となった酒井屋敷で斬殺され、そののち、伊達兵部は土佐高知にお預け、寛文四年七月に酒井忠清の養女と婚姻していた兵部の嫡男・宗興は豊前小倉へお預けとなり、原田甲斐の四人の息子は切腹を命じられた。

 一方、綱宗は好んだ酒を断ち、その力量を芸術に昇華させ、和歌、書画、能楽、茶道、囲碁、弾琴、彫刻、蒔絵、組紐、織物、時計工作に至る、あらゆる趣味に遊んだ。特に精魂を傾けたのが刀剣鍛錬と絵画であった。刀剣の相鎚は国包、兼次ら抱え工であったが、ほとんど安倫がつとめた。

 伊達家御腰物台帳には綱宗の作刀が十六本記載され、紀伊家九代・徳川治貞が好んで佩用し、肥前平戸の松浦家にも伝来していたという。「仙台正宗」と俗称する声もある。

 古川柳にいう。

「高輪に筋目正しき刀鍛冶」

 

 佐藤寒山『武将と名刀』(人物往来社)『武将とその愛刀』(新人物往来社)によれば、振分髪の脇差は終戦まで伊達家に伝来していたが、正真の正宗ではなく、慶長以降の新刀であったという。

 福永酔剣『日本刀よもやま話』(雄山閣)では、振分髪はすでに大正の頃には伊達家を出ており、質屋へ入ったのち、消息不明としているが、同著者の『日本刀大百科事典』(雄山閣)には戦後の所有者名が記されている。前著ではこれも新刀とし、後著では室町期の備前物らしいとしている。

 

 万治三年(一六六〇)を境に、山野加右衛門が截断銘を入れる刀は大和守安定から長曽祢虎徹へと移行していく。虎徹の売名の功労者は加右衛門といえる。寛文四年(一六六四)より「虎徹」は「乕徹」と改められた。

 当初、虎徹の作刀には巧みな彫刻が施されていたが、名声を得ると、それも少なくなり、その刃味をもって、寛文、延宝という武家文化の終焉期を彩る伝説的名工となる。延宝六年(一六七八)六月二十四日、上野東叡山忍岡辺にて没したというが、行年は不明である。その作刀は約三百振りが現存するという。

 が、虎徹の弟子たちの作刀数は極端に少なく、ほとんど師匠への協力つまり代作に終わったものと見られている。

 

 虎徹と同時期、大坂新刀の頂点に立ったのが津田助広であった。大海原のうねりのような濤瀾刃を創案して、のちのち彼に私淑する多くの刀工を生み、江戸後期の鑑定家・鎌田魚妙によって、その刃文は「旭瀾(あさなみ)」と絶賛された。彼の作刀は高級武士たちの垂涎の的となり、幕末には井伊直弼の佩刀も助広であった。

 少年時代から鍛刀一筋だった助広は、生涯に千六百七十余振りを打ったと伝えられ、青年期の作に「雙」と銘を切った作刀が十数本現存している。

 その意味するところは諸説ある。二代目という意、あるいは父との合作、または父である初代助広の没後、「影身に添ふて我が鍛刀を助くるなりとの自覚を有ち、追孝の情やみ難く、依然雙字を切添へし」とする説、「正宗に雙ぶ」の意とする説、「雙」の上に何もないから、天下無雙の意、大小二刀を揃えて作刀したという意、二ツ胴を斬り落としたという意、『宗史』書中の「馳揮雙刀」を典拠とする説など、さまざまである。

 助広は一男一女をなしたが、いずれも早世して、その血流は絶えた。養子を三代助広としたとも伝わるが、その作例を見ないのは既述の通りである。

 天和二年(一六八二)三月十四日、四十六歳(四十七歳とも)で没。幕末に建立された石碑が、大阪市中央区(旧南区)妙徳寺に残る。一族の名は同寺の過去帳に残っているが、何故か妻の名前だけは記録されていない。

………………

記(書籍版あとがき)

 この小説を書き上げた時、世はまだ二○世紀であった。約束していたはずの出版社は完成原稿を受け取ろうとさえせず、他のいくつかの出版社に持ち込んだものの、刀に興味のない編集者は、登場する刀鍛冶たちが実在の名工であることを知らず、濤瀾刃や数珠刃などのイメージも湧かないのだから、内容を理解しろというのが無理で、いずれも門前払いを受けた。

 自費出版の計画も何度となく頓挫したが、とにもかくにも、こうして本の形にできたのは読者の皆様のおかげである。どうもありがとうございます。

 表紙カバーには登場刀工たちの茎を掲げた。伊達綱宗と安倫による合作刀の珍しい写真もあったのだが、諸事情で掲載できなかったのは残念である。

 なお、本書で年齢をいう場合は「数え」である。また、刀剣の正しい数え方は「振(り)」であり、あるいは「口」を用いる場合もあるが、刀剣関係者は日常会話では「本」を用いるので、本書でもあらたまった場面以外では「本」を採用した。

 さらに、考証していく上で、資料に諸説が混乱している場合には折衷せざるを得なかった。一例をあげると、両国橋が完成した年もまちまちで、甚だしい場合には同一書であっても、別頁にそれぞれ「万治二年」「万治三年」「寛文元年」と書いてある有様である。やむなく、本書では万治三年の段階で「仮橋」が架かっていることにした。そのように記された資料もある。

 江戸の風俗から幕府の職制に至る参考文献、資料は無数にあり、列記しかねるが、本作に登場する刀工に関しては『長曽祢乕徹新考』(小笠原信夫著・雄山閣)、『越前守助廣大鑑』(飯田一雄編著・刀剣春秋新聞社)、『日本刀物語』(福永酔剣著・雄山閣)の三著に依るところが大きい。記して感謝します。

         平成十九年仲秋  著者

………………

配信版あとがき

 もう二十年以上も昔のことである。助広の妻の名前が過去帳にないという資料に接した時、何やら胸にざわめくものがあった。江戸期当時は家系図などでも女子の名前が記されないことは珍しくないが、私の想像は膨らんだ。

 しかし、その後の情報では、大阪にあるとされた石碑も過去帳も現存していないようである。私は何を典拠として「何故か妻の名前だけは記録されていない」と、この小説の最後の文を書いたのか。集めた資料はすでに散逸しており、突き止めることはできなかった。

 先人たちが著した刀剣関係書は取材時期が古いことが多く、最近の話かと思ったら戦前の取材だったりする。また孫引きを重ねており、出典が何なのか不明の場合もある。ようやく出典にたどり着いてもその内容に信憑性がないことも多々ある。

 小説はフィクションであるから正確無比である必要はないかも知れないが、嘘は少ないに越したことはない。今回、最後の文は「過去帳は現存していない」と書き改めようかとも考えたが、執筆当時の自分のモチベーションを打ち消してしまうようで、それは忍びなく、原文のまま残した。

 さらにあとがき。

 この『雙』は平成十九年に限定二百部を自費出版したものであります。以後十七年の間に生じた訂正したい箇所を手直ししたものがこの度の配信です。ただ編集ソフトの都合上、断念した部分もあります。また原稿データをHP上でどのような形で掲載するかは刀剣杉田に一任し、著者はタッチしておりません。が、機会を与えて下さった刀剣杉田には感謝しております。

         令和六年季秋  著者

「雙」第25回

雙 第25回 森 雅裕

五・雙

 いろいろと雑用が発生し、助広が江戸を発ったのは八月の初めで、上方へ入った時には八月半ばとなっていた。伏見立売堀(のち常盤町)の自宅へ戻る前に、考えておくべきこと、覚悟を決めるべきことがあった。

 同道したすみのを父親にどう紹介すればいいのか、東海道を歩く半月もの間、この男は考えようともしなかったのである。刀作り以外のことは面倒臭がる性格だった。逢坂山に至って、この問題を思い出し、京街道を大坂方面へは向かわず、京都の町に入ったところで足が止まった。まだ陽が高いのに、五条の鴨川べりに旅装を解いた。

 それでも考えようとはしない助広の頭脳は、三条に白戸屋本店があることを思い出した。江戸店で世話になった礼はいわねばならない。

 

 白戸屋京都店は、気分の悪くなった客のために床部屋や薬調合庭(ば)まである巨大な店で、二階は女向けの売り場、一階が男向けとなっている。

 これほどの店だから、主人がいきなり応対するわけはなく、まず番頭が呼ばれてきて、店先で迎え、

「御内儀をおもらいやしたそうどすなあ」

 江戸の善兵衛からの連絡が先んじている。

「……で、どちらに?」

 助広のうしろを見回すような表情なので、しかたなく、よそに宿をとったことを告げると、

「何ですの、師匠。うちにお泊まりくださればよろしいのに」

 すみのの顔を拝めなかったことを本気でくやしがり、

「主人は今、金道様のお相手をしております」

 と、いった。

「金道師が来てはるんか」

「へえ……。御挨拶しときなはれ」

 気は進まないが、「逃げた」とあとで嫌味をいわれるのも心外なので、番頭に案内されるまま、奥へ進んだ。

 伊賀守金道の初代は関ヶ原合戦の直前、太刀千本を間に合わせるよう徳川家康の命を受け、在京の鍛冶たちを自分の支配下に入れる条件でこの任を果たし、戦後、家康の周旋にて、日本鍛冶惣匠の勅許を受けた。以後、全国の刀鍛冶たちが官位を受ける時は、金道を通さねばならない。「かねみち」が正しいが、祖の兼道と区別するために「きんみち」と呼ばれる。

 初代は寛永六年に没し、西洞院竹屋町通りに住する当代は二代目である。特に名工というわけではないが、この代から菊紋を許され、鍛冶惣匠の特権は受け継いでいるから、羽振りはいい。白戸屋での買い物も助広の数倍だろう。

「おお。江戸帰りかいな」

 座敷で、金道は白戸屋京都店の主人・高助と碁を打っていた。

 助広は高助に江戸店で世話になった礼を述べ、土産の浅草海苔を差し出した。

「軽いから土産にはええな」

 金道はこんなことをいう男である。

「江戸では、火であぶって食します」

「東海道を歩くうちに湿気ってしもとる。そら、あぶらなならんわな」

 これでも悪意はない男だ。

「御前鍛錬はどないやった?」

「いろいろ学ばせてもらいました」

「いずれ、それをわしにも教えてもらうことにしてやな……。ちょうどええ。われに会いたいと仰せのお方が在京されとる」

 こういういい方をされると、ろくなことはない。江戸で学んだことのひとつだ。

「どなたですやろ」

 どうせ勿体つけて答えまい、と思ったら、

「御老中・松平伊豆守様や」

 金道は素直に名前を出した。

 松平伊豆守信綱は武州川越藩主。家光の側近から引き上げられ、幕政の実務処理の多くはこの男があたっている。寛永十四年(一六三七)の島原の乱では、九州へ下向してこれを鎮圧し、慶安四年の正雪事件を解決処理、明暦三年の大火で壊滅した江戸において、大規模な防災対策、道路拡張、市街地拡大などを進めている。

「大坂城修復の御指図を終えられて、江戸へお戻りの途中やが、京都に滞在なさっておられる。禁裏へ将軍家からの献上品をお持ちになっての」

 六月十八日に大坂城青屋口火薬庫が落雷で爆発し、被害は天守閣にも及んで、死傷者百余人という被害をこうむった。信綱はその修復のために大坂へ差遣され、八月十一日には京都入りしているのである。翌十二日には、禁裏へ太刀、黄金、蝋燭などを献上していた。

「御老中がなんで私を……?」

「さあなあ。刀の注文なら、わしにしやはるやろうし……。われ、江戸で何かあったんと違うか」

「…………」

「宿を教えとき。迎えが行くかもわからん」

「大坂へ戻る途中ですけど」

「あほ。大坂は逃げやせんわ。智恵伊豆の異名をとる天下の実力者にお目通りできる、またとない機会やないか」

 やむなく宿を教えた。

「御老中の御前に出る肩衣袴なんぞ、お持ちやあらしまへんやろ。あとで、お宿へ届けさせますわ」

 白戸屋高助がいいながら、休めていた手を動かし、碁石を盤上に鳴らした。

「あ。あかん」

 苦悶を始めた金道をよそに、高助は助広に笑いかけた。

「御内儀もどうぞ寄こしなはれ。お祝いをさしてくれなはれや」

「おお、嫁はんもろたいう話やなあ……。鍛冶屋の女房に美人は禁物。金屋子様が焼き餅焼かはる……」

 上の空で金道は呻き、碁盤を睨んでいる。

「うちの嫁はんはその点、安心なんやけどなあ……」

 

 宿へ帰り着くと、すみのも京都見物から戻ったところだった。

「神社仏閣をいくつか回ってきました。これだけのお宮や古刹名刹に願をかければ、御利益がありそうなもの」

「何の願をかけた?」

「いえますか、そんなこと」

「白戸屋が、祝いをくれるそうだ。店へお越しやして、お選びくださるよう、御内儀にお伝えください、だと。お前の顔を見る口実だ」

「見られては恥ずかしいのですか、師匠は」

 この期に及んで、まだ師匠と呼んでいる。職人や芸事の世界では、妻子が主人をそう呼ぶことも珍しくないが、助広とすみのの場合は他人行儀でしかなかった。

「恥ずかしいのではない」

 照れ臭いのである。それに、野次馬的な好奇心の餌食となるのも業腹だ。ひねくれている。

 御前鍛錬のために江戸へ出向きながら、帰りに女連れというのは、潔くないとも感じた。ひねくれ者というのは筋を通したがる性格なのである。

 この二人はむろん祝言をあげていないし、まだ身体を重ねてもいなかった。

「お邪魔なら、京都島原へ売り飛ばしていただいても結構でございますよ」

 島原の公称は西新屋敷である。江戸前期の浅井了意『浮世物語』には、

「肥前の天草一揆の取り籠りし島原の城の如く、三方は塞がりて一方に口ある故に、かやうに名付け侍べり」

 と、いう。遊郭ならそれも当然で、吉原も同じ三方ふさがりである。

「馬鹿をいうな」

「馬鹿くらいいわなきゃ、生きているんだか死んでいるんだか、わかりゃしません」

「刀を作っていれば、私は生きていると感じる」

「じゃ、私はどうやって感じればいいんです?」

「島原へ行けば、感じることができるのか」

「吉原では、生きていると感じていました」

「わからんな」

「少なくとも、殿方の役には立っていました」

「そうか」

「男の人は淋しい時、悲しい時、つらい時、それにうれしい時、女の身体に癒され、励まされるんです。心が二の次というのは、女には幸せとはいえませんけれど、いろんなものを背負った男たちを迎えて、身も心も手当して、また送り出してきたんです」

「わかっている」

「何がですか」

 遊女にも誇りがあるだろうことが、である。儒教による貞操観念は武家の封建思想であって、庶民にはそんな人生哲学はなく、遊女が汚れているなどという価値観もない。遊女を妻に迎えれば、粋がる男なら鼻高々なのである。自分はすみののそんな過去にこだわっているわけではない――とは思う助広だが、何もできなかった。

 かつて彼女の客であった男たちとは違うという見栄もあれば、性技に長けた女に自分が通用するだろうかという不安も大きい。つまり、この男を金縛りにしているのは、すみのへの強烈すぎる愛情だった。

「何がわかっているのですか」

 すみのは繰り返し訊いた。

「私も大坂へ戻れば、いろんなものを背負っているということだ」

 だから、すみのが必要だ、という言葉は省略した。

 夕刻になって、二人の武士が訪ねてきた。松平信綱の使者だった。

「明朝、二条城へ参られたい」

 とりあえず、また一日、大坂へ戻る日が延びた。 

 

 明朝、二条城からの迎えが来て、助広は衣服をととのえ、参殿した。

 壮麗な二ノ丸御殿へ入ったが、案内されたのは泉水を囲む庭園である。その西側には内堀がめぐらされ、伏見城から移築した天守がそびえている。 

 松平信綱は一人で、東屋の屋根の下にいた。老中最年長の六十五歳。

「御殿の中では気づまりゆえ、ここで話そう」

 名代役者のような保科正之、悪党の貫禄を持つ酒井忠清、どちらとも違い、信綱は会う者を圧する容姿ではない。言葉にも飾らぬ響きがあった。

「御前鍛錬は、大儀であった」

「身に余る光栄でございました」

 挨拶はそれだけで終わり、信綱は本題を切り出した。

「大坂へ向かう途中で江戸より知らせを受けたが、伊達陸奥殿が放蕩をとがめられ、逼塞の身となったとか。そのようなかぶき者とは思わなんだが……」

「異様」を意味する「かぶき」者の風俗が太平の世を席巻している。

「お前は仙台伊達家と縁あって、吉原でも、陸奥殿の傍らにいたそうじゃな。様子はどうであった?」

「私ごときには、政事(まつりごと)はわかりかねます。ただ、陸奥守様は泰然として、隠居の指図に従われましてございます」

「わずか二十一歳で、隠居か。それも罪人の扱いで……」

 信綱は、庭園を渡る初秋の風に目を細めた。

「雅楽殿(酒井忠清)の引いた図面じゃ」

「は……?」

「幼君を立て、伊達兵部殿が後見役となって、伊達宗家の実権を握る。兵部殿の息子には雅楽殿の養女と婚姻の話がある。雅楽殿も肩入れしたくなるじゃろう」

 信綱は江戸の出来事をこの地から見抜いている。もっとも、この最年長の老中は遠く離れていたわけではない。

「陸奥殿に隠居の沙汰が申し渡された七月十八日は、わしが江戸を発った日じゃ。邪魔者が留守にすると同時に、早業でやってのけおった。わしのような年寄りを大坂城修復に出向かせたのは、それが狙いじゃ」

「そのようなお話、私ごときになされてもよろしいのですか」

「わしから何を聞いたとお前がいいふらしたところで、世間は真面目に取り合うものか」

 それはそうだ。世間の興味は仙台伊達家内部の政争よりも当主の醜聞にこそある。

「それに、わしの口が重ければ、お前の方も軽くはなるまい」

「刀鍛冶風情の口を軽くなさって、何をいわせるおつもりですか」

「その刀鍛冶風情を伊達陸奥殿ばかりでなく保科肥後殿までもが贔屓の様子ではないか。理由を知りたいと思うてな」

「贔屓も何も、伊達家伝来の振分髪の写し作りを命じられただけでございます」

「貞山公(伊達政宗)が磨り上げさせたという、あれじゃな。写しを二振り作り、紀伊様、尾張様に納めたと聞くが」

「その二本の作風の違いについて、会津中将様のお茶室にて、会津様と酒井雅楽頭様に御説明を申し上げました」

「それをここでも申してみよ」

 助広は事情を話した。ただし、あくまでも刀に関することだけだ。迂闊なことはいえない。そのための監視役として、すみのが押しかけ女房になっている。

「振分髪が偽物……とな。それは面妖」

 と、信綱は知的な目許を瞬かせた。

「振分髪は酉年の大火でも焼けてはおらぬ」

「…………!?」

 信綱はまっすぐに助広を見据えた。苦笑さえ浮かべている。

「わしはこの目で焼け跡を検分しておる。江戸城の刀剣類は三十振りずつ三十個の刀箱に納められ、うち二十五個が焼失した。その二十五個の中に振分髪が入っていて、一振りだけ無事であったというなら、なるほど霊器じゃが、残りの五個の刀箱のひとつに入っていたのじゃ。箱はこわれてはおったものの、焼けてはおらなんだ。振分髪は名刀ではあっても、神がかりなものではない」

「……では、将軍家から伊達様にお返しになった振分髪は?」

「本物じゃ。伊達家には本物の振分髪があるはず」

「え」

 思い起こせば、誰も振分髪が焼失したとはいっていない。仙台屋敷で、まさのと名乗るすみのに振分髪の偽物を見せられた時も、保科正之に招かれた会津屋敷の茶席でも、焼失したものと思考を誘導されたのである。

 となると、あの偽物はごく最近、もしや助広が御前鍛錬に参加することが決まってから、急遽、作られたものかも知れない。ならば、柾目が目立つ理由もわかる。偽物と知れるように、あえてそう作ったのだ。つまり、虎徹の刑死の理由は、振分髪の偽物を作ったことの口封じではないことになる。では、保科正之が虎徹を死に追いやったと告白した理由、今の虎徹は替え玉だと欺瞞する理由が、他にあるのか。

「偽物の作者は誰か」

「わかりかねます」

「では、わしがいう。虎徹であろう」

 信綱は知っている。だが、助広に何をいいたいのか、あるいはいわせたいのか。

「伊豆守様。興里虎徹が死罪となったこと、御存知ではありませんか」

「裁決したことは覚えておる。会津中将様が知らぬ者ではなかったようじゃが、諸大名家から所蔵刀の焼け身を買い集めていたゆえ、見過ごすわけにもいかなんだ。大名家の一部にも処断を下した」

 虎徹は古鉄の買い漁りと勝手な試し斬りを罰せられたのだ。それ以外の理由はない。後年の調査にそなえて刑死の記録が残されたわけではなかったのだ。そして、不治の病の興光が身代わりとなった。

 断罪するのは表向きだけで足りる。本人である必要はない。保科正之にしてみれば、かつては嫡子を指導もした虎徹であるから、そんな形でかばい、一門も連座には及ばなかった。口封じの取り引きで、工房の存続を許したわけではないのだ。

「本物の虎徹は死んだことにしたければ、それもよかろう。しかし、助広。振分髪は焼失したことにされて、偽物を見せられた理由は何かな」

「私には刀のことしか申せません」

「刀か。そういえば、本阿弥光温から面白い刀を見せられたであろう」

「あ」

「わしが、見せてやれと光温にいうておいた」

「それはまた、いかなる理由でございますか」

「お前の器量を見極めるためじゃ。人に利用されるだけの愚か者か、他人と折り合いながらも自己を貫く男か。なにしろ、女房をもらうのであろう」

 信綱が虎徹に死罪の裁決を下したなら、保科正之の意を汲んでいるのだろう。つまり、信綱は正之の敵ではない。この人物こそが幕閣の中の協力者だ。それも第一の。

「器量はともかく、頑固者であることはわかった」

「恐れ入ります」

「会津中将様の茶室に酒井雅楽殿が招かれたというなら、そこでどんな会話がなされたかも、わからぬではない。刀鍛冶にはたいして面白い話でもなかったであろう」

 信綱の声は涼しい。力強いのだが、淋しいともいえるかも知れない。幕閣随一の辣腕をふるった男にも老境の落日はやってくる。これより二年後には没する知恵伊豆である。

「わしが少しは面白い話をしよう。あくまでも仮の話として、聞け」

「はい」

「雅楽殿には虎徹に問い質(ただ)したいことがあった。つまり、由比正雪の件」

 それは助広も悟っている。

「考えてみよ。由比正雪の事件は結果として、諸大名に緊張を与え、御三家の発言力を奪い、それによって、大猷院様(家光)薨去後の公儀のあやうい時期を乗り切ることができた。また酉年の大火により、江戸は無秩序であった人家の寄せ集めから東都と呼ぶにふさわしい整備された町へと発展した」

 いずれも信綱のなしとげた事業である。

「事件も大火も、為政者によって仕組まれたものであったとしたら、どうであろうか」

「恐ろしゅうございますな」

「それが仮にわしであるとしても、むろん、一人の幕閣の一存で可能なことではない。が、その一方では、一番新参の若い老中がそうした政事の裏側から疎外されることは有り得る」

「政事の裏側」――それが伊達綱宗のいっていた「闇の政策」か。

「一番若い老中は酒井雅楽頭忠清じゃ」

 任命されたのは承応二年(一六五三)である。由比正雪の慶安事件の二年後、明暦の大火の四年前だ。時を同じくして、松平信綱は老中首座を酒井忠清に明け渡し、次席に降格されている。

「譜代の中でも最有力の家系である雅楽殿は、老中に任じられた時点で、われら先任の老中たちよりも上席であった。大猷院様以来の遺老を一掃するために弱みを握りたいと張り切るのも当然」

 家光の近習から出発し、実績を積み上げて老中にまで出世した「遺老」松平信綱、阿部忠秋とは家柄が違い、近い将来、大老となることが約束されている。それが酒井忠清なのである。

「その雅楽殿が闇雲な探求心を持っているゆえ、お前も面倒に巻き込まれた」

「つまり、雅楽頭様は政事の裏側とやらと由比正雪のつながりを追及しておられると……」

「雅楽殿は由比正雪そのものを追っている」

 助広は耳をふさぎたくなった。

「正雪はまだ生きておる」

 助広は両肩を大きな手でつかまれたような気がした。身がすくんだ。信綱は止雨の存在と正体を知っているのか。

「いや。雅楽殿はそう考えているということじゃ。酉年の大火は正雪一味の残党の仕業といわれた」

「はい」

「一部は事実じゃ」

「え……!?」

「江戸の町をまるごと焼き払ったあの大火は、すべてが失火だったわけではない。放火も含まれておる。火事に乗じ、盗みを働く者どもが多かった。そして、江戸市中を混乱に陥れ、謀反の虚夢を追った連中もいた」

「正雪一味ですか」

「正雪自身は死んだことになっておる。残党どももあの男が生存しているとは思っておるまい。が、日照りの続いた風の強い日に火を放つ――。慶安事件から数年を経ていたが、捕らえた者の自白で、残党どもにそんな企みがあることは知っていた。しかし、わしはあえて泳がせた。どうせ、謀反の兵火というほどの力は残党どもにはない。奴らの目的は、せいぜい大がかりな火事場泥棒じゃ。一方、わしとしては、際限なく膨張する江戸を再構築するために、一旦、更地に戻す必要があった」

「まさか――」

「江戸城までもが西ノ丸を残して、すべて焼失したのは計算外じゃったがの。会津中将様にしても、この火事が御嫡男の生命を縮めることになったのは皮肉というもの」

 これが、経世済民の手腕をうたわれた知恵伊豆の言葉なのか。「闇の政策」とは、このことだったのか。江戸を焼き払う画策に、保科正之以下の幕閣が加担したのか。酒井忠清を除いて。

「雙」第24回

雙 第24回 森 雅裕

「お殿様。お腰のものはお預かりいたします」

 揚屋の使用人が腰をかがめながら、手を差し出した。大だけではあるが、綱宗はあっさり渡した。

「太守……お屋形様。どういう御料簡ですか」

 安倫が蒼い顔を向けたが、綱宗は虚無的に微笑んでいる。

「将たる者、負け戦と決まれば、もはや無駄な抵抗はせぬもの。首が欲しい連中には、潔くくれてやる」

「よろしい。お供つかまつる」

 加右衛門が高らかに告げた。どうやら助広も彼ら郎党の一員となっているらしい。

 彼らは二階の座敷に陣取った。

「すぐ、薄雲太夫の御都合をうかがいに出しますので」

 そういう主人に、

「いらぬ。少々取り込んでおる」

 酒だけ運ばせ、綱宗は盃をあおった。淫酒の「淫」はともかく、綱宗の「酒」好きは訛伝ではない。

「お前たちに盃を取らす。飲め」

 それぞれ、一杯ずつ受けた。助広は咽喉が狭くなった気がして、無理に流し込んだ。ともかくも遊女の相手をせずにすむのは一安心ではあったが。

「辞世でも詠むか」

 綱宗は広げた扇子に筆を走らせた。

 やがて、追いついた侍臣たちが現われ、敷居の向こうに膝を折った。数は五人。

「お屋形様。お腹を召されませ」

「何故か」

「小石川堀普請の指揮にかこつけ、屋敷をお出になっては御放蕩の日々。ついには公儀の勘気をこうむり、隠居逼塞の御沙汰。そして、本日は下屋敷へ移ると称しながら、吉原遊郭への回り道。不行跡のけりをつけていただきます」

「普請初めは五月十九日、鍬初めが五月晦日であった。普請が始まったのは六月ぞ。たったひと月かふた月そこらで、お家騒動が起こるほどの放蕩の日々か」

 綱宗は苦笑というよりも、むしろ相手を憐れむような表情だ。

「叔父上(伊達兵部)の書いた筋書きか」

「すでに成敗された君側の奸どもが冥界にてお待ち申しておりますぞ」

 侍臣たちも刀を預け、腰にあるのは脇差だけだ。吉原から刀剣類が全面的に閉め出されるのは、元禄期とも享保期だともいう「吉原百人斬り」などの刃傷事件後のことで、この頃は帯刀もさほどうるさくはない。

「断わったら、どうなる?」

「我々が討ちます」

「わしが討たれるのはよい。が、ここに同席の者たちはどうなる? 君側の奸ではないぞ」

「事情を知る者を見逃すことはできませぬ」

「斬るか」

「はい」

「それは許さぬ」

 その言葉をきっかけに、侍臣たちが膝を立てた。安倫が綱宗をかばおうとする。綱宗は自らの脇差を鞘ぐるみ抜き取り、加右衛門の手へ投げた。

 侍臣たちが殺到した。白刃が続々と加右衛門へ、綱宗へと振り下ろされる。助広は一人の侍臣へ突進した。素手だが、職業柄、力は強い。夢中で揉み合ううち、凄まじい絶叫が轟いた。肉塊が畳のあちこちに落ちた。

 加右衛門が奔らせた脇差の光芒が鎮まった時には、三人が絶息していた。助広が腰にすがりついていた侍臣も加右衛門のひと太刀で死体となっている。さすがに息をのむ斬り口だった。残る二人は身動きを忘れたかのように、尻餅でもつきそうなほど腰を低く、脇差を構えている。血の匂いが爆発的に立ちこめた。

 安倫は綱宗の盾となって、肩口を斬られている。助広は返り血を浴びているが、無傷だ。死体の手から脇差を奪い、構えながら怒鳴った。

「安倫、大丈夫か!?」

「……今のところは。人が大勢いるところでは乱暴狼藉は働くまいといったのは、どなたですか!?」

「今どきの伊達家家臣はしつけがなってないな」

 そういう加右衛門に、

「上に立つ者のせいだ」

 綱宗が苦笑を返した。

 修羅場を覗いた揚屋の主人が悲鳴をあげ、階段へと逃げ戻った。何かがぶつかり落ちる音がにぎやかに響いた。

「さて。どうする……?」

 加右衛門が訊いた。料理の献立でも尋ねるような口調だ。二人の侍臣は蒼白となって、脇差を突き出してはいるが、手も足も前方へは動かない。

「屋敷へ戻って、お歴々に筋書きを書き直すように伝えろ。さらに討ち手を差し向ければ、騒ぎが大きくなる。人の口に戸は立てられぬ。吉原で起きたことはたちまち江戸中に広まる。公儀に聞こえれば、お家の存亡に関わるぞ。それでは元も子もあるまい」

 侍臣たちは脇差を納め、身を翻した。彼らが路上へと飛び出す後ろ姿を加右衛門は窓から見送り、

「逃げたくてしかたなかったようだ。口実を与えてやったら、一目散だ」

 脇差の血脂を懐紙で拭い、

「揚屋が面番所へ駆け込むと面倒だ。町役人とて、大名家の内紛に関わりたくはあるまい。釘を差しておきましょう」

 階下へ足を運んだ。また悲鳴があがる。

 助広たちは血の匂いから逃げて、隣室へ移り、安倫の手当をした。

「助広師に手当していただくのは二度目ですね」

 深手ではなかった。山野加右衛門のような修練なしには人体を一刀両断できるものではない。

 騒ぎが一段落すると、猛烈な吐き気がこみあげてきて、助広は厠へ駆け込んだ。

 ふらふらと壁や障子にぶつかりながら戻ると、

「いずれも血まみれじゃな。着替えを届けるよう屋敷へ使いを出してよかったであろう。死体の始末もせねばならぬ」

 そういう綱宗に、酒を手に戻った加右衛門が訊いた。

「手回しの良いことでございます。しかし、届くのは水裃(切腹用の浅葱色の裃)ではありますまいな」

「そんなもの着ずともよい。船上でわしを葬ろうとしたのは、屋敷では血を流したくなかったということ。伊達宗家の当主にふさわしからずとはいえ、命を奪うには及ばずと考える家臣もおるでな。わしの敵であれ味方であれ、誰もこれ以上の大事にはしたくないじゃろう。今後は逼塞を守り、世捨て人となれば、もはや殺す値打ちもなかろうよ。――窮鳥懐に入れば仁人の憫(あわれ)むところなり。いわんや死士我に帰す。まさにこれを棄つべけんや」

 綱宗は淡々としたものだ。

「昨年生まれたわが嫡子・亀千代(のち綱村)が家督を継ぐが、後見人として、伊達兵部と田村右京が伊達家を牛耳ることになる」

 田村右京亮宗良は綱宗の兄で、仙台に近い岩沼の領主である。のちに一ノ関の兵部とともに、幕命によりそれぞれ三万石を得て、後見人に指名される。石高はともかくも、彼らは伊達家の家臣ではなく大名の扱いとなるのである。

「それで、よろしいのですか」

「わしは小石川堀普請をないがしろにして、公儀に背いたことになっておる。側近たちも佞臣として処断された。わしが下手に抵抗すれば、それこそお家の危機……。よいわ。すべて覚悟の上で、吉原へ通い、すみのを身請けいたしたのじゃ。わしはすみのを苦界から救い、助広という名工の命も救った。それで、充分じゃ。そのためにも――」

 澄んだ目が、助広へ向いた。

「すみのがお前の命綱となる。お前が見知った虎徹の事情、それに仙台や会津、尾張など各家の事情を口外せぬよう、すみのが見張る。一時たりとも離れてはならぬ。でなければ、お前を抹殺したがる者ども、わしとて押さえきれぬ」

「見張るとは、どういう……?」

「こういう意味じゃ」

 綱宗は扇子を放って寄こした。そこに死を覚悟しながら書きつけていたのは、辞世などではなかった。

「風うける帆を立てざれば世の海は かじのたくみも渡るすべなし」

 舵と鍛冶、巧みと匠をかけている。

「わしが六十二万石をなげうって、守ったお前とすみのじゃ。無下にはするな。よいな」

「…………」

「お前が大坂へ連れ帰らねば、あの娘はまさのとして、酒井家へ嫁に行かねばならぬのだぞ」

「私が迷うのは、自分のことではなく、陸奥守様のお味方がいなくなるのが気がかりだからです」

「何。わしには諸芸の師匠や仲間がおるわ」

 綱宗は品よく、しかし逞しく笑った。もう虚無的ではない。

「山野加右衛門。すみのの扱い、それでよかろう。お前の孫娘じゃ」

「は」

「まさののことはやりきれぬ思いであろうな」

「まさのが死に至ったのは、それなりの理由もござろうが、あれとてそれがしの孫。無念に存じます。その分、すみのが幸せになってくれれば、救われまするが」

「吉原より戻ったすみのとは、話くらいはしたのか」

「いえ。涙の対面は柄ではございませぬ」

 加右衛門は懐から小さな桐箱を取り出し、助広の前に置いた。

「助広殿。いずれ、あの娘に懐剣など作ってやってくだされ」

 箱の中身は目貫だった。図柄は馬である。

「あの娘の干支でござる」

「……はい」

「ところで、陸奥守様」

 加右衛門は両膝を綱宗へ向けた。

「それがしは、虎徹をめぐる姑息な企みに賛同はいたしかねます。人の生命、名前はそう簡単なものではございませぬ。したがって、今後も虎徹の刀で試し斬りを行ない、あれが替え玉などと考える者をなくしてしまう所存」

「好きにいたせ、横着者め」

 綱宗は悪戯っぽく目を輝かせ、加右衛門と助広を交互に見やった。

「すみのはすでに死んだことになっておるが、これも簡単なものではないというなら、すみのとして扱うがよい。縁組にあたっては、どこぞの町家の養女という名目にいたせ。ただし、当家としては、表向き、あれはまさのということにせざるを得ぬ。よいかな」

「承知いたしました」

「もうひとつ、かたづけねばならぬことがある。――加右衛門」

「は」

「すみのが苦界へ売られたこと、そのすみのを身請けすること、いずれもお前を蚊帳の外に置いた。お前が伊達家に憤るのも当然。許せ」

「もったいのうございます。それがしこそ、御無礼いたしました」

「そのこと。今、瞬時に三人を斬り捨てた脇差……。加右衛門が、試し斬りに及ばずと見向きもしなかったわが作刀じゃ。虎徹との相鍛え(合作)ぞ。どうせ刀は一人では作れず、厳密には世のすべての刀が相共作といえる。これをわしの作といいきっても、かまうまい」

「恐れ入り奉る。われらの命を救うてくれたこの御刀こそ、掛け値なき業物。金象嵌の截断銘を入れたいところでござるが、状況が状況だけに、銘文がむずかしゅうございますな。『於吉原生三ツ胴切落』とでも入れますかな」

 加右衛門は笑った。始めて見せる表情だった。

「そうか。業物と認めるか。これで、面目が立ったな、安倫」

「は。山野様の首を狙う理由もなくなってございます」

「お前の養父が腹を切ったのは気の毒であったが、わしの顔を立て、この場ですべて水に流せ」

「何。おかげで好きな刀工修業に専念できたのですから、遺恨などは流れ流れて、もはやどこまで行ったかもわからぬ有様でございます」

 そういう安倫に、加右衛門が告げた。

「金さえ積んでくれれば、おぬしの作刀にも派手な截断銘を入れて進ぜる。師匠の安定にも、よういうておかれよ」

 冗談にしても、人に好かれる口のききようではない。これが山野加右衛門という男だ。安倫の養父が加右衛門のために切腹していることを忘れたわけではあるまい。気にかけていても、それが表に出せないのだ。

「余目五左衛門、いや安倫」

 綱宗が穏やかな声で、締めくくった。

「安定師のもとで一人前となったら、帰参して、わしに仕えい。長すぎる余生となるであろうから、道楽をして過ごす。下屋敷に刀剣鍛錬場を作るゆえ、わしの相鎚をつとめることを命ずる」

 安倫は頭を下げた。肩が震え始めた。

 この日、万治三年七月二十六日、伊達綱宗は吉原を経由して高輪の下屋敷へ入った。長い幽居生活が始まる。公儀による家督相続の沙汰はこれより遅れ、嫡子・亀千代による仙台伊達家の襲封が許されるのは翌八月二十五日である。

 

 暮れてから寮へ戻った助広は、暗い座敷へ行く気にもならず、台所へ向かった。自分からすみのの方へ向かうのが筋のような気がした。

 井戸で顔を洗い、明かりの中を覗くと、もうまさのではない娘は、一人で支度をしていた。

 助広は、  

「ここで食う」

 と、座り込んだ。

「お出かけの時とお召し物が違いますね」

「陸奥守様のお見立てだ」

「道理で、白粉の匂いがします」

「……そうか?」

 どこで着替えるはめになったのか、すみのにかつての住処の名を聞かせたくなかった助広は、そっぽを向く。すみのも追及しない。

「献上のお返しを会津様からいただきました」

 将軍へ献上のつもりで打った短刀ではあるが、やはり助広だけを特別扱いはできぬということで、保科正之を介した注文という形をとったのである。

「また逃げてしまったな。白戸屋があきれていたか」

「今回も師匠は急病ということで、白戸屋さんと助直さんが御使者をお迎えしました。今回は届けていただいたので、千代田のお城へ呼ばれる期待がはずれた白戸屋さんでしたが、御使者の物々しい行列がこの寮を取り巻いて御近所の度肝を抜いたことで、欣喜雀躍、鼻高々でございました。この報奨の前には師匠に尾張柳生の刺客を送られたとも御存知なく」

「……助直は姿が見えないが」

「白戸屋さんが本宅の方でお祝いをするからと、そちらへ呼ばれていきました。じきにお戻りでしょう」

「私は行かなくていいのかな」

「病人が酒宴に出るわけにはいきますまい」

「で、いただいたものは……?」

「白銀十枚と……これです」

 まさのは飯櫃を開けた。松茸が炊き込まれている。上方では江戸ほど珍奇でもないが、この当時は煮るか焼くかするのが普通だ。

「まだ季節にはいささか早いですから、初物ということで」

 夕食が始まると、

「私もお前に食べてもらうものがある」

 助広は包みを差し出した。船上と吉原での活劇のせいで、ほとんどは原形もなく砕けている。

「止雨殿が寄こした。花林糖だ。お前の母が好きだったものだ」

「…………」

「かまわん。ここで食え」

 助広が松茸飯を食う傍らで、まさのは黒褐色の菓子を口へ入れた。二人して、おかしな光景だ、と助広は思った。

「止雨殿は他の菓子はおいしいのに、花林糖はさほどでもありませんね」

「母親の方がうまかったか」

「はい」

「私たちが夫婦になったら、どうなるのかな」

「……何です?」

「陸奥守様が、お前と離れるなと仰せだ」

「そうですか」

「弟子どころではない」

「もっとひどいですね」

「覚悟を決めろ」

「お互い様」

 別に気まずくもないが、いたたまれない空気が落ちる。それを救ったのが、来客だった。寮の使用人に案内されてきたのは、長曽祢虎徹である。

「ここでは客を台所に通すのかと思ったら……めし時だったか」

「会津様より賜った松茸です。よろしければ、虎徹師も御一緒に」

「御相伴しよう。助広殿がうちの鍛錬場で公方様の短刀を打っている間は、お嬢様に賄いをしていただいたから、あれ以来、舌が贅沢になってな」

 虎徹は徳利を置いた。

「めったに飲むものではないが、今宵は特別だ。わしとて、人づきあいはする。盃を、すみの殿の分も運んでいただけるか」

 いきなり、この男は彼女を「すみの」と呼んだ。正体を知っている。

「湯飲みの方がいいのでは?」

「盃だ」

 すみのは従い、盃を置いた。

「江戸の地酒『隅田川』だ。浅草雷門並木町の山屋半三郎とやらが隅田川の水で作り、浅草寺別当に献上して、銘を賜ったという。が――」

 虎徹は乱暴に注いだ。

「坊主が酒を飲むというのもふざけた話だ」

「浄めのつもりで、経でもあげてもらったのかも知れません。隅田川にはいろんなものが浮かんでいます」

 水死体も。江戸の人間は流域によって、隅田川を宮戸川、浅草川、大川などと区分することがあり、それに従えば、隅田川と呼ばれるのは今戸よりも上流であるから、両国橋より下流をいう大川よりも清流とはいえるが。

「飲め」

 虎徹は助広とすみのが盃を干すのを見守っている。

「助広殿。江戸を発つにあたり、弟子の助直殿は足手まとい、いやさ男女の道行きに邪魔であろう。わしのところへ足が完治するまで、預けていくがよい」

「道行きとはただならぬ物言いですな」

「おぬしたちは固めの盃を交わした」

 婚礼のつもりだ。だから、盃に限るといったのだ。 

「助直に江戸で勉強させてやってくださるのは有難いが……」

「酒癖が悪くなければ、かまわん」

「それが問題です」

「なら、酒も器も隠しておく」

「虎徹師の仕事場にあった京枡は、酒を飲むためのものではありますまい」

「興光の遺品だ」

「刑死されたのですな。興里虎徹の名前で」

 今さら、そらとぼけることはない。虎徹は今日、助広がどこへ出かけたかを知った上で、この寮を訪ねている。

「かつて、仕事のためには倫理も道徳も忘れた。酉年の大火を千載一遇の機会と、古鉄を求め、死体を斬り刻んだ。それが職人というものだ」

 確かに。助広にも理解はできる。

「が、そのために興光が犠牲となった。もともと病持ちで、永い生命ではなかったが……。わしとて自責の念で人相が変わった。すみの殿を売ってまで薬湯代にかえたこと、わが弟は悔いておったはずだ。わしからもすみの殿には謝ろう」

「もう、過ぎたことです」

 虎徹もすみのも互いにそういわざるを得ないだろう。だが、助広はやりきれない。

「興光師を身代わりに立てた自責の念で、虎徹師は図抜けた技量を持ちながら、作刀はもっぱら弟子にまかせ、自作することをやめたのですか」

「つい先日までは、そうであった」

「先日……?」

「御前鍛錬で、いや、おぬしに会うて、変わった。またぞろ鍛冶屋の虫が騒ぎ出した」

「では、これからまたお作りになるのですか」

「だから、おぬしと飲もうとやってきた。いや、おぬしたちと、だ」

 虎徹はさらに彼らの盃へ徳利を傾けた。

「わしが二人にしてやれるのは、こんな媒酌くらいのもの」

「固めの盃は何杯も酌むものですか」

 すみのが笑い、虎徹の盃にも注いだ。三人は江戸の地酒を何度となく咽喉へ落とした。

 軒下に、鉄の風鈴が鳴っている。

「助広師匠……!」

 寮の表方向から近づく声は、白戸屋善兵衛だ。

「『おすもじ』というのが何か、わかりましたよ! もうっ。人が悪い。今度こそまともな文句を書いていただきますからね!」

 台所へ現われた善兵衛は、新しい風炉先屏風を抱えていた。しかし、

「…………」

 しばらく無言で三人を見下ろし、屏風を落とすように置くと、あとから来るらしい助直に向かって、怒鳴った。

「助直さん! 師匠の御婚礼です!」

 廊下の向こうで、悲鳴と転倒する音が響いた。

「雙」第23回

雙 第23回 森 雅裕

 紀伊の頼宣も剛毅で聞こえた家祖だが、尾張の義直もひけを取らない。

 御三家は将軍側近からは「尾張様」「紀伊様」と呼ばれていたが、三代将軍・家光はこれを聞きとがめた。

「将軍家の家臣である三家に将軍と同じく『様』をつけるべきではない」

 以来、将軍の前では御三家は「尾張殿」などと呼ばれるようになったが、こうした将軍家の専横には、猛反発を見せた義直である。

 寛永十年(一六三三)十一月、家光が病に伏した時、義直は馬を飛ばし、自ら江戸へ向かった。しかし、小田原まで来たところで、病状好転の知らせを受け、江戸城へ向かわず、自分の江戸屋敷へ入ってしまった。のちに家光はこの無断出府の真意を糾問した。反乱かと疑ったのである。将軍家と尾張家の対立はこうして表面化した。

 翌寛永十一年八月には、上洛した家光が帰路、名古屋に宿泊するというので、義直は急ぎ御殿を建築したが、宿泊は取りやめとなった。面目をつぶされた義直は、参勤をやめて籠城するとまで息巻いて、紀伊頼宣と密談し、それを水戸頼房が探ったという記録が『南龍言行録』『水戸紀年』に残る。

 寛永十九年二月、家光の世嗣・竹千代(のち家綱)が山王祠に参詣する際、御三家に随従が命じられた。尾張、紀伊は大納言、水戸は中納言だが、当時、竹千代はまだ無官である。

「大納言、中納言の官職を帯びている者が、無官の者に随従する例はない」

 と、これを一蹴したのも義直である。

 義直は将軍家よりも朝廷を尊重して、甥の水戸光圀にも影響を与え、これが水戸学の尊王思想の礎となったとさえいわれる。

 つまり、由比正雪のうしろだてとなる要素は紀伊家のみならず、尾張家にもあったわけである。

「ただし、源敬公(義直)は慶安の変の前年、慶安三年六月に病没しておる」

 とはいえ、幕府覆滅の計画は一朝一夕のものではあるまいから、義直が正雪と生前に何らかの交渉を持っていたことは有り得る。

「尾張の当代は光義公(のち光友)じゃ。これまた父に劣らぬ硬骨の人物」

 のちの元禄頃の話だが、三葉葵紋の使用は御三家といえども遠慮するよう、という申し渡しがあった。紀伊、水戸の両家は不承不承ながら従ったが、尾張は改築した江戸屋敷のいたるところに葵紋をつけるということをやってのけた。光義あらため光友いわく、

「自分の名古屋城は相国様(家康)がお建てになったものであり、その時からすべてに葵紋がつけられている。したがって、尾張家は家屋敷に葵紋をつけてもよい」

 こういう尾張二代目である。慶安事件当時は二十七歳の血気盛り。何らかの形で関与していたかも知れないし、真実がどうであろうと、尾張と正雪が共有した過去は消し去りたいだろう。

 助広はそんな消えそうな糸をほぐし始める。

「会津中将様は刀を発見した陸奥守様とともに、筋書きをお書きになりましたな。秋の予定だった御前鍛錬が夏に早められたのは、悠長に構えていられなくなったため。そして、狂言回しの役に、急遽、私が選ばれ、御前鍛錬の一人に加えられたのでございます。というのも、酒井雅楽頭様が私を抱え工にとかねてよりお考えだったこと、何よりも私は大坂ですみの殿を見知っており、虎徹入れ替わり説の証人として、適任だったからでございましょう。

 振分髪の写しを作るようにという私への御下命も公方様の御意思にあらず、会津中将様がそう仕向けられたこと。柾目が目立つ振分髪を虎徹師の作と気づかせるのが狙い。人づきあいが悪いはずの虎徹師が私を仕事場へ招じ入れ、鐔作りに使う枡がこれ見よがしに置かれていたのは、虎徹と興光兄弟の入れ替わりを疑わせるため。つまり、虎徹師も自分の正体が興里でなく興光だと知らしめる企みに一枚噛んでいるということです。御前鍛錬で腕前を見せず、いかにも替え玉めいた焼入れをあえて見せた。私が振分髪の写しを二本作っていることを安定師が声高にいい立てたのも、周囲の方々に振分髪への偽物の疑惑を起こさせるため。誰も彼もが芝居の役者仲間だったということ」

 もっとも、虎徹と綱宗が合作した脇差を助広に見せたのは安定である。それがこの計画を見破るきっかけともなったのだから、安定もただ権力者のいいなりにはならぬ職人ということだろう。

 同業者の助広が権門の掌中で踊らされることに反発したのか。刀鍛冶としての若き助広の力量、洞察力を見極めたかったのか。安定なら、どちらもありそうだ。

「そうした芝居の狂言回しがお前なら、芝居を見る客は酒井雅楽殿というわけか」

「今の虎徹は興里にあらず、弟の興光である……と、私に雅楽頭様の御前で語らせる筋書き」

「虎徹が死人となれば、もはや雅楽殿にも追及できぬからの。正雪と尾張のつながりを、な」

「会津中将様によれば、振分髪の偽物を手がけた虎徹師は、それを取り引き材料として、法度破りの古鉄の入手を図り、口封じのため処刑されたとのこと」

 虎徹を抹殺する方法は他にもあっただろうにと疑問だったが、後年、調べられた時にそなえ、刑死の記録が残されたということか。そして、双子の兄弟の入れ替わり説に信憑性を持たせるのが助広の役どころだった。が、

「はたして、本当に虎徹師は死に、弟の興光師と入れ替わったのでございましょうか」

「ほお……」

「興光師は病身であったと聞きます。兄の身代わりとして自ら罪をかぶり、どうせ長くない生命を小伝馬町に棄てたとも考えられます」

「つまり……?」

「刑死したのは興光師の方で、生きているのは本物の興里虎徹……」

「ふ……」

 綱宗は呻くように笑っただけだ。肯定したのである。

「さぞかし衰弱していたであろうが、囚人の健康など誰も気にしてくれまいからの」

「虎徹師自身も病のために面変わりしたといっておりますが……」

「弟を身代わりにした自責の念でやつれたということも有り得るわけよ」

 ただしかし、虎徹が刑死したのは振分髪の偽物作りを隠蔽するための口封じということになっている。替え玉では口封じにならないし、見破れぬ保科正之でもないだろう。では――。

(虎徹師の刑死は、ほんまに口封じのためなんやろか) 

 そんな疑問が湧いてくる。だが、助広にはもうどうでもいいことだった。この男には、もっと気がかりなことがある。

「陸奥守様。すみの殿は佐賀鍋島屋敷に四年間、奉公にあがっていたと聞いております。しかし、虎徹師も興光師もすみの殿と仙台伊達家のつながりを知らなかったとは思えませぬ」

「それはそうだ。なのに、どうして吉原へ墜としたか、疑問に思うておるのか」

「今さら、事情を知ったところで、何の救いにもなりませぬが、その鍋島屋敷を追われたと聞きました」

「鍋島信濃殿(勝茂)はすみのに目をかけておられたようじゃ。妙な意味ではないぞ。しかし、信濃殿は大火の翌々月(明暦三年三月)に亡くなられた。で、すみのには暇が出されることになった」

 その暇を出された理由は――つまらぬこと、とまさのに化けたすみのは語った。綱宗もまた話すつもりはないようだ。よほど「つまらぬこと」らしい。

「四年も鍋島屋敷におれば、伊達屋敷に同じ顔をした娘がおることが知れもする。大火前には、両上屋敷とも外桜田にあったからの。まさのとすみのは互いの存在を知り、父の義山公(伊達忠宗)の耳にも入った。わしもまた旧知の虎徹の弟である興光がすみのの養父と知った。そして、すみのは伊達兵部殿が領地の一ノ関へ引き取るということになった。翌年(明暦四・万治元年)の七月、病の床にあったわが父は、将来のことを気にかけ、一ノ関にいるはずのすみのを江戸に呼び寄せようとして、実は行方知れずであることを知った」

「……どういうことでございましょうか」

「兵部殿は、すみのは出奔したと言い訳したようじゃ」

 むろん、真実ではない。

「父は死に際、わしにすみのを探すよう、いい残した。その時、すでに興光は虎徹の身代わりとなって、刑死しておる。虎徹もすみのは一ノ関にいるものと思っていた。が、興光が借金を清算していることから、すみのは売られたのではないかと遊郭を調べた。伊達家の名前を出して探すわけにはいかぬ。あの朴念仁の虎徹だけにはまかせておけず、わしも吉原へ通い、三千人の遊女の中から、ようやく見つけ出したのは今年になってからじゃ」

「それにしても、どうして……」

「兵部殿は最初から一ノ関で預かるつもりなどなかった。伊達の宗家の足を引っ張るべく、妾腹の娘が遊郭に墜ちたという醜聞を作りたかったのよ。二、三年もすれば、立派な恥さらしの遊女となる。興光が兵部の狙いを承知していたかどうかは、もはやわからぬが、金に窮して、どうせ血もつながらぬ娘ゆえ、手放してしもうた。養父がそんな有様では、すみのは救われぬ。あわれよの」

「あわれといえば、御船蔵の川辺にあがった死体こそがまさの殿でございましょう」

「いずれ、お前にはわかると思うていた。お前の女弟子こそがすみのじゃ」

「…………」

「一ノ関へ身を寄せるようにと、すみのに言葉巧みにすすめたのはまさのであった。すみのは気を許して、興光のもとを離れた。まさのは兵部殿に加担していたのじゃ。すみのは今も恨みがましいことは口にせぬが、まさのはこの妹を伊達家へ入れることを拒んだ……」

「どういう理由でございますか」

「すみのが鍋島屋敷から暇を出されたのと同じ、つまらぬ理由じゃ」

「気安く口にできることではないと仰せられますか」

「いずれ、お前も知るであろう」

「いずれ……?」

「助広。お前はすみのを抱いたか」

「そんな……」

「はは。首を振っているようでは、知ることはできぬぞ」

「虎徹師を替え玉ということにしたいなら、すみの殿に偽証させれば簡単なこと。それをしなかったのは、すみの殿は死んだことにせねばならなかったのでございましょう。その理由もまた同じですか」

「いかにも」

「では、一方のまさの殿は……」

「保科家との縁談が長門守正頼殿の急死によって流れ、兵部殿のはからいで、ようやく酒井日向殿との婚姻が決まろうとしていたのじゃから、まさのが兵部殿のために働こうとするのは当然……。わしがすみのを身請けすると知り、本屋敷(愛宕下の伊達家中屋敷)へ報告しようとした。そこに兵部殿や一門お歴々の御殿がある」

「え。では……」

「ゆえに、わしが手討ちとした」

「すみの殿と同じ血が流れている双子の片割れをお斬りになったのですか!?」

「妹を遊郭へだまし売るような姉ぞ。それに、わしには酒乱の気味があってな。激して、部屋にそなえた槍で首許を貫いた。苦悶はなかった」

 短絡的にすぎないか。何か事情があるのかも知れない。

「お前と初めて会うた日の夜のことじゃ」

「つまり、薫ことすみの殿を身請けに行く前夜。その時すでに、まさの殿は死んでいた……と」

「すみのを死んだことにするには、都合よく死体が調達できたということじゃ」

 都合よく、なのか。初手(はな)から計画の一部ではなかったのか。

「しかし、兵部殿の目をくらますためには、まさのには生きていてもらわねば困る。すみのと入れ替わらせることにした。あれこそ替え玉というわけじゃ」

「あの日、神田川川口に近い船宿でお乗り換えになるということでしたが、船が大きかろうが小さかろうが、仰々しく飾り立てたりせねば、汐留から山谷まで往復してもかまわなかったはず。乗り換える必要もない船宿で、私を待たせたのも筋書きのうちでございますな」

「吉原からの帰路、襲われるのを目睹(もくと)させるためじゃ。襲ってきた船はいうまでもなく会津中将差し回しの狂言。水に落ちたすみのを探し回るのも真に迫っておったであろうが、一連の芝居のうちじゃ。すみのが吉原から世間へ出てくれば、困る者がいる。お前はそう考えてくれた。すみのはわしとは別の船にて、隅田川を下っておる。そして、その夜のうちに、まさのの死骸は流されることもない御船蔵の乱杭の間に沈められた」

 水死体の名所は両国橋より上流だが、ここは釣人が多い。まさのの死体は発見してほしいが、遺棄する行為は人目を避けねばならない。漂着には不自然な下流を選んだのはそのためだろう。山野加右衛門が釣りをしながら意味ありげにいっていたのは、こういうことだ。

「いうておくが、わしとて、平然とそうしたわけではない。以来、酒量がさらに増えたわい」

「会津中将様はそこまで悪役に甘んじられ、酒井雅楽頭様にいわば尻尾をつかまれることになっても、さきほど仰せられた御公儀の闇の政策とやら、それに尾張様と謀反人の関係をお隠しになりたかったのですか」

「政事は清濁を合わせ飲み、小事を殺して大事を生かすこと。闇の政策は幕閣でもごく一部しか知らぬ秘密。わしとて、あくまで推測するのみじゃ」

 綱宗は着座した時から盃を離さない。他人への酌に慣れぬ助広はぎこちなく、何度も注いだ。

「それにまた、紀伊大納言の疑惑が晴れたと思えば、今度は尾張大納言が謀反人と関わっていたということになれば、天下騒乱は起こらぬまでも、お上の御威光、御政道はどうなる? 酒井雅楽殿は真実にこだわるあまり、そこまでお考えが及ばぬ」

 つまり、酒井忠清は「闇の政策」には関わっていないということなのか。しかし、保科正之とて将軍輔弼役とはいえ、単独で政策を立案、実行はできない。幕閣老中に担当者、協力者がいるはずなのだ。虎徹の死罪を裁決したのも老中の職掌であり、正之自身は老中ではない。では、一体、誰だ?

「陸奥守様」

「何か」

「私が察しまするに、雅楽頭様の狙いはむしろ、尾張様ではなく、正雪ではないかと」

「それはつまり……」

「由比正雪は今なお生きて……いるのかも知れませぬ」

「助広」

 綱宗はようやく盃を置いた。

「お前はすでに狂言回しの役を終えたのじゃ。あとはもう事情を知りすぎた部外者でしかない。したがって、尾張の刺客が差し向けられた。会津中将様も黙認。もっとも、さすがに柳生は手を下す気になれなかったようじゃが……。金や損得で動かぬ者は、つくづく扱いにくいものよの」

 権力者にとっては、そうだろう。柳生兵助も大和守安定も「扱いにくい」男たちだったのだ。

「今後も私は狙われるのでございますか」

「いや。わしが止めた。それくらいの発言力はある」

「…………」

「しかし、お前が口を滑らさぬよう、今後は監視をつけねばならぬ。すみのを大坂へ連れて戻れ」

「え……!?」

「それがいいたくて、今日は呼んだ」

「それは……」

「伊達の一門、家臣どもの中には、お前をかばうわしを優柔不断と嘆き、六十二万石の太守の器にあらずと評する向きもあり、若隠居と相成った。しかし、頼りない陸奥守ではあるが、お前とすみのは守る」

 綱宗は何故そこまでするのか。この若き隠居も保科正之に加担している。それはいかなる理由なのか。

 助広の胸中のそんな疑問を払いのけるように、綱宗は扇子を使っている。

 御坐船が速度を落とした。接舷した船があるようだ。しばらくして、

「お屋形様」

 と、侍臣が声をかけた。

「船売りの西瓜を買い求めました。召し上がられますか」

 身分の高い者はあまり口にしない西瓜だが、

「もらおう」

 綱宗が応じると、簾が巻き上げられた。侍臣が屋根の下へ皿を運び込んだ。後世の種と違い、あまり甘いものではない。

「砂糖なんぞかけて食らう者があるが、千利休はそれを避けたという話がある。茶人とはつまらぬものだな」

 綱宗はどこまでものんきである。虚勢を張っているわけでもない。

 が、皿を置いた侍臣の手が思わぬ動きを見せた。狭い船上ではこの侍臣も脇差しか帯びていなかったが、それを抜いた。

「御免!」

 白刃が綱宗へ向けて、奔った。

 綱宗はさすがに独眼龍政宗の孫である。敏捷に酒膳をはね上げ、簾を肩で破りながら、一撃を避けた。

 助広は侍臣に組みついた。もつれ合いながら、隣室との境にある障子の桟を砕いた。揺れる船から落ちぬよう這うだけで精一杯だった。

「太守(綱宗)!」

 安倫が叫んだ。加右衛門は屋根の外へ飛び出した。もう一人の侍臣も脇差を抜いている。加右衛門は振り下ろされる刃を料理の大皿で受け流し、相手の手許を組み止めた。

 左右に傾(かし)ぐ船の中で、無我夢中の助広が侍臣から振りほどかれた時、侍臣の脇差は勢い余って、屋根の軒天井に食い込んだ。悲鳴のような金属音を発して、脇差は折れた。

 綱宗は外へ抜け出している。その傍らで、水音が響いた。加右衛門がもう一人の侍臣を放り込んだのだ。

 綱宗だけは佩刀を大小とも手許に置いていたから、丸腰ではない。残る侍臣が折れた脇差を手にしているその前に、綱宗は仁王立ちした。

「さすがに先日までの主君に向けた刃筋には、一瞬の遠慮があったようじゃな。わしも侍臣を斬るのは忍びない。さて、どうする?」

 侍臣は、今度はためらわなかった。自らの咽喉を斬り裂いた。あたりに赤いものを飛散させながら、どさり、と船の中へ倒れ込んだ。即死ではない。人間が発する声とは思えぬ断末魔の苦悶がしばらく響いた。

 その呻き声と血の匂いで、助広は吐きそうになった。

「陸奥守様、これは……!?」

「仙台伊達家ではわしを隠居させただけでは満足できぬということ」

 安倫が、

「伊達兵部様の指図ということでございますか」

 これまた吐きそうな顔色で、歯噛みした。

 加右衛門が川面へ放り込んだ侍臣は、後続の侍臣たちの船へと抜き手を切っている。

「あの船の者たちも一味じゃ。わしの生命が欲しいじゃろう。わしが信頼する者も乗っていたが、斬られてしもうたようじゃな」

 あたりには運搬船、吉原へ向かう猪牙船(ちょきぶね)が往来しており、何事かと棹を止める船頭もあるが、近づく神経の持ち主はいない。

「預けた刀はすべてまとめて投げ棄てられた。まずいな」

 加右衛門はそういったが、あまりまずそうでもない。生き生きとしているようにさえ見える。

 助広もまた刀鍛冶の性というべきか、侍臣の折れた脇差を手に取り、検分した。身幅の半分以上に焼きが入っている派手な作風だが、武器として失格のその醜態を他山の石とするべく肝に銘じた。

 船は隅田川を両国橋の上流まで進んでおり、西岸には白壁の蔵が居並んでいる。浅草の米蔵である。

 御坐船には屋根の上で棹を操る者もいて、三人の船頭が乗っている。震え上がっている彼らへ、

「山谷堀へ着けろ」

 加右衛門は命じた。吉原へ向かう気だ。

「船の上で始末つけようとしたくらいだから、人が大勢いる場所では乱暴狼藉は働くまい。何なら、揚屋に籠城でもしますかな」

 江戸中期の宝暦頃まで、吉原の遊びを仕切るのは引手茶屋ではなく、揚屋だ。

「揚屋に迷惑をかけることになるぞ」

 綱宗も冷静だ。

「やむを得ませぬ。われわれは丸腰です」

「わしの大小があるだけか」

 その小の方は、綱宗と虎徹の合作である。

 浅草聖天町に着岸すると、死体を船に置き去りにし、船頭には、

「伊達屋敷へ届けよ。ただし、他言無用」

 と、金子(きんす)を握らせた。綱宗に持ち合わせなどないから、加右衛門がごく自然にそうした。

 山谷堀からは船宿の者が吉原まで案内するのが慣例だが、そんなものは振り切った。侍臣たちの船が着岸するより早く、綱宗、安倫、加右衛門、それに助広は日本堤を駆け出している。聖天町から吉原入口まで、八町(約八七○メートル)。

 堤の周囲には田圃が広がり、木立越しに妓楼の屋根が見下ろせる。居並ぶ葦簀張りの掛茶屋をかきわけ、遊客の誰もが衣紋をつくろうという衣紋坂を血相変えたまま下った。

 武家は夜には在宅し、非常時にそなえるものと決まっているので、遊ぶのは昼である。したがって、まだ明るいこの時間の吉原の客は武家ばかりだ。

 吉原大門の脇には面番所があり、与力、同心が詰めて、犯罪者の出入りに目を光らせている。異様なこの一行ではあるが、今や噂の伊達綱宗と知ったか、ただ口を開けて見送った。

 綱宗馴染みの揚屋に入ると、

「お殿様。なにやら風変わりなお供をお連れでございますなあ」

 長々と挨拶を始めそうな主人をさえぎり、綱宗は、

「屋敷へ使いを出してくれ」

 筆記道具を用意させ、簡単な書状を書いた。

「応援をお求めか」

 と、加右衛門が諭すようにいった。

「造反の火の手が上がった屋敷内に、陸奥守様のお味方はもうおらぬのでは……?」

 綱宗の隠居と同時に側近たちは粛清されている。しかし、加右衛門には悲痛さは微塵もなく、目の前の現実を一直線に睨んでいる。そんな風情がある。そして、さらにもっと切実さを感じさせないのが当事者である綱宗だ。

「救援ではない。着替えを届けるよう命じたのだ。わしの隠居生活の用意をととのえている下屋敷ならば、それくらいやってくれる者たちもおる」

 船上の乱闘でいささか汚れはしたものの、綱宗も他の者も着替えを要するほどの身なりではない。綱宗は能天気なのか器が大きいのか、わからない人物だった。

「雙」第22回

雙 第22回 森 雅裕

「助広殿。由比正雪に関心がおありか」

「隠し銘が入った刀を見ました」

「ほお……。見聞を広められたようだな」

「気づいてみれば、正雪という文字の中には止雨殿の名前が含まれていますね」

 餡を練る止雨の手は止まらない。

「人騒がせな刀があったものよな」

「湯島天神の離れ社から出たようです」

「あれだけの謀反を準備するには、人や物を隠匿する場所も必要ではあろうな。処刑された正雪一味の中には、湯島天神の神職が数人含まれていたという話もある。連座のとばっちりを食っただけかも知れぬが……。一味はことごとく死んだゆえ、埋蔵したきり回収する者もいなかったのかな」

「捕縛を逃れて生き残った者もいるでしょうが、刀の埋蔵は知らなかったということも有り得ます」

「あるいは、いずれ何かの役に立つかも知れぬと埋蔵したままにしておいたか」

「何かの役……といわれると?」

「取り引き材料」

「何の取り引きです?」

「謀反人が身を守るための切り札ということ。正雪一味には何の庇護もないのだからな」

「よくわかりませんが、止雨殿のお言葉、一味に同情的に聞こえます」

「由比正雪という人物は、瞳がふたつある双瞳だったという噂だ」

「は……?」

「瞳の外周が色変わりしていて、瞳が二重のように見える、いかにも謀反人らしい異相のことだ」

 止雨は巨大な餡ヘラを操りながら、顔を助広へ向けた。

「私の瞳はどうかな」

 何も変わったところはない。大きく輝いてはいるが。

「双瞳という噂……ですか」

「そう。あくまでも噂だ。もはや伝説の人物だからな」

「止雨殿は――」

 正雪とは呼べない。

「どういう経緯で、この山野様のお屋敷に寄寓なさっているのですか」

「山野殿は年上ではあるが、私の門弟の一人だった」

 菓子作りの門弟ではあるまい。兵法の門弟だ。つまり、かくまわれたということか。近所の住人も避けて通る人斬り加右衛門の屋敷なら、隠れ家にはふさわしいかも知れない。数千とさえいわれた正雪門下生のほとんどは謀反に関与していないのだ。

「正雪という大罪人は死んだことになっている。一族郎党、友人知人、地方で息を潜めていた者までも探し出され、ことごとく磔、打ち首となった。処刑の日、鈴ヶ森刑場へ親と一緒に引かれていく小さな子供は切縄を首にかけられ、玩具を手に持って、大人たちが乗った馬について歩いていた。先頭の幟や捨札が桜田門外を過ぎても、後続は麹町土橋(半蔵門)あたりに見えた。前代未聞の処刑だった。由比正雪は腹を切るべきだったが、考えが変わった。墓を建てることもかなわぬ死者たちを供養するために生きる。わずかに捕縛の網を逃れた残党もいたが、一切、つながりは絶った」

「すると、あれが……」

 助広は格子窓の外を指した。苔生した庭に据えられた小さな石碑は墓がわりの慰霊碑なのか。

「毎日、自作の菓子を供えている」

「それだけが菓子師となった理由ではありますまい」

 まるで、ここにいない他人の境遇を噂するかのようだった。

「そうよな。食は人の一番の楽しみだ。しかし、菓子はなければなくても生きるに差し支えない。そんなところが止雨という人でなしの性には合っている。とはいえ、菓子は本来、社交饗応のためのもの。それを求める大身武家、富裕商人どもが、私を世捨人にはしてくれなかった」

「清風残月を友とする境地に至ることが死者への供養ではありますまい」

「そうだな。なりふりかまわず、とにかく生きることが、お上に対して大罪人が勝つことになる」

「それは、生きたいがための言い訳ではないのでしょうな」

 助広にしては遠慮のない言葉だった。明らかにしたい気持ちが強かったのだ。止雨こと由比正雪が卑怯未練な小人物ではないということを、である。

 止雨は、

「言い訳には違いない」

 大鍋を火から下ろし、滴る汗を拭った。

「私には、まだ生きて見守らねばならぬものがあるのだ」

 誰にだって、そんなものはあるだろう。助広はこの男を非難すべきなのか、同情すべきなのか、わからなかった。もう会うことはないだろう。それが少しく名残り惜しかっただけだ。

「どれ。求肥餅をいただいてみよう」

 止雨は助広の土産をひとつ口へ運んだ。

「求肥は葛粉と米粉に黒砂糖や赤砂糖を使うので、色が汚なく、牛の皮のようだというのが語源だ。白砂糖を使ってみたらどうかな」

「そんなもの、私ごときは見たこともありません」

 そもそも、砂糖が広く普及するのは徳川吉宗以降のことである。

「あの娘は餡に自信があるといっていたが……それだけのことはある。柔らかく煮ている」

「小豆の余熱で砂糖を溶かすのだとか」

「うむ。そうせねば固くなるからな」

「ほお。止雨殿もそうされますか。あの娘は母親から教わったらしいですが」

「良き母親のようだ」

 そんな会話を交わしていると、山野加右衛門の門弟が現われ、声をかけた。

「佐倉堀田様の御用人・盛田権十郎様がお見えです」

「おお。お通ししてくれ」

 止雨は品よく口を動かしながら、助広を見やった。 

「堀田上野介様のお屋敷へ呼ばれている。下総佐倉の殿様だ。その迎えです。昼過ぎの約束だが、御用人は菓子作りの様子を見たがって、いつもお早い」

「私も江戸に在住なら、通ってみたく思います。私の女弟子はなかなか料理の才があるようですから、気が向いたら、指導してやってくださいませ」

「かなわぬな、それは」

 にべもなかった。しかし、

「弟子にはとらぬが、あの娘に土産をお持ちなさい。先日、いっていた花林糖だ」

 止雨は作業場の奥から、紙袋を取り出した。

「それから白砂糖も差し上げる」

「ありがとうございます。求肥に飴と餅があるように、かりんとうにも種類があるようでございますな」

「植物の花梨の砂糖漬けもあるが、お宅の女弟子に所望されたものとは違う。花林糖の字をあてるのは、信長、秀吉公の頃にオランダから渡来した菓子です。小麦粉に水飴など練り合わせ、油で揚げて、黒砂糖の衣をかけてある」

「山野様にはお嬢様がおありだったそうですが、もしや、そのお嬢様がお好きで、御自分でも作ることがあったというのではないでしょうな」

「……かも知れぬな」

 止雨の前を辞した助広は、花林糖を袂に入れた。庭先で、供侍を連れた壮年の武士とすれ違った。助広は足を止め、頭を下げたが、相手は見向きもしなかった。

 着替えをすませた山野加右衛門は、すでに玄関に出ている。助広の先に立って歩き出した。まるで、助広は従者である。

「堀田家の用人が来たな」

「はい。止雨殿をお屋敷へお連れするようです」

「ふむ。堀田上野介様はこのところ、何かと止雨をお召しになって、話し込まれておるようだ」

 下総佐倉城主・堀田上野介正信は老中であった堀田加賀守正盛の子で、外祖父は大老をつとめた酒井讃岐守忠勝、実弟は信州飯田城主の脇坂中務少輔安政である。名門の出だ。ただ、正信自身は幕閣に列せられない不遇であった。

 正信はかつて、困窮した家臣が盗みを働いた時、盗心を起こさせる禄しか与えなかったのは自分の責任だととがめることをしなかった。そんな人物であるから、明暦の大火で被災した窮民を見るに及び、精神が屈折していく。

 のちの芝居や講談では「義民」佐倉惣五郎(宗吾)の怨霊の祟りで発狂したことになっているが、例によって、真実ではない。もっとも、堀田家の後裔はこの芝居を民百姓をおろそかにしてはならない戒めとして、見物するよう家臣たちに通達したという逸話も伝わるが。

「上野介様は幕政を批判――というより、幕政に失望しておられるようだ」

「止雨殿が幕政批判を焚きつけていると……?」

「いや。止雨は菓子の話しかせぬ。しかし、人は止雨と一緒にいると、妙な血が騒ぐらしい」

「山野様も、ですか」

「わしは人ではない。人斬りだ。だから、止雨を預かることができる」

 加右衛門は助広を振り返った。

「おぬしはどうだ?」

「いささか」

「血が騒いだか。よかったな。それは人である証だ」

「では、止雨殿本人は人ですか」

 加右衛門はもう振り返らない。

「人なものか」

 確かに。一族郎党、友人知人、すべて死なせた男だ。菓子作りを始めたのも、霊前への供物として、だ。これが人のやることか。

 寒々しかった。しかし、始まったばかりの秋の陽差しは、風物景色を焼くだけの夏よりも、地上を輝きで満たしている――。

 この年の九月、堀田上野介正信は、公儀の悪政のために窮乏している幕臣に分与するべく、自身の所領十一万石を返上する旨、保科肥後守正之と老中の阿部豊後守忠秋に書き残して、無断で領地の佐倉へ帰った。

「輔導の人、其の道を得ず、麾下将士、窮乏の淵に臨み、四海庶民、罷弊塗炭す。――依って今は我伝ふ所の封邑を収め、以て諸士の恩給に充てん」

 これにより、所領を没収され、配流先を信州飯田、若狭小浜、阿波徳島と転々とし、延宝八年(一六八○)五月、将軍・家綱が没すると、その家綱が禁止した殉死を遂げることになる。徳川政権の安定期に入ったはずが、平和な時代は武家の経済にほころびを生じ始めていた。

 

 伊達綱宗は外桜田の上屋敷を脱け、隅田川を上る。吉原へ繰り出す「淫酒」仲間が上屋敷を訪ねることはさすがにできず、汐留の船宿で合流する手はずだった。すでに伊達家の家臣数人が先着し、迎える支度をしていた。

 安倫もいた。助広に同道した山野加右衛門には目礼したが、言葉は助広にだけ向けられた。

「お待ちしておりました」

「そういうからには、茶菓でも用意してあるのかね」

「もちろん」

 安倫は自信ありげに菓子器を差し出した。経巻に似た巻き形の菓子が入っている。

「江戸で今、評判の助惣です」

 助惣焼きといい、要するに麩焼きである。餡ではなく味噌を小麦粉の皮で包んでいる。

「麹町まで行って、買ってきました」

「山野様。どうぞ」

 助広が加右衛門に回すと、愛想のかけらも洩らさずに口へ運び、その表情のまま、いった。

「うまい」 

「止雨殿の菓子に慣れて、舌が肥えていらっしゃる山野様がお誉めになるとは、たいしたものでございますな」

 助広の言葉にも加右衛門は眉さえ動かさず、呟いた。

「小麦粉を水でこね、平焼き鍋に胡桃の油を塗り、少しずつ広げて薄く焼き、その中に胡桃を刻み込んだ山椒味噌、砂糖と芥子を入れ、包んで焼く。それが助惣だ。昔、義経が奥州へ落ちのびた時、弁慶が銅鑼を残した。それを使って焼いたので、銅鑼焼きの名で呼ばれることもある。千利休が茶席で好んだという。したがって、こんな煎茶よりも濃い抹茶が合う」

 この頃の煎茶は今の番茶に近い。

 唖然としている安倫を睨み、加右衛門はむっつりと続けた。

「止雨から聞いた。麹町の助惣も待乳山の米饅頭も止雨が作り方を教えたものだ。いずれ、もっと江戸に流行る」

「……なるほど」

「饅頭は象の好物という。ただし、餡は入れぬそうだ。それも止雨からの受け売りだ」

 濃い抹茶を用意させましょう、とは安倫はいわなかった。

 やがて、綱宗の一行が到着した。目通りの前に、

「お腰のものを預からせていただきます」

 侍臣が声をかけた。

 加右衛門と安倫の刀は船宿の壁に造り付けの刀架けにある。安倫は今もまだ武家の身なりだった。彼らは脇差をも腰から抜き、差し出した。相手が貴人の場合は脇差をたばさむことも許されない。助広はこうなることを予測していたし、常時帯刀する習慣もないので、来た時から丸腰だった。

 綱宗が入ったのは江戸湾に面した奥座敷である。彼らが招き入れられると、入れ替わりに侍臣たちは部屋から出た。

 綱宗は扇子を使いながら、相変わらず眼差しを遠くに遊ばせていた。

「陸奥守様。此度は――」

 助広が綱宗の隠居逼塞について遺憾の言葉を発しようとすると、

「ああ。よせよせ」

 素早く制した綱宗の視線が、

「その方は――」

 と、加右衛門に焦点を結んだ。

「山野加右衛門永久にございます」

「ああ。人斬りか」

 別に侮蔑ではなく、まっすぐに育った貴人には遠慮が欠けるものらしい。

「お前が試し斬りを断わった脇差は、ここに差しておる」

 綱宗は腰にある脇差の柄を叩いた。

「もとは伊達の家臣で、わが父の代に禄を離れたと聞いておる。今日は何じゃ。助広の警護か」

「陸奥守様の御器量を見極めにまいりました」

「噂通りの愚かな殿様かどうか……か」

「今に噂ではなく、真実として定着しかねませぬ」

「町で流行っている戯れ句があるらしいな。――貞女には困り果てたと三浦いい。大名が恐いものかと高尾いい」

 身請けされた山本屋の薫が、三浦屋の高尾ということにされている。高尾は土佐光起もその絵姿を描くほどの傾城であったから、面白おかしくその名が使われたのだろうが、前年の万治二年には没している。

 なのに、

「高尾からはっきりわかる江戸の張り」

 などと、高尾は田舎大名に買われることを拒んで殺された、という巷説が疑われることもなく、流布し始めていた。

 すでに綱宗は伊達家当主の座を追われており、こののち、いわゆる伊達騒動が起こると、世間の想像力は一層、無遠慮となる。

 江戸後期の儒者・山田蠖堂(かくどう)は『三叉江』という詩に、

「木蘭舟中、蛾眉ヲ斬ル」

「遺恨ハ知ラズ深サ幾尺ゾ、三叉ノ水、終古碧ナリ」

 と、惨劇を詠んだ。

 斬殺されたのは三派(三叉・三股)つまり両国橋と永代橋の間で、死骸は永代橋へ漂着し、それを祀ったのが高尾明神(のち高尾稲荷)だという。

 しかし、永代橋西岸に高尾明神はあるにはあるが、起源については諸説が伝わり、これは京都から勧請したもので、事件以前から存在しているから、後世の付会にすぎないともいう。第一、永代橋が架かったのは元禄十一年(九年とも)のことで、万治三年より三十八年後である。永代橋創架と時を同じくして、近くに仙台伊達家の下屋敷が建てられることから、こじつけたものとする推論もある。

 無責任な作り話は続く。伊達家には柴舟と銘する伽羅の香木が秘蔵されていたが、綱宗はその伽羅で作った下駄をはいて、吉原へ通い、高尾の体重と同じ重さの黄金で身請けした――。

「たきものをはきものにする御放埒」

「歩くたび壱弐両ずつ下駄がへり」

 こうして、綱宗は笑いものとなる。そこまで予想できないにしても、批判の目が向いていることに気づかぬ綱宗ではあるまい。世間の目だけではない。仙台伊達家内部、それに公儀の目である。

 伊達家家老・茂庭定元は「色々御諫言ヲ尽サルトイヘドモ、御行跡宜カラズ」と記録している。老中・酒井忠清のみならず、綱宗と縁戚につながる徳川頼房(水戸城主)、立花忠茂(筑後柳川城主)も意見を加えたが、無駄であった。

「逼塞を命じられているこのような折に、吉原へ繰り出されますか」

 すでに隠居とはいえ、大名を諫めるのだから、山野加右衛門はたいした度胸である。だが、綱宗は静かに目の前の男たちを見据えているだけだ。

「政事(まつりごと)は性に合わぬ」

 江戸育ちであるから、田舎大名でもなければ洗練されていないわけでもないこの青年だが、悪評に甘んじて、名誉を捨てるつもりか。

「一夜会わねば千夜の思い。おぬしらも覚えがあろう。今日は吉原の紋日じゃ。この日は馴染み客の面目として、薄雲太夫を余人には渡せぬ」

「陸奥守様」

 助広は、いった。

「私をお誘いになったのは、いかなるわけでございましょうか」 

「一言ではいえぬ。船で話そう」

 

 巨船ではない。柱を立て、屋根の下には幕と簾をめぐらせているが、大名の船にしては目を見張るほど豪奢でもなかった。槍も立てない。

「仰々しいのは好まぬ。見栄を張るのも遊び心ではあろうが、それでは家臣や領民どもが困る」

 とはいうものの、綱宗は楽しそうだ。

「しかし、伊達者の面目もあるでな。恥ずかしくない船に乗らねばならぬ」

 長い屋根の下は二室に仕切られている。一室には、綱宗と助広だけが着座した。綱宗がそう指示したのだ。

 加右衛門、安倫は隣室にいる。綱宗の侍臣が二人、外に控え、預けられた刀を傍らの刀箱にまとめている。綱宗は他に五、六人の侍臣を伴っているが、彼らはもう一艘に分乗した。身辺の世話や警護のためではなく綱宗を見張るのが役目だろう。

 船が川面を滑り出し、風が部屋を流れ始めた。

「助広。安倫から聞いたぞ。脇差の銘がわしの名と気づいたか」

 その脇差は今、綱宗の腰にある。

「虎徹師との合作でございますな。つまり、陸奥守様は以前から虎徹師とお知り合い。あの刀鍛冶が興里か興光か、薫ことすみの殿を吉原から身請けして、今さら面通しさせるまでもなく、陸奥守様にはおわかりのはず」

「にもかかわらず、あの虎徹をお前に疑わせようとした。その理由は……?」

「酒井雅楽頭様に、興里虎徹は死んだと思わせること。雅楽頭様はいかなる理由でか、虎徹師の消息が気がかりらしゅうございます」

「見当はついておるであろう。雅楽殿が虎徹に執着する理由は――」

「由比正雪」

「ほお」

 綱宗はまぶしげに目を細め、微笑んだ。

「正雪は莫大な軍資金を湯島天神境内に隠したという噂がある。知っておるか」

「軍資金は存じませぬが、小石川堀普請の折、発見された刀は拝見いたしました。尾張柳生拵に納まっておりました。しかし、錆びて抜けなかったため、作柄も銘も確認されぬまま、本阿弥光温師へ手入れをお命じになられましたな」

「む。いわくありげな埋蔵刀だったゆえ、捨て置くこともできず……。柳生兵助とやらの趣向による拵らしいが、いずれ数奇者どもに広まるにしても、今の江戸で知る者は少ない。迂闊であった。もっとも、あのように腐った拵、仔細に目が届くものではなかったが」

「拵をこわしはしたものの、本阿弥がこれを抜くと、虎徹師と合作者の銘が刻まれておりました。以前から虎徹師と交誼ある陸奥守様のこと、察するものがあったのではございませぬか。合作者はその名を出すことさえはばかる由比正雪であると……。しかし、本阿弥が黙っているわけはありません。本阿弥には隠し銘が解けずとも、幕閣には切れ者がいらっしゃる。問題の刀は……酒井雅楽頭様の知るところとなった」

「拵も尾張柳生のものと知れた。天下の謀反人のうしろだてと疑われたのは紀伊様であったが、実は尾張様にこそつながりがあった……というわけじゃな。拵は虎徹と正雪の合作刀に、尾張のどなたかが交誼のしるしとして、柳生に命じ、あつらえさせたもの。となると、尾張と正雪の交誼とはどのようなものであったのか、虎徹に糾問が及び、追及されかねぬ」

「疑惑が迫るのを、指をくわえて見ている尾張様ではありますまい。柳生兵助様も刀を回収するために動いておられます。もはや手遅れとなりましたが」

 何度か助広の前に兵助が現われたのも、むろん偶然ではないのだ。

「左様。だが、手遅れだからこそ、尾張は幕閣に働きかけねばならなかった」

 と、綱宗は認めた。

「会津中将――保科肥後殿に、な。尾張は幕閣がかつて行なった闇の政策の片棒をかつぎ、秘密を共有する仲。互いに封印すべき過去を持っておるのじゃ」

「闇の政策……とは?」

「闇は闇じゃ。政事には裏というものがある。いずれお前も聞くことがあるかも知れぬ」

 聞いたところで、気持ちのいい話ではなさそうだ。

「すべては湯島天神の社殿で錆びた刀が発見されたことから始まった。正雪一味の主立った者も滅び、埋蔵したことも忘れ去られた。慶安の変以来、少なくとも九年の間、埋蔵されていたことになる。何故、正雪一味は禍根となり得る刀を破棄しなかったのかのう」

「さあ……」

 止雨はいっていた。取り引き材料と。しかし、その意味など考えようともしないのが助広だ。その目を綱宗は微笑みながら覗き込んだ。

「天神様に謀反の願かけのために奉納したわけでもあるまい。おそらくは尾張に裏切られた時にそなえての……」

 保険、と現代ならいうだろう。

「正雪と尾張のつながりを裏づける切り札であろう。畢竟、両者は信義で結ばれた盟友ではなかった、ということよ」

 何の庇護もない謀反人が身を守るための切り札とも止雨は語った。その切り札は今も有効だったのだ。

「社殿からは、刀以外にも何か出たのでございましょうか」

「表沙汰にできぬものが少々。これも正雪一味が秘かに隠したものであろう。尾張大納言の書状でも見つかれば話はわかりやすいが、謀反人どももそこまで迂闊であるはずがない」

「雙」第21回

雙 第21回 森 雅裕

 安倫は切迫感のない表情と口調で言葉を続けた。

「酉年の大火後、伊達家の上屋敷は外桜田と芝を行ったり来たりしましたが、今後は愛宕下の中屋敷が上屋敷になるようです。居場所を追われたお屋形様は品川の下屋敷へ移られます。その途中にあちこち寄られて、色々と始末なさることがおありのようです」

「吉原は品川への途中ではないがなあ」

「私もお供を仰せつかっています」

「家臣ではないはずのおぬしが……?」

「いじめないでください。伊達家を離れたのは方便にすぎません。お屋形様の側近たちは粛清され、付き従う者も少なくなっています」

「粛清とは?」

「切腹、あるいは斬殺です」

「大名屋敷とは魑魅魍魎の跋扈する場所だな」

「お屋形様におっしゃりたいことがおありなら、助広師匠もどうぞ御同行を」

「私は一介の刀工にすぎない」

「さて。お屋形様はそうともお考えではないようです。実は、助広師匠をお誘いしろといわれています。あとで本所の寮をお訪ねするつもりでおりました」

「危険はないといえるかな。私はどうやら何事かの企みに巻き込まれたようだ」

「何のことですか」

「先ほど、尾張の剣客に襲われた」

「それは……よく御無事で」

「山野様に救われた。あの仁を見直した。ただの金の亡者でもないようだ」

「山野加右衛門を見直したというなら、助広師の警護役として、呼んではどうです?」

「仙台侯の試し斬り依頼を断わった男、それを恨んで、おぬしが一度は斬りかかった相手だぞ」

「だからです。加右衛門が件(くだん)の脇差の試し斬りを断わった理由は、虎徹銘ではなくお屋形様の銘にあった。少なくとも、あの仁は仙台伊達家の飼犬ではない」

「もとは伊達家の家臣ではないか」

「はい。私とは違い、本当に嫌気がさして、勤めを辞した人物です」

「……わかった」

 明日、陸奥守様(綱宗)の吉原行きに同道する、と助広は告げた。それから、吉原という地名の意味をあらためて思い出し、戸惑った。

 

 白戸屋の寮へ戻ると、表では助直と使用人たちが芋茎(いもがら)を焚いていた。

「直。盂蘭盆会にしては時期が遅いな。御先祖をはるばる江戸で送り迎えしとるんか。お前は近江の産やろ」

「この寮にいる白戸屋さんの使用人たちも遠い田舎から出て来た連中ですわ。あの世の御先祖がここを探し当てるのに日数かかりますやろ。とはいうても、わしは芋茎ではなく、芋を焼いているだけです。琉球芋(薩摩芋)ですわ」

「私が帰るまでめしを待たされ、腹が減ったか」

「めしはもういただきましたがな。今夜こそ鰻です。あれ焼く匂い嗅がされて、我慢できますかいな」

「……お前は足が完全にようなるまで江戸に残って、勉強せえ」

 助広はいつもの勝手口ではなく、表から座敷へ上がった。まさのと顔を合わせたくなかったのだが、使用人が知らせたのだろう、夕食の膳を運んできた。

「送り迎えするような祖先の霊が、こういう寮に来るのかな。一体、誰の祖先だ?」

「子孫があちこちにいたら――」

 まさのはいつもと変わらぬ明るい声だ。

「祖先もどこへ呼ばれていったらいいのか、迷うでしょうね。掛け持ちするのかしら」

「祖先が誰で、子孫が誰だか、互いにはっきりわかっていれば、まだ苦労はない」

「まだ……? トゲのあるいい方ですね」

 膳には鰻の蒲焼きがのっている。

「遅かったところを見ると、今日も寄り道をなさいましたね」

「だが、茶菓子しか食ってない」

「今度こそ、江戸の鰻を召し上がっていただきます」

「毒なんぞ入ってはおるまいな」

「あら。御自分が生命を狙われるほどの嫌われ者だということは自覚していらっしゃるんですね」

「私が生きていては邪魔なお歴々がいらっしゃるようだ」

「……何かありましたか」

「心当たりがあるかね」

 まさのは答えない。助広の傍らで、給仕をしている。

「胡瓜のザクザク」

「……何だ?」

「出合い物です。鱧は手に入りませんでした。江戸では穴子になります。それでよろしければ、今度……」

「穴子は穴子だ。鱧の代用では穴子に失礼というものだ」

 いいながら、目の前の鰻に満足している。しかし、今は味わう気分ではなく、素直に言葉も出てこないから、

「鰻釣りにはまっすぐな直針を使うことがある。かえしがついていると、はずすのが厄介だ」

 そんないい方になる。

「そうそう。釣鈎は古いほど鉄がいいそうだ」

「そんな話が千代田のお城まで出かけた収穫ですか」

「いや。会津中将様のお茶席で、虎徹師は大火の翌年に首をはねられていると聞いた。事情を知りすぎたその帰り道で、襲われた。刺客に熱意がなかったので、助かった」

「で……?」

「明日、陸奥守様にお目もじする」

「お屋形様が師匠を害するとお考えですか」

「わからぬが、伊達様の家中に剣呑な空気があるのは確かだ。山野加右衛門様が同道してくれると心強いが」

「山野様を用心棒に……? どうしてあの方なのですか」

「仙台侯を憎んでいる。お前も知らぬわけではあるまい」

「私が……?」

「山野様はもとは伊達家家臣で、娘は義山公(伊達忠宗)の側室にあがり、人ではなく物のように扱われて、伊達家を離れたそうだ」

「…………」

「さすがに諸大名から試刀を依頼される人斬り加右衛門だ。仙台侯から脱しても、話題には困らないようだ。そして、お前もまた話題の豊かさでは人後に落ちない」

「どんな話題ですか」

「陸奥守様を隠居に追い込んだ伊達一族一門のうち、野心と実力の第一は伊達兵部少輔様(宗勝)。その兵部様と御刀奉行・楢井俊平様とは通じ合っている。そんな話だ。ならば、お前が陸奥守様の指図で刀鍛冶ごっこなどやっていたら、御刀奉行にそむくのではないか」

 養父は兵部派、娘は綱宗派だというのか。

「しかし、養父養女の関係にすぎませぬ。血のつながりからいえば、兄であるお屋形様の側につくのが当然」

「さて、どうかな。御刀奉行の養女のまさの殿は保科長門守様(正頼)との婚約が流れたあと、伊達兵部様と交誼ある老中・酒井雅楽頭様(忠清)の弟・日向守様(忠能)との間に縁談が持ち上がっている。まさの殿は和歌のやりとりをするほど乗り気だという。つまり、陸奥守様の足を引っ張りこそすれ、陸奥守様のために働くような女ではない」

 助広は膳に半分残る鰻を見下ろした。

「上方風に、蒸さずに焼いてくれてもよかったのだぞ、すみの殿」

「…………」

「まさのとすみのという双子の姉妹がいたことは確かなようだ。しかし、お前は御刀奉行の養女となったまさの殿ではなく、大坂で、私の幼馴染みだったすみの殿だ。鍛冶屋や金工の仕事にくわしかったからな。御船蔵の川辺にあがった死体がまさの殿だろう。いつ、どうして入れ替わったのか、それはわからぬ」

「私の口から申し上げられるのは、いかにも私はすみのだということだけ。吉原での通り名は薫といいました」

「嘘や冗談ということにしてもよいぞ」

「明暦三年の夏から、先月、お屋形様に身請けされるまで、丸三年間……。嘘や冗談なものですか」

 そうはいいながら、深刻さを感じさせない。助広が江戸で出会ったのはこんな奇妙な人間ばかりだった。

「お前を苦界から救おうとなさった陸奥守様のお気持ちは真実か」

「真実です。お屋形様は私の身売りには関知していませんでしたから」

「身請けされる前から打ち合わせはしてあったのだろうが、身請けされた二日後には、まさの殿になりすまして、私の前に現われた。安定師もそれは承知。安倫ともその間に口裏を合わせたな。それにしても、見事すぎる武家娘への化けぶりだった」

「十二から十六までの四年間、佐賀鍋島家の江戸屋敷へ行儀見習いにあがっていました。吉原での生活より長いくらいです」

「肥前忠吉はお前が顔を覚えていなかったことで、傷ついていた」

「覚えていましたよ。忠吉師が泰盛院様(鍋島勝茂)を見舞われたのは大火の前でしたね。泰盛院様は虫の知らせでもあったのか、何本かの名刀を国許へ運ぶよう、忠吉師にお預けになりました」

 その中に、鍋島家の名物ともいうべき「題目」村正もあったのだろうか。

「何故、お前の奉公先が佐賀屋敷なのだ?」

「山野様の紹介です」

 山野加右衛門は諸大名から試刀の依頼を受ける。鍋島家にも伝手があるだろう。そして、すみのは加右衛門に無縁の娘ではない。むろん、まさのも……。

「興里虎徹師と興光師はお前が伊達家につながる素姓だと、知らなかったのか」

「母は口外せず、亡くなるまで江戸を避けていました」

「避けたその理由を、江戸へ出てきたお前たち父娘は山野様から知らされたか」

「けれど、わけあって、私は佐賀屋敷から追い出され、売り飛ばされてしまいました。世間知らずな小娘だったとはいえ、間抜けな話ですよね」

「わけあって……とは?」

「つまらぬこと。つまらぬ理由です」

「すみの殿が漂泊流転しているのに、本物のまさの殿は御刀奉行の養女のまま安泰だったのか」

 いや、安泰ではなかったからこそ、死体となって隅田川に浮かんだのだ。

 助広は食事を続けた。心づくしの江戸の鰻も砂を噛むのと変わりなかった。

「お嬢様の正体が遊女と知って、がっかりされましたか」

「いや……」

「遊女風情に鍛刀を手伝わせたとあっては、汚れますか」

「そんなことはいっていない。思ってもいない」

 無理をして、めし碗を空にした。まさの――ではなく、すみのがそれをひったくるように奪い、二杯目をよそった。

「お手伝いは楽しゅうございました。吉原では年に二回、桜の花時と盂蘭盆会しか休みがなく、具合が悪い時は身上がりと称し、妓楼に玉代を払い、自分で自分を買って、休まなきゃなりません。刀鍛冶は夢のようでした」

「さて」

 助広はこの場の空気を手探りするように恐る恐る、しかし、穏やかにいった。

「拗ね者の山野加右衛門を用心棒に仕立てるには、どのように口説けばよかろうかな」

「山野様が反発しているのは仙台伊達家そのものではなく、亡くなられた義山公、そして誰よりも伊達兵部でしょう。なら、助広師に同道してくださるかも。ただし、師匠を守るためではなく、兵部によって当主の座から引きずり下ろされたお屋形様をお守りするためです。山野様は、すみのを苦界から救おうとなされたお屋形様を見直しているはず」

「そうだな」

 助広は視線を手許の食べ物から動かさなかった。女の顔を見られなかった。今、すみのの視線が何に向いているのかも、助広にはわからなかった。 

「仙台屋敷でお屋形様にお目もじなさるのですか」

「いや……」

 吉原へ繰り出すなどとはいえなかった。

 

 翌朝、山野加右衛門の屋敷を訪ねたが、朝食中だからと待たされ、約束の来客があるということで、さらに待たされた。助広は武家の習慣を守らず、事前の約束もなしに押しかけてきたのだから、文句はいえない。

 ただ、庭を勝手に歩いてもよい、と加右衛門の言葉が伝えられた。助広は屋敷の裏庭を散策した。別に庭園というほど工夫が凝らされているわけではなく、屋敷が建てられる前から植わっていたであろう雑木しかないでこぼこの土地だ。

 藁を置いた小屋があって、門弟たちが截断用の巻き藁を作っている。毎日、どれほど作り、消費するのだろうか。おびただしい量の使用済みの巻き藁が庭の隅に寄せてあり、百姓がそれから竹芯を抜き、荷車に積み込んでいる。畑の肥料にするのだろう。

 助広は、まさのこと実はすみのから止雨に届けるよう託されたものがある。彼女が作った求肥餅だ。止雨の住居を探すとはなしに、しかし、期待しながら歩いた。木立ちの向こうに細い人影が動いた。止雨だ。生け垣で仕切られた茶室のような建物へと消えていく。

 気軽に声もかけられない助広は、ゆっくりとそちらへ歩いた。止雨がいた木立ちの中に、視線をめぐらせた。小さな石碑がある。表にも裏にも何の文字も刻まれていないが、確かに石碑だ。赤小豆餡に白玉を入れたものが供えてある。汁粉とか善哉というものだが、庶民がこうした甘味を知るのは江戸中期以降のことである。止雨が作り、たった今、置かれたものだろう。

 見てはいけないものを見た気がして、助広は加右衛門の門弟たちが働いている庭へ戻った。

「助広殿」

 加右衛門が屋敷の縁から声をかけた。四十過ぎの悠揚迫らぬ武士が一緒だ。供侍も従えている。助広は深々と腰を折った。

「仙台伊達家評定役の原田甲斐様(宗輔)だ」

 と、加右衛門が引き合わせた。いかつい顔つきで、目鼻立ちもしっかりしており、鋭い眼光を重そうな二重瞼で和らげている。善人の相ではない。

「噂は聞いておる」

 と、甲斐は助広を見据えた。

「太守(伊達綱宗)もおぬしのことをお気に入りのようだな」

「恐れ入ります」

「刀工ならば、太守に淫酒をすすめることもあるまいな」

 綱宗の吉原遊郭での勇名を快くは思っていないようだ。仙台侯の重職なら、それが当然だった。助広は、これから自分が淫酒とやらに相伴するとはいい出せなかった。

 甲斐は供侍に長く四角い包みを持たせている。刀箱だろう。

「加右衛門に刀の目利きをさせたところだ。おぬしも見るか」

「よろしければ」

 縁にあがり、端座した。

「拝見いたします」

 甲斐は脇差を助広に示した。

「わしの父・原田民部(宗資)が医王野の戦功により、貞山公(伊達政宗)から拝領した吉光だ。『午王』の号で呼ばれている」

 同じ号の名刀が江戸後期、鶴屋南北の『於染久松色読販』にもどういうわけか登場するが、山城国粟田口派の藤四郎吉光は短刀の名手で、相州正宗、越中郷義弘と並んで、天下三作に挙げられているものの、太刀は「一期一振」と号する一本しか作らなかったといわれるくらいで、長い作品はまずない。そのため、この刀鍛冶は片腕が不自由だったという説さえあるくらいだ。脇差も薙刀を仕立て直したものが二本知られているだけであり、しかもこれらの真贋については意見が分かれる。

 吉光なら、試し斬りなど行なうような刀剣ではない。芸術性や真贋判定のための「目利き」なら、本阿弥などしかるべき鑑定家に持ち込むべきで、加右衛門に見せたということは、実用性いわゆる「武家目利き」を依頼したのだろう。加右衛門ほどの経験者なら、刀剣の姿、地刃、刃角などの見た目からでも、斬れ味が予測できるはずだ。

 原田甲斐の「午王吉光」は板目肌の流れる地鉄で、味わいの乏しい直刃が焼かれている。時代も若い。正真とは見えなかった。むろん、そんなことは口に出せない。

「いかにも物切れしそうなお刀でございますな」

 しかたなく、助広はそう誉めた。関物だろう。実戦向きの刀だ。加右衛門の「目利き」も真贋には触れていないはずだ。

「屋内においても常時たばさみ、生命を託すのは脇差だ。刀よりも吟味したものを差すべきと思わぬか」

「仰せの通りでございます」

「名前よりも刃味で選ぶべきよな」

 甲斐はこれが偽物と気づいている。しかし、武器としての能力が第一といっているのだ。それもまた見識というものである。

「では、わしはこれにて」

 仙台侯評定役は微笑み、袴を翻した。

 玄関に従者が控えている。そこまで見送った助広の脳裏に、隙のない後ろ姿が焼きついた。

(原田甲斐……様)

 加右衛門に疑問を向けた。 

「山野様は仙台侯にわだかまりをお持ちなのでは……?」

「特に伊達兵部の一派には、な」

「あの原田様は……?」

「伊達兵部の懐刀だ。いずれ奉行にもなられよう」

 仙台伊達家の職制に家老はおらず、その役職は奉行と呼称する。

「そのような人物の刀剣目利きをなさるとは、どういう風の吹き回しですか」

「原田甲斐は急ぎ仙台から江戸表へ召喚されたようだ。家中に何やら胡乱な動きがある……。その甲斐が、おのれの刀が使えるか使えぬかを見ろというのだ。興味が湧かぬか」

「…………」

「仙台伊達家は加賀前田家、薩摩島津家に次ぐ日本(ひのもと)第三の大藩とはいえ、小石川堀の拡張普請は財政を圧迫する。遊び好きの陸奥守様にまかせてはおけまい。伊達兵部は権勢欲の塊まりだが、それに釣り合う才腕も持っている。新田開発、年貢の増徴をはかり、物産の移出、移入に規制を加えて、収益につなげる、そんな策を練っておるようだ」

 保守派に対抗して、財政再建とともに戦国体制を一新し、近世藩幕体制へと脱皮をはかろうというのだ。

「もっとも、頓挫するだろうがな」

 加右衛門は保守派の抵抗を予想している。そして、それは的中する。

 十一年後の寛文十一年三月、大老・酒井忠清の屋敷で、原田甲斐が午王吉光をふるい、伊達兵部宗勝の政敵である伊達安芸宗重を斬殺、酒井家にも死傷者を出すという「伊達騒動」の修羅場が演じられることなど、助広には知る由もない。やがて、これが江戸後期の『伽羅先代萩』を代表とする十数題もの芝居となり、仙台高尾事件ともども人口に膾炙していく。

「……で、おぬしの用件は何か」

 ようやく、山野加右衛門が尋ねた。

 吉原へ同行していただきたいと腫れ物にさわるような言葉遣いを駆使すると、加右衛門はあっけなく、

「本日は小伝馬町でのお役目はない」

 と、これを受け入れた。

「では、支度をする。しばらく待て」

「止雨殿に御挨拶してきてもよろしいでしょうか」

「勝手に会ってこい」

 加右衛門を待つ間、助広は再び屋敷の裏手に回り、外露地から潜り戸を抜けて、止雨の住居へ声をかけた。質実な造作で、賢人の庵という風情である。

 返事のあった土間を覗くと、止雨は大鍋で赤小豆を煮ている。というより、巨大な杓文字ともいえるヘラを突っ込んで、船の櫂を漕ぐように練っている。餡作りである。かなりの熱気だ。

「おお。助広殿か。焦がさぬよう、手が離せぬ。このまま失礼する」

「お邪魔でしたか」

「かまわぬ」

 助広は土間の広敷の上に持参した包みを置いた。

「うちの女弟子が求肥を作りました。お試しください」

「焼入れの時、寛永寺で会うた、あの娘か」

「はい」

「おお。それは楽しみ。――加右衛門殿には会われたか」

「はい。仙台侯の御重役がお出ででした」

「原田甲斐様か。山野加右衛門の屋敷へ来て、私のところへ顔を出さぬのは、あのお方くらいのものだ」

「菓子がお嫌いなのでしょうか」

「では、何なら好きなのかな、ああいう人物は」

「さあ……」

「理屈と感情のどちらで動くのか、肚が知れぬ。思いつめると、厄介なことをしでかすのが、あの手の男だ」

「たとえば……?」

「謀反」

 無造作に、とんでもないことをいう。

「では、天下の謀反人、由比正雪もあんなふうだったのでしょうか」

「さて」

 助広もとんでもない名を出したのだが、止雨は動じなかった。

「正雪は孫武や呉起の再来と評判だったようだが、せいぜい秦に謀反をして、復興した楚の王を自称した陳勝がいいところだろう。『燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや』と大言壮語しながら、半年で部下に殺されてしまう将軍だ」

「半年でも、王になれたなら、たいしたものです」

「そうだな。原田甲斐様は王を殺す臣下の方かも知れぬ。正雪も、王になったわけではない。なろうとしたわけでもあるまい。世にあふれる牢人の窮乏を公儀に訴えればよかっただけのこと」

 その後、公儀の大名統制策が緩和されたことを見れば、正雪の謀反もあながち無意味ともいえない。

「大猷院様(家光)薨去の機会に乗じて、蜂起しようとしたといわれるが、事実は逆だろう。前将軍葬儀と新将軍宣下のために江戸城周辺の警固がきびしくなり、正雪は計画を延期した……。その隙に訴人された。違うかな」

「そうかも知れません。おそらく」

「訴人した者たちは報奨を受けはしたが、軽侮もされているようだ。それでも有卦に入ったといえるのかな」

 謀反とはいえ、武家社会では密告は恥ずべき裏切り行為とされる。報奨として幕臣に取り立てられた者も同輩からは嫌われている。

「雙」第20回

雙 第20回 森 雅裕

 端午の節句は菖蒲が尚武に通じることから鎌倉期に男子中心となったが、もともと中国では穢れを祓い、災厄から逃れる行事であり、日本では田植えの季節ということで、豊穣を祈り、労働者である娘たちが身を清める休養日とされたものだ。男子の節句と限ったものではない。

 助広の頭にあるのはまさのだ。まさのは寛永十九年(一六四二)、端午の節句に生まれ、干支は午だ。

(何を考えとるのや、俺は――)

 まさののために短刀を作ろうとしているのか。驚き、あきれながら、自問した。近日中には自分は江戸を離れ、もう二度とまさのに会うこともあるまい。短刀を打ち、拵を制作するとなれば、半年はかかろう。そんなものをどうやって贈ろうというのか。第一、贈る理由が思い浮かばない。

 助広にしてみれば、まさのの存在が創作意欲をかきたてるのである。それ以外の理由は見つからない。もっとも、助広のような男には、そういう女こそ理想なのだが。

「あいにく、馬はございませんなあ。いや、先日、売れてしまいましてな。この先に御様(おためし)御用の山野様のお屋敷がございます。あそこには午年はいらっしゃらないのに、どういうわけでしょうか、お買い上げいただきました」

「山野様はこの店の常連か」

「何。玩物趣味などありはしませんさ。だから奇妙なのですよ。あの人の金の使い道は、何も食わず何も着ない死人の供養がもっぱらでございますからね」

「供養……?」

「三ノ輪の方の荒寺を買い取り、永久寺というのを建てましてな」

 永久は加右衛門の名乗である。もとは日蓮宗蓮台寺といったが、加右衛門の首斬りが千人に達したのを機会に改築され、天台宗永久寺となった。後年、目黄不動として知られることになる。

「自分が斬った罪人どもの石碑を据え、供養しているという話です。むろん、内緒ですよ。表向きは山野流刀術の顕彰碑ということになっております」

「常連でないにしては、よく知っているな」

「会うだけなら、いつも会ってますからな。うちの軒先から裏へ回って、釣りをなさる。今も加右衛門様が――」

「いるのか」

「はい」

 節句図の金具を買い求め、助広は教えられた店の裏手へ回った。百姓地を少し歩くと、小さな崖になっている。下の水路を覗くと、孤独な人影があった。

「釣れますか」

 近づいて、声をかけた。加右衛門は振り向きもしない。

「何をもってして、釣りの上手と呼ぶか、わかるか」

「大物を釣る、もしくは数を釣ることでは……?」

「そんなものは偶然にすぎぬ。不漁の時に釣る。それが上手、名人というものだ。まったく釣れぬ状況で釣るのだから、百尾も千尾も釣ることはない。古来、釣り名人の派手な伝説を聞かぬのは、そういうわけだ」

「はあ……」

「本所界隈で多く釣りたいと思うなら、多少遠くとも隅田川へ行く。御材木蔵から両国橋へかけて、川が蛇行している東岸だ。やたらと杭が打ってある。釣りと水死体の名所だ。それだけ人も多く、わしには居心地が悪い。夜釣りをする連中もいる。つまり、死体を沈めるには人目があるということよ」

 この男、何をいいたいのか。

「鈎(はり)は古きほど鉄練れ合いてよし、という言葉がある。古鉄を用いる虎徹の刀にも通じるものがあるな」

「その虎徹師の首を山野様はお斬りになりましたか」 

 会話の手順を踏むのが面倒で、唐突に訊いた。偏屈と偏屈のやりとりである。

「何だ、またその話か」

「今の虎徹師は弟の興光師が入れ替わったもの。兄の興里は小伝馬町で死罪となったとか」

 さすがに保科正之から聞いたとはいうわけにいかなかった。

「以前にも申した。年に何百という首を斬る。いちいち覚えてはおらぬ」

 加右衛門は相変わらず取りつく島もないが、珍しく笑顔らしき表情を作った。

「虎徹の刀で虎徹自身の死体を試し斬りしていたとしたら、笑い話だな」

 笑い話なものか。人の生がおぞましく、死が簡単なのは浄瑠璃や芝居の世界だ。

「虎徹が生きていようが死んでいようが、虎徹の名を持つ刀は今後も生み出され、世に受け入れられていく。今の虎徹が何者であるかは問題ではない」

 要するに「虎徹」は個人ではなく商標なのである。

「わしが虎徹の刀を称揚するのは、首をはねた虎徹への供養だとでもいいたいのか。死者の機嫌をとったところで、金にはならぬ」

 一種の偽悪家であった。これで世渡りできるのだから、助広は羨望さえ覚えた。

 ただ、助広も根は偏屈な男だから、返事もせずに突っ立っていた。手土産も持参しなかったのだから、迷惑がられてもしかたがない。

「武家を事前の約束もなしに訪ねるものではない。おぬしの無骨な道連れはそれを教えてくれなかったのか」

「は……?」

 加右衛門は川面を見つめたままである。

「ほお。道連れではないようだ」

 助広が振り返ると、男が立っていた。袂に川の風を入れながら、俳句でもひねりそうな風情だが、身のこなしには張りつめたものがある。柳生兵助だった。

 ゆっくりと踏み出した兵助へ、助広は律義に頭を下げようとしたが、加右衛門の刺すような声が早かった。

「柳生殿とわしは、気楽に行き来する間柄でもないが」

「左様ですな」

 兵助の声は沈んでいる。

「私としては、助広殿に用がある」

「斬りに来たか」

 助広は加右衛門の背中と兵助の硬い表情を見比べた。

「……何のことです?」

 兵助は答えず、刀の柄に手をかけた。同時に、加右衛門の釣竿が川面から跳ね上がり、宙空に弧を描いた。ようやく加右衛門は兵助を振り返った。その釣竿の先で、兵助の手許を押さえながら。

「およしなされ。武芸者でもない刀鍛冶を斬ったところで、柳生の名誉にはならぬ」

「ならば、山野殿が助広殿に助太刀なされよ」

「大義なき殺生を好む柳生兵助殿とも思われぬが」

「牢人の山野殿にはわからぬこと」

「主命か」

 助広は、

「どういうことですか!?」

 再び訊いた。主命とは何だ。尾張家が兵助に助広の抹殺を命じたというのか。理由は何だ。

 兵助の腰から白刃が走った。彼の顔を打とうとする釣竿を切り飛ばし、わずかに動きが遅滞した。その隙に、助広は繰り出される刃先を避け、駆け出した。刀の届かない土手へ張りついた。

 兵助は追わない。加右衛門が立ちはだかった。先端のない釣竿を手にしている。

「そんなもので、私と渡り合うおつもりか」

「斬り合いでは、どうせおぬしにかなわぬ。刀を抜いて負けるくらいなら、釣竿で立ち向かって負けるのが、牢人には牢人なりの名誉というもの」

 二人が対峙するのを、助広は土手の小さな崖下から見ていた。

 ふと、兵助の構えがゆるんだ。白刃を鞘へ納めた。

「やめた」

「それはうれしいが、主命はどうする?」

「剣術のみならず、君たる道も御指南申し上げるのが柳生のつとめ。それに耳を貸さぬ中納言様(徳川光義。のち光友。大納言)なら……」

「おぬし、腹を切るか」

「あるいは牢人となって、技を磨くのも悪くないな。山野殿が仙台伊達家を離れられたように、な」

 兵助は踵を返し、

「助広殿。無礼をした。お許しくだされ」

 大股で歩を運んだ。

「おぬしに会えて、面白かった」

 そう言葉を残し、土手を越えた。

 助広は急に疲労を覚えた。何が起きているのか、わからなかった。しかし、自分が落ち着いているところを見ると、身近にある剣呑な空気を以前から感知していた気もした。

 加右衛門は短くなった竿をぼんやり眺めている。

「竹を伐るのは、竹の中に生気がこもらず虫食いのない新月の頃に限るという。これに油を塗って、火にあぶりながら、毎日少しずつ回して、まっすぐにしながら青竹を枯らし、固い琥珀色に変化させてやると、重さも減る。普段の手入れには鰻の油を塗り、火気にあてる。戦場における旗指物の旗竿と同じだ。そうやって、手塩にかけた釣竿だったが……」

 のんきなことをいっている。

「山野様。何故、柳生様は私を斬ろうとしたのでしょうか」

「おぬしは知りすぎた。そういうことだ」

「何を知りすぎたというのですか」

「わしには関わりのないこと。わしまで狙われてはかなわぬ」

 助広は話題を変えた。

「山野様はかつて仙台侯の家臣でしたな」

「困った家臣が多い仙台侯よの」

「伊達家には、さらに困ったお方がいらっしゃるのでは?」

「御一門に伊達兵部少輔宗勝という人物がおる」

 伊達政宗の十男。忠宗の弟つまり綱宗の叔父で、伊達家六十二万石のうち、一ノ関一万石(のち三万石)の領主である。江戸初期の仙台伊達家は一門親戚が各々の領地で館主(たてぬし)と呼ばれ、年貢も直接徴収しており、大藩の中に小藩が分立するという状況になっている。

「陸奥守様が当主の座を下りるようなことになれば、世嗣の亀千代君(のち綱村)は幼君ゆえ、後見人として一族の実権を握るのは、この兵部だ」

 では、仙台高尾の醜聞を煽っているのも、伊達兵部なのか。

「そして、兵部の息子・東市正宗興(いちのかみむねおき)に酒井雅楽頭様の娘との縁談がある」

「酒井様に妙齢の姫がおられましたか」

 酒井忠清はまだ三十代ではないか。

「姉小路公景(公量ともいう)卿の息女を養女とするのだ。名ばかりの娘は武家には珍しくもないこと」

「ああ……」

「閨閥作りはそればかりではない。おぬしには女の弟子がいたな。牢屋敷でも寛永寺でも、あんな場違いな娘、いやでも目につく」

 仙台侯御刀奉行の養女だろう、とも加右衛門はいった。目についただけで、そこまでわかるわけはない。

「はい。酒井雅楽頭様の弟君の継室として、輿入れすることに決まっているとか」

「その婚姻は伊達兵部のお膳立てだ」

「え……?」

「雅楽頭様は伊達陸奥守様の吉原通いにきびしく諫言したと聞き及ぶ。雅楽頭様がよしみを通じているのは仙台伊達家ではなく伊達兵部という個人だ。つまり、陸奥守様の政敵の閨閥にその娘は道具とされるのだ。というのも、御刀奉行・楢井俊平は兵部派であって、太守(綱宗)派ではないからの」

 加右衛門が珍しく情緒的になっている。喜怒哀楽は表面に出さないが、この男らしくもなく多弁だ。

「山野様はまさの殿のことを御存知なのですか」

「太守(伊達綱宗)の腹違いの妹君」

「そのこと、真実でありましょうか」

「何を疑っておるのか」

「いえ。伊達家の血筋でなければ、もっと自儘に生きられるものを、と思うだけです」

「自儘とは、どのように……?」

「さあ……」

「わしには娘がいた」

 加右衛門は朗読でもするように、いった。

「わしは伊達家江戸詰めであった。二十年近く前のことだ。娘は義山公(伊達忠宗)のお目にとまり、お側にあがった。惚れた男がいたが、別れさせられた。娘は懐妊したが、奧向きに騒動の起こることを避けて、義山公から家臣へお下げ渡しになった。そして、子供を産んだ。しばらくすると、その家臣からは離縁された。義山公の未練絶ち難く、またお側にお返し申せ、と命ずる者があったのだ」

 加右衛門の声が高くなる。

「伊達兵部だった、それが」

「では、離縁した家臣というのは御刀奉行ですか」

「刀を何のために差しているのかも知らぬ腰抜けよ。兵部とて、義山公への忠義心から気をきかせたのではない。主君の勝手わがままを増長させることで、家臣団の離反を目論んでおったのだ」

 仙台侯六十二万石を伊達兵部が独占できるものではない。兵部の最終目的は伊達宗家の取り潰しと一族による領土分割である。いわば、仙台伊達家の解体だ。

「娘が産んだのは双子だった。武家では、畜生腹と呼んで、嫌うことがある。一人は寺へ入れるように命じられた。しかし、側室に戻ることも赤ん坊を仏門へ預けることも娘は拒んだ。いや、娘を玩具にされ、わしの意地も強かった。赤ん坊の一人は仙台へ送られており、どうにもならなかったが、江戸に残る一人と娘を出奔させ、大坂へ逃がした。わしの知己であった刀装金工に託して」

 子供だった助広の前に興光・すみの父娘が現れたのも、それ以後のことだ。

「むろん、わしも禄を離れた。勝手な行動をとがめられなかったのは、せめてもの義山公の御厚情というもの」

「山野様。止雨殿ですが、もしや、あの方は――」

「わしは帰る」

 加右衛門は魚籠を水中から引き上げた。

「竿をなくしては釣りはもうできぬ」

 屋敷までついていく社交性など持ち合わせない助広である。能もなく棒立ちしていると、加右衛門は土手へ向かう足を止めた。

「わしとおぬしが初めて会うた時、余目五左衛門――安倫が後生大事に持っていた長脇差があったな」

「はい。山野様に試し切りを断わられ、遺恨を生じた一刀でございますな」

「おぬしは知りすぎたとはいえ、まだすべてではない。この夏の出来事が何であったのか、あれが教えてくれるはずだ」

 安倫が住み込む大和守安定の仕事場は、神田白銀町だ。さほど遠くはない。行ってみる気になった。安定と安倫が伊達綱宗の隠居をどう受け止めているのかも気になる。

 

 助広が一介の刀鍛冶にしては知りすぎたことといえば、保科正之の茶室で聞いた例の件である。振分髪は虎徹作の偽物で、その興里虎徹は刑死し、今の虎徹は弟の興光が入れ替わった――。保科正之にしてみれば、助広の口数の多少が心配だろう。

 しかし、おかしな点もある。あの茶席は、今にして思えば、酒井忠清に虎徹兄弟の入れ替わりを教えるためのものだった。助広はその証人として呼ばれたのだ。何のために、保科正之はそんなことをしたのか。酒井忠清から話を切り出したところを見ると、忠清はこの件を調査追及していたのか。その目的は……?

 もうひとつ、助広を抹殺したいなら、そこでどうして尾張徳川家の人間である柳生兵助が差し向けられたのか。尾張家も一枚噛んでいるということなのか。

 兵助がさっさと助広を斬っておれば、こうした疑問も生じない。藪蛇となった。

(いや――)

 あるいはもしや、兵助はそのつもりで刀を納めたのかも知れない。助広に考えさせ、兵助の立場ではいうわけにいかない真実を知らしめようとした――。兵助なら、ありそうなことだ。

 

 応対に出た弟子は、鎚音の響く鍛錬場へ助広を案内した。安定は弟子たちを向こう鎚に回して、鍛錬をやっている。

「虎徹の鍛錬場で、公方様献上の短刀を打ったそうだな。わしのところでは不足だったか」

 嫌味なはずの言葉だが、安定は仕事の手をゆるめず、熱中している。その様子には他人への毒気はない。

「御前鍛錬とは違い、わしの本気の沸かしは見せぬぞ。出ていってくれ」

 ここまで通したくせに、そんなことをいう男である。

 安定は大柄な体型に似合わぬ稚気を宿し、山野加右衛門や虎徹は体型も性格も鋭利だが、いずれも仏頂面の底に純粋なものを隠している。ある意味、彼らは似ている。

「安倫殿は……?」

 鍛錬の場に姿は見えなかった。

「樋(刀身の溝)を掻いておる」

 そうした工作場は別になっている。

「お邪魔してもよろしいか」

「かまわぬが、弟子たちは皆、忙しい。茶は出ぬぞ」

 助広は鍛錬場を回り込んで、工作場の引戸を開けた。安倫を見つけるなり、

「あの脇差の銘を覚えているか」

 と、訊いた。

「あの脇差……?」

「おぬしが伊達家を脱するきっかけとなった脇差だ。すでに伊達家へ返したといっていたが」

「はあ……。絵図をとってあります」

 経眼した刀は記録するのが安倫の習慣らしい。工作場の続きになっている座敷で、それを広げた。

「絃唯白色剛無刀有室不至視不見」

 それが銘である。身分ある者が余技で鍛刀した場合は、変名や隠し銘を切ることが多い。

「読めますか、これが」

「みみずくは頭隠して逆さ立ち――。わかるかね」

「みみを取って、残る言葉を逆さにすれば、くず」

「そんなようなものだ。絃は糸偏に玄と書く。『ただ白色』とは、絃に黒がない、つまり糸のみということだ。同様に、剛に刀がなければ、岡。室の字に至がなければ、ウ冠だけとなる。視の字に見がなければ、示……」

 これら、糸と岡とウ冠と示を組み合わせれば、

「綱宗……」

 助広は隠し銘を解いて得意になるよりも、怒りが湧いてきた。

「知っていたのではないか、安倫」

 安倫は何とも答えなかった。

 虎徹は保科正之の息子・正頼に鍛刀の手ほどきをしたと聞いている。正頼と伊達綱宗は昵懇だったというから、この脇差が虎徹と正頼の合作ならば、綱宗が所蔵していてもおかしくないと思ったが、虎徹と綱宗の合作だ。若者二人はともに虎徹から教えを受けたのかも知れない。

「陸奥守様が綱宗と名乗られるのはいつからかな」

「承応三年の暮れと記憶しますが……」

 六年前だ。脇差はそれ以降の作ということになる。もっとも、綱宗は今現在が二十一歳にすぎないから、そう昔から刀作りを経験していたはずはない。問題なのは古さではなく、新しさだ。綱宗がいつまで虎徹とつきあいがあったのか。虎徹自身によれば、「古鉄」銘は明暦初めの作ということだったから、せいぜい四、五年前である。

 宣伝上手な虎徹はあちこちの名士の相槌をつとめている。その一人だった綱宗が、今現在は安定とのつながりを深め、虎徹との過去の交流を口外しないのはどういう理由なのか。綱宗が虎徹と旧交の仲ならば、替え玉かどうか、知らぬはずはない。だが、知らぬことにしたいわけだ。

 すみのは佐賀鍋島家の江戸屋敷に行儀見習いにあがっていたというから、綱宗は彼女の存在も消息も知らなかったことは有り得る。しかし、虎徹にしても、そして、すみのの養父である興光にしても、すみのと伊達家のつながりを知ることはなかったのか。ならば、どうして遊女に売ったのか。

「わからぬ。おぬしら師弟と初対面の時、私はこの脇差を見せられた。陸奥守様には封印しておきたい脇差のようだが、ならば、どうして銘を見ることまで許した?」

「うちの師匠は偏屈だから。そうとしか私には申し上げられません」

 綱宗の意図には、安定は全面的に同意しているわけではないのか。

「この脇差は今、どうなっている?」

「お屋形様が普段差しになさっておいでです」

 大柄とはいえぬ綱宗だが、剛毅な性格に長脇差は合っている。

「陸奥守様の近状が気になるが……」

「お屋形様は世間離れされていますからね。隠居はむしろ背負った重荷を下ろす好機だったかも」

 安倫は隠居した綱宗を相変わらず「お屋形」と呼んでいる。山野加右衛門も「太守」と呼んでいた。彼らには呼び方を変える気はなさそうだ。もっとも、幼い世嗣はまだ正式に跡目相続しておらず、元服するまでは綱宗の名義も生きているのだろう。

「まさの殿も陸奥守様を案じていた」

「まさの様はもうお屋形様と関わらぬのが身のため。私もあぶない橋を渡っています」

「そうか」

「明日、お屋形様は吉原へ遊びに出られます。実は、薫でも高尾でもなく、以前から薄雲太夫という遊女に馴染んでおられて……」

 高尾にふられた綱宗を、

「薄雲で少しは晴れた御胸也」

 江戸市民はそう揶揄した。

「公儀からは逼塞を命じられているはずだが」

 助広は綱宗の心底がわからず、戸惑いながらそういったが、安倫もまた困ったように苦笑するのみだ。

「そうはいっても、逼塞の刑は閉門よりも緩く、門戸も窓もふさいで外部との接触を断つわけではありませんし」

 外出禁止は昼間だけである。もっとも、夜は「有事」にそなえ、自宅待機が武家生活の基本だ。

「雙」第19回

雙 第19回 森 雅裕

四・天帝

 将軍への献上品をいきなり江戸城へ届けるわけにはいかないから、会津侯用人の加須屋左近を通し、保科正之には申し入れてあった。助広にしてみれば、左近に短刀を渡せば事足りるのであって、正之に拝謁する必要もあるまいと、人づきあいの面倒なこの男らしく、単純に考えていたのだが、

「茶でも点てよう」

 と、保科正之から使いが来た。

 助広は途方に暮れた。

「作法など知らぬ」

「知らねば教わればよいこと」

 まさのが道具を揃え、ひと通りを教えた。

「刀では助広殿が師匠。茶では私が師匠ですね」

「不肖の弟子を持つつらさがわかったかね」

 稽古には紀伊、尾張両家から拝領の由緒ある茶碗を使った。白戸屋が知ったら、天をも恐れぬこの師弟をまた嘆くことだろう。

 しかし、その白戸屋善兵衛は近所に祝いの餅でも配りかねない喜びようだ。

「会津中将様からお茶のお呼ばれとは、助広師をお世話した甲斐がございました」 

 鉦や太鼓で送り出される気分で、助広は短刀を携え、本所の寮を出た。会津保科家の家臣二名が案内についた。

 保科家上屋敷は江戸城西ノ丸下、和田倉門内にある。この一帯に建ち並ぶのは幕閣の執務用公邸であるから、城外や郊外の中屋敷、下屋敷に比べれば小規模なはずなのだが、穴蔵のような鍛錬場で生活している職人には、別世界であった。

 しばらく櫓門の脇の腰掛で待たされたあと、いくつかの門を抜け、書院で案内の侍がかわり、庭園へと案内され、路地をめぐり、松林に囲まれた茶室への門をくぐった。

 が、待合の床机の上で、また待たされた。風に乗って舞い込んだ天道虫が、助広の膝許を這っていく。そののどかさを砂利を踏む音が破った。助広は虫をそっと逃がしながら立ち上がり、足音へ向かって、頭を下げた。

「無粋な挨拶など無用」

 そういって、現われたのは、重厚な押し出しの侍だった。寛永寺の御前鍛錬献納式に列席していた顔だ。酒井雅楽頭忠清――。無遠慮に見つめることができる相手ではないが、芝居の悪党みたいな面相は強烈な印象を残していた。芝居に登場する「悪党」は必ずしも非道な人間ではなく、癖の強い者、硬骨漢として描かれるものだ。

 忠清は供侍たちを退け、待合へは一人で入ってきた。

「津田助広……」

「はい。会津中将様のお召しで、まかりこしました」 

「わしも呼ばれた。この顔ぶれで、どのような茶席になるのかな」

 会いたいとは思うていた、と忠清はいった。

「先日の誘いの返事を聞こう」

 酒井家の抱え鍛冶に、といわれていたが、助広にはあまり実感のある話ではなかった。何か肌の合わないものを忠清には感じている。

「身に余るお言葉をかけていただきましたが、私は大坂を離れたくございません」

 幕閣の忠清は領地の前橋へはほとんど帰らないから、お抱え鍛冶もそちらへ移住する必要はない。しかし、江戸に居続けることになる。

「大坂がそんなによいか」

「友人知人、一門の郎党がそばにいてくれてこそ、仕事にも張りが出ますゆえ」

「ほお。人を寄せつけぬ孤高の職方かと思うたが」

「滅相もない。ただ、気の合う仲間は少のうございます。だからこそ、離れ難きものと……」

「わかった。もうよい」

 忠清の表情、言葉にはやさしさなどかけらもないが、器量の小さな男ではなく、不機嫌な様子は見えなかった。

「まさの殿もその仲間の一人となったか」

「あ。日向守(酒井忠能)様と婚礼あそばされるとか。おめでとうございます」

「品川の伊達家下屋敷の花見に招かれた時、わが弟が見初めての。まさの殿もなかなか乗り気のようじゃ。かつては会津様の早世された御嫡男と約束があったまさの殿じゃが、余り茶に福ありというところかな。いや、余り茶とは無礼な物言いよな。日向はわしと違うて、なかなか優雅な趣味人で、二人の間には和歌、返歌のやりとりがあるとか」

「それはそれは……」

 何と受け答えしていいのか、わからない。酒井日向守が移封先の信濃小諸で酷政を行い、領民の大規模な一揆を誘発するのは後年のことである。

「伊達陸奥守様もお喜びでしょう」

 助広はしかたなくそういったが、その名を聞いた忠清の反応は、

「さてさて……」

 一瞬、皮肉混じりの苦笑を走らせたものの、それ以上の言葉はなかった。

(この人物は――)

 助広は直感した。伊達綱宗など眼中にない。閨閥作りの目的も綱宗ではない。仙台侯の領内に割拠する伊達一族のうち、交誼を結びたい有力者が別にいるのだろう。

 仙台伊達家の上級家臣には一門、一家、準一家、一族、着座、太刀上、召出という家格がある。これは近世の藩幕体制のもとでの伊達家当主の権力確立を妨げる要因であった。若い当主を差し置いて、傑出した血縁者が政治を牛耳ることになりかねないのである。

 伊達家重臣たちは老中首座・酒井忠清の屋敷に呼び出され、阿部忠秋、稲葉正則ら老中列座の上、綱宗の隠居が下命されたと助広は聞いている。忠清の手配りだろう。綱宗の後継者選びについては公儀の裁可はまだ出ていないが、これにも酒井忠清が暗躍していることは想像に難くない。となれば、まさのが忠清の弟に嫁ぐのを喜ぶほど、伊達綱宗は能天気ではあるまい。

「時に、おぬし。本阿弥光温とは不仲のようじゃの」

「いえ。そんな――」

「よいわ。彼奴のところで、朽ちた刀を見たであろう」

「……はい」

「銘は読めたか」

「いえ」

 と、答えておいた。

「まあ、よい」

 忠清の苦笑に吐息が混じった。信じていない。

 支度がととのいましてございます、と迎えが来て、茶室へ案内された。正之がいる。

「短刀が打ち上がったか」

 助広は包みを差し出した。

「本来なら、しかるべき箱に納めた上で、お持ちするところでございますが……」

 この日に間に合わなかった。仮鞘を包んだ錦袋もまさのが急いで縫ったものだ。

「よい。そんなものはこちらで用意する」

 短刀を抜いた正之は、穏やかな眼差しをその刀身に注いだ。

「重畳。上様もお喜びになろう」

 正之は助広を見据え、微笑んだ。酒井忠清が悪党の面相なら、保科正之は正義の二枚目だった。この男の夭折した嫡男もさぞ男前だっただろう。

「茶を飲んだら、すぐ帰りたいという顔じゃな」

「いえ。ただ慣れておりませぬので……」

「茶の席に慣れていないことが自慢か」

「は……?」

「そのように聞こえた。こうした席を通じての世渡りなどは嘲笑うて生きている、とな」

「滅相もございません」

 助広は狼狽した。心底、そんなつもりはない。保科正之には畏怖を抱き、こうして声をかけられるだけでも名誉だと感じている。しかし、自分でへりくだっているつもりでも、生意気だと嫌悪されてきたのが、助広のこれまでの人生だった。

「お気にさわりましたら、御寛恕を賜りますよう……」

「いや。うらやましく思うだけじゃ。お前は鍛冶の神以外には頭を下げずとも生きていける」

「左様なことはございません」

 一流職人の多くは高級武士、富裕商人の後援のもとで、生計を立てている。今のところ、助広にはこれという後援者はないが、現われてくれたら、頭を下げるだろう。

「かまわぬ。やたらと頭を下げるな。お前には似合わぬ。帰りたいじゃろうが、しばらくつきあえ」

 ようやく、正之は忠清へ顔を向け、

「お上への献上品じゃ」

 と、短刀を示した。忠清は手に取りはしたが、目許は無表情で、

「眼福」

 と呟き、正之へ戻した。素っ気なかったが、そのあとの言葉に助広は驚愕した。

「之定に見えるのお」

 和泉守兼定は室町中期から後期にかけての美濃を代表する名工である。その銘が、定のウ冠の下を之と切ることから之定と呼ばれ、華実兼備の名刀として賞翫にあつい。

「虎徹が御前鍛錬で献納した刀も之定のような出来であった」

 そうなのである。助広と虎徹は出発点がまったく異なり、のちの到達点も違っているのに、ともに之定を彷彿させる作刀が時として見られる。

 酒井忠清の両眼は節穴ではない。

「しかし、わしが今、興味あるのは振分髪のこと」

 予期せぬ言葉が出たが、

「そんな話は、一服なさってからじゃ」

 正之は茶を点てている。

 その手許を見つめながら、助広は息を殺していた。二人の権勢家の間にある空気の重さ――というより、痛さのせいだ。表向き、正之は幕閣から信頼され、親交もしている。しかし、政治家の友情が信用できるだろうか。

(雅楽頭様が振分髪に何の興味をお持ちになるのか――)

 辣腕の老中首座が刀剣に関心を持つとすれば、政治がらみということになる。

(なんで、俺がこんなことに関わり合うのや)

 助広は刀を作っていたいだけなのだ。御前鍛錬は得るものが多かったが、江戸へ来ることを熱望したわけでもない。政治は性に合わなかった。何人もの高級武家たちと言葉を交わす名誉に浴しながら、

(そもそも、なんで俺が江戸へ来たのや)

 そんなことさえ思った。が、それは愚痴や恨みではなかった。疑問だ。

(大坂からは二代国貞が来るはずやった――)

 それが助広にかわったのは、理由がある。その理由が、これなのではないか。ふと、助広は思い当たった。振分髪をめぐる政治に関わり合うために、助広は大坂から呼ばれたのだ。では、助広でなければならなかった理由は何か――。

「菓子を」

 促されて、茶菓子を口へ運んだ。落雁である。これまでに経験したことがない甘さだった。それを感じると同時に、まさのに食わせたいと考えていた。そこまで、まさのの存在が大きくなっている。

「助広」

 茶を喫し終えると、忠清が口を開いた。

「振分髪の写しを、二振りも作ったわけを尋ねたい。何故、この二振りの地鉄を異なるものとしたのか」

「それは、仙台侯のお屋敷で拝見いたしました振分髪そのままと、自分なりの振分髪と、それぞれを作りました次第」

「実見した振分髪の地鉄には、杢目に柾目が交じり、お前なりの振分髪には杢目に大肌が交じるということか」

「はい」

「しかし、お前本来の作柄では、詰んだ杢目ゆえ、大肌は出ぬはず。違うか」

 意外だった。忠清はまだ新人刀工にすぎない助広の作風を承知しているのか。

「作柄というものは、いつも同じとは限りませぬ。鉄の性質や鍛錬法のわずかな差異により、思わぬ肌が出ることがございます」

「思わぬ肌か、計算した肌か、それがわからぬわしの目と思うか」

「…………」

「何。わしごときは自慢するほどの刀剣目利きではない。しかし、お前は父の代から詰んだ杢目を身上としておる。大肌が目立つのは相州伝である。つまり、正宗の作とされている振分髪ならば、杢目に大肌が交じらねばならぬと考えてのことであろう。それがすなわち、お前なりの振分髪ということ」

「恐れ入ります」

「では、お前が実見した振分髪に大肌ではなく柾目が交じっていたのは、いかなる理由かな」

 返事を逡巡していると、

「かまわぬ。正直に答えよ」

 そう声をかけたのは正之である。

「お前なら、本音をいうと見込んで、雅楽殿も尋ねておられる」

「はい……。杢目は疵が出やすく、また研ぎにくいもの。その対策として、現今の刀工は折り返し鍛錬の回数を増やし、密な杢目を作るようになっております。しかし、鍛錬回数を増やせば、表面から剥がれ落ちる金肌も増え、折り返しの層が柾目となって、現われます。刃寄り、鎬地に柾目が出るのは、今出来の刀ということでございます」

「振分髪は鎌倉期の正宗ではないということか」

「あくまでも私見でございますが」

「会津様」

 と、忠清は将軍の叔父である正之を呼んだ。

「振分髪は伝来の確かな名刀でありました。それがいつのまにか、偽物とすり替えられたようでございますな」

 正之は涼しい表情を返した。穏やかな微笑さえ浮かべている。

 一方、忠清の眉根がきびしく隆起した。

「今出来とすれば、そのような偽物が江戸城に納まった経緯を会津様は御存知ではないのですか」

「左様。わしがお膳立てをいたした」

 あっさりと正之は認めた。

「酉年の大火後のことじゃ」

「何と……!?」

 忠清は噛みつきそうな目の色だ。

「振分髪は大坂の落城にも燃えずに残った霊器のはず。酉年の大火後、わしは宝物蔵の検分には立ち合うておらぬが、無事であったとばかりに思うておりました。それが、焼失したと申されますか」

「だとしたら、お上の御威光にもかかわることじゃな」

「そこで、振分髪の偽物を作らせたのですか」

「将軍家御用の康継は三代目がまだ若く、叔父つまり二代目の弟と家督を争っておる。康継に依頼はできかねた。しかし、越前という出身地で康継につながる刀工がおる」

「越前出の刀工は多いが……誰です?」

「長曽祢虎徹」

 あ、と忠清はのけぞるような仕種を見せた。

「では、虎徹に尋ねれば、振分髪は自分の作だと答えるのですかな」

「それは無理というもの」

「何故?」

「今の虎徹が本人ではないという噂は、雅楽殿もお聞き及びのはず」

「側聞ながら、虎徹の弟に入れ替わっておると……。しかし、真偽不明の噂じゃ、それは」

「では、その真偽のほど、ここにいる助広が答えてくれようぞ。大坂にいた頃の虎徹の弟――金工の興光を見知っておるそうじゃ」

 三善長道、加須屋左近を経由して、正之はそれを聞いたのだろうが、助広は困惑した。責任は持てない。しかし、忠清は尋ねるかわりに眉間に強い陰影を刻み、助広を睨んでいる。正之が水を向けた。

「助広。どうじゃ」

「は……。確かに大坂での面識はございますが、なにぶん、年少であった十年も昔のこと」

「今の興里虎徹と金工の興光とは同一人か否か」

「双子ということでございますから、似てはおりますが、それ以上のことはわかりかねます」

「それだけではあるまい」

 忠清が質問に加わった。

「巷では、伊達陸奥殿と仙台高尾とやらの隅田川での修羅場が取り沙汰されておる。そのことと何か関係があるのであろう」

 答を迷っていると、正之が励ますように、いった。

「お前が陸奥殿の近くにいたことは知れておる。仙台高尾などは荒唐無稽な作り話にすぎぬ。が、御船蔵に死体が浮かんだのは事実」

「はい……。興光師の妻の連れ子だった娘が吉原から救い出されたというのが真相。しかし、隅田川で何者かに襲われ、命を落としました」

「つまり、虎徹がその娘による面通しを恐れたと考えられるわけじゃな。噂話の真相など、そんなことじゃろうと思うた」

 むろん、一介の刀工の力で大名の船を襲えるわけはなく、黒幕が隠れているだろう。

「では、助広。虎徹の仕事ぶりを見て、不審に思うたことはなかったか」

「虎徹師は自らは鍛刀せず、弟子たちにまかせております。さすがに焼入れは本人が寛永寺の鍛錬場にて行ないましたが、殊更に名人とは見受けられませんでした。彫刻の腕は見事でございますが……」

「なるほど、ますますあやしい」

 と、忠清が割れたような声を響かせた。

「しかし、憶測にすぎぬ。本物の虎徹がすでにこの世におらぬという押種――証左でもあれば別だが」

「証左はある」

 正之はまっすぐに忠清を見据えた。

「虎徹はすでに死んだ。小伝馬町の記録にも残っておる。明暦四年(改元して万治元年)の春に山野加右衛門が首をはねた。調べられるがよい」

「何と!? 何故、斬首されたのですか」

「虎徹は、酉年の大火で大量に出た古鉄を拾い歩き、あるいは買い漁っていた。それが承応元年の禁令に触れたのじゃ」

「そんなことでは、死罪になりますまい」

「酉年の大火であふれた死体を使い、勝手に試し斬りをやっていた。大火の翌日夜半から大雪であった。そこで、半ば凍ったものも試した。日が経ち、腐り始めた死体も、骨は腐らぬといって、斬り刻んだ。死者の骨は固くなるそうじゃが」

「大火後のどさくさで、無法な輩があちこちに出没したことは覚えております。そういえば、そんな罰当たりな刀工の話も聞いた覚えがござる。しかし、何故に、会津様がそれを御存知なのでございますか」

「虎徹を死なせたのは、わしだからじゃ」

「何……と申されたか」

「振分髪を作らせるために、彼奴の古鉄の入手に便宜をはかるよう、わしが家中の気の利いた者に命じたこともある」

 その気の利いた家臣が、いざとなれば責任を負うのだろう。

「大火で罹災した江戸城宝物蔵の名刀の焼け身も分与した。が、以後も虎徹は焼けた名刀をしつこく求めてきた。応じねば、公儀から仙台伊達家へ里帰りした振分髪はおのれが作った偽物と明らかにする……と。その証が、刀に現われた柾目だと」

 虎徹はおのれの作だという証拠として、あえて柾目を出現させたのか。助広は愕然とした。そんな職人がいるのだろうか。本歌の振分髪に迫ろうと努力するのではなく、自分の利益を計算して、似てもいない振分髪を作って、よしとしたのか。虎徹はそんな刀鍛冶だったのか。信じたくない話だ。解ききれぬ糸のもつれとなって、助広の胸に引っかかった。

「身の程知らずの脅しをかけてきた虎徹は、奉行所へ引き渡した。死を命じたのはわしじゃ」

「表向きは古鉄を買い漁り、勝手な試し斬りを行なった罪、実は偽物作りの口封じのためでござるか。しかし、虎徹が裁きの場で、振分髪なる霊刀は偽物とぶちまける危険もござろう」

「自暴自棄となった罪人の世迷い言。誰も耳を貸さぬ」

 町奉行が判決を下せるのは中追放までで、重追放以上の言い渡しや判例のない事件は老中に伺書を出し、遠島や死罪は将軍の裁可が必要となる。逆にいえば、幕閣の意思で死罪が決まるのである。刑罰に関する成文法である『公事方御定書(御定書百箇条)』が作られるのは八代将軍・吉宗の時代で、それまでの刑の軽重は多分に情実がらみであった。

「虎徹が死罪となったならば、その一門が今なお鍛冶の看板を掲げているのはどういうわけでござるか」

「虎徹はかつて会津屋敷に出入りし、わが倅の余技を指導もした。その師匠が罪人とあっては、面子がつぶれる」

「だから、一門が興光を虎徹に仕立て、鍛冶を続けるのを黙認されたのですか」

 黙認などという消極的なものではあるまい。正之がそう仕向けたのだ。

「うむ……。刑死したとなれば、世間は理由を詮索するからの」

 虎徹の弟子たちは当然、師匠が作っていた振分髪の写しの件を知っているだろう。彼らを黙らせておくために工房の存続を餌に懐柔したのか。

「明暦四年すなわち万治元年には、虎徹はまだ無名。替え玉に辻褄の合わぬところがあっても、世間は注目せぬ。ただ、職人仲間に噂が流れるのは止めようがなかった」

「では、会津様」

 忠清の膝がにじり寄るように動いた。

「隅田川で興光の義理の娘とやらを襲わせたのも……。つまり、虎徹が入れ替わっていると知れれば、振分髪が偽物であることも発覚すると恐れてのことであるなら、それは……」

 保科正之の差し金ということになる。むろん、正之自身は認めまい。追及されるようなことになれば、家臣の首をいくつか差し出すだろう。首の勘定さえ合えばいい。それが武士の建前だ。

 しかし、奇妙ではある。口封じなら刑死ではなく辻斬りでも装って、虎徹を闇へ葬れば足りるではないか。それをしなかったのは、あくまでも一門を存続させるためとも考えられるが、それだけなのか……。 

 そもそも「お上の御威光」を守るために振分髪の偽物を作らせるという発想が、合理主義の職人である助広には納得しにくいことだった。そこまでして、刀剣を神品化する必要があるのか。

「奉行所と牢屋敷を調べてみます」

 忠清は大きな目をぎらつかせながら、いった。この老中がどうして一介の刀鍛冶の生死にこだわるのか、それもまた助広には疑問だった。

 

 まだ陽は高い。助広は本所横川沿いを歩いた。山野加右衛門の屋敷がある。

 しかし、屋敷近くまでは来たものの、門へ向かおうとはせず、ぐずぐずと付近をひと回りした。大人の男のやることではない。

 古道具屋が目に入り、行く先を決められぬ足をその中へ踏み入れた。目が向くのは、当然、刀剣と刀装小道具である。

 町中ではないから、ろくな品揃えではないが、端午の節句図の一作金具に気を引かれた。短刀用の小さなものだ。武家が庭先に立てる旗幟などを彫っている。町人が台頭し、遊び心が生まれる元禄以降ならともかく、彫金界に将軍家御用の後藤家が格式と勢力を保っているこの時代、こうした図柄は珍しい。もっとも、のちの時代の町人向けなら、鯉のぼりを彫るだろうが。

「お気に召したか」

 店の主人は上目遣いに客を見やった。

「この金具で拵を作って、坊やの節句に飾るといい。何なら、中身の刀身もお世話しましょうか」

 中身は自作できる。それに、坊やなど当分、持つアテはない。

「馬の目貫があると、いいんだが……」

「おお。坊やの干支は午ですか」

「雙」第18回

雙 第18回 森 雅裕

「ところで――」

 食い終わり、器を返すと、隅田川沿いに二人は歩いた。

「薫の身の上は聞いたかね」

「父親が病気で、薬湯代やらの借金があって、身売りしたのだと……。その甲斐もなく、父親は亡くなったようです。薫は進んで身の上話をするようなことはありませんでしたが、遊郭で金をばらまけば、いろんな話を聞かせてくれる者たちがいます」

「遊郭には限らない、それは」

 助広は春蔵と名乗った若者を江戸橋まで送った。親切心からではなく、家業の橘屋とやらが嘘ではないことを確かめたのである。刃物を振り回す男に対しては慎重にならざるを得ない。水路(日本橋川)の南岸にある春蔵の店は材木問屋だった。

「江戸は火事が多いようだ。材木商は忙しいな」

「このあたり、材木商が多かったのですが、深川を貯木場とするのがお上の方針。うちも近く移転いたします」

「材木が罹災せぬように、か」

「鉄と違って、材木は焼け跡から拾い集めるわけにいきませんから」

「それはそうだ……」

 助広はわずかに歯を見せたが、すぐにやめた。口を尖らせるような訝る表情となった。

「江戸では、古鉄が手に入りやすいということかな」

「いえ。火事場で焼け釘など買い集めることは、禁止となっております」

 以前、大和守安定からもそんなことを聞いた。禁令は承応元年(一六五二)。つまり、明暦の大火の五年前である。

 春蔵は寄っていかぬかと名残惜しげだったが、助広にその気はなかった。今夜は傷心を癒すための話し相手が欲しいだろうが、明朝になれば、恥をさらした相手がうっとうしくなる。そんなものだ。

 春蔵は何度となく助広へ頭を下げ、潜り戸の向こうへ消えた。

 

 春蔵と別れた助広は、胸の奧がささくれ立ってしまっていた。嫉妬だった。誓詞が不実なものだったとしても、あの男が薫ことすみのと身体を交わしたことは現実だ。

 成長したすみのを知らない助広だが、まさのの容姿と重なった。すると、助広が嫉妬する筋合いでもないのに、痛みとも重みともつかない感覚に突き上げられた。

 そんな気分を逸らすべく、夜道を歩きながら、思案した。

 本阿弥光温に見せられた刀の銘「天一止雨下在餘名」は、止雨の名前に注目すれば、これに前後の文字を組み合わせることに気づく。天つまり上に一を加えれば、止は正。続く文字が雨冠なのだから、この人名はもはや想像がつく。雨の下の餘は片仮名でヨ。

(正雪……)

 その名からは謀反人しか思い浮かばない。あの刀は虎徹と由比正雪の合作だ。正雪が事件を起こして自殺するのは慶安の末である。虎徹は慶安の初めに江戸へ出たというのだから、時期的には合う。父親がともに近江国長曽祢の出ということで、何かの因縁があったのかも知れない。

(となると、残るはもう一本……)

 安定のところで見た脇差銘「絃唯白色――」の方はもっと銘文が長く、こんなことになるとも思わなかったから、記憶していなかった。ただ、これも推測はできた。確認するのは気が進まなかったが。

 

 白戸屋の寮まで戻ってくると、裏庭から台所へ入った。まさのは大抵ここにおり、助広も台所から出入りする習慣になっている。まさのは何やら放心した様子で座っていたが、眼光だけは強く輝いていた。

「どうした? 怒り疲れたような顔をしているぞ」

「お屋形様が……」

「陸奥守様が?」

「隠居なさったと、今しがた知らせが来ました」

「え?」

 これより先立つ万治三年七月十七日、伊達家一門、重臣たち連判による綱宗隠居願いが老中へ提出され、早くも翌十八日には酒井雅楽頭邸に伊達兵部、立花忠茂、茂庭定元、原田甲斐らが呼び出され、綱宗の逼塞すなわち隠居が申し渡されていた。綱宗本人には寝耳に水というべき政変であり、まさのがその知らせを受けるにも数日を要したのである。

 伊達家内部にはお屋形様に対抗する勢力もある――。御船蔵にすみのの死体が浮かんだ時、まさのはそんなことをいっていた。その名前までは口にしなかったが。

「先日、江戸家老と普請総奉行が連署して、お役御免を願い出たので、不穏な空気は感じていましたが……」

「で、どうする?」

「今さら私が駆けつけたところで何ができるでもなし、お屋形様の側近も粛清に怯えているでしょうから、屋敷に近づけるかどうかもわかりません。とりあえず、明朝、様子を見てきます」

「安定・安倫の師弟はこのことを知っているのかな」

「知らせに来たのが安倫さんです」

「そうか」

「ししゃますししゃます、とお経のように唱えながらお帰りになりました。大変だ大変だ、そんな意味です」

 江戸滞在も終わり近くになって、殿上人のお家騒動を身近に聞くとは思わなかった。しかし、助広の覚悟は決まっている。今さらではなく、まさのをこの寮に同道したあたりから決まっていた気さえする。

「助直は……?」

「白戸屋さんの若い者の案内で、湯屋へ。師匠が公方様献上の短刀をお打ちになると聞いて、骨など砕けてもかまわぬから、先手をやりたいとか」

「あれはうちの一番弟子だ。養生してもらわねば困る」

「鉄にさわるのが何よりの養生だとかおっしゃるもんで、公方様鎚入れの鉄を鼻先に置いて差し上げたら、まるで猫にマタタビ……」

 家綱が鍛錬を手伝った南蛮鉄は床の間に鎮座している。助広にしてみれば、邪魔にならない場所へ押しやっただけだが、白戸屋善兵衛が小さな座布団を敷いて、飾っていた。このまま置いておくと、神棚まで作りかねない。

「あの若旦那に聞いたんだが、薫――すみの殿の育ての父は病気だったらしいな」

「興光ですか」

「む。薬石効なく死んだことになっている」

「そんなことが気になりますか」

「今の虎徹師の正体が興光師なら、娘を売り飛ばさなきゃならなかったほどの病人には見えない」

「遊女の身状話など、あてになるものですか」

「ところで、妙なことを訊いてもいいだろうか」

「どうせ訊くんでしょう。何です?」

「由比正雪という謀反人は尾張家と何か関わりがあっただろうか」

「またほんとに妙なことですね。どうして私に……?」

「ここにはとりあえずお前しかいない」

「尾張様ではなく……正雪の謀反のうしろだてが紀伊様であった、という噂は御存知でしょう」

「聞いたような気はする」

 大坂でも正雪に党与する者たちの捕り物騒ぎがあったとはいえ、助広である。そうした情報には疎い。

 正雪はその遺書の中で、紀伊家の名前で人を集めたが、実はどこからも扶持は受けていない、とわざわざ弁明している。

「紀伊大納言様御名ヲ借不申候へは、謀計難成故、御扶持之者と申候――」

 しかし、これはむしろ藪蛇であった。紀伊家当主・徳川頼宣は剛毅をもって鳴り響いた人物で、逸話も多い。

 水軍の演習を大々的に行なったことが江戸に聞こえ、家臣たちはとがめられることを心配したが、ここで中止しては本当に演習ということになる、このまま続けて、船遊びとして押し通してしまえ、と強行した頼宣である。

 また、頼宣は改易された福島正則の遺臣を召し抱え、重職につけた。批判する者もあったが、新参者を重用することで、天下の有能な牢人が馳せ参じるであろう、と深読みする声もあった。もっとも、寛永末には紀伊家も余裕がなくなり、加須屋左近(武成)を含む家臣たちの召し放ちが行なわれるのであるが。

 そうした頼宣であるから、公儀には不気味な存在ではあった。公儀は喚問を行ない、正雪の遺品から出たという頼宣の書状まで突きつけたが、頼宣の釈明は堂々たるものであった。

「かの徒党人らが外様大名の判に似せて謀計を行なったならば、その大名が逆心を企てたかと疑心暗鬼にもなるところであるが、わしの判に似せたるは偽書とわかりきったこと。この判は天下安泰のもとである。めでたし」

 そういい放ち、煙に巻いた頼宣ではあったが、翌年には印章をあらためた。正雪が頼宣の印を詐謀したからである。さらに紀伊への帰国を十年禁止されたともいわれる。

 実はこれに先立ち、紀伊家家老の牧野兵庫頭長虎が、頼宣に謀反の心ありと公儀へ提訴する事件があった。慶安三年(一六五○)十一月、頼宣は長虎を領内の田辺城下に幽閉したが、この長虎こそが紀伊家と正雪の仲介役だったとする説がある。長虎に関わった家臣たちは切腹したともいうし、長虎の幽閉は表面上のことで、実は厚遇されていたともいう。

「噂のいい加減なこと、仙台高尾の件で、おわかりでしょう」

「噂といえば、酉年の大火は正雪一味の残党の仕業という流言が飛んだと白戸屋はいっていたが、残党というより、正雪本人が生きていたということはないかな」

「……何です?」

 謀反が発覚した由比正雪は、役人に包囲された駿府の宿で、自刃した。慶安四年七月二十六日のことである。この宿「梅屋」は町年寄の邸宅だったともいい、紀伊家の定宿であった。一行のうち、正雪と死をともにした者が七人。二人が捕縛された。首は阿倍川原に晒されたが、正雪の顔が公儀役人たちに知られていたわけではない。正雪一行の死体数が合わず、湯殿や雪隠まで探し回ったという報告もある。

「いや。遊女の薫は生きているかも、と考えたあの若旦那を見ていると、ふと由比正雪も生きているかも、と――」

「冗談でもいうべきことじゃありません。一族郎党、地の果てからも探し出され、ことごとく打ち首、獄門になった天下の大罪人ですよ」

 まさのの剣幕に、助広はあとずさりしそうになった。

「まさの殿」

「何ですか」

「先手の向こう鎚を頼みたい。短刀一本くらいなら、お前の細腕でもなんとかなるだろう」

「……自慢の一番弟子はどうなさいますか」

「あの足では、大鎚を持って、踏ん張ることはできまい。汚れても、一人で風呂にも入れぬのでは困る」

「虎徹師のお弟子たちが手伝ってくれるのでは……?」

「私はお前に手伝って欲しいのだ。むろん、陸奥守様のことが気がかりでそれどころでないなら、無理強いはしない」

 まさのは吐息をつき、いった。

「わかりました。働いていた方が気が紛れます。微力ながら、向こう鎚をつとめさせていただきます」

 

 翌朝、助広は助直を伴って池之端の虎徹の鍛錬場へ直行し、まさのは愛宕下の伊達屋敷へ走った。鍛錬場で合流したが、綱宗の所在さえつかめなかったようだ。

「広大な屋敷ですからね。伏魔殿で何が起きていようと、気づかぬ家臣もいるようです」

「噂や流言などは遠くに届いても近くには聞こえぬものだ」

「虎徹師には聞こえているでしょうか」

「ああいう人だから顔には出さない。こっちも黙っているさ」

 鍛錬場では、仕事以外の話題など無用の緊張感が漂っている。

 二人は日が暮れるまで、口を閉ざして汗と炭塵にまみれた。間近に興正ら若い弟子たちの仕事ぶりは充分に見ることができた。しかし、虎徹自身が刀を作っているのを見ることはなかった。

 ただ、刀身彫刻の技は目のあたりにした。鍛冶押し(荒研ぎ)を終えた脇差をヤニ台に固定し、大黒天を彫っていた。もともと大黒は武神だが、虎徹が彫る大黒は俵に乗って小槌を掲げた福神である。虎徹の彫刻は倶利迦羅、神仏、人物、いずれも力強く見事なものだ。

「虎徹師の刀なら、彫刻で飾らずとも、高く評価されるでしょうに」

 思わず、助広はそう洩らした。が、虎徹の眉間に刻まれたシワは深いままだ。

「助広殿と違って、わしは若くはない。高い評価とやらを一日も早く得なければならぬのだ。人目を引くには、派手なことをやらねば、な。名前さえ売れれば、やめるさ」

 この商売っ気を軽蔑はできない。職人は他人とは違う自分の特徴を世間に訴えねばならないのだ。

 一日で、助広は鍛錬と素延べまでを終えた。同行した弟子の助直は足手まといでしかなく、どうせ翌日も仕事があるので、

「厠に一人で行けるのであれば、泊まってもかまわん」

 といってくれた虎徹の仕事場の隅に置き去りにした。

「以前、厠で自殺した弟子がいてな」

 おそらくは冗談だろうが……。

 

 本所の寮へ戻ると、白戸屋善兵衛が裃姿で端座していた。

「どうした? そのなりは。江戸の盂蘭盆会はそんなに居住まい正して、祖霊を迎えるのですか」

「いえ。盂蘭盆会は着流しに羽織というのが慣例で……あ、いや、盂蘭盆会には遅うございます。とうに過ぎました。お座りなさい、助広師匠。そこへお座りなさい、早く」

「何事ですか」

「今日を何の日だと思し召しですか」

「はて……」

「紀伊様、尾張様へのお呼び出し、昨日のうちに連絡がございましたな。茶会という名目ではございますが、実は刀を献上されたお返しが下されるということで」

「ああ……」

「ああ、じゃありません。師匠もまさの様も助直さんも、朝早くから仕事着持ってお出かけになったと知らされ、仰天いたしました。やむなく、師匠は急病ということで、私が冷や汗まみれになりながらも、名代として御両家におもむく名誉にあずかりました。それにしても、子供じゃあるまいし、挨拶が苦手で逃げ出すとは、どういう料簡――」

「何をいただいたのですか」

 まさのがにこやかに、善兵衛をさえぎった。座敷の奥には、それらしい箱が鎮座している。

「紀伊様からは白銀十枚と織部のお茶碗、尾張様から白銀十枚と光悦のお茶碗です」

「茶道具か……」

 箱から出し、並べた。

「師匠のまわりには、まさの様しか茶を解しそうな風流人はおりませんなあ……。何なら、私がずうっとお預かりしても――」

「お客だ」

「は……?」

 助広は開け放しの縁側を指した。足音が近づく。寮の使用人が顔を見せた。

「刀鍛冶の長道様、忠吉様がお見えですが」

 善兵衛は顔を輝かせた。御前鍛錬の名誉ある刀鍛冶の来訪だ。粗末な徳利で安酒を持参するような連中だが。

「われらは明朝には江戸を発つ。別れを惜しみに来た」

「お二人は公方様から何を賜ったのでございますか」

 と、善兵衛。

「白銀十枚と焼け跡から拾ってきたような薄汚れた墨跡だったな」

 と、長道。

「生嶋なんとか所持とか、以前の持ち主の未練たらしい箱書がある虚堂とやらの墨跡です」

「生、生嶋、ええええっ、虚堂! それはもしや大坂城落城の折に焼けたといわれる――」

「同じく白銀を賜った。それからひび割れた竹製の花入です。あれじゃ水漏れするだろう」

 と、忠吉。

「あ。それはもしや利休が韮山竹を用いて作ったとかいう――」

 善兵衛は目を見開き、口を尖らせたが、じきにあきらめを浮かべた。刀鍛冶という人種――彼らは助広と同類なのだ。

 首を振りながら善兵衛が席をはずすと、長道は徳利の栓を抜いた。忠吉が、目についた茶碗を膝元に置いた。麗々しく飾ってあった拝領の茶碗だ。

「そいつは光悦の茶碗だそうだ」

「本阿弥の一族か。研ぎ屋の落ちこぼれが作った茶碗なんぞ有難がる刀鍛冶があるか」

 無造作に酒を注いだ。長道も織部の茶碗で酒を受けた。

「仙台の方はえらいことになっているようだな」

 長道は、ボソリといった。助広の表情を見た忠吉が、

「何だ。ただの噂かと思ったら、ほんとのことだったか」

 そうはいったが、追究しなかった。

「俺らには余計なことよ」

 彼らの興味はまったく別のところにあった。

「甚さん。公方様へ短刀を献上するそうだな」

「もう噂になっているのか」

「うまくいけば世渡り上手の刀工と陰口を叩かれ、失敗すれば二流工だと笑われる。意味のない冒険をするものだ」

「そういう性分だ。それに私はおぬしらのように主家持ちではない。気楽なものだ」

「おぬしのことゆえ、下手は打つまいが……。研ぎはどうする?」

 打ち上げた短刀を本阿弥光温に研がせるのは気が進まなかった。しかし、

「将軍家献上となれば、そのお抱え研師の顔を立てぬわけにはいくまい」

「甚さんはやはり、筋を通したがる性格だな。気をつけろ。光温は余計なことをするぞ」

 刀鍛冶にしてみれば、刀の作品管理は刀鍛冶が主、研師は従であるべきものだが、研師の多くは逆に考えている。刀鍛冶の意図よりも自分の美意識を優先させる研師もいないわけではない。今回の御前鍛錬でも、光温が研ぎを担当した刀鍛冶の間では、そうした不満が――まさのの手回しの甲斐あって、助広はさほどでもなかったが――少々出ていた。

「わかっている」

 まさのが人数分の盃ではなく湯飲みを運んできたが、刀鍛冶たちは見向きもしない。数物の陶磁器でさえ、庶民には縁のない時代である。が、彼らは天下の名器で飲んでいる。

 まさのは竹編みの弁当箱をふたつ差し出した。

「明朝のお発ちなら、途中でお召し上がりください。饅頭です。蔬菜の煮たものを入れてあります」

「おお。有難い」

 と、長道と忠吉は両手で押しいただいた。

「まさの殿の菓子なら、今評判の止雨よりもうまい。――さ、飲んで」

 長道は名器を空にし、まさのに押しつけた。

 厠へ向かう忠吉を助広が案内すると、

「甚さん」

 縁を歩きながら、肥前鍛冶は低いがまっすぐな声を発した。

「まさの殿とどこかで会ったといったのを覚えているか」

「ああ」

「思い出した。外桜田の佐賀鍋島屋敷で会っている。四年ほど前だ。親父の名代で、病床の泰盛院様(鍋島勝茂)を見舞うために江戸へ来た。その時だ」

「鍋島屋敷に……あの娘がいたのか」

「今回、気になったので、屋敷の知り合いに尋ねたが、名はまさの殿ではない。すみの殿といった。行儀見習いだろうが、それにしちゃ早くから奉公にあがっていたようだ。何か事情があったのかも知れん」

 確かに事情は匂う。すみのは金工の家に育っている。職人の家族は舌が肥えているので、質素を旨とする武家の食卓に耐えられず、大体、ガラもよくない職人の子は武家屋敷にはあがらせてもらえないものなのだ。それが鍋島屋敷にいたとは……。

「三代忠吉。たいした覚えのよさだ」

「美しいものは忘れぬ。人でも物でも。向こうは覚えておらぬらしいが」

「すみの殿はまさの殿の双子の妹だ」

「なるほど。それなら、覚えていない道理。俺の誇りも傷つかずにすむ」

 朴訥な匂いのするこの男には、精一杯の軽口だ。似合わない。

「四年前といったな」

「明暦二年の暮れだ。俺が江戸を発った翌月、大火が起きた」

 すみのが吉原に沈んだのは大火の年だったと以前に伊達綱宗は語っていた。

 鍋島勝茂は大火後まもない明暦三年三月に没している。

「泰盛院様は床を脱けて、火事を検分され、兵火ではない、と家臣たちを落ち着かせたという話がある。しかし、具足を身につける家臣たちもいたそうだ」

「つまり、謀反の兵火だと思ったのだな、家臣たちは」

「何かを予測していたのかも知れぬ」

「村正を大事にするような御家中だからな」

「おかしなことをいい出しそうだ。この話はやめだ」

 座敷へ戻ると、長道は背中を向け、ぼんやり庭を見ている。

「泣き上戸みたい」

 まさのが、いった。

 なるほど、長道は目許を拭っている。そう飲んでもいないのに、安上がりな男だ。涙声で、いった。

「おぬしらのことは忘れぬ。俺が鍛冶屋として大成したら、おぬしらとこの夏、切磋琢磨したおかげだ」

 後世、どういうわけか長道は助広の弟子という巷説が流れる。会津と大坂に離れ、作風も似ていない二人に世間は共通するものを見るのである。

 長道は濡れた目で天井を仰いだ。

「泰平の世になれば、刀鍛冶なんぞもう流行らぬ。この稼業で陽の目を見るのは、俺たちが最後かも知れぬ」

「そういうことだ。次の動乱の時代まで、われらの後継者には耐え忍んでもらわねばならん。が、子や孫のことなど知ったことか」

 と、忠吉。 

 とはいえ、彼らの後裔は幕末明治まで家業を重ね、三善長道、肥前忠吉の名跡はともに九代に至る。津田助広は五代まであるとはいうものの、三代以降の作品は確認されない。つまり、ここにいる二代目で、実際には終わる。

 助広が江戸で出合った裏のない人間は、この二人だけだった。

 

 短刀は制作二日目の夜には焼入れまで終えた。虎徹一門が舌を巻く助広の早業だった。屋内でも常時たばさむことができるよう、刃長は一尺近い寸延び短刀とした。江戸の前・中期には、泰平の世を象徴して、刀工たちは短刀を制作することがきわめて少ない。そもそも短刀という言葉さえ使われることが少なく、本阿弥の折紙でも脇差または小脇差と表現している。

 問題の研ぎであるが、本阿弥光温を訪ね、

「肉を落とさず、反りを伏せることなく、お願いいたします」

 深々と頭を下げて、そんな注文をつけた。「余計なこと」を危惧したのである。

「それでは、研師に何もするなというのか。渡されたものをただ磨き上げるだけにせよ、と」

 光温はもはや喧嘩腰であった。

「そのようなお偉い刀工の宝刀など、わしごときには研げぬ。恐れ多いわ。釣り合う名人をお探しあれ」

 断わられてしまえば、かえって気楽だった。本阿弥にはいくつも分家があり、幕府お抱え研師としては他に木屋、竹屋もあるが、本阿弥宗家に断わられた刀を持ち込むのは失礼というものだろう。本阿弥たち「家研ぎ」に対して、市井の研師を「町研ぎ」という。助広は、その町研ぎの評判を調べ、信頼できそうな職人に持ち込んだ。

 研ぎ上がった短刀が真新しいハバキと鞘を装ったのは、七月末のことである。普段の仕事にはもったいぶって時間をかける職人たちだが、将軍家献上となると、助広も驚きあきれるほどの早業を見せた。その分、工賃も破格ではあったが。

 受け取ったその短刀を助広はまさのに示した。杢目の地鉄に小沸え出来の互ノ目を焼いている。江戸鍛冶に触発された刃文だった。

「江戸で得た人脈を目一杯活用して、打ち上げた甲斐がありましたね」

 これから茎にヤスリ目を入れ、銘を切るのだが、

「『雙』と添え銘を入れようと思う」

 助広は、ぼそ、といった。

「何かのおまじないですか」

「二人で作ったという意味だ。お前と」

「あら」

「簡潔でよかろう」

「絃唯白色――」だの「天一止――」だのと意味ありげな長銘には食傷していた。江戸では、こうした言葉の遊びが喜ばれるのかも知れないが、助広の頭脳も性格ももっと単純だ。

 虎徹の仕事場で銘切り用の鉛台を借りた。この上で助広がタガネを打つ間、短刀は誰かに押さえておいてもらわねばならない。こういうことには、まさのは呼吸が合う。

 表に「右大臣様御鎚入 助廣」、裏に「雙」と、銘を切った。

「雙とは、公方様との合鍛え(合作)という意味か」

 虎徹はそう解釈したようだ。当然である。助広は笑って、答えなかった。

 江戸では、ふたつという数に行く先々で出会った。虎徹と興光、まさのとすみのという二組の双子、虎徹と誰かの合作が二本。その締めくくりが「雙」だ。しかし、こればかりは助広が自分で選んだ「二人」という意味の言葉である。

「雙」第17回

「雙」第17回 森 雅裕

 まさのは鰻を割(さ)いている。

「殺生禁断の寛永寺では、山芋ででっちあげた偽物の鰻でしたから、ここでは本物を」

「いい手際だな」

「おや。師匠も女をお誉めになることがおありですか」

「誉めたくなる女にはめったに出会わぬがな」

 一日二食から三食への過渡期である。朝食は朝五ツ(八時頃)前後だが、夕食は臨機応変で、昼八ツ(十四時頃)から七ツ半(十七時頃)にかけてとる。昼が早ければ、もう一食増えるのは自然のことであった。

「ほお。背の方から割くか。そうすると背びれが取りやすいのかな。上方では腹を開くのを見たことがあるが」

「白焼きのあとに蒸してみようと思います。それからタレ焼きです。腹から割くと、蒸す際に身が崩れます。背から開けば外側が厚くなりますから崩れにくいかと」

「蒸す? それが江戸風なのかな。おかしなことをするものだ」

「身がふっくらすると思います。それから武士の都では、腹切りは厭われます。それもおかしいですか」

「ふむ。仙台侯御刀奉行は国許においでなのだろう。まさの殿は江戸が長いのか」

「私は仙台ではほとんど暮らしておりません。物心ついてからはずっと江戸です。師匠もせっかく江戸にいらしたのですから、上方流の鰻を召し上がられてもつまりますまい」

「つまりそれは――」

 助広は土間に置いてある焜炉の前にしゃがみ込み、珍しげに覗いた。まだ多く普及はしていない小型の焜炉だ。

「まさの殿は、鰻は上方では蒸さぬことを知っているということだな」

 どん、とまさのは何匹目かの鰻の頭に釘を打ち込む。

「煙を逃がすために外で焼きます。そこの七輪を外へ出してください」

 助広はいわれるまま従った。

「これは江戸では七輪なのか。上方ではかんてきという。知っているかな」

「さあ……」

「ほお。おすもじが上方の女言葉で、鮓のことだと知っていたお前でも、知らぬことがあるか」

 まさのの包丁が一瞬止まり、それから一気に鰻を割いた。

「さっきから突っかかる物言いをなさいますね」

「この世のめぐり会いの妙味に色々と思うところがあってな」

「何ですか、それ」

「鰻もいいが、鱧(はも)の皮と胡瓜のザクザクが何よりの出合い物だ」

「それこそ何のことやら」

「上方では、蒲鉾に使った残りの鱧の皮を焼いて売っている」

「それのどこに料理の腕をふるう余地がありますか」

「胡瓜の切り方かな。句を詠んだ。『助広の食らう胡瓜はサクサクと』――斬れる刃物なら、サクサクという音がするものだ」

「それなら『ザクザクを食らう物好き刀鍛冶』――胡瓜は水戸義公(徳川光圀)が『植るべからず食すべからず』とけなしております」

 この頃の胡瓜は苦くて食用には好まれない。

「胡瓜の断面が葵の御紋に似ているので、食するのを遠慮する者もいるようです」

 器用な娘だった。鰻に串を打つ手際もいい。

「旅立つ師匠を江戸の味にて、送別させていただきます。今のうちに食いだめなされませ」

 まさのは七輪をはさんで、助広の向かいへしゃがみ込んだ。火を熾こす。二人の顔が近い。

「せっかくの心づくしに水をさすようだが、もうしばらく江戸にいるつもりだ」

「あら」

「御前鍛錬で、公方様が鎚をお入れになった鉄は手をつけずに残してある。虎徹師にもらった古鉄も余っている。短刀くらいしか作れないが、それを終えて、大坂へ戻ろうと思う」

 まさのは炭火を団扇で煽ぐ。まだ網はのせていない。

「公方様にお守り刀を献上なさるのですか」

「受け取っていただけたら、な」

 依頼されたわけではない。しかし、献納式の場で、「欲しい」とはいわれた。それだけで、その気になってしまうのが助広の性格である。感激屋で、人に奉仕する性根の持ち主でありながら、愛されないところが、助広の助広たる所以であった。

「でも、師匠。鍛錬場は――」

 寛永寺に設置された御前鍛錬場は、すでに撤去されている。

「池之端の鍛錬場を借りることにした」

「池之端……?」

「虎徹師の鍛錬場を使う」

「え」

「今、お願いしてきた。それで、帰りが遅くなった」

「それはまた……」

「よく虎徹師が承知したものだ、と驚いたか。私も驚いている」

「師匠の仕事ぶりから何か学び取ろうとでも考えているんでしょう。私が驚いたのは、お願いした先が虎徹師だということです」

「私もまた虎徹師の仕事ぶりを見たかったからだ」

「替え玉ではないかという疑いを明らかにするためですか」

「職人としての私には、そんなことはどうでもいいことだ。あの仕事場が気に入った。それだけだ」

 助広はそういい、

「江戸の鰻を待つ」

 七輪の前から立ち上がった。

「それにしても、何匹焼くつもりだ? まな板の上が鰻だらけだ」

「お弟子の分も焼きます」

「何……?」

「たどり着いたんですよ、足を傷めて箱根に置き去りだったお弟子が」

「……それを早くいえ」

 駆け上がり、縁側を紆余曲折すると、座敷に男が木綿布で固めた足を投げ出していた。その格好で、頭を下げた。

「師匠。お役に立てず、申し訳ございませんでした」

「直」

 と、助広は呼んでいる。

「まだ完治してへんやろ」

 刀工名を助直という。通称は孫太郎もしくは孫太夫。のちには助広の妹婿となり、津田姓を名乗る男である。 

「江戸へ参るには及ばん、動けるようになれば、大坂へ戻れというてあったに……」

「御前鍛錬の手伝いもせんと、一人おめおめと帰れませんわ」

 助直は先代の助広からの弟子で、二十二歳だから、当代の助広とほとんど違わず、師弟というより友人の仲だ。言葉遣いも気楽だった。

「お前がおらんでも、なんとかなった」

「首尾よくいったんですな。よろしゅうございました。わしがおらんでも、というんは情けない気もしますけど……。あの娘、見かけによらず怪力なのかいな」

 助直は台所の方向を指した。

「師匠は江戸で女の弟子をとられたんでっか。仙台伊達家に有縁のお嬢様やとか」

「わからん」

「わからんいうことがありますかいな。ほんまに入門させたんでっか」

「私がわからんというのは、あの娘が本当に仙台侯に有縁かどうか、や」

「は? けど――」

「いや」

 助広は何かを振り捨てるように、首を振った。

「入門させたかどうかは、わかりきったこと。大坂へ連れ帰るわけにもいかん以上、弟子入りは有り得ん」 

「仙台侯いうたら――箱根の宿で、江戸から上方へ向かう渡り中間どもと同宿になりましてな。中間とはいうても、人足みたいな連中です。伊達様の堀の総浚いに雇われとったとかで、話を聞いたんですけど……。刀を掘り当てたらしゅうおます」

「刀……? お堀の底で、か」

「あほな。普請小屋を建てるもんで、湯島天神の持ち地が召し上げられて、取り壊しにかかった小さな社殿から出てきたとか」

「宝物(ほうもつ)か何かか」

「いやいや。石造りの床下に隠してあったそうですわ。銅か何かの箱に入れて、松脂で密封されとったとか」

 それなら、土中に埋めるよりは朽ち込みも少ないだろう。火災時に火をかぶることもあるまい。ではあるが、湿気が籠もるから、刀が傷むことに変わりはない。

「その密封も破れて、中身はだいぶ傷んどったちゅう話ですけど」

「普請小屋は五箇所にあるという話や。湯島天神の近くなら、桜馬場か」

 桜馬場のあたりは、馬場と湯島天神の飛び地が入り組んでいると、安定に吉祥寺前の普請小屋へ案内される途中、聞いている。

 助広は工事中だった小石川堀周辺の地形を思い出しながら、いった。

「近いとはいうても、湯島天神からはいささか離れとるお堀端やった。境内も門前町もなかなかの広さのようやけど……」

「裏手は陰間茶屋の巣窟らしゅおますな」

「そんなことは知らん」

「もう長いこと使うてへん社殿が本殿から離れて建っとったらしゅおます」

「普請の鍬始めは五月末らしいが、二月から準備が始まったと聞いとる。普請小屋作りを始めた頃やったら、その二月か三月あたりの話か」

「どんな刀か見たんか、その中間に訊いたら、ぼろぼろの拵で、錆びて抜けんかった、いうとりました。何やらいわくありげやおまへんか」

「いわくがあるなら、埋蔵されとったんが刀だけいうことはないやろ」

「あたりはたちまち伊達家の侍たちが封鎖して、雇い中間や人足は寄せつけんかったいうことですさかい、他にも何か出たかも知れまへんなあ」

 本阿弥光温のところで見た刀だ。虎徹と止雨の合作銘があり、柳生拵に納まっていた。――このことに何か意味があるのか。仙台伊達家が小石川堀の普請で発見したものなら、まさのも知っているのではないか。なのに、沈黙している理由は何だ。柳生兵助が取り返そうとしている理由は何だ。

 あの銘を一字ずつ脳裏にたどった。「止雨」二文字に前後の文字を組み合わせると、ひとつの意味が浮かびそうになったが、

(まさか――)

 打ち消してしまった。以前から何度かそうやって、考えるのを避けてきた気さえする。もう一歩、踏み込むべきかどうか迷っていると、考えごとをさえぎる音を聞いた。声かも知れない。猫が塀から落ちたにしては、二度、三度と続いた。

 助広は外をうかがった。勝手口――裏庭のようだ。今度は、何かがぶつかる音が響いた。

「めしの支度にしては、にぎやかだ。見てくる」

 縁側をそちらへ回ると、薪などが散乱し、井戸をはさんで、まさのが男と向き合っている。先刻、寮の外で見かけた男のようだ。

「何をやってる? 鰻は焼けたのか」

「この様子を見て、食べ物のことしかいえませんか」

 まさのは、助けてくれというかわりに怒声を発した。 

 助広は庭へ下り、

「焦げてしまうじゃないか」

 鰻をのせた七輪の風口を閉じた。

「ところで、そちら、どなただ?」

 男の手には刃物があった。包丁だ。ちら、と助広を見て、叫んだ。

「邪魔するな!」

「おいおい。何をしようとしているのかもわからないんだから、邪魔のしようがない」

「この女を殺して、私も死ぬんだ」

「ああ。それなら、邪魔はせんよ」

 助広は鰻を見下ろしている。

「しかし、今ここで、というのは困る。この女には、鰻を焼いてもらわねばならんし、寮の持ち主の白戸屋にも迷惑がかかる」

 男は包丁を振りかざし、まさのへ詰め寄ろうとする。まさのは井戸を盾に、左へ右へと逃げる。

「それが、かりそめにも弟子となった者の窮地に師匠がいう言葉ですか」

「男が女を刺して、自分も死のうと思いつめるなんて、よほど女が悪い」

「馬鹿!」

 男の繰り出す包丁を、まさのは釣瓶桶で受けた。

「早く助けなさい!」

 助広は鰻を網ごと地面へ下ろし、鍛冶屋の腕力にモノをいわせて、七輪を男の足許へ投げた。まさのへ飛びかかろうとしていた男はつんのめり、散らばった炭火の中に、膝を折った。

「熱っ! 痛い!」

 倒れかかった拍子に自分の腕を切ってしまったらしい。それでも、のたうつようにまさのを追い、七輪から下ろしてあった鰻を蹴散らして、また転んだ。

 助広は男の腕を蹴って、包丁を取り上げ、まさのを振り返った。鰻を拾っている。

「せっかく丹精こめて焼いたものが泥だらけじゃありませんか。どういう料簡ですか、師匠」

「私はそいつを七輪から下ろして難を避けていたのだぞ。第一、助けろといったのは、お前だ」

「七輪を投げろ、とはいっておりません」

「おい」

 助広は男に向き直った。

「やはり刺すか。包丁を返すから」

 男には、もうそんな気はないようだ。うなだれて、嗚咽している。傷の手当ては自分でできるだろう。手拭いを押しつけてやった。

「よほど思いつめたんだな」

「お師匠のような朴念仁にはわからぬ情念ですよ」

 と、まさのがいった。

「何だか私を非難しているようだが、この男に同情しているなら、刺されてやれ」

「同情なんかしてやしませんよ。いきなりここに入り込んできた見ず知らずの男に、包丁振り回されたんですから」

「見ず知らずなものか」

 男が呻くように叫んだ。

「二世(にせ)を契って、熊野牛玉(くまのごおう)の誓詞を交わしたじゃないか。よそへ身請けされるくらいなら、私が手にかける。そう誓った」

「……と、いってるが」

 助広は男とまさのを交互に見やる。

「私を薫だと人違いしてるのよ」

「おい」

 助広は感情的な人間がいるこういう場面は苦手だ。何やら照れ臭くなる。まるで謝るかのように、いった。

「薫は身請けされたあと、亡くなった。山谷の春慶院で弔われている」

 表向き、病死ということにはなっている。ただし、世間では伊達綱宗が斬殺したと信じられつつある。

「噂くらい聞いただろう」

「聞いた。それこそ、いろんな噂が流れてる。仙台高尾の物語がでっちあげられて、高尾と契りを交わした男は島田重三郎だか島田権三郎だかいう勝手な名前になっている。薫らしい女を本所のここらへんで見かけたという噂もあって、探してた。そして、見つけた。一緒に逃げてくれと頼んだのに、お前さん誰? が返事とは情けない」

「ここにいるのは薫の双子の姉だ。薫がお前さんとどんな約束を交わしたか知らんが、身代わりになってくれるような姉じゃない」

「そんな……」

「馬鹿ね」

 まさのが炭火を拾い集めながら、いった。

「丸い豆腐と遊女のまこと、あれば晦日に月が出る、と申しましてね。遊女の誓詞なんぞ七十五枚までは神仏もお許しになるという代物。少しは男女のことを学ぶことです」

「そんな男女のことなら、学ばなくても、別に恥ずかしくはない」

 と、助広。

「お前という女はたいした物知りのようだが」

「あら」

「この一途な若者、見たところ、どこぞのお店(たな)の若旦那という風体だが……」

 男は名乗りたくなさそうだった。

 助広は、

「めしは食ったかね」

 屈託もなく訊いた。そこへ、

「師匠。何事ですか」

 助直が縁を這い寄りながら、声をかけた。

「うちの包丁人自慢の鰻が、黒焦げの上に泥だらけになっただけや」

「それは一大事。今夜のめしはどないなりますの」

「近くにうどんの振売りが出る。食いに行こう」

 助広は男に誘いかけ、助直には振り払うような視線を向けた。

「直。お前は足手まといや。漬け物でももろて、適当に食うとき」

「師匠」

 と、まさのは怒りよりも憐れみさえ浮かべた。助広の人のよさに対して、である。

「私を殺そうとした男ですよ」

「そうだ。この助広を殺そうとした男じゃない」

「……なるほど」

「お前も来るかね」

「まいりません」

 男と同席では食事はしない。行儀作法をしつけられているなら、誘いにのるわけがなかった。武家の女ならば、だが。

 

 助広は男の傷口に膏薬を塗ってやり、連れ出すと、夕暮れの中を堀沿いに歩いた。

「私を役人へ突き出さないので……?」

「鰻をふいにしたくらいで、牢に入るつもりかね。それより、うどんの代金を払ってもらった方が私にはうれしい」

 振売りは屋台というほど大層なものではなく、天秤棒を肩にかつぐ行商である。この万治年間、振売りが爆発的に増え、幕府が取り締まりに乗り出したが、うどん屋のような火を持ち歩く行商はまだ珍しい。蕎麦も現われ始めているが、元禄の頃まで、江戸では蕎麦屋ではなくうどん屋という。

 こうした振売りにしろ惣菜を売る煮売り屋にしろ、明暦の大火以降、江戸に流入した職人や労働者目当ての商売だから、武家はもちろん、商家でもしつけのきびしい者は利用しない。が、上品ぶっていても、男は胸襟を開くまい。別に友人になる必要はないが、今後再び襲われる心配はなくさねばならない。

「江戸橋の橘屋の春蔵と申します」

 うどんを食いながら、男はようやく打ち明けた。

「やはり、若旦那か」

「放蕩息子でございます」

「仙台高尾から誓詞をもらった島田重三郎とやらの正体かね」

「端午の節句の紋日に、二世を契ったつもりでおりました」

「紋日とは、遊女にも客にも金がかかる日のようだ」

「遊女はまわりの者たちに祝儀をしなければなりませんし、客の方も揚代が高くなるという日です」

 吉原の場合、そんな紋日が毎月二、三回、月によっては五、六回もある。

「すべての紋日に通うことは、お大名でもなければ無理な話。ただ、端午の節句は薫の生まれた日でもありました」

「五月五日か」

「はい」

 それが薫ことすみのの誕生日ならば、まさのも同じ日の生まれということになる。

「遊女も客もしょせん妓楼を肥え太らせるために生きているようなもの。お笑いください」

「人を笑えるほど、私も偉くはない。このうどんを上方よりまずいといえるくらいには偉いと思うが」

 うどん屋の耳から離れて、そういった。

「尋ねるが、うちの女弟子は薫とそんなに似ているか」

「はい。あ、いえ。身なり、化粧、髪型、立居振舞い、すべて違いますので、なんとも……」

「しかし、顔そのものは殺したいと思うほど似ていたのだろう」

「双子だというなら、それも当然」

「見かけたという噂をたどって、本所へ来たんだな。仙台高尾の不死伝説も作られているのかな」

「あの夜、生きていたという話もございます」

「どの夜だね?」

「薫が身請けされた夜です」

「島田重三郎に義理立てして、陸奥守様に手討ちにされたとは信じていないのか」

「御坐船が燃えたという話を聞いております」

 真実を知っている者もいるようだ。どうして燃えたのかはともかくも。

 日暮れで交通量は減っていたが、川遊びの船が他にも出ていたし、目撃――というより、見物していた者も少なくないはずだ。

「西瓜売りの船が、これは好機とばかり、船火事見物のおともに西瓜はいかが、と近くにいた船の間をめぐっていると、一艘の屋根船に乗っていた侍たちから、えらい剣幕で追い払われたとか。簾(すだれ)が巻き上げられていて、ちらりと女の姿が見えたということです」

「その屋根船も御坐船が燃えるのを見物していたのか」

 もっとも、火はじきに消えたのだが、伊達家の家臣たちが救助や捜索に右往左往するさまを見物している船もあった。そうした船の明かりが、多少なりと水面を照らす助けとなってくれたら、と藁にもすがる希望を助広もあの時、持たぬわけではなかったが……。

「薫はその屋根船に引き上げられたというのではあるまいな。濡れていたのか」

「いいえ。すっきりとした身なりの美人だったとか」

「それが格子女郎の薫だったと西瓜売りにわかったのか」

「ですから、美人だったとしか」

「それだけか」

「それだけです。西瓜売りを追い払うと、すぐに隅田川を下って、消えたとか」

「それだけでも、噂の種には充分か」

「私の早とちりでございました」

 この男は流言も含めた目撃談を懸命にかき集めたのだろう。

「雙」第16回

「雙」第16回 森 雅裕

 式を終えると、家綱の乗物(駕籠)を中心とする行列が出発し、刀鍛冶たちは並んで、それを見送った。弟子たち、役人たちも後方に控えている。

 酒井忠清は乗物ではなく、黒門の外に馬を控えさせている。それへ向かう前に、助広の正面で足を止めた。

「かねてより、評判は聞いておった」

「試し斬りの場では、御無礼をいたしました」

「小伝馬町へは、お前の顔を見に行った」

「は……?」

「どうじゃ。当家の抱え鍛冶となる気はないか」

「あ。それは……」

「考えておけ」

「かたじけなく存じます」

「ところで、女の弟子は役に立ったか」

 貫禄のある笑いを放っている。声さえも恫喝しているようだ。

「けがなどさせておるまいな」

「は……」

 まさのは二重三重の人垣の後方で、簡単には目に入らない。

 忠清はそれだけいい、背を向けた。

 午後から、鍛錬場の撤去が始まった。大きな備品は公儀が用意したので、刀鍛冶たちが運び出す個人の道具はさほどの大きさでも量でもない。助広は、白戸屋の使用人たちが引いてきた荷車にそれらを放り込み、寛永寺をあとにした。たいした荷物ではないとはいえ、大坂までの手荷物にもできないので、白戸屋に運搬を手配してもらうことになる。 

 関係者との別れの挨拶に奔走していたまさのは、西陽の差す仁王門あたりでようやく追いついてきた。

「師匠」

 息を切らしている。

「皆さんに挨拶なさらないのですか」

「お前がしたから、それで充分だ」

「人と会うのが苦手なだけじゃなく、別れも駄目なんですか」

「気に入った相手だと特に、な」

「そんなの、相手には伝わりませんよ」

「性分だ」

「そんな威張るほどの性分ですか」

 刀鍛冶たちとは後日、挨拶できると思っている。助広にはそれで充分だった。

「御腰物奉行から素麺をいただいた。素麺は冬に作り、梅雨を越したくらいがうまいという。一緒に食うか」

 素麺を食するのが、七夕の慣習である。助広が暦に無頓着だったために半月も遅れているが。

「笹竹のかたづけを手伝ってくださらなければ、私は作りませんよ」 
 寮には七夕の飾りつけがなされていた。七夕当夜には、笹竹などは川へ流してしまうのが決まりだ。

「どうせ時期はずれだ。なのに私に川まで運ばせる気か」

「でなきゃ、梶の葉に書いた願い事がかないません」

「お前の願い事だろう」

「師匠の今回の江戸出府に収穫がありますように、という願いです」

「大きなお世話だが――」

 飾りつけは川へ流さねばなるまい、と助広は思った。

「そんなことより、御老中がお前のことを御存知のようだった」 

「酒井雅楽頭様ですか」

「む」

「弟君との縁談があるからですよ」

 まさのの口調は妙に軽い。

「お前と……?」

「はい」

「雅楽頭様の弟君か」

「酒井日向守忠能様とおっしゃいます。上野国那波、佐位、武蔵国榛沢のうち二万二千五百石」

「そうか。結構な話だな」

「十四の年長です」

「……その歳まで独り身なのか」

「奥様を亡くされたので、継室です」

「大名に被官の娘が嫁に行くわけにもいくまい。仙台侯御刀奉行の娘ではなく、大慈院義山公(伊達忠宗)の姫として嫁ぐのかね」

「でなきゃ、閨閥の道具になりません」

「陸奥守様(綱宗)は承知なのか」

「仙台伊達家を主導するのはお屋形様に限りません」

「以前、陸奥守様に対抗する勢力があるといっていたな。お前がその勢力の閨閥作りに一役買っては、陸奥守様も困るだろう」 

「私だって、困っています」

 まさのは、ぽつりと呟いた。

「年内には祝言だということですから」

 助広には、それ以上を聞く気もなかった。

「いずれ、お前とも苦手な別れをせねばならぬな」

 

 翌日。

 助広は公儀腰物方とともに赤坂を歩いた。行手に連子窓の侍長屋が続く。紀伊徳川家上屋敷である。

 献納刀は二重三重に包装されている。会津侯保科家の用人・加須屋左近(武成)も周旋人として同行し、こうした武士たちそれぞれに従者もいるから、もはや行列である。

 左近が、いった。

「本阿弥光温はなかなか入念な研ぎを施したようでござるな」

「はい。感謝しております」

「どうしてどうして。助広殿。本阿弥とは意気投合したわけではあるまい」

「はあ……」

「仙台侯から、本阿弥光温へ付け届けがあったようでござる」

「は……?」

「よろしき研ぎを頼む、と」

 まさのが手を回したのだろう。助広は面白くなかったが、まさのよりも、こんな話題を得意げに話す目の前の左近に対して、憤りが湧いた。憤る筋合いではないとわかってはいるのだが。

「研師の腕とは恐ろしいもの。刃文も研ぎの手加減で変わってしまうようです」

「……というと?」

「虎徹師の刀です。焼入れした現場では、もっとムラのある刃文と見えましたが、献納式にて、研ぎ上げられたものを拝見したところ、実によくまとまっておりました」

 献納された刀は衆人環視で焼入れしたものではないのだ。しかし、迂闊なことはいうべきではない。

「それはどういうことかな」

 

 しらばくれて問いかける左近に、

「いえ。言葉に毒がありましたら、お聞き流しください。これで、いつも失敗しております」

 助広は本心から頭を下げた。

「ところで、助広殿。今回、打ち上げた二本の振分髪写し、出来がよいのはどちらですかな」

「どちらも、でございます」

「結構結構」

 左近はうれしげに目を細めた。善人である。

 紀伊家上屋敷は二階建ての侍長屋をめぐらせ、伽藍のような櫓門を構える、さすがの偉容であった。助広たちは脇に開いた小門から邸内へ入った。桃山建築を彷彿させる豪奢な屋根が山脈のようにそびえ、並んでいる。

 応対に出たのは、安藤帯刀直清。家康の側近から紀伊家付家老となった安藤直次の子も孫も早死にしたため、この男が養子となって、家督を継いだ。万治三年(一六六〇)には二十八歳である。

 この年、紀伊家当主・徳川頼宣は参勤の途中に伊勢で鷹狩りを行ったという記録がある一方、慶安四年(一六五一)の慶安事件(由比正雪謀反事件)に加担した疑惑のため帰国を十年間許されなかったともいわれるが、いずれにせよ江戸に滞在している。安藤家は国詰めが基本だが、主人に付き従っていた。安藤直清はこの壮大な屋敷の建築に使われた定規、物差しそのままのような男だった。

「二振りのうち、いずれかを選べというのか」

 直清は背筋を伸ばし、いった。

「一振りは尾張様に納めるとな。が、助広。二振りとも注文主に納めるか、陰打ちは破棄するのが、刀工としての筋というものではないのか」

「そういう場合もございますが、此度は御前鍛錬という格別の事情にて、二振りを打ち、それぞれを紀伊様、尾張様に御所望いただきましたゆえ」

「別に当方が所望したわけではなく、会津中将様がそうお膳立てをされたのであるが、な」

「そう申されますな、帯刀殿」

 加須屋左近が苦笑した。

「わしがこの刀の媒酌人だ。わしの顔を立ててくだされ。押しかけ女房もなかなかよいものでござるぞ」

「加須屋殿がそういわれるなら……」

 左近は元来、紀伊家に仕え、高名だった武士である。もとより直清も刀を拒絶するわけはない。

「わが紀伊家は惜しい家臣を会津中将様にさらわれてしまいましたな」

「それをわしにいってどうする。大納言様(徳川頼宣)に申されよ」

「いかさま。御前(頼宣)に後悔させてやりましょう」

 二本の刀はそれぞれ箱に納まり、安藤直清の目の前に置かれている。しかし、彼は開けようとはしなかった。

「見てしまった上で、当方がいずれかを選べば、尾張様に残りものを回すことになる。そのような無礼はできぬ。どちらでもよい。置いてゆかれよ」

 直清はそういったが、見たところで、刀の出来や価値が鑑定できる目でもないだろう。

「簡単ではあるが、酒肴を用意した。腹を落ち着かせて、尾張様へ回られるがよい」

 結局、助広は柾の交じる一本を置いて、紀伊屋敷を出た。杢目に大肌が出ている方は柳生兵助が試し斬りを行なったものであるから、尾張家へ納めるのが妥当と考えたのである。

 

 紀伊屋敷を辞した足で、四谷を経由し、市ヶ谷の尾張徳川家上屋敷へ向かった。

 こちらも城塞を思わせる外観と金屏風に描かれるような御殿という内観で、助広たちを圧倒した。

 書院へ通され、待っていると、まず現われたのは柳生兵助だった。

「尾張最高の知行を領する御家老がじきにまいられる」

 何やら皮肉めいた言い回しだが、楽しげに微笑んでいる。

「そちらは加須屋左近様ですな」

「いかにも。お見知りおきくだされ」

「十八歳にて、京都三十三間堂で通し矢を試みて以来、三度までも天下一となられた射人とうかがっております」

「いや、お恥ずかしい」

 そうは答えながら、左近は誇らしげだ。助広は、左近のそうした実力よりも兵助の知識と話しぶりに感嘆した。左近にしても、悪い気はするまい。気がゆるんでいる。これは打算的な処世術ではなく、兵助にしてみれば、こんな対面さえもが試合なのだ。今、兵助が優位に立った。

(この男は、生活のすべてが剣の修業なのか……)

 戦慄さえ覚えた。知らぬ仲ではない助広とさらに友誼を育むためにこの場へ現われたわけではない。天下一の射人と対決するためなのである。

 助広以外の誰も気づかなかっただろう。書院には穏やかな空気しか漂っていない。

「弓術と鍛刀に抜きん出たお二人に、お見せしたいものがあります」

 兵助は冊子を取り出した。

「それがしが狩野常信殿にお願いして、描いていただいた鐔の下図です。三十六枚あります。いずれも柳生の剣の神髄を形にしたものです」

「ほお。柳生鐔三十六歌仙というところですな」

 左近が手に取り、綴ってある紙束を繰った。

「面白い。鉄で作られるのか」

「左様。尾張にはもともと透かし鐔の伝統がござれば」

 後世、尾張鐔は鉄の透かし鐔の王者と呼ばれる。室町後期に多く名品が作られたが、江戸期に入ると、格調が下がる。柳生鐔はそんな尾張鐔を賦活するものである。

 下図が助広に回ってきた。鐔の一枚ごとに「三磨」「水月」「鬼車」などの題名がついている。

「助広殿にうかがうが、尾張鐔は鉄骨が出るをもって、珍となす。鉄を扱う職方として、これをどう思う?」

 鉄骨は鐔の鉄質の固い部分が筋状あるいは粒状にやや突起して見える部分で、つまりは硬度が不均衡ということであるが、一見、強そうな味わいがあり、その無骨な変化が賞美される。
「おそらくは半完成の鐔を火床の中に入れ、表面を溶かすことでヤスリ目など消しているのでしょうが……」

 尾張鐔の「耳」に鍛接の割れ目が生じるのも、加熱によって疵が開くためだ。

「その際、炭に触れる部分だけが固くなるものと思われます」

 炭に触れれば、炭素を吸って固くなる。

「しかし、それでは鉄はかえって脆くなると考えます」

「ふむ。尾張鐔を脆いというか、おぬしは」

 助広はまた余計な口を滑らせてしまった。兵助は微笑んではいるが、唇の片端だけだ。和やかだったせっかくの空気がたちまち気まずくなった。

 だが、

「柳生兵助殿は拵もまた考案されたと聞き及んでおりますが」

 と、左近の穏やかな声がその気まずさを救った。さすがにこの男も徒者ではない。

「一芸は多芸に通ずるというわけですかな」

「恐れ入ります。しかし、君子は多芸を恥ず、とも申します。鐔も拵も芸のうちには入りませぬ。あくまでもわが剣法の極意を具現させたまでのこと。御覧になりますか」

「おお。ぜひ」

 若侍が兵助の佩刀を運んできた。柄糸は納戸色、鞘は黒呂塗りの刻み鞘である。逆目貫は金文字で「かごつるべ」とある。籠の釣瓶すなわち「水もたまらぬ」斬れ味というわけだ。

 中身は尾張の秦光代の作で、この鞘によく入っているものだと驚くような身幅の広い豪壮なものだ。

「よいものですなあ」

 左近は相好を崩した。よほど武器武具が好きなのだろう。

「此度の御前鍛錬に尾張からも刀工を参加させたいところでしたな」

「なんの。刀は拵にかけてこそ道具として用を成す。刀工のみ注目するわけにはいかぬ。のう、助広殿」

 兵助にそう問われると、助広は首肯するしかない。確かに刀身だけでは武器として成立しないのだ。道具としての刀剣は金具、柄巻き、鞘、漆塗り等、職人たちの技の集大成なのである。

 助広もこの拵には尾張の職人の腕と美意識を思い知らされた。だが、光代作の刀身は実用品としての凄味は感じたものの、同業者として魂をゆさぶられる名刀ではなかった。

 談笑している二人の武芸者が、そんな彼の胸中に気づかぬことを祈っていると、やがて、その奇妙な空気の中央に家老の成瀬信濃守正親が着座した。紀伊の安藤直清がそうであるように、正親もまた尾張の付家老だった成瀬正成の子孫で、家督を継いだばかりの二十二歳である。

 この年の一月、名古屋はのちに「万治の大火」と呼ばれる火災に見舞われており、城下町の多くを焼失した。その処理と対応のためにこの男は奔走している。しかし、浪費家といわれ、後世の評価は芳しくない。

 公儀腰物方から尾張腰物奉行手代へと献納刀が渡り、受け取った正親は一応は鞘から抜き、ハバキ元から切先まで視線を這わせたが、刀の刃文や地肌を見るには、光の当たる角度を工夫せねばならない。そんな仕種は見せなかった。この男も刀の目利きではない。

 それでも、

「見事である」

 とはいった。 

「恐れ入ります」

 助広は胸を張る気になれない。自分に嫌気がさしている。この場の中心であるはずの献納刀の作者なのに、自分だけ浮いている。

「柾目の交じるものと杢目のものと、二振りを作ったということだが、これはそのどちらか」

 この若き家老の目では、わからぬらしい。

「杢目でございます」

「では、正宗らしい方だな」

「…………」

「何故、二振りも作ったのか」

「正宗らしさについて、考えるところがございました」

「それはつまり、伊達家の振分髪は偽物ということ、偽物をそのまま写すことはできなかったということか」

「私には何ともわかりかねます」

「隠しても、すでに噂となっていることだ」

「…………」

「本音を申せ」

「本音は、口ではなく作刀にて申し上げます」

「なるほど。思いのほか世渡りということを心得ておるな」

「…………」

「よけいなことを口走らぬうち、そそくさと大坂へ戻るか」

「もうしばらく江戸にとどまりたいと思います」

 まだやり残したことがある。

「ほお……。仕事か」

「はい」

「この屋敷の中にも、鍛錬場がある。抱え工の飛騨守氏房一門のために作ったものだが、彼奴ども、尾張に引っ込んだままで、空いておる。好きに使ってもよいぞ」

「ありがたきお言葉なれど、他に心当たりがございますれば……」

「そうか」

 正親は好意を拒まれ、視線を助広から逸らした。助広に会った者が見せる馴染みの表情だ。生意気な奴と思われている。

 この尾張屋敷でも、酒膳の前にしばらく座らされた。そのあと、

「大名屋敷の饗応など、疲れるだけだろう」

 辞する行列のような一団を、柳生兵助は玄関まで送り、助広にそう声をかけた。

「柳生様。江戸では探しものをなさっているとのことでしたが、先刻の三十六歌仙がそれではありますまい」

「むろん」

「見つかりましたか」

 本阿弥光温のところで見た柳生拵の刀がそれではないかと思うが……。

「見つかった。しかし、いささか手遅れだったかも知れぬ。当方へ引き渡してもらえるよう、手を尽くしているところだ」

 それ以上は尋ねられなかった。結局、助広は無礼を悔いながら詫びることもできないままで、

「またお目にかかる」

 兵助がそういうのを聞いた。

 

 白戸屋の寮まで戻ってきたのは日暮れ近くだった。寮を取り巻く雑木林のような生垣の前で、ふと助広は振り返りそうになった。

 男とすれ違った。本所のこのあたりには金持ちの別宅が結構あるから、珍しくもない商家の若者だが、珍しいのは足取りの重さだった。目的地めざして歩いているのではなく、徘徊しているという歩調だ。暇つぶしに散策するような風光明媚な場所でもないが。

 江戸でこういう男と出会うと、ろくなことはない。が、寮に入ると、その男のことは忘れた。

 まさのは台所にいた。寮には飯炊きの使用人もいるのだが、もはやこの場所はまさのに明け渡された格好になっている。

「いかがでしたか、紀伊様と尾張様のお屋敷は」

 包丁をふるいながら、訊いた。

「ああいうお屋敷を見ると、江戸は武士のための都だということがよくわかる」

 そうした場所で気疲れしても、まさのに会うとたちまち忘れることができた。

「水菓子をいただいてきた。あとで食おう」

「お帰りが遅かったようですが、向こうで豪勢なもてなしでも?」

「いや。寄り道してきただけだ」

「どんな寄り道なのやら。師匠のことですから仕事がらみでしょうけど」

「雙」第15回

「雙」第15回 森 雅裕

 なかなか興味深い刀だった。長さは二尺を越えるくらい。地鉄はあくまでも強く、しかし、刃文は破綻している。焼きの高いところと浅いところがムラになっており、沸えのつき方もばらばらだ。妙手が鍛錬し、拙手が焼入れした――。そんな印象だ。こんな刀を以前にも見ている。

 安倫が仙台伊達家から持ち出した脇差だ。あれには虎徹の名前だけでなく「絃唯白色――」の銘があった。同様の作だろうか。

 光温の許しを得て、茎を抜き、銘を確認した。朽ち込んで、判読に苦労するが、

「長曽祢興里 天一止雨下在餘名」

 そうある。やはり、虎徹だ。コテツの文字がないからといって、入道前の銘とも限らないが、片削ぎの加州茎でもあり、初期作と思われた。地鉄は今ひとつ洗練されず、元と先の幅差はついているが、現今の流行に比して反りが深い体配から見ても、虎徹自身が明暦初めの作といっていた例の脇差よりもおそらく古い。

 そして、「天一」以下は書体もタガネ運びも違っており、虎徹とは別人の切り銘とわかる。「天一」とは北極星、もしくは北極神である。「餘」を「余」つまり「自分」の意に解せば、「天一止まれば、雨の下に余の名あり」あるいは「天一雨を止める下に余の名あり」とでも読むのだろうか。

 例の脇差と同様の意味ありげな銘文だが、「絃唯白色――」とは同一人ではなさそうだ。どちらも素人臭い稚拙な銘切りだが、こちらの刀の方が力強い。それも妙な力強さだ。まっすぐな力ではない、とでもいえばいいだろうか。

 この銘の中にある「止雨」は、山野加右衛門の客分である菓子師の名だ。虎徹ともつきあう人物だから、刀を作ることも有り得るが……。

「虎徹師と……どなたかの合打ち(合作)ですか」

 尋ねたが、光温は首を振った。

「わかりませんな。破綻した出来だから、どなたかの余技を虎徹が指南したということでしょうが」

 この「天一――」が作者銘だ。例の脇差にあった「絃唯白色――」にも、虎徹と合作した者の名前が隠されている。宣伝好きの虎徹は、あちこちで有力者を指導し、売名に励んだのだ。  

 この刀とあの脇差は揃いの大小として作られたものでは有り得ない。それならば、脇差の方は釣り合いを計算して、もっと短く作るだろう。あれは二尺近い大脇差だった。それに刃文も違う。合作した相手が異なり、同時期の作にも見えない。となると、これはまったく別に作られたものだ。

「この刀のお持ち主は……?」

「いえぬ。おぬしには内緒で見せている。が、さるお大名からお預かりしておる」

 大名の持ち物がこんなに傷むまで放置されていたわけはない。今出来の刀が朽ち込むほど錆びたとなると、

「土中にでも埋められていたのでしょうか」

 助広は呟いた。刀を光温に返したが、指に鉄の感触が残った。

「左様。ある場所に眠っていたのを発見された」

 江戸にあったとすると、明暦の大火で罹災しなかったのだろうか。地下なら火はかぶらないかも知れないが、鉄である以上、土に直接埋めれば、刀などひとたまりもなく錆びてしまい、救いようがなくなる。研ぎ上げて、ここまで回復できたということは、油紙や箱などでしっかり包んであったものか、あるいは死者の副葬品として、棺に入れられたものか。

「錆びて拵から抜けぬまま、なんとかならぬかと、ここへ持ち込まれた。やっとのことで抜きはしたが、拵はさらにこわれてしまい、もう使いものにならぬ。お見せしよう」

 助広の前に置かれた拵は柄に糸の残骸が張りつき、あちこち割れた鞘には漆の痕跡はあるが、想像力の助けを借りて、黒の呂塗りであろうとわかる程度だった。

 鐔は小さめだが厚い鉄の透かし鐔で、金山、尾張の系統のようだ。この手の鐔には銘はない。

 目を釘づけにしたのは目貫の位置だった。巻いてある柄糸もその下に張ってある鮫皮も傷んでいるから、表目貫は取れ、裏目貫もかろうじて柄にへばりついている状態だが、この裏目貫は鐔寄りだ。通常の逆である。ならば、失われた表目貫は頭寄りにつけられていたことになる。目貫には根っ子があるから、これをはめ込んだ痕跡は残るはずだが、柄が腐りかけていて、判然としない。

 光温はこのことに気づいているのか。

「逆目貫のようですが……」

 と、水を向けると、

「発見されたのち、無頓着な者が、取れかかっていた目貫を柄糸の無事な部分に押し込んだのであろう」

 光温こそ無頓着だった。

 それが仕舞い込まれると、光温が地艶を作っている弟子たちに何やら指示している間に、助広とまさのは工作場の様子に視線を一巡させた。

 細かな短冊状に切り刻んだ鉄片を入れた箱がある。

「なるほど。ここで、疵物が無疵の名刀に生まれ変わるわけですね」

 まさのは低く、いった。さすがに遠慮がちな声だが、光温の耳に届いたとしても、気を悪くさせない何かが、この娘にはある。

 人の反発を食いやすい助広は、もっと低く応えた。

「うわべの美しさに高い金を出す者たちがいるということだ」

「刀も女もおんなじですね。もっとも、女の疵物は修繕するわけにはいきませんが」

「私は、自分の刀に疵が出ても、修繕などしない」

「私に宣告してもしかたのないこと。本阿弥様におっしゃいなさいませ」

「光温様」

 縁に出ている光温へ、助広は声をかけた。

「こちらで私の刀をお研ぎになる時、繕いは無用に願います」

「ああ。御前鍛錬の一本に疵が出ておりましたな。それを隠すのは余計なことといわれるか」

 たちまち、光温が不機嫌になる。助広は職人としての当然の希望を言葉を選びながら口にしただけである。何故、怒りを買うのか、この素朴な男にはわからない。

「おぬしは古刀に迫らんとして、鎌倉期あたりの杢目鍛えにこだわっておるようだが、古く見えたところで、それに何の意味がある?」

「古名刀の多くが杢目鍛えである以上、それを再現しなければ、名刀ではないと考えます」

「しかし、疵っぽい杢目は研師泣かせでな。わしは江戸鍛冶どもに、密に詰んだ地鉄を推奨しておる」

「わかっています。そのために、江戸の刀は鎬地と刃寄りに柾目が現われます」

「それは非難か」

 助広は答えなかった。そんなつもりは毛頭ないが、肯定したようなものだ。

「助広殿は疵のある刀をお納めになるか。ま、好きになされよ」

「つまらぬ職方の矜持でございます」

「だから、好きになされよ、と申しておる。おぬしの刀だ。わしのではない」

「父上――」

 光温の娘がなだめようとした。が、腹に据えかねたのだろう、光温の言葉は終わらなかった。

「助広殿。職方は腕さえよければ世渡りできるというものでもない。お上(徳川家綱)の御前で鍛えた刀なら、将軍家へ献上するのが筋。それをおぬしは尾張様と紀伊様へお納めになるという。不遜がすぎぬか」

「この件は、しかし、会津中将様も御承知のこと」

「輔弼役の会津中将様にはお上も素直だからの。はたして、お上自身の御意志はいかがなものかな。他の刀工たちは、いずれも将軍家へ献上つかまつると申しておる」

「存じています」

「中には、御前鍛錬などという慣れぬ仕事場では満足いく作刀はできぬと、別途に献上用の刀を用意している刀工もおる」

 その心がけを、光温は誉めているのだろうか。助広には理解できない。

「助広殿。今日の試し斬りとて、そうだ。山野加右衛門殿はおぬしに冷たかった。おぬしがそれなりの誠意を見せぬからだ」

 誠意という言葉がここで出る理由が、助広にはわからない。

「柳生兵助殿の機転で、あの場はなんとかおさまったが……」

「機転……ですか」

「機転だ。何となれば、銅銭を斬るなど、さして驚嘆すべきことでもない。堅物を斬るにはやり方があるだけのこと。おわかりであろう。最後の一枚が斬り残された理由を」

「わかっております」

 刀の刃は銅より固いのだから、斬れて当然なのである。ただ、これには方法があり、斬りつけた力が逃げぬよう、銅銭の下は固くなければならない。そのために土壇の上に厚い板を置き、銅銭を五枚も重ねたのである。四枚まで断ち割ったのは柳生兵助の技量だが、彼といえども一番下の五枚目は曲がっただけで、斬れなかった。下に敷いた厚板と土壇が衝撃を吸収してしまったのだ。あの場にいた腰物奉行は兵助が力を加減したものと評したが、まったくの謬見(びゅうけん)である。

「つまり、あれは刀のことをろくに知らぬお歴々の目先をごまかす見世物にすぎぬ。それを機転というのだ。どういうわけか、柳生殿はおぬしが贔屓らしい。なら、他の人々にも、贔屓にしてもらうことを考えるがよい。おぬしのためを思い、いうておる」

「目先をごまかす見世物、機転と申されますか」

「そんなことはもうどうでもよい。わしがいうのは、世の習いを学ばれ――」

「本阿弥様」

 助広は気色ばんだ。刀に関しては意固地な男である。自分の作刀ばかりか、柳生兵助の厚意までも侮辱された気がした。

「柳生様が銅銭を斬ったのは、私の杢目鍛えに大肌交じる一刀。お渡し願いたい」

 仕上げ研ぎのために、この仕事場に運ばれている。

「何……?」

「ごまかしでないものを斬って御覧に入れます」

 助広は庭の竹林を見ている。光温は鼻で笑った。

「ふっ。生憎ですな。青竹なら斬るのは造作もないが、枯竹しかござらん」

 竹は地下茎がつながっていて、一斉に枯れる。枯竹は固く、容易には斬れない。

「枯竹を斬ります」

「勝手になされよ」

 光温は叫ぶように吐き捨てた。

「いさかいはおやめください」

 と、光温の娘が割って入ろうとしたが、その娘の腕をまさのが無言でつかんだ。

 渡された脇差は鞘に納まっているが、真新しい柄を傷めぬよう、茎を抜き出し、じかに手拭いを巻きつけて、助広は庭へ下りた。

 手首ほどの太さの枯竹の前に立ち、助広は袈裟がけに脇差を振り下ろした。勢い余って、隣の竹の枝までなぎ払った。

 枯竹はあっさりと切断された。切り口も申し分なかった。脇差にも刃こぼれはない。刃先がまくれることもなかった。

「失礼いたしました」

 助広は急に照れ臭くなり、脇差を返すと、ほとんどそっぽを向いている光温に、

「研ぎをよろしくお願いいたします」

 頭を下げた。光温の娘が、助広の裸足を拭く手拭いを差し出そうとしたが、まさのがそうする方が早かった。

 

 帰り道の空は灰色の雲に覆われていたが、蝉が鳴いているので雨は降らないと思われた。それでもどことなく憂鬱な空気の中で、まさのがいやに明るく、いった。

「師匠。あんなに機嫌をそこねて、おかしな研ぎを施されたら、どうします?」

 刀を生かすも殺すも研師にかかっている。下地研ぎが最悪の場合、姿形をこわされてしまう。研ぎ減った鉄はもうもとへ戻らないのだ。仕上げ研ぎはいってみれば化粧であるから、本質に影響はないが、地刃の冴え、肌の見え具合は、その化粧でどうにでもなる。

「本阿弥光温も職人の誇りがあるだろう。自分の腕を疑われるような仕事はするまい」

 助広は自分にいいきかせている。世の職人の誰もが、自分のように誇りを優先して生きているわけではない。それはわかっているのだ。

「光温師が妙なことをしたら、差し違えるまでのこと」

「大人気ない」

 まさのはあっさりと一笑に付した。  

「それにしても、惜しいことをしましたね」

「む。光温師を怒らせなければ、いろいろ名刀を見せてもらえただろうな」

「そんなことじゃなくて、きれいなお嬢様だったのに……」

「くだらぬ」

「あら。女の美しさもわからぬ男に名刀が打てましょうや」

「美しさはわかる。くだらぬというのは、本阿弥の御機嫌をとることだ」

「ほお。師匠はああいう女性(にょしょう)を美しいとお感じになりますか」

「そんな話をしているのではない」

「では、何の話です?」

「光温師に見せられた刀だ。銘文に止雨殿の名が入っていたが……」

「やはり、刀の話ですか」

「おかしな組み合わせだ。あの刀とあの拵」

「正確にいえば、拵の残骸です」

「こわれてはいたが、特徴ある作りだった」

「尾張柳生拵ですね」

 柳生兵助の差料と同じ形式だ。逆目貫で、小さな鐔、短い柄は棟方が角張り、柄頭が小さい。

「止雨様は尾張と何かつながりがあるのでしょうか」

「さて。さるお大名から預かった刀ということだったが……」

「そうすると、尾張様ですか」

「しかしな、柳生兵助様は江戸で探しものをしているといっていた。もしや、あれかも知れぬ。つまり、少なくとも今は尾張家の手を離れていることになる。それにしても、ああも朽ちている理由がわからんな。古い刀ではないから、御先祖の副葬品を発掘したというのでもあるまい」

「光温師と喧嘩なんかしなければ、さる大名とやらの名前を聞き出せたかも……」

「ふん。誰も彼もが、私が脇差を二本作ったことが気に入らないと見え、驚いたり説教したり、何かと声高に話題とする。奇妙だと思わんか」

「奇妙なのは師匠の敵を作る才覚ですさ」 

「私が二本作ったのは、本来、杢目であるべき振分髪が、伊達屋敷で見せられたものは柾交じりの杢目だったからだ。伊達家の家中でも限られた者しか知るまい。しかし、あまり騒がれると、余人にも気づかれる危険が出てくる。今、伊達屋敷にある振分髪は今出来の偽物ということが、だ」

「気づかれたところで、助広師匠には恐いものはないでしょう」

「私にだって、恐いものはいくらもある」

「わかってますよ。師匠は人が恐い。人を傷つけるのは人だけ」

「そうだな。とりわけ、女は恐い。まさの殿が恐い」

 風が砂埃を立てると、まさのは平然と目を閉じて歩いている。小柄な娘ではないが、どういうわけか、助広の目には小さく見えた。

「先刻、鉄の細片を指して、まさの殿はいったな。ここで、疵物が無疵の名刀に生まれ変わるわけですね――と。つまり、あの細片が何であるかを知っていた」

「…………」

「あれは埋鉄に使うものだ。刀の疵をタガネで広げ、あの鉄の細片を嵌入する。うまくやれば、疵は見えなくなる。刀鍛冶もやるし、研師も金工もやる仕事だ」

「…………」

「お前は、鍛錬のあとの刀鍛冶は指を火傷して、湯飲みが持てぬものだということも知っていたな。伊達家中で育ったお嬢様が御存知あることではない。花嫁修業にそんなことは覚えまい」

「助広師匠の手伝いをしているのですから、そのくらいの勉強はします。花嫁修業と考えていただいてもかまいません」

 しばらく、二人は互いの足音を聞きながら歩いたが、今の言葉の意味に気づいて、まさのは足を早め、助広は逆にゆるめた。

「どうせ斬るなら、七夕の飾りに使える笹竹を選んで、もらってくればよかったな」

 離れていくうしろ姿に怒鳴ると、

「上方の暦は江戸より遅いのですか。七夕はもう半月近く前に過ぎました」

 振り向きもせずに、まさのはそういい、頭上の木枝を指した。蝉時雨というには時期が遅いが、蝉が鳴いている。

「夏の終わりに気づかない蝉と一緒ですね、師匠は」

 七夕には、縁に立てた笹竹へ酸漿を数珠のように連ね、色紙を吹流しのごとくつないで飾りつける。やがて町人が経済的に台頭してくると、縁などではすまず、連なる屋根に高々と竹を立て並べ、色紙ばかりでなく様々な日用品も飾りつけて空いっぱいをふさぐことになり、その光景が江戸の風物詩
ともなる。

 そういえば、しばらく前、白戸屋寮の庭先に笹竹が立ててあったような気がするが、七夕飾りは一日限りで川か海に流す風習なので、助広の目にはほとんど留まらなかった。刀しか眼中にない男である。

「お望みなら――」

 まさのは言葉を続けたが、よく聞き取れなかった。しかし、今からでも派手派手しい七夕飾りを準備しましょう――とか、そんなことを口にしたのだと助広には伝わった。

 刀が研ぎに回されている間、刀鍛冶と弟子はすることもないので、このところのまさのは伊達屋敷と白戸屋寮を行き来しながら雑用の日々だったが、とりあえず遅めの七夕までは寮に居座るつもりのようだ。

 

 東叡山寛永寺は秋の始まりに焦ったような蝉の声に包まれている。五人の刀工による六本の刀は、徳川家綱を迎えて、献納式の晴れ舞台へと進んだ。

 本阿弥光温が家綱の案内役として、付き従っていた。先の秀忠、家光には、光温の父の光室が、二人きりの座敷で抜き身を手にしながら講釈したというほど、将軍家から信頼されている本阿弥家である。

「いずれの刀も見事である。さすがに全国より選ばれし刀工じゃ」

 並べられた刀の前を熱心に往復し、家綱は目を輝かせた。

 助広へは侍臣を介して、

「尾張、紀伊両家への刀は、お前の手で納めよ」

 と指示があったが、家綱の声は凛然として、控えている刀鍛冶たちの席にも、じかに響いた。

「将軍家から下賜という形をとれば、両家もそれ相応の貢ぎ物を返さねばならぬ。それでは、よけいな面倒をかける」

「おそれながら、それはいかがなものでございましょうか」

 本阿弥光温がしわがれた声を発した。

「御前鍛錬の刀であれば、建前だけでも、一旦は将軍家へお納めせねば、筋が通りませぬ。そもそも、助広だけが二振りを打ったというのも、いささか公平を欠いております」

「筋というのは便利な言葉じゃ」

 家綱は笑っている。が、言葉は強い。

「何かが足りぬ時の老臣たちの決め科白じゃ。わしが承知しておれば、それでよい。何が足りぬと申すか」

「あ。いや……」

「将軍家へ献上されても、折々に諸大名、家臣へと下げ渡され、流転していくのが刀剣というもの。助広の打った二振りが尾張と紀伊へ納まるのは、将軍家という途中を省いただけのことじゃ。それにな、公平を欠くこともないよう、配慮はしておる」

「恐れ入りましてございます」

 光温は頭を下げるしかない。

「そうはいうても、わしも助広の刀は欲しいがのう」

 欲しい――家綱のその言葉は助広の胸中に重く落ちた。

 家綱は式場の下座に並んでいる刀鍛冶たちを見渡した。

「会えて、うれしかった。お前たちも、わしに会うたことを名誉としてくれるか」

 刀鍛冶たちが平伏すると、押し出しの強い武士が進み出た。試し斬りの場にも臨席していた老中・酒井忠清である。

「そのような事情ゆえ――」

 五人の刀鍛冶を睥睨した。

「安定、興里虎徹、長道、忠吉には上様より報奨を下さる。助広は尾張、紀伊両家より賜るように」

 なるほど、それも筋である。献上とはいっても、それなりの返礼は与えられる。助広以外の四人は将軍からそれを授かるという最高の名誉に輝くが、助広には格下の尾張、紀伊家から与えるとなれば、この御前鍛錬は助広ばかりが優遇されたことにはならない。公平といえる。

 家綱の治世は可もなく不可もなく、目立つところがないため、凡庸な将軍と位置づけられるが、資性仁恕にして、質素倹約を重んじ、武芸を奨励するなど、どうしてなかなかの賢君であった。『厳有院殿御実紀』には、それを裏づける逸話もある。

 家綱が竹千代といった幼年の頃、小姓たちが侍臣に、

「山王祭の真似をして御覧に入れよ」

 そう無理強いしたことがある。が、

「この竹千代を楽しませようとて、人を困らせてはならぬ」

 と、これを戒めたという。

 また、遠島の受刑者には食料を与える制度がないことを知った竹千代は、

「死罪とせずに命を助けたのだからこそ、食料を与えるべきではないのか」

 と、疑問を口にした。これを聞いた父の家光は喜び、

「これを竹千代の仕置きの初めとせよ」

 命じて、流人たちに食料を与えることになった。とはいうが、流刑地の実態はほとんど「渡世勝手次第」つまり自給自足が続いたようである。

 長じた家綱は心根の素直な将軍となった。ただし、若年に加えて蒲柳の質で、将軍親政というわけにはいかず、幕政の中枢は家光時代の幕閣首脳が居座ったままである。

 江戸幕府成立から五十年以上を経て、政治組織が整備され、文治主義の傾向が強くなっている。そんな時代に登場する新しい力が酒井忠清であり、「下馬将軍」の異名で権力を掌握し、なお将軍以上の実権を握るべく、こののち、延宝八年(一六八○)には有栖川宮幸仁親王を家綱の後継者に迎えようとさえするのである。

「御苦労であった」

 それが、ひと月半に及んだ御前鍛錬を締めくくる言葉であった。告げたのは、やはり酒井忠清である。

 そして、助広がこの老中からかけられた言葉はそれだけではなかった。

「雙」第14回

「雙」第14回 森 雅裕

三・活発発地

 寛永寺の鍛錬場に落ちる陰影の傾きや木々の青々しさから夏は少しずつ気配を消し、去っていく。

 念のため、助広は二本の「写し」を伊達家屋敷にある「振分髪」と突き合わせ、寸法と反りを正確に仕上げた。さらに本歌同様、表に腰樋、裏に護摩箸を彫り込んだ。そのための樋センや丸ヤスリなどは長道、忠吉から借り、足りないものは安倫が調達してくれた。

 その後、五人の刀工たちがそれぞれ打ち上げた刀は、刀鍛冶自身が行なう鍛冶押し(荒研ぎ)を経て、研師に預けられた。

 本来ならば、どの時点で銘を切るかは、刀鍛冶によって異なる。鍛冶押し後に銘切りをすませる者もあれば、研ぎ終えたあとの場合もある。研ぎ上げて疵を発見することもあるのだ。

 また、銘を切る前には茎に刀鍛冶それぞれ独自のヤスリをかけるのだが、あとから研ぎをかけると、この茎のヤスリ目と刀身の境目部分が砥石によってつぶされてしまうので、それを嫌う刀鍛冶もいる。今回の五人は下地研ぎを終えた時点で銘を入れた。ハバキ、鞘もこの段階で作られた。

 そして、刀は小伝馬町牢屋敷へ持ち込まれた。火入れ式からひと月あまり。七月半ばを過ぎた。御前鍛錬の最終課題は試し斬り――つまり、実用試験だった。作者を明らかにするべく、この前に銘を切ったのだ。仕上げ研ぎは実用試験のあとということになる。

 将軍・家綱の臨席こそないが、老中の一人が着座した。上州前橋城主・酒井忠清。この時、まだ三十七歳だが、屋敷が江戸城大手門下馬札に近かったことから、のちには「下馬将軍」とさえ呼ばれる門閥譜代である。こんな血腥い場には異例の登場であった。この男の周囲だけ、空気に別の色がついている。

「吝き雅楽心尽くしの豊後どの 江戸にはずんと伊豆ばよかろう」

 権勢をふるう三老中の詠み込みである。雅楽は酒井雅楽頭忠清、豊後は阿部豊後守忠秋、伊豆は松平伊豆守信綱。江戸市民の好悪ははっきりしている。

 その酒井忠清を中心に、腰物奉行、腰物方、町与力衆、徒目付衆、小人目付衆などの公儀役人が席を並べ、生半可な刀であれば試すことはできない雰囲気だ。

 柳生兵助の顔も見えた。幕閣、幕臣の席から離れているのは疎外されたわけではなく、彼の性格だろう。

 斬り手の山野加右衛門は、様場の準備を見回っていたが、刀鍛冶たちの席の前を通りかかると、

「助広殿は二振りを鍛えられたか。仕事熱心なことだ」

 冷たく声をかけた。

「一方には、疵があるようだな」

 柾交じりの杢目の方は細かく詰んだ地鉄で、無疵に仕上がったのだが、正宗らしい杢目の方は鍛え肌が出ている分、その肌目にそって、わずかな疵が生じていた。もっとも、欠点というほどの疵ではなく、それぞれの地鉄の目的が、きれいに作るか面白く作るか、異なるのだから、当然の結果ではあった。

「支度ととのいました」

 同心が呼ばわり、加右衛門は奉行から刀を押しいただいた。斬り柄をはめ、肩衣の両肌を脱ぎ、土壇の前から一礼する。

 試し斬りが始まる。土壇に横向きに据えられている死体には首がないためか、人間だという実感には乏しいのが、わずかな救いだった。この不格好な物体を人間だと認めるのは、精神衛生によくなかった。

 まずは大和守安定の刀で、摺付けを両断した。摺付けは江戸後期には鳩尾(みぞおち)あたりを指すが、前期には肩の線をいい、肩胛骨など大きな骨があって、斬りにくい箇所である。それを一刀両断したばかりか、死体の下に敷かれた粉糠袋をも切断し、さらに下の土壇まで、刃が食い込んだ。粉糠袋は、刀が土壇まで斬り込んで刃先を傷めるのを防ぐために敷いてあるのである。それを突破するのだから、さすがに斬れ味を喧伝される安定だった。

 死体をかえ、長道、忠吉の両刀も摺付けを見事に断ち斬り、粉糠袋にも途中まで斬り込んだが、土壇には至らず、列席する者たちの瞼には、安定の凄絶さばかりが焼きついている。

(けど、山野加右衛門は虎徹に肩入れしとるで。安定以上の刃味を見せつけようとするやろ。……どうやる?)

 助広には疑問よりも期待が強い。

「お奉行」

 加右衛門が役人席の中央へ向き直った。

「御前鍛錬の栄えある刀工たち五名、刃味すぐれて当然。粉糠袋まで斬り及んだところで評価にはなりませぬ。ここは、どれほど斬れるものか、それを試しとうございますが、お許しくださいますか」

 事前に根回ししてあったのか、腰物奉行は異を唱えはしなかったが、最上席に顔を向けた。酒井忠清が無言で睨み返した。奉行が決めろ――。そういっている。

「やってみよ」

 腰物奉行の許可を得て、加右衛門の門弟と役人たちが、肩から上を切り落とされた三つの死体を重ね、細紐で縛り合わせた。

(三ツ胴を落とす気か)

 なるほど、摺付けなど斬ったところで、しょせん死体は一つだ。評価の目は内容よりも数の多い方へ向く。

 虎徹の刀を手にした加右衛門が、土壇へ歩み寄る。鐔も特に重いものをつけていた。三ツ胴は高所から飛び降りつつ斬らねば刃が届かないから、台に乗る。もはや曲芸である。

 しかも、死体の重ね方を見て、

(まさか――)

 助広は衝撃を受けた。

 通常、三ツ胴を落とす場合は二体を互い違いに腹這いで重ね、一体をその上に横向きでのせる。しかし、目の前にある下の二体は互い違いではなく、同じ向きだ。一番上は通常通り横向きではあるが、上下合わせて三体の腰のあたりが重なっているのである。

 加右衛門が台から飛び、刀が振り下ろされた。狙いは諸車だ。のちには両車と表記される腰の部分で、骨盤があるから、ここも固い。三体の諸車をすべて両断して、刃は粉糠袋へ食い込んだ。

 どよめきが起こった。神業であった。刀も、そして斬り手も。

 最後は助広の刀である。もはや、誰も注目していない。これが、付け届けを怠った助広への加右衛門の仕打ちだった。

 柾目の交じる一本が取り上げられた。短い脇差なので、柄を延長する。土壇の死体はそのままである。縛り直しただけだ。あざやかに三ツ胴を落としはした。が、斬ったのは本胴(のちには一ノ胴と称す)という胸と腹の境界線である。大きな骨はない。複数の死体を重ねた場合、これが通常なのだ。

 試しの結果については、文書によって腰物方へ提出される。口頭でも、

「さすがにソボロ助広の後継ぎ。父にも劣らぬ業物」

 加右衛門はそうはいったが、助広は目が眩むほどの憤りを覚えた。

 しかも、腰物奉行に向かい、

「以上にて、試し斬りは終えてございます」

 加右衛門は高らかに告げてしまった。奉行の前から引き下がる加右衛門と目が合い、助広の口から場をわきまえぬ言葉が出そうになった。その瞬間、

「何か、いいたいことがありそうじゃな」

 張りのある声を飛ばしたのは、酒井忠清だった。癖の強い人相だが、目は笑っている。おかげで、助広は無礼を働かずにすんだ。

「いうてみよ」

「恐れ入ります。私の作刀がもう一振り残っておりますが」

「何と」

 加右衛門は目をむいた。そして、周囲の誰もが息をのんだ。

「助広殿は二振りとも試されるおつもりか」

「いけませんでしょうか」

「他工は皆、一振りだ。おぬしだけが二振りを試すのはいささか図々しいというもの。ここにはそれだけの用意もない」

 死体の数が余っているわけではない、といいたいらしい。公平か不公平かというなら、安定、長道、忠吉はそれぞれ一体の死体しか試していない。その点、曲がりなりにも助広の脇差一本は三体を重ねて試しているのだから、冷遇されたことにはならない。文句はいえないのである。しかも用意された三体とも肩、胸、腰と無駄なく斬り刻まれ、もはや斬る余地がない。それもこれも加右衛門の抜け目ない目算のうちだ。分断した手足のみを土壇に据えて試し斬りする方法もあるが、それではこの場の参列者は注目するまい。

 気まずい空気を笑い飛ばすように、

「では、もう一振りはそれがしが試そう」

 そういったのは、柳生兵助である。

「助広殿の一振りはわが主へ納められるもの。それがしが試しても、不都合はありますまい。――御奉行、いかがです?」

 腰物奉行は再び、ちら、と酒井忠清の表情をうかがった。忠清が泰然と構えているので、奉行も首肯した。

 加右衛門は突き刺すような声を兵助へ投げ返した。

「以前、お家流には死体を斬る法はない、といわれたはずだが」

「いかにも。死体は斬らぬ」

「では……?」

「そうよな……」

 兵助は進み出ている。懐から巾着を取り出した。

「これを斬ろう」

 銅銭である。土壇の死体――というより肉塊をかたづけさせ、粉糠袋も除けて、厚い板を敷かせると、その上に銅銭を五枚重ねた。

 残っていた助広の刀を受け取り、視線を這わせた。

「刃は尋常のつけ方ですな。堅物を斬るには鈍角の刃でなければ刃こぼれするものだが」

 そんな言い訳ができる場所ではない。

 斬り柄は使わず、茎に布を巻きつけただけで、兵助は、

「杢目に大肌を交じえ……見事な正宗の写しだ。いや、写しを超え、本歌にまさるとも劣らぬ」

 と、助広へ笑いかけながら、無造作に土壇の前で振りかぶった。ほとんど的の銅銭を見ていない。しかし、一閃した光芒はすでに土壇の上で止まっている。銅銭を置いた板には触れず、むろん、勢い余って土壇へ斬り込むこともなかった。何が起きたのか、咄嗟にはわからなかった。

 銅銭は――。いくつかの破片が弾け飛んでいた。役人たちがそれを拾い集め、さらに土壇に残った銅銭を覗き込み、腰物奉行の前まで歩み寄って、報告した。それを受けた奉行は席を立ち、自分の目で、二つに割れた銅銭を数えた。

「見事。四枚を真っ二つにしておる!」

 感嘆の吐息が周囲を包んだ。酒井忠清も満足気に頷いた。もっとも、当の兵助は刀を返し、すでに席へ戻っている。

「五枚重ねて、四枚斬るとは……。あと一枚は曲がってはおるが、ちと惜しかったな。板や土壇まで斬り込むまいと、力を加減したか。余分なものを斬らぬところはいかにも柳生殿。しかし、ちと手許が甘かったようだ」

 奉行はしたり顔でいったが、兵助は涼しい表情で、

「刃こぼれもせず、よい刀です」

 そういった。助広へ向けた言葉である。だが、それはむしろ兵助の凄腕を意味した。堅物はしっかり固定しなければ斬りつけた刀に刃こぼれを生じる。なのに兵助は銅銭をただ重ねて置いただけだったのである。

 
 
 刀鍛冶の弟子たちは試し斬りという儀式の場に同席を許されず、控えの場所に集められていた。穿鑿所に隣接する薬調合所の隅である。まさのもそこにいた。男の群れに女一人、はさみ込まれている。

「どうでした?」

 引き上げてくる助広を見つけると、むさくるしさから逃げるように席を立った。

「さすがは選ばれた刀鍛冶たちだ」

「じゃあ……」

「死体を斬り刻むのを目のあたりにして、誰も卒倒しなかった」

「試し斬りの首尾を尋ねています、私は」

「そんなことか。斬り手の腕がいいのはわかった」

「刀の斬れ味はどうであったのか、誰の刀が優秀であったのか、それを訊いているのです」

「知るものか。私が斬ったわけではない」

「師匠と話をしていると、何だか腹が立ってきます」

「変わった女だな、まさの殿は」

「……帰りましょう」

 穿鑿所の前から表門が見える。その向かって左手に壁のように建っているのは表役人長屋である。

「手前の右手は拷問蔵だそうです」

 そこは穿鑿所の区画とは練塀で隔てられている。

「こんなところとは縁のない生き方をしたいものです」

「そういういい方は縁のある人たちに失礼だ。誰だって、ここに入りたいわけではない」

 この二人の会話はこれでも噛み合っている。そこへ、

「助広殿」

 と、声をかけたのは虎徹である。例によって、真面目くさった、怒ったような表情だ。

「疵のある刀を納めるおつもりか。疵は彫り物で消すことができるが、今回は写し物ゆえに自由勝手な彫りもできなかったか」

 今回、五人の中で、刀身に彫りを入れたのは助広と虎徹だけである。助広の場合は彫刻というより樋に近いものだが、虎徹はもっと手間をかけている。光線の加減があるので、屋外の仮設鍛錬場というわけにはいかず、法華堂に一室をもらって、道具を運び込み、虎徹は彫刻の技を見せたのである。時間がないから、梵字に羂索、護摩箸とさすがに凝ったものではないが、見事なものだった。

「あら。虎徹師匠が彫り物上手なのは、疵隠しのためですか」

 まさのがあくまでもにこやかに、訊いた。さすがの虎徹もこの娘とはまともに向き合わない。

「助広殿は刀身彫刻は不得手かな。しかし、樋(刀身の溝)くらいは掻くだろう」

「今回は樋を掻きましたが、普段はあまり……」

「南蛮鉄は固いからの、削りにくいか」

「もともと自分の地鉄を掻き削るのは好みません」

「なるほど。きれいな地鉄をそこねたくないか。しかし、きれいな地鉄だからこそ、わずかな疵も目立つ。皮肉なものよ」

 虎徹が他の関係者に呼び止められ、助広の前から離れると、入れ替わりに微笑を突きつけてきた者があった。試し斬りに同席していた研師である。男の微笑というのは気味の悪いものだ。助広の感想だった。

 本阿弥光温。足利将軍の同朋衆に始まる鑑定と研ぎの家元十一代目である。今回、御前鍛錬で作られた刀の研ぎをまかされている。むろん、六本もの研ぎは光温だけでは間に合わないから、いくつかある本阿弥分家にも割り当てられているが、取りまとめ役はこの男である。折紙(鑑定書)の発行は本阿弥宗家の独占事業で、刀剣界の権力者といえる。

「研師は自分で斬ってみるわけではないが、研ぎあたり(砥石をあてた感触)から、およその刃味は推察できるもの。固く、しかも粘る鉄質の刀がすぐれておる。助広殿の作もまさにそれであった。大坂の刀は見栄えばかりで脆いという声もあるが、どうしてどうして、瞠目いたした」

「恐れ入ります」

「いかがかな。これより、拙宅へおいでになられぬか。大坂の話も聞きたい」

「はあ……」

 同じ刀剣職人でも、刀鍛冶は身なりに無頓着だが、研師は洒落者という傾向がある。世に通じているといってもいい。

 助広は刀鍛冶の御多分に洩れず、世に通じておらず、人づきあいも苦手だ。どうせ相手に好感を与えられない。そう思っている。しかし、誘いを断わる度胸もない。要するに優柔不断なのである。返事を決めかねていると、

「人見知りする師匠なんです。介添えがいないと、人気のない方へ歩いていきます」

 まさのが笑いかけた。

「では、そちら様も御一緒に」

「そうですか」

 まさのは屈託なく頷いた。人前では助広を差し置いたり、でしゃばることはしないまさのだが、今は虫の居所が悪い。が、表面だけは実にさわやかである。

「では、師匠。せっかくのお誘いですから、まいりましょう」

「む」

 他人に指図されるのはむろん好まない助広だが、まさのに仕切られるのは気が楽だった。進路を間違える娘でもないし、息が合っている。助広には珍しい。それも、出会ってひと月あまりのまさのである。

 
 
 試し斬りを終えた刀は、本阿弥家の弟子たちが恭しく刀箱へ納めて運び出した。このあと、仕上げ研ぎが施される。

 入念な研ぎは、通常ならば下地と仕上げで十日以上かかる。献納式まで幾日もないから、本阿弥本家も分家も弟子たちを動員して、不眠不休の作業となる。

「振分髪の本歌は当家で研いだことがござる。助広殿といえど、さすがに正宗には及ばぬな」

 光温は他人を誉めるばかりでなく、批判を交じえることで、優位に立とうとする男のようだ。

「どのような点が、でしょうか」

 助広は訊いたが、不愉快だったためではなく、本阿弥家では振分髪をどのように見たというのか、興味があったからである。

「助広殿はムラなく鍛えてムラなく焼入れなさっておる。それは上手であるが、正宗はもっとムラがあり、それが刃中の働きや地刃の覇気となっておる」

「正宗の材料がムラなく鍛えては面白味の出ない鉄であったということです」

「材料の違いか。刀鍛冶は必ずそれを逃げ口上とする」

 助広は論争する気はない。完成品についての研師の意見は拝聴するが、制作方法については、彼らは玄人ではない。

「振分髪を研いだというのは、いつ頃ですか」

「慶長の末であろう」

 ならば、本阿弥本家九代の光徳の時代である。振分髪には光徳の折紙がつけられていた、とまさのは語っていたから、研いだのも同時だろうが、孫である光温は見ていないのだ。見てもいないのに、批評しているのである。

「光徳様は刀絵図を多く残されたと聞いています。振分髪の絵図もありましたか」

「ござるよ。光徳絵図については、写本もいくつか作られ、本阿弥各家や大名家の間に出回っておる」

 つまり、振分髪の本歌が明暦の大火で焼失したとしても、写しの制作は可能ということだ。現在、伊達家にある偽物はそうして作られたものなのか。が、疑問はある。

「長さは当然として、身幅、反りなどの法量もそこには記してあるのですか」

「さて。覚えておらぬ」

 そのような記録は普通ならしないことだ。

 
 
 本阿弥光温の屋敷は、公邸、私邸、営業処などいくつかあるが、案内された神田永富町の拝領屋敷は、柿葺(こけらぶき)の長屋が塀がわりに建ち、庭も広くとられており、中級旗本屋敷の規模だった。仕事場も付属している。

「小伝馬町では、気持ちがいいとはいえぬものを見た。気分を変えてくだされ」

 光温は酒をすすめた。

「酒は上方にかなわぬかも知れぬ。しかし――」

 酒膳を運んできた娘を指した。

「わが娘でござるよ」

 娘は深々と頭を下げ、名乗ったが、助広の目も耳も素通りした。人間関係にあきらめのよすぎるこの男は、どうせ縁はないと思っている。しかし、光温はそうではないらしい。

「本阿弥の出自はもともと京都だが、この娘は上方を知らぬ。幕府のみならず朝廷の御用もつとめる本阿弥としては、かの地に縁づかせようと思うてござる。研師よりも刀工へ嫁にやりたいと考えておる。いろいろと助け合えますからな」

 古い刀剣の修理など、ある程度は研師がこなすのだが、手に余る場合は刀鍛冶の仕事となる。そうした協力者を求めているのだろう。

「なら、京都の刀工でございましょう」

「いや。大坂がよいな」

「はあ……。大坂はいささか離れておりますが」

「なんの。京都という町はもはや古いだけの脱け殻にすぎぬ。根を広げるなら、富裕な土地に限る。これからは商都大坂です。何かを生産するわけでもない江戸の武家がすたれるのも時間(とき)の問題。いずれ上方の商人が世の流れをつかむ」

 将軍家御用のくせに不遜なことをいう。

「助広殿は御内儀をまだお持ちでありませんな。あ、そちらさまは……?」

 光温はようやくまさのを見やった。もともと口数の少なくないまさのがここまで沈黙していたのは、弟子としての分際を守ったのである。こういう筋は通す娘だった。が、水を向けられ、口を開いた。

「仕事に打ち込んでおれば、女の方から寄ってくると考えているような世間離れした師匠ですから」

 まさのはにこやかで、言葉に含んだ毒を助広以外に気づかせない。

 助広が居心地悪く手元の盃を見つめていると、光温の娘が微笑んだ。

「そのような助広師匠ならば、ここへも仕事のおつもりで見えられましたか」

 親ほど印象の悪い娘ではない。

「はあ……。何か、面白い刀を拝見できまいかと……」

 通常、目にする刀は研ぎ上げられており、これはいわば化粧を施した状態である。しかし、研師のところでは、古名刀も虚飾を剥ぎ取られ、素顔をさらしている。もっとも、そうした刀は本阿弥が大名や金持ちたちから預かったものであり、余人に気安く見せてくれるとは期待できなかった。

 が、

「なるほど。助広殿の勉学の助けとなるなら、一本くらいはお見せいたそう」

 縁を渡って、仕事場へ案内された。庭先では、弟子たちが砥石を割っている。研ぎの仕上げに使う地艶を作っているのだろう。

 仕事場はいくつかに分かれ、物置とも工作場ともつかぬ部屋と水仕事の部屋つまり研ぎ場がある。

 研いでいる刀に微細な塵や埃が疵をつけることを恐れ、研師は研ぎ場に客を入れない。光温は仮鞘に入った一本を工作場へ運んできた。

「面白い刀を、と仰せられたな。名刀とはいわれなんだ」

 助広は鎌倉期あたりの古名刀を期待したのだが、鞘の反りの浅さを見ただけで、新刃だと知れた。しかし、抜いてみると、古作よりも損傷がひどかった。

「しばらく放置されていたらしく、持ち込まれた時はひどい朽ち込みだった。なんとか見られるまでに研ぎ上げ、仮鞘も作った」

 と、光温。

「雙」第13回

「雙」第13回 森 雅裕

 法華堂の屋根下には、この数日で見知った関係者に交じり、柳生兵助の顔があった。この男がどうしてここにいるのか、助広にはわからない。しかし、公儀腰物方さえ、礼を尽くして、彼に接している。

 もっとも、剣客一人にその礼を尽くすのも飽きたらしく、刀鍛冶たちが雨宿りに駆け込むと、兵助の傍らから離れて、話しかけてきた。

「名工も雨には勝てませぬな」

 安定が答えた。

「屋根や壁があっても、夏の雨は最悪です。高温多湿の中で鍛錬などやれば、やたらと金肌(表面の酸化鉄)が落ちて、あっという間に鉄が減ってしまいます」

「一時の夕立なら、日程に響くこともありますまい」

「一番、忙しいのは助広殿です。仕事熱心ゆえ、二本もの脇差を打っております。誉めてやってくだされ」

 初代兼重が没し、他の刀工たちがまだ若く、虎徹も雌伏しているこの時期の江戸で、安定は頂点に立っている刀鍛冶である。その実力者がこんな安っぽい皮肉を口にするのか。

 助広は腹が立つよりも不思議だった。安定は狷介な面はあるが、小人物とは思えなかった。弟子たちを見ていれば、師匠の器量はわかるものだ。

 腰物方は皮肉とさえ気づかず、

「おお。助広殿の仕事ぶりは、わしも目にとめておる」

 素直に膝を打った。刀のことなど何も知らず、仕事を見たところで、何が行なわれているかもわからない腰物方だ。

「紀伊様へ献上の名刀作りを無事果たしてもらえば、わしもこの場の世話役としての面目が立つ」

 安定は頷いたが、なおも毒のある言葉を放った。

「左様ですな。余分な陰打ち(予備の作刀)を御前鍛錬と銘打って、他へ渡すような不遜なことなど考える助広殿でもあるまいからの」

「あ。不遜はいかんぞ。何よりもいかん」

 権威や格式を有難がる刀鍛冶は、こうした式典における刀作りを経歴に加え、その「余鉄」をもって制作したことを誇らしくうたう刀を世間へ送り出す。が、助広にそんな商売っ気はない。

「もう一本は尾張からの依頼でござる」

 そういったのは、柳生兵助である。

「名刀ならば、紀伊様ばかりでなく、わが尾張も欲しい。それも不遜ですかな」

「……いや。尾張様なら、これは話が別。失礼いたした」

 腰物方は恐縮したが、安定は驚くほど自然にそっぽを向き、この場から離れている。

 夕立の雨音が一段と強くなった。雷鳴さえ落ちてくる。周囲の者たちは法華堂の奧へ姿を消し、兵助と助広だけが回縁に残った。暗い空を写している兵助の目だが、輝くものがある。

「鉄の匂いがするといったのは、当たっていましたな、助広殿。またお会いできた」

 御船蔵、牢屋敷に続いて、三度目だ。偶然とは思わないが、この剣客とは縁があるのかも知れない。そして、兵助の方も助広に好意を持っている。

「柳生兵助様……で、ございますね」

「む」

「私の刀、尾張様へお約束は……」

「しておらぬ。なら、今、わしとすればよい。尾張家の重役へはわしから話を通しておく」

「紀伊様へお納めする際、いずれかをお選びいただくつもりでおります。残った方でもよろしゅうございますか。御三家筆頭の尾張様に対し、順序が違いますが」

「かまうものか。公儀、紀伊のお偉方どもに刀を見る目があるとも思えぬ。残り物に福、というぞ」

「時に、尾張の柳生様が江戸で何をしておいでなのですか」

「探しものだ。ここへ来たのも、探し歩くうち道に迷ったのよ」

「探しもの……。見つかりましたか」

「何かを追えば離れ、離れれば近づく。見つからぬものを探すのが、人生の妙というもの。いや、これはちと抹香臭いことをいうたな」

 笑った。そこらの僧侶よりも悟りに近づいている表情だった。

 水煙の立つ鍛錬場は無人となり、刀鍛冶たちは庫裏の方へ移動していく。

 助広にも、まさのが声をかけた。

「師匠。今のうちに食事をなさってください」

 刀作りも火作りに入ると、弟子の出番はほとんどなく、刀工一人が赤めた鉄棒を刀の形へ叩いていく。塔頭の庫裏のひとつが御前鍛錬関係者の賄い場になっており、まさのはもっぱらそちらの手伝いだ。

 八ツ(午後二時頃)には刀鍛冶に食事を出す。寺だから、味気ない精進料理だったが、それをまさのが工夫することで、誰もが楽しみとする食事となっている。

「今日は鍋に味噌を焼きつけて、味噌粥を作ってみました。それから、どこからどう見ても鰻の蒲焼きという焼き芋です。すりつぶした山芋に葛粉を加えて揚げました。皮の部分は海苔を張りつけてあります」

「どこからどう見ても……といわれても、こんなふうに開いてタレで味付けした鰻なんて、あまり見かけるものでもないがな。普通はブツ切りにして串焼きにするものだ」

 兵助も一緒にどうか、と誘いかけた助広だが、その前に兵助は背を向けている。まさのを避けた。というより、この稀代の剣客は女が苦手のようだった。無愛想なのは照れのためである。助広には、わがことのように理解できた。兵助が、たとえ母親でも女の縫った衣服さえ着ず、生涯、妻帯しないことなど、むろん知る由もないが。

 
 
 セン(鉋の一種)とヤスリで整形すると、灰汁(あく)洗いした刀身に焼刃土を塗り、日が暮れるのを待って、焼入れとなる。

 安定、長道、忠吉はすでに前日までに焼入れを終えており、助広と虎徹が同日の焼入れとなった。

 その当日、昼過ぎに虎徹は弟子たちを引き連れて現われたが、焼刃土を塗ったのは彼自身だった。この土は秘中の秘だから、刀鍛冶各々の持参である。

 鍛錬や素延べ、火作りは弟子にまかせても、焼入れはいわば刀に生命を吹き込む作業だから本人がやる、というのが、世の多くの刀鍛冶だろう。しかし、世には本人がまったく手を触れない代作も数多く存在する。

 助広はまさのと準備を進めた。

「焼入れの手伝いは、私なんかでいいんですか」

「刀鍛冶に手伝いを頼むと、何を盗まれるか、わかったものじゃない。お前なら、睫毛の間に秘事を見たって、それと気づくまい」

「素直じゃないこと」

「何だ……?」

「どうせ、見られることは覚悟の上の御前鍛錬じゃありませんか」

 刀作りには秘伝の部分もある。特に焼入れは弟子にさえ見せたがらない師匠がいる。今回は隠れるものがない仮設の鍛錬場でやるのだから、各刀鍛冶とも秘伝を白日の下にさらすことはせず、直刃、あるいは互ノ目交じりののたれ刃という、あたりさわりのない土置きだった。

 助広も自分流の備前伝に使う筆ではなく普通のヘラを使って、相州伝の土置きを施し、振分髪に似せた刃文ではあるが、安定に触発された角張った互ノ目を交じえた。大和守安定なら箱刃、正宗なら馬の歯と呼ばれる乱れ刃だ。

「私をもはや弟子がわりではなく弟子と認めて、頼りにしていると、素直に申されませ」

「ふん……」

 虎徹一門ばかりでなく、仕事はないはずの長道、忠吉たちも弟子を引き連れ、日暮れ近くに現われた。助広と虎徹の焼入れが目当てである。安定は姿を見せなかったが、安倫は来ている。

 焼入れに使う水舟は底に小さな車がついた移動式のもので、五人の刀鍛冶の共用だ。焼入れの水温は秘伝というほどではないが、軽視できない鍵である。備前伝の丁子刃であれば、低い水温が条件なのだが、相州伝は湯を使う刀鍛冶もいるくらいである。

 数日前、他の刀鍛冶の弟子たちと一緒に、まさのにも井戸水を汲ませ、この水舟へ運ばせた。今は一日の最高と最低気温の中間くらいの水温にはなっているだろう。

 まさのは労働にも弱音を吐かず、愚痴もこぼさなかった。助広にしても、甘やかさないのがまさのへの礼儀だと考えている。いってみれば、一人前の弟子と認めたのだ。

 水舟は二槽が用意されているのだが、使用されるのは一槽だけだ。ある程度、汚れた水の方が焼入れには適するのである。最初に新しい水で焼入れすることを躊躇する長道、忠吉を尻目に、前日、先頭を切ったのは安定だった。そのあと、若い二人も当然、同じ水舟を使い、刀身からはがれ落ちた焼刃土や塵が今は底に沈んでいる。もっとも、安定の場合は、年長者の貫禄とばかりもいえない。

 助広は、安倫にいった。

「お宅の師匠は夜も明けぬ早朝に焼入れしたようだな。人目を避けたのか」

 安定一門以外の刀鍛冶はその場にいなかったのである。

「何。年寄りだから、朝が早いのではありませんか」

「虎徹師はもっと年上だが、焼入れは今夜だぞ」

 と、長道が声をかけた。

「汲み置きの水につまらぬ悪さをされるのを警戒したかな」

 刀鍛冶には独自の見解を持つ者がおり、水舟に塩を入れたら、焼入れの際に刃切れが生じるなどと発言することがある。刃切れは刃先の微細な割れ疵だが、実用に使えばそこから折れるといわれ、刀としては価値がなくなる。しかし、塩を入れれば刃切れどころか焼入れ性がよくなるというのが鍛冶屋の常識である。

 それはともかく、水舟は板で蓋をして、夜も警固役人の目の届くところに置かれていた。

 そもそも五人の刀工は選ばれた男たちであり、いじましい妨害工作などするわけもない。職人や芸術家の世界においては、足を引っ張るなら、作品ではなく人間関係において行なう。それが普通だ。自らは有力者に取り入り、他工の悪評を広め、じわじわと追い込んでいく。それとて、いじましいことではあるが。

「安定師の場合、焼入れよりも焼戻しを人に見られたくなかったのだろう。焼戻しは斬れ味に響く」

 といった忠吉がおそらくは正しい。

 焼入れしたままの刃は固くて脆く、砥石にもかからない。そこで、再度熱して、若干、焼きを戻す。安定はその方法を余人に見られたくなかったのだ。

「熱した油に入れるか、火床であぶるか、一度でなく数度の焼戻しをやるか、いずれにせよ、方法は奇抜でもなかろうが、見られたくなかったということは、秘伝を尽くして、本気で刀を作ったわけだ」

「あるいは、本気で作っていると御前鍛錬の関係者に思わせたかったのだろう」

 これは長道の言葉だ。

「この鍛錬場で作ったわけではない刀を用意している刀鍛冶もいそうだからな」

「甚さん。あんたは今回、普段と違う鉄を使った。やはり、焼入れは夜明けの方がよかったのではないか。失敗を人に見られずにすむ」

 と、忠吉。

 使い慣れぬ鉄を使うと、焼入れの感度がわからず、赤める温度、水温とのかねあいは賭けに等しい。ここに至るまでの鍛錬の手応えによって、勘を働かせるしかないのである。普段の仕事なら、思ったような刃文が入らなかった場合、焼きを完全に戻して、焼刃土を塗り直し、もう一度、焼入れをすることもある。しかし、刃切れなど生じようものなら、ごまかしようはない。衆人環視のこの場で、そんな失敗をするわけにはいかない。一度きりの勝負だ。

「何。大坂鍛冶の心意気を見せてやる」

 焼入れには月明かりさえ邪魔だが、鍛錬場となっている庭のあちこちに、篝火が据えられている。いくつかは火を点けぬよう役人に指示し、いくつかは移動させた。

 そうして作り出した光と影の間(はざま)に浮かんだ人影が、近づいてきた。軽装の町人だ。山野加右衛門の屋敷に寄寓する止雨である。

「いよいよ焼入れですな」

「はい。今夜は、私と虎徹師の焼入れです」

「私は御両人の焼入れを見せていただこうと、やってきました」

 部外者が気軽に入れる場所ではない。いくつかの門をくぐらねばならない。見張りの役人たちが巡回もしている。この菓子師はどこへ行こうと天下御免なのか。

「止雨殿。虎徹師は、焼入れを御自分でおやりになるのでしょうか」

「焼刃土は自らが塗ったのでしょう」

「そのようです」

「焼入れも自分でやりますよ。ただし、御前鍛錬の作として献納される刀がそれであるかどうかは、他人にはわかりませぬな」

 刀鍛冶たちは御前鍛錬の成否に腹を切る覚悟ではあるが、不慣れな条件下の作刀が成功するとは限らない。したがって、御前鍛錬は見世物と割り切り、献納用の刀を前もって用意することは考え得る。それは方便というもので、責めるべきことではないかも知れない。

 ただし、見世物となれば、御前鍛錬に参加している同業者に腕のよしあしを見抜かれることになる。技量ばかりでなく、方法も見られてしまう。通常の焼入れは、刀を火床から出し入れして赤め具合を調整する「引き焼き」だが、箱状の火床に刀身を横たえ、団扇で炭火を煽ぐ「デンガク」という、備前伝の丁子刃に向くとされる方法もある。が、今回の五人はいずれも引き焼きを採用している。

「助広殿は、山野加右衛門殿に付け届けはなさいましたか」

 加右衛門は御前鍛錬の期間中、何度か寛永寺に顔を見せている。が、付け届けどころか、ほとんど口もきいていない助広は首を振った。

「いえ……」

「見上げた性根だ」

 止雨は笑っているが、皮肉ではないようだ。御前鍛錬で打ち上げた刀は、加右衛門の手で試し斬りが行なわれ、武器としての評価が下されることになっている。

「ところで、女の弟子がいるようだが……」

 まさのが役人と一緒に篝火を移動させている。

「仙台侯からの預かりものです。あんななりをしていますが、酉年の大火がなければ、会津中将様の若様に嫁ぐはずだったお嬢様です」

「保科長門守正頼様か」

「御存知ですか。虎徹師が相鎚をつとめていたということですが」

「大火の前から、私はいくつかのお屋敷に出入りをさせていただいておりましたからな。会津屋敷にも。そういえば、会津、仙台両家の若様方は友誼ある仲だった」

「長門守様と陸奥守様が、ですか」

「左様。当時、綱宗様は陸奥守ではなく美作守であられたが、正頼様とは同年で、親しかった」

 初耳だが、大名としての格、屋敷の位置関係を考えれば、交流があっても当然だった。

「止雨殿は虎徹師とは長いのですか」

 止雨が虎徹の古い友人ならば、替え玉かどうか、この男にはわかっているだろう。

「古い」

 とだけ、止雨は答えた。それ以上は口にする気はなさそうだ。

「で、あのお嬢様の名前は?」

「まさの殿と申されます」

「まさの殿」

 まさのに、止雨は唐突に声をかけた。

「どんな菓子が好きですか」

「は……?」

 まさのは立ちすくんだ。

「今度、お届けしましょう」

「餡ものが一番……。あ、でも、餡は自分で作ります。自信ございます」

「では、こちらにこそ届けていただきたいものだ」

「かりんとうがうまく作れません。以前、虎徹師のところで、止雨殿のお作りになったものをいただきましたが」

「花梨糖ではなく花林糖の方だな。小麦粉と水飴の混ぜ具合が肝要です。作って差し上げましょう。――では」

 離れる止雨を、まさのはぼんやりと見送った。性格の強いこの娘には珍しく隙だらけの表情だ。

「あの方が止雨殿とおっしゃる菓子師ですか」

「お前が気に入ったようだ」

「私も気に入りました」

「いろんな人間が出入りする鍛錬場だな。役人は何をしているのか」

「止雨殿といえば、寛永寺にもその菓子を喜ぶ方々がおられましょう。ようこそいらっしゃいませ、です」

「刀鍛冶より、あちらに弟子入りしたらどうだね」

「かりんとうだけ教えてもらえれば結構です。母が好きで、よく作っていましたけれど、私にはあの味が出せません」

「それはつまり、養母ということか」

 まさのは実の母から離れて育っている。返事はなく、まさのは水舟を押して、助広の火床の傍らへ寄せた。止める時、慣性で水面が波打ち、まさのの足許を濡らした。

 周囲は闇となっている。

「先にやります」

 助広は虎徹に声をかけた。たちまち、刀鍛冶たち、腰物方や役人たちが助広の火床を囲んで、群がった。

 火床の炭に火を入れ、鞴を吹いた。焼入れ用の炭は鍛錬用よりも小さいものを使う。紫色の炎が噴き上がり、やがて明るくなる。

 焼き柄をはめて延長した刀身をしばらく炭の上であぶり、焼刃土を乾かして、火中に沈める。温度を見るためにそれを火床から出し入れするたび、炭火が崩れるから、まさのが十能で寄せ直す。

 鞴の音が早く、小刻みになり、刀身を引き出す。鞴を止めると炎が鎮まり、闇が落ちるが、月の色に染まった刀身が水舟の水面を照らし出す。そこへ沈めた。鉄に生命の宿る手応えがあった。

 焼戻しを行なう。火床であぶり、水舟へ沈める。これを二回繰り返した。

 わずかな曲がりを木台の上で叩いて直し、一部を砥石にかけ、窓明けする。刃文の調子を見るのである。

 篝火の近くまで歩いて明かりにかざし、焼きの入り具合を確認した。小沸え出来の激しい互ノ目乱れである。

「いい匂い口だ。うまくいった」

 二本目も同様に焼入れをすませ、とりあえず、助広の御前鍛錬は最大の山場を越えた。

 続いて虎徹の焼入れだが、

「同じ火床を使わせてもらおう」

 虎徹は助広の火床の前に座った。この場の五基の火床は同じ造作なのだから、虎徹の火床に火を入れる必要はない。

 備前伝の丁子刃であれば、破綻なく焼くためには刀身をむらなく赤める温度管理が肝要となるが、相州伝は多少の破綻は面白いものと見られる。相州伝の焼入れはさほど神経質ではないとはいえる。この虎徹が、本当の虎徹は刑死したという二年前から替え玉であるとすれば、うわべの作業くらいはやってのけるだろう。

 虎徹の弟子たちが炭を補充し、彼は鞴を吹きながら、刀身を棟(峰)の方から赤めていく。すでに助広の脇差二本を焼入れしている火床は熱の回りが早い。虎徹の手際は悪くない。が、切先に近い方を羽口に置いている。通常、重ね(厚み)のある元の方が温度は上がりにくいので、こちらを先に熱するのだが、逆である。

(なるほど。相州伝なら、こないな焼入れもあるな……)

 刃文を構成する粒子の細かいのが匂い、荒いのが沸えである。基本的には高温で焼入れすると、沸え出来となる。備前伝から出発した助広は、匂いにしろ沸えにしろ元から先まで一様に焼くことが身に染みているが、相州伝であれば、元の方が匂い出来、先が沸え出来となるのが格好はいい。

 それはわかるのだが、火床に出し入れするさまを見ていると、真ん中あたりの上がりが遅い。

(あれでは、匂い出来になってしまう)

 助広が見ていると、今度はその部分を羽口に当てすぎ、温度が上がった。むら沸えがついてしまうだろう。

 虎徹は刃を返して、さっと炭をくぐらせ、火床から引き出す。

 水舟へ沈めた。鉄が身をよじるような産声をあげる。引き上げると、ところどころ焼刃土がはがれ、やや曲がっている。焼きが入った部分は膨張し、そのために日本刀特有の反りも生じるのだが、焼きの入り方にむらがあるのだろう。

 曲がりを直す前に焼戻しだ。まず、刀身に残った焼刃土をこすり落とす。虎徹のやり方は助広とは違い、指を水桶で濡らして、水滴を刀身に落とし、蒸発するその音で焼戻しの温度を判断する。焼刃土を落としておくのは、その音を聞き取りやすくするためだ。

 うっかり熱を上げすぎると、せっかくの刃文も消えてしまう際どい作業である。それを恐れたのか、戻しが弱いのでは、と助広が感じる程度で、やめた。

 それから銅の手鎚で叩いて刀身の曲がりを直し、大雑把に砥石をかけて、刃文を確認する。それを刀鍛冶たちに示し、助広にも回ってきた。大きな沸えが撒き散らされ、豪放といえばいえる刃文が入っている。

 このあと、熱した銅を棟に噛ませて、棟焼きを取ったり、反りの調整を行ない、最終的には茎も焼戻すことがあるが、夜の闇の中でやる仕事ではない。明日だ。

 虎徹の弟子たちが火床をかたづけ始めた。

「蚊がうるさくって、たまりません。長居は無用です」

 まさのは初めて泣き言をいい、控えの間となっている法華堂へ足を早めた。

「どうでしたか。虎徹師の焼入れは」

 助広は自作の二本を手に、まさのを追いながら、答えた。

「今夜、見た限りでは上手ではない」

「刃文は……?」

「研ぎ上げてみなければわからんが、むらがありすぎる。普段、弟子がすべてをやっているなら、虎徹師自身がうまい必要はないわけだが……」

「やはり、あの虎徹師は替え玉でしょうか」

「なら、どうして私ら同業者に仕事ぶりを見せた? 人目のない夜明け前にすませてしまう手もあったのに」

 助広は振り返った。見学していた者たちも散らばり始めた。火床の火が落ち、あたりの薄闇に陰影の部分が広がる。

「どなたも備前風の丁子は焼かなかったですね。師匠は振分髪の依頼がなければ、どうするおつもりでしたか」

「助広流の丁子を焼かなきゃ大坂から来た意味がなかろう」

「意外と見栄っ張りですね」

「しかし、備前にこだわりはない。伝法など時とともに変わる。人はすぐに類を分けたがるが、五カ伝というものも商売の便宜上、作られたようなものだ」

 五カ伝の体系化は慶長頃から始まり、はるか後世の昭和期に完成するが、基本的に本阿弥は古刀のみを代付けし、慶長以降の新刃(あらみ)など眼中にない。そもそも、江戸期には有力刀工の多くは都市部に居住しており、五カ伝から見れば「脇」つまり「その他」なのである。

「作り手にしてみれば、類別など大きなお世話――」

 愚痴りそうになる助広をさえぎり、まさのはいった。

「焼入れを祝して、今夜はおすもじをいただきましょう」

「おすもじ……?」

「白戸屋さんの風炉先屏風に師匠が書いたお好きなものです。白戸屋さんは心憎い言葉だと罪もなく勘違いしていましたが、私があれから鯖を買ってきて、作ってあります」

 おすもじは押し鮓の上方での婦人語である。古くは塩漬けにした魚を使い、重石をかけて桶に漬け込み、半年から二年、自然発酵させるという、乳酸菌を利用した気の長い馴れ鮓だったが、桃山時代以降、数日から二十日ほどですませてしまう生成(なまなれ)が増えている。

「すし」は上方で「鮓」、江戸で「鮨」の字をあてるが、この頃はともに「鮓」を用いる。江戸前の握りの出現は江戸後期の文政あたりまで待たねばならない。

「何日も置くのはまどろっこしいので、酢をかけてみました」

 酢を使うのは早鮓というものだが、まだ一般的ではない。

「そんなもの、匂いがきつそうだが」

「慣れりゃ病みつきになりますって」

 病みつきになって、どうするというのだろう。じきに江戸を離れるのに、気に入ったところで、再び食える機会があるだろうか。 

「雙」第12回

「雙」第12回 森 雅裕

  まさのが湯飲みを運んできた。虎徹はそれに手をのばし、

「ちっ……」

 舌打ちするように呻き、口へは運ばずに膝元へ戻した。

 助広は自分の湯飲みを取り上げた。なるほど熱いが、持てぬほどではない。まさのの横顔を、ちら、と見やった。すました鼻先を虎徹へ向けている。

 弟子が運んできた茶菓子を、虎徹は顎先で指した。

「止雨殿を覚えておろう。あの仁が作ったかりんとうだ」

「花梨糖は植物の花梨の砂糖煮だと思っていましたが……」

「字が異なる。これは小麦粉で作って、揚げた花林糖だ」

「いただきます」 

 まさのがまず口へ運んだ。味見だけだ。慎重に噛み砕いている。

 感想を待たず、虎徹は彼らを鍛錬場へ促した。

「古鉄を御所望であったな」

 鍛錬場では、弟子たちが刀の整形などやっていた。火床の火は落とされているが、熱がこもっている。

 卸し鉄は火床に素材の古鉄などを投入し、炭火をくぐらせることで、鉄が含有する炭素量を調節するのだが、溶けた鉄が羽口(鞴の送風口)にこびりつき、これをこわしてしまう。

 案内された鍛錬場には火床が三つそなわっていた。どうせこわれるのだから、使い込んで羽口の傷んだ火床を選んで、卸し鉄をやるのだろう。羽口の修理は比較的簡単だ。

 長方形の鉄塊がいくつかあった。

「わしの古鉄卸しの腕を見込まれたからには、古鉄のまま渡すこともできぬ。鍛錬はしておいた」

「それは……お手間を取らせました」

「二回だけ折り返してある。これで充分、刀に使える。それとも、古鉄をそのままお持ちになるか」

「古鉄というのは、釘やかすがいのことでしょうか」

「そう考える連中が多いが、釘やかすがいに使われる鉄は産地によって、あたりはずれがある。『好人兵に当たらず、好銑釘に打たず』というぞ。むろん、そうしたものも使わぬではないが、わしは古い刀の折れたもの、焼け身など集めている」

 そうした古鉄をつぶしただけで折り返し鍛錬せず、助広が下鍛えをすませてある鉄に交ぜ、上鍛えに回せば、肌はより顕著に出る。しかし、荒い肌になるだろう。

「せっかくですから、鍛錬されたものをいただきます」

 虎徹はおよそ六百匁(約二・二キロ)ほども寄こした。それに芯鉄用の鉄も別に渡してくれた。

「同業者だ。礼の仕方は知っているだろうな」

「私にできることなら……」

 鍛冶場の隅には何本もの作りかけの刀が立てかけてある。虎徹はそのうち一本を取り上げた。

「焼入れはすませたが、気に入らぬので、放ってある」

 薄錆の刀身を光に透かすと、刃文が浮かぶ。意外なことに丁子乱れだ。備前伝の刃文であり、虎徹の作風からは遠い。

「虎徹師はこのような刀も作られるのですか」

「地鉄と刃文を極めようと思うなら、備前伝が出発点となる。備前伝の丁子刃を会得すれば、他伝も行くとして可ならざるはなし……。違うか」

「それは……」

 助広が安定に初対面の折、いった言葉である。虎徹は安定から聞いたのか。偶然の一致か。

「もっとも、備前伝がわしの理想ではない。今どきの気風もそれを許すまい」

 江戸に限らず、全国的な作刀の流れが沸え出来の相州伝を志向している。

「匂い出来で、映りを出した備前物は曲がりやすくて、使いものにならぬ。実はそうでなくとも、そう吹聴する輩がいて、信じる者どもがいる。本阿弥だとは、わしはいわぬぞ。相州物とて折れやすいという声があるではないか。だが、わしは人気のない備前伝の作を今の世に出そうとは思わぬ。だから、おぬしの商売仇にはならぬ。安心しろ」

 研究のためだけに備前伝を試みているのか。この男、やはり職人気質の持ち主である。

「もっとも、おぬしもまた備前伝に拘泥する鍛冶屋とは思えぬが、な。さて、丁子の土取りを教えろ。それが古鉄の見返りだ」

 助広は虎徹の作に見入った。

「焼きの頭に眼鏡のような丸く抜けた部分が……ところどころ見られますな。刃側の引き土を鎬に向けて厚く塗るように心がければ、防げると思います」

「そんなことを聞きたいのではない」

「…………」

 虎徹の焼いた丁子刃は足が直線的で、味わいに欠けた。焼入れは、焼刃土という粘土を刃の部分に薄く、地の部分に厚く塗って行なう。基本的には、その境界が刃文となる。互ノ目や丁子などの細かな切れ目を入れるためには、足土を細く置く。この足土は通常、ヘラで置いていくので、直線的になるのは当然だ。

「古作一文字(鎌倉期備前の刀工一派)にまま見る複雑な丁子は、あるいは素焼きではないかと思います」

 まったく焼刃土を塗らず、火で赤めた刀身を水舟へ沈めても、刃文が生じる。水中に発生する蒸気の泡が刀身を包み、それが複雑な丁子模様となるのである。ただし、炭素量の多い鉄でなければならない。つまり、固く、脆くなりやすい。しかも、偶然性に頼る刃文だから、美的には破綻することもある。

「わが父の作にも私の作にも素焼きがあります。しかし、職人たる者、焼刃土を塗り、計算した刃文を焼くのが腕の見せどころ、面白いところだと私は考えます」

「……で、おぬしはどのように足土を置く?」

「ヘラではなく、筆を使います」

 虎徹は大きな目で助広を見据えたまま、しばらく動かなかったが、突然、口が裂けたように笑った。破顔とはよくいったものだ。

「なるほど、そうか。秘伝とは一目見ればわかるからこそ秘伝とはいうが、ヘラではなく筆を使うか。面白い」

 しかし、笑顔も一瞬だった。すぐまた渋い表情に戻り、鍛えた古鉄を汚れた布に包んでくれた。現在の振分髪が虎徹作の偽物なら、同じ材料でその写しを作ることになる。

「またいつでも来られるがよい」

「我々はこれから寛永寺へ出向きますが、虎徹師は行かれぬのですか」

「弟子たちにまかせてある」

 御前鍛錬など、歯牙にもかけぬ表情で、いった。

「もっとも、時には顔を出さねばなるまいな」

 
 
 寛永寺の仁王門をくぐり、広大な参道の坂をのぼりながら、まさのが訊いた。

「師匠。あれには気づいてくれましたか」

「虎徹師が湯飲みを熱がったことか」

「師匠と同じ熱さなのに……」

「あの男が本当に鍛錬をやっていたということだ」

 鍛錬直後の手指は軽い火傷状態にあり、日常生活には支障ないのだが、湯飲みの熱にも過敏となる。

「でも、虎徹師に仕事ができるなら、寛永寺の晴れ舞台を弟子にまかせず、自分がやるでしょう」

「あの虎徹師は本物なのか、偽者なのか、わからんな。わからんといえば――」

 助広は汗を拭いながら、いった。

「お前もわからん」

「私が……?」

 この娘は相変わらず涼しげだ。

「鍛錬のあとは、湯飲みも持てぬことをどうして知っているのか」

「伊達家御刀奉行の養女ですから、刀鍛冶のことも多少は知っております。でなければ、助広師匠の弟子もつとまりますまい」

「お前は弟子ではなく弟子がわりだ」

 がちゃ、と足許で金属音がした。まさのに持たせてあった古鉄が放り出された。

「弟子でなきゃ、こんな重いもの、持つ理由はありませんね」

 足早に先を歩いていく。寛永寺の壮大華麗な伽藍の群れが、行手に広がっている。

「どうすれば、弟子と認めてくれますか」

「先手の大鎚が使えなきゃ、役に立たん」

「なあんだ、そんなことですか」

 昨日のまさのは、安定門下とともに助広の下鍛えを手伝いはしたが、ほとんど真似事にすぎなかった。

 助広は古鉄を拾い、まさのの背中に怒鳴った。

「一人で鍛錬場へ入ると、奥州の山猿と九州の熊に女人禁制だと叱られるぞ! もっとも、警固の役人が入れてくれまいが」

 ところが、法華堂へ、まさのは平気で入っていく。役人はむしろ助広の方にこそ、胡散臭そうな視線を注いだ。

 まさのが着替える間、助広は控えの間の外で待つしかなく、入れ替わりに作業衣を着込んだ助広が鍛錬場へ追いかけた時には、まさのは作業を始めている。稲藁を燃やして、鍛錬用の灰を作るなど、力仕事でなくてもやることはある。

 手順を教えているのは、奥州の愛敬ある山猿と九州の朴訥な熊だ。

「鍛冶の仕事場に女を入れるとは、甚さん(助広)は心が広い。俺の仕事場には近づかないでくださいよ」

 長道はそうはいったものの、

「夏は作業衣を何枚も替える。足りなくなれば、俺のを貸そう」

 と、笑っている。

 忠吉も、

「なら、俺は献納式で着る肩衣でも貸そうか」

 真面目な口調で、いった。

 御前鍛錬で打ち上げた刀は、研ぎ上げたのちに将軍家へ献納される。助広の刀も、一旦は献納式に提出の形をとる。

「女に肩衣なんか無用だろう」

「いやしかし、刀鍛冶の弟子が打掛というわけにもいくまい。――ちなみに家紋は何ですかな」

「今はどこぞの養女だが、御実家は竹に雀だ」

 助広が伊達家の紋を口にすると、長道と忠吉の表情が止まった。

「以前にお会いしたことがありませんかな」

 いったのは忠吉だ。女に軽口を叩く男ではないが。

「そちらのお国の方へは行ったことがありません」

「いや。私も江戸は初めてではない」

「この男の記憶はあてにならんぞ。肥前鍋島家には、題目を銘に刻んだ村正があるそうだな、と訊いても、知らんといっていた」

 と、長道。

 忠吉は口を尖らせた。

「周囲に耳があるのに、迂闊なことを答えられるか」

「ほお。では、やはりあるのだな」

「……肥前小城の鍋島分家に伝わっている。分家の家祖・祥光院様(鍋島紀伊守元茂)は柳生流の皆伝で、大猷院様(徳川家光)の打太刀をつとめた達人。刀剣もお好きだった。御当主の加賀守直能様とて――」

「いや。鍋島家は刀剣ではなく、村正がお好きだと聞いているぞ」

「ふむ。鍋島家伝来の村正は刀身に倶利伽羅龍を彫り、銘に『妙法蓮華経』と題目を刻み、茎の棟に『鍋信』の銀象嵌がある。泰盛院様(佐賀「藩」祖・鍋島信濃守勝茂)の御遺愛刀だ。上これを好めば、下も従うのは道理。鍋島家家中では村正の人気は高い。が、このこと、人にはいうな」

 かつて、家康の祖父、父、長男の命を奪ったのが村正の刀で、家康自身も村正の槍や小刀で負傷したことから、徳川家に祟ると喧伝され、大坂の陣では真田幸村が愛用したという。

 御三家、徳川一門にも村正は所蔵され、後世に伝わるから、別にその所有が禁じられたわけではない。しかし、将軍家に遠慮して、破棄する武士も多い。

 肥前鍋島家は豊臣恩顧の大名であり、関ヶ原で東西両軍が衝突する寸前まで、鍋島勝茂は石田三成に与していた。勝茂は明暦の大火後に江戸で没したが、その後裔たちも将軍家をはばかる家風ではない。

「かの由比正雪も村正を欲しがったので、謀反が発覚したという巷説がある」

「ふん。妖刀か。刀に霊力が宿るなら、われらも苦労せぬわい」

 長道と忠吉のとりとめのない会話に背を向け、

「一体、この人たちは何を話しているんです?」

 まさのは助広に頬を寄せて、尋ねた。

「人じゃない。刀鍛冶だ」

 なるほど、とまさのは呟いた。

 
 
 昼過ぎに、助広は火床へ火を入れた。虎徹からもらった卸し鉄を赤めてテコにつけ、細長く叩き延ばしていく。

 先手はまさのである。作業用の襦袢に袴、髪はうしろで団子にまとめ、手拭いを巻いている。

 助広と息を合わせるのは早かった。いい勘をしている。大鎚は腕力よりコツといえなくもないが、いかんせん、軽いものでも二貫(七・五キロ)弱。刀鍛冶が使う大鎚は野鍛冶のそれより大きいのである。慣れぬ女の細腕に負える大鎚ではない。強がってはいたが、実は昨日からの鍛錬の真似事で、両腕は肩より上がらぬ筋肉痛だろう。

 安倫が飛んできた。

「まさの様に大鎚を持たせたら、私が伊達家家中の皆様に叱られます。ますます帰参が遠のきます。私がやります」

 安倫が大鎚をつかもうとしたが、まさのは離さない。

「邪魔です」

「まさの様。あなたの気力は立派だが、先手は気力ではなく体力で行なうものです。そんな腰つきでは、ろくな刀はできません。助広師匠にも御迷惑です」

「その通りだ」

 助広は鞴を吹きながら、いった。

「安倫にかわれ」

 鉄を細く延ばせば表面積が増えるから、作業をもたついていると、その表面から脱炭してしまう。

「大体、お前が手にしている大鎚は公方様がお使いになったもので、白戸屋がいくらでも出すから譲ってくれといっていたお宝だ。粗略に扱わず、控えの間に置いておけ」

「それはそれは。私ごときの手垢で汚して、申し訳ございません」

 まさのは彼女の汗を吸った手拭いで、大鎚の柄を乱暴に、しかし満遍なく拭った。将軍の手の痕跡などどこにもなくなったその大鎚を控えの間へは運ばず、無造作に放り出した。

 古鉄は安倫の大鎚で、すべて延ばし終えた。これにタガネで切れ目を入れて折り、揃えていく。大きさにより、短冊、拍子木、木の葉と呼ばれる三種類に分けるのが一般的だが、助広は小さな拍子木、木の葉に揃えた。基本的には、大きく切った鉄を積み重ねて上鍛えすると地肌も大きく出る。もっとも、あくまでも基本であって、一概にはいえないのが鉄の神秘のひとつではある。場合により、切り揃える手間をかけずに下鍛えの鉄塊のまま上鍛えへ直行することもある。

 この古鉄を混入する南蛮鉄はすでに前日までに下鍛えを終えていた。ただ、将軍が鎚入れした鉄は別にしてある。これは後日、特別な作品に利用したかった。

 まさのを邪険に扱ったことを、助広は彼なりに気遣い、言い訳するように、いった。

「これから上鍛えをやる。鍛錬には、先手は二、三人欲しいんだ。女が一人では、どうにもならん」

「二、三人欲しいなら、俺たちがやってやる」

 と、三善長道と肥前忠吉が声をかけた。

「ただし、甚さんのためじゃない。こちらのお嬢様の熱意にほだされて、というところだ」

「……何でもいい」

 古鉄の切り口を見やり、

「よさそうな鉄だ」

 と、長道。いい鉄はきれいに折れる。その断面から鉄質、炭素量を判断し、地肌を想定して按配よく組み合わせ、上鍛えに回すのである。

「短冊に切っては肌が大きくなる。拍子木に切って適度な肌を出そうというのはわかるが、木の葉では詰んだ肌になるだろう。何故、二種類を用意している?」

「肌を違えて、二本作る」

「いやはや。手間のかかることが好きな刀鍛冶が顔を揃えたものだな。こっちの新さん(忠吉)も木の葉どころか、まるで豆粒みたいに細かく切った鉄を上鍛えに回している」

「それが肥前のやり方だ」

 と、忠吉。

「そんな面倒なことやっていたら、皮鉄を節約したくなるのも当然だな」

 と、長道。

 日本刀は柔らかくて鉄質も劣る芯鉄を固くて良質な皮鉄で包むのが基本構造である。肥前刀の皮鉄は小糠肌と呼ばれ、精美なのが売り物だが、これが薄く、芯鉄が多いといわれている。

「そういう藤四郎さん(長道)こそ、四方詰めの造り込みをやっているではないか。手間入りということでは、人後に落ちぬ」

 忠吉は、ぼそりといった。単に芯鉄と皮鉄の組み合わせではなく、刃鉄、芯鉄、棟鉄を両側から皮鉄ではさみ込むやり方が四方詰めである。長道も前もって下鍛え済みの鉄を用意していたらしく、すでに造り込みの段階に進んでいる。

 助広はテコ台に南蛮鉄と古鉄を互い違いに積み上げ、藁灰と粘土汁をまぶして、火床へ入れる。

「紙で包まぬのか」

「あれは積み上げた鉄が崩れ落ちぬよう、紙で包むのだろう。崩すヘマはせぬ」

「格好つける奴ばかりだな」

「女の前では特に、な」

「じゃ、殿方のいいところを拝見させていただきます」

 と、まさのがけしかけた。  

 上鍛えが始まる。助広は赤熱の音を発する鉄塊を火床から取り出し、金敷へのせた。彼の小鎚が刻む調子に合わせ、安倫、長道、忠吉の三人が交互に大鎚を振り下ろす。さすがに彼らはうまく、助広が叩いて欲しい箇所を叩いて欲しい強さで打つ。

 もっとも、彼らにも助広の仕事ぶりを観察しようという下心はあっただろう。が、奇妙な連帯感が生まれつつある。

(驚いたな)

 助広は思った。女のまさのには刀鍛冶たちは反発するかと危惧していたのだが、逆に彼らの垣根を取り払っている。

 
 
 二本も作る助広は、夜明けから日没まで、誰よりも仕事をする。夏の灼熱の下で行なう鍛冶仕事は過酷だが、陽の長いのが有難かった。

 安倫たちの助力で、すべての鍛錬は翌朝には終わった。芯鉄に皮鉄を組み合わせ、素延べしていく工程も未来の名人たちの大鎚が助けた。

 安定、虎徹ら年長の刀鍛冶は、そうした若者たちの華やいだ仕事ぶりをよそに、日々、黙々と仕事をこなしていた。

 が、火作りに入ったところで、

「助広殿は二本の刀をお作りなのだな」

 安定が唇を歪めた。責めるような口調だ。

「それが何か……?」

「短い脇差だから二本で帳尻合わせというものでもあるまい。御前打ちは一本とすべきではないか」

「そんな決まりはないでしょう」

 たとえ名工であっても、刀剣の制作には予期せぬ失敗が起こり得る。特別注文の場合、何本も作ったうち、最良のものを納めるのが刀工の慣例である。

「御前打ちは一本を打ち上げることに精魂を傾けるべきもの。他の者たちは一本しか作っておらぬぞ。それで失敗したなら、腹を切るくらいの覚悟は皆、しておる」

 そんなものは建前にすぎない。町人の腹などに切るだけの値打ちがあるものか。そもそも、事前に完成刀を用意することさえ暗黙の了解であることは、安定も知っているではないか。

「私は失敗にそなえて、二本を作っているわけではありません」

 大肌の交じる杢目と柾交じりの杢目と、二通りの地鉄で作っているのである。肌を出すために、虎徹から提供された卸し鉄を使っている。

「では、何のためか」

 伊達家の振分髪が新刃の偽物だから、その偽物の写しと、本来の振分髪はこうであるはずだという写しと、その二本だなどと事情はいえない。

「二本とも成功させます。一本でも失敗したら、腹を切りましょう」

 安定の声が高くなる。

「失敗せぬというなら、二本も作る理由があるのか」

 しつこい。どうして、安定はこんなことにこだわるのだろう。安定はあの振分髪が偽物であることは承知しているはずだが……。怪訝には思いながら、助広も気の長い男ではないから、

「成功作が二本であってはいけないという法もありますまい」

 そう開き直ったが、安定はもう聞いていなかった。音を立てて、夕立の雨粒が地面を叩き始めた。屋外の鍛錬場である。火床に屋根は差しかけてあるが、風があると、用をなさない。

 役人たちは法華堂へ逃げ込み、安定も猛烈な雨足の中で、身を翻した。助広もすばやく炭火を壺へあげ、あとに続いた。

「雙」第11回

「雙」第11回 森 雅裕

  おかげで助広は和んだ心持ちとなり、様場を離れようとした。ふと横を見やると、虎徹がいた。助広の気分などかまわず、声をかけてきた。

「御前鍛錬で打った我々の刀も山野様の手によって、試し斬りが行なわれる」

「はあ」

「山野様にはせいぜい愛想よくすることだ。あの男は金で動く」

 その甲斐あって、山野加右衛門は虎徹の刀を称揚しているのか。

「そうはいいながら、虎徹師は面白くなさそうですな」

 少なくとも、加右衛門に友情は感じていないようだ。

「……地面(じづら)だ」

 眉間に恐ろしく深い縦ジワを刻んだ虎徹だが、口許が穏やかだった。

「虎徹師匠。お尋ねしたいことがあります」

「何かな」

「師匠は古鉄の扱いが巧みだという評判ですな」

「秘伝でも訊きたいのか」

「いえ。古鉄はどこで手に入りますか」

「つまらぬことを尋ねる」

「つまりませんか」

「つまらぬのはおぬしだ。古鉄が欲しいなら、遠回りな訊き方をせず、くれとはっきりいうがよい」

「……恐れ入ります」

「古鉄を御前鍛錬の刀に使うつもりか」

「はい」

「おぬしは大坂から下鍛えをすませた鉄を持参したのだろう」

「御存知でしょうか。伊達家の振分髪――」

 虎徹の表情は変わらない。いつもの通り、大きな目を曇りなく光らせ、口許に精気をみなぎらせている。苦虫を噛みつぶしたような強面(こわもて)を作ってはいるが、多分に自己演出だ。

「あの正宗の脇差を写すことになりました。私が持参した鉄に古鉄を合わせようと思います」

「なるほど。相州伝の肌を出さねばなるまいからな」

 そうだ。しかし、あの振分髪が虎徹の作なら、どうしてそうしなかったのか――。

 人の顔色を読む才覚のない助広が、虎徹を睨んでいると、

「明朝、寛永寺の鍛錬場へ行く前にうちへ寄られよ。用意しておく。それだけでいいのか」

「実は、芯鉄も不足しております」

「わかった」

 虎徹はそういっただけで、詮索もせず、背を向けた。あっけなかった。

 助広は礼をいうのも忘れた。出口を目指す人々が、彼の視界を横切っていく。大和守安定の仏頂面もあった。

「今朝、水死体があがりました」
 小声でそう告げると、安定は助広を一瞥したが、その返事は、

「お気の毒なこと」

 はねのけるような口調だった。助広はそれ以上の言葉を失い、創傷があったことも触れず、話題を変えた。

「振分髪写しの件、安定師匠が私を仙台侯へ推薦してくださったとか。まことに――」

「礼には及ばぬ。面倒をおぬしに押しつけただけだ。あのようなものを写すなど、わしなら御免こうむる」

「あのようなもの」とは、むろん、偽物という意味だ。

「虎徹の刃は脆いと見たが、どうかな」

 唐突に、安定は訊いた。

「折れず曲がらずよく斬れるのが刀剣の命題だ。虎徹は斬れるとはいうが、刃味なら、わしとて定評のあるところ。では、折れず曲がらず、についてはどうかの。両者で打ち合えば、虎徹が折れるだろう」

「はあ……。刃の冴え、沸えの深さは見事な虎徹ですが……」

 そうした刀は、時として脆いことがある。助広の大坂における好敵手である二代和泉守国貞(井上真改)も沸えの深さを称揚されているが、刃が欠けやすいという指摘もある。むろん、地鉄の鍛錬次第で克服できる問題ではあるだろうし、一体、誰がどれほど実地で試したのかという疑問もあるが。

「なるほど、虎徹には目を見張るべきものがある。しかし、奴のすべての作ではない。出来不出来のムラが目立つ刀鍛冶だ」

 作品の平均水準からいえば、他の一流どころの江戸鍛冶の方が上かも知れない。

「が、ああいう奴の方が世間には面白いのかも知れぬ」

 職人肌ではなく、虎徹の場合は芸術家肌というものだろう。ただし、それは巧みな宣伝によって、作られた印象だ。安定はそういいたいのである。

 しかし、安定はさすがに奇妙な男で、妬んでいるわけではないらしく、声は明るい。

「かつて古鉄と称していたあの男が虎徹とあらためた理由を知っているか」

「いえ……」

「漢の飛将軍こと李広の故事に因んだものだそうな。李広が虎と見誤って、岩へ放った矢が深々と突き刺さった。念力は岩をも貫く……とはいうが、おかしくないか」

「さて……」

「矢が岩に立つなら、虎徹ではなく岩徹または石徹とすべきだろう」

 皮肉か冗談のつもりらしい。安定は笑いを残し、離れていった。すぐ近くに虎徹がいるというのに、目礼を交わすのみで、この二人が口をきくのを見たことがなかった。つまり、互いに痛いほど意識し合っているということだ。

 板塀の間を縫い、穿鑿所の前へさしかかる。東西に分かれた大牢は、ここから表門へ向かう右手だが、土塀にさえぎられ、屋根しか見えない。二年前、ここに今の虎徹とは別人の虎徹が拘留され、首を斬られたというのだろうか。

「甚さん」

 と、三善長道が声をかけた。甚之丞が助広の本名である。

「景色を眺めるなら、牢屋敷じゃなく、江戸にはもっと気のきいた場所があるだろう。会津侯家中の刀好き連中から船遊びに誘われている。行くかね」

「江戸へは刀を作りに来た。物見遊山ではない」

「そうかね。安定師とは連れ立って、川っぷちを夜歩きしていると聞いたが」

 噂が駆けるのは早い。むろん、何をしていたかまでは、知られているはずもないが。

「あれは御前鍛錬の前だ。まだ何も始めていなかったからな」

「ふむ。実は、火入れ式の前日に予定していた船遊びだが、会津侯の方で都合悪くなったとかで、延びてしまった」

 火入れ式の前日なら、

「私が川っぷちを夜歩きした当日だ」

 助広はいい、首をかしげた。

「会津侯の都合とは……?」

「知らぬよ」

「会津侯は船を持っているのか」

「大名なら、大抵は持っている」

 会津保科家にとって、あの夜が船遊びどころではなかったというのは偶然だろうか。伊達綱宗の御坐船を襲ったのは、会津侯家中の者たちなのか。もっとも、自分のところの船を使えば、アシがつくおそれがあるから、急遽、どこからか調達したものかも知れない。しかし、動機がわからない。

「これから、寛永寺へ?」

 長道が訊いた。

「一旦、本所へ戻って、弟子を伴う」

「弟子は箱根でケガをしたと聞いたが、間に合ったのかね」

「いや。押しかけ弟子だ」

「なんだか、変わった弟子のようだ」

「変わった弟子だ」

「明日、紹介してくれ。俺はこれから新さんを船遊びに引きずり込む」

 橋本新三郎が肥前忠吉の「人としての」通称である。

「俺たちみたいな大名の抱え鍛冶には、こうしたつきあいも仕事のうちだ」

 それは助広にもわかっている。長道が会津侯お抱えなら、忠吉は佐賀鍋島家の禄を食んでいる。主家を持たない助広と違い、彼らはお家の代表としてのしがらみを背負っている。

「隅田川は往来が激しいようだ。他の船とぶつかっても、あわてるな」

 助広は軽くいったつもりだが、声が曇った。

 
 
 夏のことで、夕刻とはいっても、西陽はまだ寛永寺の上にある。助広は鍛錬場へ、まだ顔色の蒼いまさのを伴った。本所の寮で、飯炊きなどの下働きだけさせておくわけにはいかない。

 が、鍛冶の仕事場は女人禁制とすることが多い。鍛冶を守護する金屋子神は女神といい、その嫉妬を恐れるのである。そして、不浄という考えもある。

 女連れでは、助広は忌避よりも照れの方が強いが、他の刀鍛冶たちも精進潔斎する御前鍛錬の場であるから、

「月のものが来ている間は、このあたりに立ち入るな。道具に触れることもならん」

 無愛想に告げた。

「あら。いちいち、師匠に教えるんですか、来たとか行ったとか」

「私に教えるのがいやなら、ここに出向いている役人なり、他の刀鍛冶なり、気に入った奴に教えてもよいぞ。――それ、仙台侯家中のはぐれ者が現われた」

 安倫だ。安定の姿はないが、その門弟たちとともに作業していた安倫が鎚を置き、すり寄るような足取りを見せた。

「まさの様。山野加右衛門を討ち果たせず、合わせる顔もございませんが、お会いできて、うれしく存じます」

 と、挨拶した。安倫はもとが仙台侯御刀奉行配下だから、奉行の養女であるまさのとは面識があるらしい。一方的にまくしたてた。

「できれば、すみの様とお揃いのところで、お会いしとうございましたが……。先刻、仙台屋敷から知らせがまいりました。御遺体があがったそうですな。無念です」

 まさのは炭塵で真っ黒の安倫に目を穏やかに細めた。

「刀鍛冶の弟子におなりですか」

「修業をしながら、加右衛門の首を取らずとも面目を保つ方法を考えております。それを果たさねば、仙台侯への帰参もかないますまい」

 この男、帰参するつもりだ。

「仙台侯家中の者から聞いております。まさの様は助広師匠を手伝われるのですな」

 助広はそんな話題を逸らすように、

「虎徹師は来ているか」

 安倫に訊いた。

「いえ」

 姿を見せているのは弟子たちばかりで、他の刀鍛冶は誰もいない。長道は忠吉とともに船遊びだといっていた。

 虎徹の火床にも師匠本人はおらず、鎚音を響かせているのは興正だった。のちに虎徹の二代目を継ぐ養子である。先手は虎徹の弟子たちだ。下鍛えは弟子にまかせ、自らはやらない刀鍛冶も多い。

「虎徹師は、すみの殿にそっくりなまさの殿を見て、どんな顔をするかな」

「はて。いつもと同じしかめっ面だと思います」

 と、安倫。

「うちの師匠と同じです」

「だろうな」

 虎徹は精悍、安定は諧謔的な容姿で対照的だが、いつもむずかしい表情でいるところは似ている。

「安倫殿は今、下鍛えをやっているところか」

「はい」

「では、まさの殿に鍛錬とはどのようなものか、見せてやってくれ」

「助広師匠は……?」

「私は……世渡りだ」

 助広は鍛錬場に背を向けている。近づいてくる武士を見ていた。会津侯用人の加須屋左近(武成)だった。

「安倫殿。まさの殿に着替えさせるように」

 助広は、いった。

 法華堂の一部が御前鍛錬の控えの間として、使われている。そちらへ向かう安倫、まさのとすれ違った左近が、人なつこい笑顔を助広に正面からぶつけてきた。

「助広殿。振分髪の本歌は御覧になられたか」

 相変わらず腰が低い。

「拝見いたしました」

「で、見通しはどうかな。御前鍛錬の期間中に写しを作ることは可能か」

 火入れ式から献納式までの期間はおよそひと月半だが、すでに二日が経っている。拵の制作は予定されていないが、日程には研ぎや仮鞘の制作、試し斬りなども含まれており、特に研ぎには日数を要するから、差し引き作刀期間はあと半月少々しかない。特別な注文でなければ、二本の脇差を作るには充分の時間だが、特別も特別、しかもやり慣れぬ写しもので、地鉄を研究する猶予がなく、失敗してもやり直しができないとなると、安請け合いはしかねた。しかし、将軍家のお声がかりとなれば、腹を切る覚悟で、やるしかない。

「大丈夫でしょう」

 助広は他人事のように答えた。追いつめられると、妙に客観的になるのが創作的な仕事というものかも知れない。

「加須屋様。会津中将様の亡くなられた御嫡男・保科長門守様は余技で鍛刀をなされ、その指導をしていたのが虎徹師であると聞きましたが……」

「そのようなこともありましたかな」

「ならば、今回の振分髪を写すこと、私でなく虎徹師の方がふさわしいのでは……?」

 あの偽物は虎徹の作ではないか、という疑いを質問に含ませた。

「酉年の大火の前後で、事情は変わり申した。今の虎徹には、ある風聞がござってな」

 替え玉という風聞か。会津中将こと保科正之はそのような風聞を真に受けているのか。

「助広殿。おぬし、大坂で、虎徹に似た人物に会っているそうだな」

 そんなことを会津の長道に話した覚えがある。

「はい。興里虎徹の弟で、興光という金工です」

「その弟がどうなったかが問題だな」

 加須屋左近には、そんな話を続ける気はないらしい。

「帰る」

 助広もまた世間話には熱心ではない。左近を仁王門まで送り、別れると、もう刀のことしか考えていなかった。素早く踵を返した。

 陽が落ちるまでに、手つかずで残っている南蛮鉄の下鍛えをすませてしまおうと、鍛錬場へ戻った。 

 安定一門の発する鎚音がおかしい。まさのが安定一門に交じり、大鎚をふるっている。助広は、鍛錬を見せてやれとは頼んだが、経験させろとはいっていない。安倫たちは師匠である安定の火床を使い、安定の鉄を下鍛えしているのだ。仮設の鍛錬場とはいえ、安定に断わりなく、門外の者に大鎚を持たせるなど、徒弟制度に反する。

「無理をするな」

 と、助広は声をかけたが、安倫へ向けた言葉だった。まさのも、いわれたのが自分だとは受け取らなかった。無理をしている自覚などなく、汗を滴らせながら、大鎚を打ち続けている。一体、この娘はどういう感覚を持っているのだろう。

 安倫も悪びれない。

「大丈夫ですよ。うちの師匠はそんなに頭が固くもありません」

「そうか。じゃ、今から私が下鍛えをやるから、安定師の弟子を借りるとしよう」

 自分の火床に炭を入れた。

 
 
 翌朝。

 助広は寛永寺の入口である下谷広小路から不忍池へ折れた。池之端には水と緑の匂いが強い。まさのが同行している。

 約束通り、虎徹を訪ねるのだが、助広はまさのにいちいち説明しない。まさのも訊かなかった。

「昨日、あれだけ大鎚を振り回して、腕が痛くはないか」

「平気です。寛永寺でまいったのは、風呂に入れぬことくらいです」

 夏の汚れ仕事だから、刀鍛冶たちは境内に仮設された風呂で汗と埃を流して、上野の山を下りるのだが、女一人を特別扱いするわけにはいかない。やむなく、まさのは水で顔や手足を洗うだけだった。

 虎徹の池之端の鍛錬場は、竹林と板壁に囲まれている。人家はまばらで、鎚音や炭塵の苦情もあるまい。

 早朝といえる時刻だが、鎚を叩く音が聞こえた。大鎚で鍛錬をしている音だ。

「誰がやっている? 虎徹師か」

 助広は呟いたが、まさのは道端でちぎり取った酸漿(ほおずき)を鳴らしている。ここまでの道すがら、器用に実の中身を揉み出し、笛を作っていた。

「あら。ここ、虎徹の鍛錬場ですか」

「おいおい。呼び捨てにするな。敬意を払え」

「はいはい」

 まさのは助広より先に敷地の入口に立った。勝手に鍛錬場を覗くわけにはいかない。母屋へ回った。町家であるから、玄関はない。土間である。声を張り上げると、いかにもしつけが行き届いているらしい弟子の一人が現われ、座敷へ通された。

 弟子たちがいるのだから、掃除はされているのだろうが、炭塵のために畳は黒ずんでいる。

「女っ気ないですね」

 まさのが、ぽつりといった。

「ほお。女には、わかるものか。私は気づきもしなかったが」

「では、鍛錬の音で、うまいか下手か、それは気づきましたか」

 鍛錬の音はやんでいる。

「叩いているのは弟子だからな。音だけじゃわからん」

「お上の御前では、虎徹師が横座に座って、先手たちを指図していたと聞きました」

「御前鍛錬の場合は派手に火花を散らすことが優先で、刀鍛冶ども、どこまで手の内を見せたか、わかったものじゃない」

「横座は自分では叩かないとはいえ、指図するわけですから、下手であるはずはないですね」

「むろん。鉄をいかに沸かすかが刀鍛冶の真骨頂だからな」

 鉄を火床に出し入れして、温度管理を行なうのは横座の仕事である。その際、鞴を吹く音だけでも熟練者かどうかはわかる。

「つまり、ここで今、横座に座っていたのが虎徹師だとしたら、あの仁は本物の刀鍛冶ということだ」

「さて。どうでしょうか。入れ替わったのが興光師なら、これとて金工。まったくの素人ではありません」

 金工も鍛錬や鍛造を行なう場合があるが、規模からいえば、鍛冶職にはほど遠い。

「何年も刀鍛冶らしく振舞っていれば、それなりに技量も身につくのでは――」

 まさのは言葉を中断させた。虎徹が現われた。作業衣は炭塵で汚れている。

「お待たせした」

 腰を下ろし、まさのに目をとめた。江戸は女が極度に少ない町であり、しかもすみのに瓜二つの双子の片割れである。驚いた様子はないが、強い光を放つ目で、じっと見ている。

 それを見返すまさのも度胸がいい。

「仙台侯家臣・楢井俊平の娘、まさのと申します」

「わしの弟の娘――といっても、女房の連れ子だが、似ておられる」

 いきなり、そういった。

「わけありで、陸奥守様がお探しになり、吉原に身を沈めたことを突き止められたはず……」

「私はすみのの姉です」

「左様か」

 虎徹は感情を動かすことがないのだろうか。平然としている。しかし、暖かさは漂う男だ。

「巷では、仙台高尾の噂が立っているようだ。お気の毒です」

 すみのの水死体があがったのは昨日だ。江戸の噂は早く、虎徹も決して浮世離れはしていない。

「あ。茶も出さずに失礼しておる。――今、弟子に」

「私が淹れてまいります」

 まさのが台所へ立つと、助広は低く尋ねた。

「虎徹師は、陸奥守様がすみの殿……いや、すみの様の行方を追っていた理由――つまり、まさの・すみの姉妹がいかなる血筋か、お聞きになりましたか」

「娘を呼ぶのに殿だか様だか悩ましいことよの。つまり面倒。血筋など聞かぬことにしておく方が、日々これ平穏……」

「はい。そういう血筋です」

「わしはな、いろいろなところで、いろいろなお方の余技を指導しておる」

「はい」

「昔、保科長門守様の相鎚をつとめたことがある。そういえば、その許婚者のお名前がまさの様であったと記憶する。むろん、これまで会うたことはないが」

 虎徹は妾腹の姫たちをとりあえず「様」と呼ぶことにしたらしい。気分次第で変わるだろう。彼の眼差しは遠くを、助広のそれは目の前を睨んでいる。

「長門守様とは会津中将様の、酉年の大火直後に亡くなった若様ですか」

「うむ。御長男は早世されているゆえ、御次男の長門守正頼様こそ保科家の後継者として、嘱望された若者だった。まさの様も義山公(伊達忠宗)の姫として、嫁がれるはずだったが……」

 まさのは仙台侯家臣の養女として育ったが、二代将軍・秀忠の孫にあたる保科正頼の嫁として釣り合わせるために、忠宗は妾腹の彼女をわが娘と認めようとしたのだろう。

「そうですか……。あのような娘でも、いろいろなことを背負っているものだ」

「それがわかったら、もう余計な荷物は背負わせるなと、おぬしにいっておく」

 妙なことをいうものだ。

「虎徹師匠。弟さんの興光師の墓所はどこです?」

「いきなり、だな」

「すみません」

「浅草の方で一旦は荼毘に付したが、墓参りは無用。時はうつろい、すでに坊主は夜逃げ。寺は廃寺となっておる。それでも知りたいか」

「いえ……」

「雙」第10回

「雙」第10回 森 雅裕

 まさのが台所へ立つと、何かいいたげな善兵衛の機先を制して、助広は尋ねた。

「酉年の大火は大変だったようですね」

「何ですか、突然」

「善兵衛さんは噂に通じておられるらしいから……。江戸の町も人も、大火から一変したようだ」

「日本橋のうちの店も跡形なく焼けました。堀や川には水を求める人々の死骸が折り重なり、それを鳥がついばむ、ひどい光景でしたな。本所にも飛び火したのですが、まあ、このあたりはもともと焼けるものもない田畑や沼地でしたから、文字通り対岸の火事でした。それまで丸ふた月も一滴の雨も降らなかったものが、皮肉にも大火の翌日夜半から大雪で、焼け出された人たちも今度は凍死です」

「本郷の本妙寺とやらが火元で、どういうわけか処罰されなかったと聞きましたが」

「ああした災害には、流言飛語はつきものでございますからな。大きな声ではいえませんが、御公儀がおいいつけになって、本妙寺に火をつけさせたとさえいわれました」

「馬鹿な……」

「いえ。それがそうでもございませんで」

 際限なく膨張し、混乱する江戸を整理し、都市計画を断行するために、一切合切を焼き払ったというのだ。あまりにも乱暴な話だが、結果として、明暦の大火を機に江戸の都市機能は充実していくのだから、信憑性はなくもない。江戸都市計画の推進者は松平伊豆守信綱。家光の近習から出世した人物だから、すでに若くはないが、「智恵伊豆」の異名をとる才気煥発の老中である。

 信綱はかねてから牢人や無頼の徒を江戸から締め出す考えを持ち、江戸の再建にあたって、木戸制の強化、町屋の自身番と武家地の辻番所増設という宿願を果たし、無為無産の者には住みづらい町を作っている。

「火をつけたといわれるのは本妙寺だけじゃありません。不逞牢人ども――由比正雪の残党の仕業ではないかと、大火後も江戸の町では取り沙汰されておりました」

 慶安事件からわずか六年しか経っていない時点での未曾有の大火である。由比正雪と結びつけられるのも無理からぬことだろう。

「お城の天守まで焼け落ちたとはいえ、謀叛らしい事件など何も起きておりませんから、そうした噂も消えていきましたが、小悪党どもはたくさんいたようです」

 火事場泥棒を目的とする放火が江戸には多いのである。明暦の大火の折も、無数の便乗犯が火勢を大きくした。放火犯の中には公儀御家人である黒鍬者の姿も目撃されたという。鎮火後も焼け残った家屋に火をつける者があとを絶たず、業を煮やした公儀は、放火犯を訴え出れば褒美を与えると、再三の触を出している。

「大坂でも、由比正雪の党与の捕り物があったくらいだ。よほどの道場を構えていたのかな」

「噂じゃ、門弟千五百とか三千とか聞きますが、実際はうらぶれた裏店でしょうな。住処は神田連雀町だったとも牛込榎町ともいいます」

 連雀町は伊達家が拡張普請をやっている小石川堀の沿岸で、榎町もまったくの地理違いではない。

「そんなことより、師匠。『おすもじ』というのは、何か由来のある言葉なのでしょうかな。中国の故事とか」

「……まさの殿はどうしたかな」

 逃げるように、助広は腰を上げた。

 台所では、まさのが寮の使用人と一緒になって、竈(かまど)に向かっている。

「ここらにあった魚、蔬菜に玉子を入れた葛の粉をまぶして、胡麻油で揚げました。今、お運びします」

「いい。ここで食う」

 助広は座敷よりも台所の方が気楽だ。板の間に座り込んだ。

「白戸屋さんは……?」

「うまかったら、善兵衛さんにも運んでやるがいい」

 助広は、皿に盛られたものを無造作に口へ運んだ。汁物は大根の吸い物だった。梅干しを使った塩仕立てで、山椒を吸口にして、手間はかけていないが、職人技を思わせるところがある。

「善兵衛さんに食わせてやれ」

 助広はまさのの目を見ずに、いった。

 
 
 翌日。

 助広が一人で朝食をとっていると、まさのが裏木戸から庭先へ現われた。まさのの部屋は寮の一室に決まり、食事の準備は使用人たちを陣頭指揮したらしいが、給仕もせず、姿を見せなかったところを見ると、出かけていたのだろう。

 助広は部屋の中から声をかけた。

「上方では、昼にめしを炊くが、江戸では朝、炊くのだな。帰ったら、うちもそうしてみよう。――うまい蜆汁だ」

 江戸で、ようやく料理の誉め言葉を口に出した。

「その蜆売りが教えてくれましたよ。御船蔵に女の死体があがりました」

「御船蔵……?」

「御公儀の船蔵です」

「お前、見に行ったのか」

「ええ」

「では、それが……」

「薫こと、すみのらしいですね。人垣の隙間から覗くのがやっとで、顔も何も見えませんでしたけれど」

 助広はしばらく無言で食事を続け、箸を置くと、立ち上がった。

「行ってみよう」

 白戸屋の寮から堀沿いに歩くと、御材木蔵(のち御竹蔵)の白壁が続く。明暦の大火後、下町の河岸は商売の地、江東地区は物資保管の場と地域的分担が決められ、公儀の諸倉庫も隅田川沿岸へと移されている。その広大な御材木蔵を回り込み、両国橋東詰を過ぎ、回向院前から竪川を渡ると、十四棟の御船蔵が隅田川沿岸に連なっている。

 物産船着場もあって、桟橋と水路が入り組んでいるが、堅川の側から見ると、そうした敷地の手前が小さな入り江になっており、乱杭や竹矢来が打ち込まれたあたりに波が立っている。

「隅田川は両国橋より上流を浅草川、下流を大川ともいうようです」

「おかしいな」

 助広は「大川」の流れを振り返った。

「どうしました? 師匠」

「このあたり、隅田川は両国橋を頂点にする形で大きく蛇行している。水死体があがるなら、上流側から見て、蛇行の外側だろう」

 つまり、御材木蔵から両国橋にかけての「浅草川」東岸である。実際、ここはのちに百本杭と俗称されるほど、水除けのために大量の杭が打ち込まれており、釣りの名所であるとともに水死体が多いことでも知られる。しかし、両国橋より下流の「大川」東岸は蛇行の内側になり、漂着の確率はずっと低くなる。

「でも、師匠。御坐船が襲われたのは隅田川の蛇行が始まる手前と聞いています。ちょうど川幅が狭くなるところですから、流れも速い。東岸に寄る暇もなく、両国橋を越えて下流に入ったとも考えられます」

「う……む」

 川岸にはすでに人だかりはない。数人がたむろしているのは、御船蔵裏の番所の前だった。水死体はここに運び込まれていた。もっとも、江戸の水死体は珍しいものではなく、江戸後期の海保青陵『経済話』には、

「浮死ハ江戸ニハ甚多シ。海ヘ出レバカマハズ。屋敷ノ裡ニ有レバカマハズ。川ノ中ヲ流ルヽハ構ハズ。唯、町地ノ内ヘヨリ掛リ居ル死骸計リナリ」

 と、ある。

 あまりに水死体が多いので、いちいち引き上げて検死などせず、町役人が調べるのは、町地の水辺に漂着した屍だけである。堀割や池、川を漂う死体は突き流してもよいことになっている。

「伊達様が身請けした三浦屋の高尾太夫らしいぜ」

 野次馬たちの噂である。薫は太夫という最高位の遊女ではなく、その下の格子女郎なのだが、尾鰭がついている。

「いうことをきかねぇ高尾太夫を伊達様がお手討ちにしたってぇ話だ」

 そんな話になっている。

「女郎は泥水商売とはいうが、ほんとに泥水に浸かっちまったな」

「仙台高尾か。芝居になりそうじゃねぇか」

 その騒々しさに助広が眩暈さえ覚えていると、

「確かめますか」

 まさのが、いった。どうする気か、と助広が訊き返すより早く、まさのは番所の戸を開けている。

 まさのは簡素な身なりではあるが、立居振舞いに度胸があり、その場にふわりと入り込む才覚も持っている。

 怪訝そうな番士と居合わせた役人に、

「先日より消息不明の当家に有縁の者かも知れませぬ。見てもよろしゅうございますか」

 堂々と告げ、有無をいわさず、戸板の上で死体を覆った薦(こも)をはがした。

 これがすみのなら、三日間、水中にあったことになる。身なりも髪も無惨に崩れているが、粗末な「つくり」ではなさそうだ。

「しばらく水中の杭にでも引っかかっていたものが、今朝になって、浮いたと思われる」

 役人の言葉には、検死への熱意など皆無だった。

 助広は息をのんだ。変色し、変形した顔ではあるが、確かに目の前のまさのと共通する造作がうかがえる。

 首の下あたりに深い刃物の傷があり、肉が覗いている。無惨であった。

「いかがかな」

 役人が訊いた。

「思い違いでした」

 まさのは平然と答えたが、役人は首をかしげた。

「はて。気のせいか、似ておられるような……」

「お気のせいでしょう」

「御無礼ながら、いずれの御家中ですかな。町の者たちがあらぬ噂を口にしておりますが」

「主家の名を出せば、あとが面倒になりかねませぬ」

 そういわれれば、役人も関わり合いにはなりたくないだろう。詮索せずに見送った。

 番所の外に出ると、助広とまさのは足早に野次馬をかきわけた。

「さぞ美しかっただろうに、残念なことだ」

 そういう声があった。助広の横に肩を並べた男だ。武家である。

「しかし、溺死は腹がふくれるほど水を飲むとか、流されるうち身にまとったものすべてが脱げ落ちるとかいうが、そんな様子はなかったな」

 助広に話しかけている。三十代半ばだろう。決して大柄ではないが、奇妙な存在感がある。魅力といってもいい。助広の直感である。

「刀を振り回したくてたまらぬ侍なんぞに斬り刻まれなかったのは、まだましかな」

 江戸、地方を問わず、人体を用いる刀の試し斬りが盛んで、路上の行き倒れや水死体を勝手に斬り刻む武士があとを絶たない。

「おぬし、鉄の匂いがする」

 と、唐突にその男はいった。

 助広がろくに返事もせぬうち、男は離れた。すでに数歩先を歩いていたまさのが振り返ったからだ。

「何? あの侍は」

「尾張様の御家中のようだが」

「方言、訛りでもありましたか」

「拵だ」

「お国拵ですか」

「伊達家にもあるだろう。柄の立鼓が強く、中央が大きくくびれるのが特徴だ。それから――」

「やたらと黒が好きで、鮫皮に黒漆をかけ、柄は黒、鞘も黒塗りと定められています。それが仙台拵です」

「尾張の拵、とりわけお家流の柳生拵は逆目貫になる。鐔も小さく、特徴あるものだ」

 目貫(柄の飾り金具)の位置は、表が縁寄り、裏が頭寄りになるのが通常の拵で、刀を構えた時、指先に目貫の突起が当たるが、尾張柳生拵はこれが逆になっており、掌の中に目貫が来る。この方が柄を握りやすいというわけだ。もっとも、これは刀の場合で、脇差の目貫は尋常であり、目貫は本来の握りにくい位置にあるからこそ余分な力が入らずにすむのだとする説もあるが。

 むろん、尾張家の拵がすべてその規格に統一されているわけではない。第一、柳生拵は世間にまだ流布しておらず、助広にしても、柳生家にそうした特異な拵を創始した武芸者がいると、上方の刀剣関係者の間で噂に聞いた程度だ。

「あの侍の腰のもの、柄頭が細めで、棟方は角張った作り込みのようだった。中身も幅広の剛刀だろう。身体つきといい、身のこなしといい、かなりの遣い手と見えたが」

「私には、内気な男にしか見えなかったけど」

 男と女では、見る目が違うらしい。

「ところで、屍はどうなる?」

「あれが仙台高尾という噂話が大きくなればなるほど、伊達家としては遊女の屍を引き取ることはいたしますまい。すみのがお屋形様(綱宗)の妹という事情は内密。どこぞの寺に金を渡して、ひそかに葬ることになるかと思います」

「陸奥守様はそれでよいのかな」

「よいわけがありません」

 まさのは、出会って以来、初めて感情的に声を尖らせた。

「お屋形様は、誰よりも御心痛なはず」

「あの創傷が命取りだったな。襲ってきた連中の中には、槍を突き立てた者もあったようだ」

 しかし、槍なのか他の刃物なのか、傷口からは判然としなかった。

「おかしなものです。御坐船に火をかけられたのに、噂ではお屋形様が斬ったことになっています。しかも流布するのが早い」

「人は信じたいことを信じるという。つまらぬ真実よりも面白おかしい虚構がもてはやされる」

「誰かが煽動しているのかも知れません」

「誰か……?」

「伊達家内部には、お屋形様に対抗する勢力もあるということです」

「陸奥守様を貶めようというわけか。何者だ?」

「私の口からは……」

「いえる立場ではないか。まさの殿は利口だ」

 伊達家は戦国以前から続く名家であり、領地をあまり削られることなく生き残った。それだけに戦国の体制を今なお引きずっている。つまり、一門親類衆が元気なのである。青年藩主の周囲には叔父や兄たちがずらりと居並び、藩政に掣肘を加えているのだ。そればかりか、天皇と血縁関係にある綱宗には公儀さえも好意的ではない。

 開削されたばかりの竪川を本所の岸へ戻ると、助広は白戸屋の寮とは反対へと歩いていく。両国橋の方向だ。

「師匠。このまま東叡山へ行かれますか」

「小伝馬町の牢屋敷だ」

「江戸見物にしては趣味が悪いこと」

「なら、お前は来なくてよい」

 助広は振り返りもせず、いった。

「来るのか、来ないのか」

「まいりません。寮に帰って、吐いて、寝込みます」

 平然としているように見えたが、死体を目のあたりにしたことは、やはり衝撃だったのだろう。

 
 
 この日、御前鍛錬参加の刀鍛冶たちは山野加右衛門から試し斬りの見学に呼ばれていたのである。助広とて、刀の実用性に興味がないわけではない。

 加右衛門が罪人の首斬りに使う刀は自前のものだ。試し斬りの依頼があった刀はそれとは別に、首なしとなった死体を据え、様々な斬り方で刃味を確かめるのである。場合により、生きたまま試し斬りも行なう。

 将軍家の刀であれば、試し斬りも格式ある晴れなる行事だから、腰物奉行とその配下が列席する。しかし、そんなことは年に何度もあるわけはなく、多くは大身武家、刀鍛冶からの個人的な試刀依頼である。

 助広が板塀に囲われた通路をたどって、牢屋敷の奥庭へ踏み入った時、武士は数人だけだった。肩衣姿は牢屋奉行、羽織姿は同心、打役、鍵役たちだが、いずれも顔色が冴えなかった。こんな血腥い場面には辟易しているのだろう。刀剣関係の職方なのか、町人の姿もあったが、彼らの方がよほど生き生きしている。

 そして、刀鍛冶たち。虎徹、安定、長道、忠吉が神妙な顔を並べている。彼らに床机など用意されていないから、板塀沿いに立っている。

 牢屋敷の敷地内に板塀は幾重にもめぐらされ、この区画の内側に建っているのは検役場だけだ。場違いな風情で柳の枝が垂れている。死罪場である。そこからやや離れ、土壇を盛り上げてあるのが様場(ためしば)だった。いわゆる土壇場とは、この死罪場あるいは様場を指す。

 様場では、山野加右衛門と彼の門弟たちが準備している。その前段階である首斬り処刑の現場には見学者は同席せずにすみ、助広はとりあえず安堵した。

「試し斬りには、それ用の柄を装着するようだ」

 と、長道が助広に耳打ちした。

 仮鞘や白鞘の柄は続飯(糊)で張り合わせてあるだけだから、斬撃に耐えないが、試し斬りの刀にいちいち拵をつけるわけにはいかない。したがって、斬り柄というものを用いる。三箇所を鉄環で締め、目釘穴部分を鉄板で補強した、通常よりも長い柄である。金具は使わず、柄糸を巻くこともある。口のあたりのガタつきはクサビを打ち込んで、固定する。

 のちに山野家の後継者として首斬り役となる山田浅右衛門の流派では、扇子のように開く斬り柄が考案されるが、基本的には同様である。重量の釣り合いをとるため、鉛の鐔をつけることもある。

 が、助広は他のことに気を奪われた。あの男に再会した。御船蔵の番所の前で、言葉をかけてきた尾張武士である。様場を隔てた向こうで、白塗りの土塀を背にしている。

 視線が合った時、助広は目礼すべきかどうか、迷った。挨拶の下手な男なのである。相手から頭を下げれば、返しただろう。だが、むろん、武家の方からそんなことをするわけがない。

(何者か……)

 まるで花見の席にでもいるような飄然とした風情だ。ここに植わっている木といえば、死罪場の柳だけだが。

 土壇には四隅に挟み竹が立てられ、首のない死体がくくりつけられている。試し斬りには女子供、それに武士の死体は用いないが、生前には何者だったのかと考えそうになる心の動きを振り払わねばならなかった。

 山野加右衛門が肩衣から両肩を抜き、刀を手に進み出た。手間暇かけた精神統一などしない。剣術の試合ではないから、両足を揃え、大上段どころかうしろへ大きく反り返って、刀を振りかぶった。

 が、尾張の男の顔はよそへ向いていた。何を見ているのかと視線の先をたどると、軒先に燕が数羽、止まっている。

 しかし、加右衛門が気合いをほとばしらせ、刀をふるうと、鳥たちも逃げ散った。

 男は淋しげにそれを見送った。空を仰いだ顔が地上へ戻った時、鋭い表情に変わっていた。

 すでにふたつの肉塊にすぎなくなった死体の傍らで、加右衛門は筆を執り、紙片に試斬の結果を書きつけている。

 男は声を発した。

「その刀は新刃でござるな」

 薄氷の張った水面へ石を投げるような声だ。場の誰もが硬直したが、加右衛門はさすがに動じない。

「長曽祢虎徹入道でございます。まずは、当代随一の刃味かと」

「山野加右衛門殿はこれまで、もっぱら大和守安定の作を称揚してまいられた。今は虎徹入道に肩入れなされるか」

「柳生殿」

 と、加右衛門はその男を呼んだ。

「お貸しいたすゆえ、虎徹の刃味、御自分でお試しになってはいかがか」

「わが流儀に死体を斬る法はござらん」

 柳生、と呼ばれた男は笑っている。

(やはり、尾張柳生か)

 と、助広は悟った。

 将軍家指南役の柳生新陰流は、江戸柳生が本家ではあるのだが、本家は「兵法師範」つまり政治色が強く、「剣法指南」つまり剣の相伝は尾張柳生が継いでいる。

「あの仁は、どなたですか」

 試し斬りが終わると、助広は周囲に尋ねた。

「柳生兵助」

 と、教えられた。名乗は厳知。のちに厳包。隠居後の連也斎という号の方が、後世では通りがよいだろう。慶安四年(一六五一)春、徳川家光が没する直前の上覧試合で、江戸柳生の当主・飛騨守宗冬の右拳を砕き、圧勝した男である。柳生家の歴史の中で、最強とうたわれる剣客だが、むろん、助広の知るところではない。

(おもろい人物や)

 そう直感しただけである。

「雙」第9回

「雙」第9回 森 雅裕

 刀剣は古来、霊器として扱われてきた。戦闘の刃こぼれが一晩でなくなったとか、焼け跡に刀だけが燦然と残っていたという伝説は、真偽はともかくとして、珍しくない。

「ところが、今度は大慈院――義山公(伊達忠宗)が病に倒れました。お上は振分髪をわが手元に置いているためであっては心苦しいと、お戻しになりました。しかし、義山公は亡くなられたのです」

 伊達政宗の後継者・忠宗の没年は明暦の大火の翌年――万治元年七月である。つまり、今より二年前だ。

「はて。御利益なかったのですかな」

「助広師にはおわかりでしょう」

 どうして御利益がなかったのかを、である。まさのの大きな瞳が問いかける。

「遠慮なく申されませ」

「古い刀とは見えません」

「新刃(あらみ)ですか」

「恐れながら」

「偽物ですね」

「…………」

「しかし、鑑定など、あてになりますか。本阿弥でさえ、金銭や情実でどうにでも転ぶ」

「刀工には刀工の見方がございます」

 正宗など相州上作は助広もこれまでに何本か経眼している。所有者が気軽に見せない名刀でも、研師や鞘師のところに預けられた機会に、内緒で見せてもらうのである。もっとも、相州物は偽物が作りやすく、特に正宗よりやや時代の下がる南北朝期の相州物の多くは、慶長期あたりの刀をそれらしく改造、細工したものがほとんどだが。

「作り手として見た場合、古い刀と、今の世は鍛え方が違います。室町後期より、刀には刃寄りと鎬地に柾目が現われます。折り返し鍛錬をした鉄を赤めながら打ち延ばしていくと、表面が(酸化して)金肌となり、剥がれ落ちていきます。角の部分ほどそれが大きいため、折り返しの層がそこに出てしまうのです。しかし、古名刀の杢目鍛えにはそれがありません」

 鍛錬の過程で生じる鉄質、炭素量の相違により、刀剣の表面には地肌が出現する。柾目は木材の柾目と同じく縦に直線が並走しているものをいい、杢目は年輪状の丸い紋様を示す状態である。板目という分類は比較的新しく、木を挽いて、柾目を除いた部分の模様であると曖昧な定義がされている。現代では杢目より大きな模様を板目と呼ぶ場合もあるが、大板目、小板目という区分もあって、杢目との差異は明確ではない。

 刀の地肌には他にも、杢目が極端に小さな梨子地、連続した波模様を人工的に作る綾杉、また刀工により特殊な肌を出現させる例も多々あるが、もっとも世に多いのは杢目もしくは板目である。

「杢目に鍛えると、疵が出やすく、研師を泣かせるもの。そのために、現今の本阿弥家は、疵の出にくい、きれいな地鉄を作るよう、刀鍛冶たちを指導しています。折り返し鍛錬の回数を増やせば、それは達せられるのですが、表面から落ちる金肌も増えますから、柾目が出やすくなります。この振分髪に出ている柾目が、それです。正宗にしても、肌が流れることはありますが、このような柾目とはまったく別のもの」

 まさのはすでに振分髪を箱へ仕舞っており、確認しようとはしなかった。前もって、承知しているということか。

「しかも、刃寄りの柾目よりも鎬地の柾目の方が目立ちますな。これは、芯鉄を皮鉄で包む甲伏せの造り込みです。ごく近い時代――有り体にいえば、今出来の新刃です」

 鎌倉期相州伝の正宗なら芯鉄を入れない無垢で作るか、芯鉄を入れたとしても、芯鉄と刃鉄を皮鉄ではさむ、三枚という造り込みになるだろう。

「安定師も同じことをおっしゃいましたよ」

「安定師もこの振分髪を御覧になったのですか」

「作者までは口になさいませんでしたが」

「私とて、そこまでは……」

 江戸鍛冶の匂いはするが。

「これを御覧ください」

 まさのは巻物を広げた。刀絵図である。伊達家所蔵の品々だろう、数知れぬ名刀が記録されている。現代の押形(拓本)に用いる石華墨は明治以降の輸入で、この時代には適当な墨がないため、絵図として描き写すしかない。

「御刀奉行であったわが養父が採録したものです。お上へ献上する前の振分髪もあります」

 刃文は似ているし、腰樋と護摩箸の彫刻も一致している。研ぎを重ねた古い刀らしく全体に磨り減った印象だが、こんな細工はどうにでもなる。

 絵図は地鉄の特徴、疵の有無について触れているばかりでなく、形状、各部の寸法も細かに記載されている。珍しい。通常なら、絵図に書き込む数値は長さだけである。たまに反りを記録することはあるが、身幅や重ね(厚さ)にまで及ぶことはほとんどない。物差しを借り、目の前の刀と突き合わせると、寸法は合っている。しかし、絵図では地鉄に渦のような模様が描かれている箇所がある。正宗の地鉄には細かく詰むものと肌が現れるものがあるが、これが肌であるとすれば目の前の現物には見られない。そして、疵も――。

「父は、絵図の振分髪は間違いなく本物であったといっております。他にも、献上する前に見ている者が家中には何人かおります。振分髪にはあった疵が今のこの刀にはないとか。もっとも、御公儀から、これが振分髪といわれれば、いや、違う、すり替えられたとはいえませぬ」

「偽物をお返しになるくらいなら、そのまま公方様がお召し上げになっておれば、よかったのでは」

「本物を返せぬ事情があったとしたら……?」

「…………」

「けれど、お上はそうした事情を御存知なく、義山公の病に心痛められ、振分髪をお返し下さろうとしたのです。で、御公儀のどなたかが、偽物を作らせた……」

「では、返せぬ事情とは、酉年の大火で――」

 焼けた、ということか。

「霊験あらたかで焼けぬというなら、刀ばかりでなく、古来、多くの寺院や仏像が焼失するわけもありませんね」

 まさのの口吻には、味も素っ気もない。神がかり的なことは考えぬ性質らしい。

「けれど、焼け残った霊器であるという面白おかしい噂が広がった。御公儀としては、今さら、焼けておりますとはいえますまい。かつてはお上の疱瘡快癒に効能あった宝刀ゆえ……。焼け身をもとにして、写し物もしくは偽物を作ることは可能でしょうか」

「もとの形が残っておれば……。しかし、それならば再刃した方がいい。焼ける前の状態に復元できるわけではありませんが、刀としての生命をつなぐことはできます。とはいっても、焼け身は崩れた家屋の下敷きになって、大抵は飴のように曲がります。原形をとどめることは期待できません」

「本歌が失われたとしても、絵図を参照すれば、同様のものは作れるでしょう」

「お父上が採録されたこの絵図が門外に出たことは……?」

「ありません。けれど、磨り上げ後の振分髪には本阿弥光徳の折紙がつけられておりますから、その際、本阿弥が採録しているかも知れません」

 折紙とは「折紙つき」という慣用句をも生んだ本阿弥発行の鑑定書である。豊臣秀吉によって、本阿弥家は九代光徳をもって刀剣極め所と定められ、大名の間で贈答に用いられる刀剣にはこの折紙をつける慣例だ。

 まさのはさらに言葉を続けた。

「折紙そのものは焼失してしまったと聞いていますが、刀絵図が録られたとすれば、本阿弥本家だけでなく分家や弟子の勉学用に写本が作られて配布されることもあるでしょう」

 それにしても、各部の寸法まで細かく記録した絵図でなければ、写し物や偽物作りの参考にはなるまいが……。各大名家では刀絵図とは別に所蔵刀剣台帳も作るが、記載するのはやはり長さくらいのものだ。そして、それさえ大雑把なものが多いのである。

 江戸後期の寛政年間には御刀奉行・佐藤東蔵によって仙台伊達家の蔵刀目録『剣槍秘録』が編録されるが、これにも絵図は付属せず、代付(価格評価)、由来、付属している拵の詳細など書かれているものの、寸法は長さのみであり、それさえ記載されていない刀も多い。
「いずれにしても、この刀の作者は御公儀御用をつとめる刀工と考えるべきでしょうか」

 と、助広。

 将軍家お抱え刀工は、家康から康の字を賜り、茎に葵紋を入れることを許された康継。初代は越前北ノ庄(福井)で結城秀康の膝下にあったが、のちに徳川家康に召し出されて、駿府、江戸でも鍛刀している。むろん、すでに元和七年(一六二一)には没しており、二代目も正保三年(一六四六)に鬼籍へ入った。当代の三代目は三十歳そこそこで、まだ父祖には遠い腕だが、恥ずかしくない実力は持っている。

「ただ、康継の地鉄は、初代以来、もっと黒ずむと思いますが……」

 助広は康継の作とは見なかった。初代ならともかく、代が下がるにつれて、作柄はおとなしくなり、沸えのつき方も迫力がなくなる。しかし、この偽「振分髪」は非凡な作ではない。

「江戸では、相州伝が称揚されています」

 と、まさの。

「康継もしかり」

「他の刀工たちも、です」

 だが、それは正宗のような鎌倉期の相州伝ではなく、あくまでも本阿弥に都合のいい、新時代の相州伝である。

 助広は古名刀には遠く及ばぬ自分を時として感じることがある。しかし、同時代の刀鍛冶には、興味を抱くことはあってもかなわぬと感じたことはない。ではあるが、今、振分髪の作者は挑発するように助広の前に立ちはだかった。

「この振分髪は作者の腕も非凡なら、使われた鉄も他で見るものとは違うかも知れません」

 康継は輸入の南蛮鉄を使うのが看板だが、助広の用いる南蛮鉄とは質が異なるらしく、地鉄が黒ずみ、匂い口も沈む。この振分髪は兼重、安定あたりの強い地鉄に近いが、それらよりもさらに明るく冴えている。

「となると……」

「何です? 師匠」

 まさのは彼をそう呼んだ。いや、先刻からそう呼んでいた。

「となると……。いや、迂闊なことは申しますまい」

「なら、私がいいましょう。虎徹ということは有り得ます」

「あ」

 まさのは言葉がはっきりしている。助広のように優柔不断な男とは、この手の女の方が意思疎通はうまくいく。

「康継師を差し置き、虎徹師がお上にどのような伝手(つて)がありましょうかな」

 助広の質問にまさのが答える。

「お上を輔弼するのは保科肥後様。御老寄衆(老中)は松平伊豆様、阿部豊後様、酒井雅楽様、稲葉美濃様ですが――」

 いずれも有能な政治家であり、それぞれが互いに一目を置いている。

「そのお歴々の中に、虎徹師とつながる方がいらっしゃいますか」

「会津中将様の御嫡子・保科長門守正頼様は諸芸にすぐれ、時には、藩邸の中で刀を打つこともあったとか。それを指導し、相鎚をつとめたのが虎徹だと聞いています。若かった三代康継が、自分のかわりにお役に立つだろうと引き合わせたようですよ」

「虎徹師は越前福居(福井)の甲冑師の出でございますな」

 康継は将軍家お抱えとなった今も越前と縁が切れていない。虎徹が江戸へ現われた慶安初めには、すでに初・二代は没しているが、二代の弟が越前三代目に、子が江戸三代にと、ふたつの「康継」が分立することになる。江戸の多くの刀鍛冶たちは越前出身でつながり、交流がある――。以前、虎徹本人からも山野加右衛門からも聞いたことである。

「となると、偽物作りのお鉢が虎徹師に回ることも考えられなくはない。しかし……」

 越前出身というなら、安定もそうである。

「では、さほど高名でもない虎徹師が今回の御前鍛錬に参加しているのも、その縁による御公儀のどなたかの『引き』でしょうか」

「そういうことです。大火後、虎徹には替え玉の噂があるようですけれど」

 このお嬢様、意外なほど事情通である。

「今でも、虎徹師は保科長門守様の相鎚をつとめているのですか」

「長門守様は亡くなりました。酉年の大火の直後です」

 大火の折、正頼は十八歳だった。芝にある会津保科家の中屋敷で、勇敢かつ冷静に消火の指揮をとっていたという。しかし、

「隣の伊達家屋敷の塩(煙)硝蔵に火が入り、爆発したために、あたりはもう手がつけられなくなり、長門守様は家臣たちをととのえ、片原町の浄行寺を経て、品川東海寺へ避難されました。この騒ぎの間に風邪をこじらせ、翌月に入って、亡くなられました」

 保科正之にしてみれば、後継者として期待の大きかった正頼である。だが、正之は、

「此の時に臨みて私邸妻孥を顧るに暇あらず」

 と、政務を休まなかった。

「隣は伊達様のお屋敷だったのですか」

 助広は訊いた。

「伊達家屋敷の塩硝蔵が――といわれたが」

「ええ。伊達家のすべての屋敷建物の中で、焼け残ったのは、芝の下屋敷の蔵がふたつだけという有様でした。その下屋敷が大火後は上屋敷となり、今も会津侯の中屋敷と隣り合っていますよ」

 今、助広が訪ねている愛宕下の伊達中屋敷も芝には近い。

「それがどうかしましたか」

「いえ……」

 因縁のようなものを感じただけだ。もっとも、ともに奥州の雄藩であるから、国許でも江戸でも交流はあるだろうが。

「振分髪の偽物が誰の作であるにせよ、作らせた御公儀にしてみれば、こうして私に見られることになったのは、有難くないでしょうな。しかし、今回の写しの制作には、会津中将様は乗り気でいらっしゃる」

「何も知らぬふりのためには、そうするしかないという考え方もできましょう。第一、助広師に限らず、どなたかに偽物と看破されたとしても、それを口外する恐いもの知らずはおりますまい」

 まさのの言葉は歯切れがよすぎるくらいだが、憎めなかった。どういうものか、甘い菓子のような空気を醸している。

「さて、助広師匠。この振分髪が今出来の偽物としたら、どうなさいます? 偽物を写しますか」

「寸法は絵図の覚え書きに従います。この偽物も姿形は本歌を正確に写しているようですから、私の作もほぼ同じになるでしょう。しかし、地鉄は……」

 助広は独りごとのように、いった。

「二通り作ろうかと思うが……」

「つまり、二本?」

「ええ。振分髪を写せ、との御依頼ですから、伊達家に所蔵されているこのお刀がそうだというなら、杢目に柾目が交じる地鉄をまず写さねばなりますまい。しかし、正宗の振分髪を写すのが本来の目的と考えるなら、杢目に大肌を交じえる地鉄で作らねば、注文に応えたことにはなりません」

「つまり、正宗に迫る地鉄を作る自信もある、ということですね」

「普段、そのような相州伝は助広の売りものではありませんが、研究はしておりますから」

「その職人たる気質、感服いたしました」

「はあ……。しかし、材料が足りない」

 大坂からは、下鍛え済みの鉄は刀一本分しか持参しておらず、脇差にしても二本分には足りない。下鍛え前の南蛮鉄も持参しており、一部を将軍の向こう鎚で鍛錬したわけだが、まだ手つかずのものも残っている。それを使うにしても、相州伝の肌を出すには、性質の異なる鉄を混入せねばならない。それの手持ちがないのである。そしてそれは皮鉄の話であって、当然、芯鉄も不足だ。

「他の刀工から譲ってもらいましょう」

 まさのの屈託なさに助広はたじろいだ。

「そんな図々しいことが……」

 鉄は刀鍛冶には何よりの宝である。少しでも良質の鉄、自分の鍛法に適する鉄を求めて、試行錯誤もすれば、足の引っ張り合いもするものだ。

「たとえば、江都随一の地鉄を鍛錬するという虎徹」

「…………」

「助広師匠から頼めぬなら、私が虎徹に頼みます」

「あなたが……?」

「お屋形様(伊達綱宗)より、助広師匠のお役に立て、といいつけられております」

「お気遣いは無用に。私がやります」

「そうですか」

「しかし、二本を作るのはいいが、紀伊様にどちらをお納めするべきか、迷いますな」

「紀伊様にお選びいただけばよいでしょう」

「なるほど」

 助広は頷いたが、頭の中では別のことを考えている。

 この振分髪が虎徹の作であったとしたら、どうして虎徹は正宗の杢目肌を写さず、自分流の柾目を交じえたのだろうか。むろん、振分髪が焼失したなら、実見はできまいが、正宗の作風なら周知のはずだ。正宗当時の鎌倉時代とは鉄質が違い、鉄質が違えば鍛法も異なるのだから、まったく同じものは助広とて作り出せないが、正宗の伝法に近いものはできる。虎徹にも、それくらいの技量はあるだろう。なのに、似せようとした気配すら感じられない偽物なのだ。

(いや。偽物といういい方はおかしい)

 正宗の偽銘が切ってあるわけではない。振分髪の偽物ではあっても、正宗の偽物ではない。つまらぬ理屈だが。

 助広は、思わず苦笑した。

「おかしいですか」

 まさのの声で、現実に引き戻された。目が合うと、心臓の鼓動が乱れた。まさのの言葉を聞いていなかった。

「何……かな」

「私が弟子がわりにお手伝いをする、と申し上げました。御承知いただけますね」

「え……!?」

「師匠と呼ばせていただきます」

「お待ちなさい。それはどういう――」

 まさのは聞いていない。

「この振分髪はお手許に置いた方がいいでしょうか」

 正確な写しを作るなら、そうしたいところだが、

「川向こうの本所で、戸も窓も開け放しの商家の寮に滞在しています。お預かりするのは遠慮したい」

「ならば、絵図をお持ちになりますか」

「いや。寸法だけ控えておけば足ります」

 写しを作るためには、設計図が必要だ。現代なら、押形という忠実な拓本があるから、それに合わせることができるが、曖昧な絵図しかない時代では、記録した寸法を頼りに写しを作ることになる。最終的に本歌の現物と突き合わせて、仕上げることができれば、完璧だ。本歌が本物であるなら。

 助広は矢立と懐紙を取り出し、簡単な刀の図と寸法の数字を書き込みながら、いった。

「まさの様。弟子がわりといわれたが、どういう――」

「弟子ですから、そのような言葉遣いは御無用に。『様』など、とんでもない」

 助広は途方に暮れた。しかし、悪い気持ちではなかった。

「では、まさの殿。あなたがどうして、そこまでされるのですかな」

「振分髪は偽物。すみのは行方知れず。私でなく、誰が動けますか」

 まさのは奥女中に命じて、何やら手配した。行李を運ばせるようだ。本所、という行先が助広の耳に入った。

「何を運ばせるのですか」

「私の着替えです」

「まさの殿は私と同じ寮に寝泊まりされるのか!?」

「あたりまえです。師匠が本所と上野を往来して仕事をなさるのに、弟子が愛宕下にいたのでは、用をなしません」

「昔のすみのと似ている」

「え……?」

 気の強いところが、とはいえなかった。刀のこと以外には優柔不断なこの男は何もいえず、まさのとともに仙台屋敷を出た。

 寮の使用人たちに、まさのを紹介しないわけにはいかない。助広には苦手なことだった。ましてや、白戸屋善兵衛には何と説明すれば、嫁が来たと騒がれずにすむだろうか。

 
 
 普段は本宅にいる善兵衛が、こんな時を狙ったかのように、寮で待ち構えていた。

「師匠の好きな言葉を書いていただこうと思いましてな」

 茶道具の小さな風炉先屏風を座敷に広げ、墨を磨っている。手は動いているが、視線はまさのに釘づけのまま、まったく動かない。

 そんな無遠慮にもまさのは動じず、名乗った。

「仙台伊達家より助広師のお手伝いに遣わされました、まさのと申します」

「それはつまり、お嫁入りということでございますな」

 どうして、そんな解釈ができるのだろう。

「祝言は、不肖、白戸屋が手配りをいたしますぞ」

「そんな手配りより、しょっぱいものばかり食わせる寮の賄いを何とかしてほしいが」

「あ。そのことで、申し上げることがあります。師匠が料理をまずいというもんだから、賄い人が傷ついておりますよ」

「そんなこと、いったかな」

「うまいといいましたか」

「いっていない」

「いうもんです、普通は。――あ、お嬢様。仙台侯といえば、町に噂が流れておりますな」

「あら。いかような」

「一昨日ですかな。お殿様が隅田川で河童をお斬りになったとか。あれ、雪女でしたかな」

「私がその河童か雪女の仲間かも知れません。妖怪変化は噂をすれば現われるもの」

「ははは。ご勘弁ご勘弁」

 善兵衛は無利益な噂には興味がないらしく、深く追及せず、筆を助広に握らせた。

「ささ。日本一の刀鍛冶の若き日の名言至言をお願いしますよ。墨痕淋漓と」

 助広は別に考えることもせず、「おすもじ」と風炉先屏風に大書した。

「これがお好きな言葉なので?」

「大好きです」

「どういう意味ですか」

「重石に耐えた人間は味が出る――。そんなようなことかな」

「それはまた心憎い言葉ですな」

 善兵衛は罪もなく喜び、

「ところで、新しい賄い人を探すべきかと思いましたが……」

 と、語尾に力をこめて、まさのを見やった。

「賄いなら、私がやりましょう」

 まさのはそういわざるを得ない。

「夕食はまだですね」

「お嬢様に料理ができるのですか」

 助広は何気なくいったが、まさのは早口にまくしたてた。

「親と別れてのお屋敷暮らし。料理くらいできなければ、身の置き場がないじゃありませんか」

 まさのの身の上が、急に現実味を帯びた。

「まずかったら、破門だ」

 助広は、ぞんざいな口をきいた。現実には、気軽に入門させるわけにいかないが、弟子扱いを認めたのである。

「雙」第8回

「雙」第8回 森 雅裕

「選り分けて、どうする?」

 訊いたのは家綱である。

「テコに積み上げ、鍛錬いたします」

 テコと呼ぶのは、鍛錬済みの鉄でこしらえたテコ台をテコ棒につけたものである。助広は割った南蛮鉄五百匁(約一・八キロ)ほどをテコ台に積み、粘土汁をかけ、さらに藁灰をまぶした。

「このように」

「ふむ。泥まみれにするのは……?」

 鉄の脱炭防止のためだ。他の刀鍛冶たちもやっていることである。

「では、その鍛錬をやってみせよ」

 家綱はあたりに目を配った。

「お前は弟子を連れておらぬのか」

「よそからお借りすることになっております」

 様子をうかがっていた他の刀鍛冶たちが、手を貸そうと腰を浮かせる気配を、助広は感じ取った。しかし、家綱の声が早かった。

「では、わしがやろう。――襷を貸せ」
 家綱は肩衣に半袴の略礼服である。素早く襷を回し、染帷子の袖を押さえた。

「勿体のうございます」

「ぬかせ。古くは後鳥羽上皇も太刀を鍛えられたと聞く。勿体ないということはあるまい」

「恐れながら、御身分のある方々は力仕事はなされず、お仕えする刀工が鍛えたものを焼入れあそばすだけかと」

「それではつまらぬ。一鎚、二鎚だけでも、叩かせろ」

 家綱は大鎚を手にした。非力な者には振り回せるものではない。

 助広は積んだ鉄を火床へ入れた。鞴を吹く手に思わず力が入る。

「では、常に金敷の真ん中をお叩きください。私が動かす鉄を追いかけると、危のうございます」

 鉄が沸くにはかなりの時間がかかる。しかし、家綱の気は変わらなかった。その間、近くにあった丸太を輪切りにした木台を大鎚で叩き、稽古するほどの張り切りようだ。

 火床からあがる炎が黄色くなり、火花が飛び始める。鉄が沸いて、爆ぜるような音を発し始める。助広はそれを取り出し、藁灰をまぶして、金敷に置いた。

「最初は軽く、押さえる程度に」

「承知」

 慎重な鎚音が数回続き、やがて、家綱は鎚を大きく振り上げた。助広が打つ小鎚に合わせ、金属音が高くなる。

 一、二鎚どころではない。手間取りながらも二十数回叩き、また火床へ入れ、再び取り出して、今度は三十回ほど叩く。それが家綱には限界で、鎚を置いた。この先の折り返し鍛錬まで進むことはできなかったが、それでも意外な体力だった。

 気がつくと、助広も家綱も、衣服は火花を浴びて、焦げ穴だらけになっている。高温すぎる火花での火傷はさほど痛みがない。

「お前の名は?」

「津田越前守助広」

 と、腰物奉行が紹介した。

「助広。この鉄が刀となった時には、家綱が鍛えたと銘文を刻むがよい」

 刀工には目の眩むような名誉だった。

 家綱が火床を離れると、助広の前に老年――というには精気あふれる武士が立った。半ば呆然としている助広を見下ろすその視線が、射るように強い。幕閣だろうが、役者のような目鼻立ちだった。

「お前が助広か」

「はい」

「腕がいいらしいの。大坂城代・水野出羽(忠職)や大番頭・青山因幡(宗俊)からの推薦で、名を聞いておった」

「恐れ入ります」

「和泉守国貞にかわって、おぬしを選んだのは、わしじゃ」

「あ……」

 すっと目を細め、役者のような幕閣は背を向けた。近くにいた腰物方へ、

「どなた様でしょうか」

 尋ねると、

「会津中将様だ」

 との答えだった。保科肥後守正之。五十歳の会津城主である。老中などの職名は持たないから、正確にいえば幕閣ではないが、前将軍・家光の腹違いの弟であり、兄の存命中はその片腕として信頼され、今はまた甥である家綱の輔弼役をつとめる幕政の第一人者であって、仁政を讃えられている。

(そのようなお方が――)

 自分の名を聞いているとは、感激ではあった。しかし、不思議でもある。助広が隠居した父にかわって、自作を世に出し始めたのは、この数年にすぎない。大坂城代や大番頭の口添えがあったにしても、注目されるのが早すぎる。

 三善長道も若いが、保科正之の領地ということで、会津鍛冶の中から前途有望な者を選んだのだろう。肥前忠吉は九州における名門の後継者である。

 有名無名という観点だけから見れば、御前鍛錬刀工に選ばれて奇妙なのは、虎徹と助広は同様であった。もっとも、助広の場合は二代目であるから、父の余光ということも有り得なくはないのだが……。後年、虎徹は常陸額田の松平頼元や旗本の稲葉正休がお抱え刀工にしたと伝わるが、万治三年のこの当時、彼らはそのような立場にない。

 ともあれ、初日の式は終わった。これより翌月の七月まで、将来の名工五人が鎚音を競うことになる。

 家綱の行列を黒門から見送り、鍛錬場へ戻ると、空気はゆるみ、呆けたようなけだるさとざわめきが漂っている。

 そんな安堵の空気をかきわけ、安定が煤と汗にまみれた笑顔を助広へ向けた。

「うまくやったの。今さら、わしの弟子ごときを先手としておぬしに貸すなど、恐れ多いわ。それ、公方様の御手の汗を吸ったその大鎚ももう使えぬ。大坂へ持ち帰って、家宝とするがいい」

「からかわないでください」

「なんの。本音だ」

 別に皮肉や嫌味ではなく、これでも助広を祝福しているのである。安定は斜に構えたところはあるが、器の小さな男ではなかった。

「目が赤い。やはり、昨夜は充分に眠るわけにはいかなかったようだ」

「埃が目に入っただけです」

「なるほど。右目に心、左目に配という埃が見えるわ」

 安定はそっぽを向くように踵を返した。

 
 
 本所の寮に戻ると、白戸屋善兵衛から、本宅へお出でを請う、という使いが来ていた。御前鍛錬の首尾でも訊かれるのだろう。世渡りを心得た者なら――というより、常識人なら、上野からの帰途、日本橋の白戸屋へ顔を出して、報告するのだろうが、助広のことだから、素通りしてしまっている。善兵衛もそこはお見通しのようだ。

 西陽に頬を染め、長い影を引きずりながら、白戸屋へ赴くと、善兵衛だけでなく見覚えある武家が待っていた。会津保科家用人の加須屋左近(武成)である。

「おめでとうございます」

 いきなり、白戸屋はそういった。

「公方様からお声がかかったとか」

「白戸屋さんにお願いしておいた先手が来なかったおかげです」

「野鍛冶に頼んではおいたのですが、警固がきびしくて、寛永寺の門前で、通せ通さぬの押し問答のあげく、怒って帰ったようでございますよ。そいついわく、刀鍛冶は焼入れの鉄色を『夏の夜、山の端に出る月の色』なんぞと勿体つけるが、大小刃物農具一切、厚刃も薄刃も自由自在に焼入れする野鍛冶の方がなんぼか難しいわい、とか。もともとやる気もなかったようですな。しかし、そのおかげで雲上人が大鎚をお取りになったのですから、めでたしめでたし」

 白戸屋の笑顔の鼻先に、助広はぼろぼろになった肩衣袴を差し出した。白戸屋は呆気にとられている。

 今後の作業に礼装の必要はない。しかし、最終日の献納式は作業衣というわけにもいくまいから、

「あと一式、お願いします」

 小声で、頼んだ。

「お上(徳川家綱)と助広殿とで、火花を恐れぬ意地を張り合われたようだの」

 と、加須屋左近は笑った。保科家の外交窓口という立場にはいるが、元来が武術家だから、助広のこういう面が気に入ったらしい。

「東叡山で、会津中将様にお声をかけていただきました」

「うむ。わが主も、かねてよりおぬしのことを目にとめておられたようだ。そこで――」

 左近の物腰は柔らかいが、悠揚迫らぬ所作の隅々に威厳を漂わせている。

「頼みがあって、まいった」

「はい……」

「刀を献上してもらいたい」

「御前鍛錬で打つ刀は将軍家へ献上する予定でございますが」

「いや。紀伊様へ納めてもらいたい。つまり、将軍家から紀伊徳川家への賜りものということになる」
 左近はもとが紀伊藩士だったと聞いている。その縁もあって、折衝役にあたっているのだろう。

「ただ、刀の作柄には注文があってな」

「どのような……? 先日は、相州伝は可能かとお尋ねでしたが」

「うむ。振分髪という号の相州正宗がある。仙台伊達家の重宝だ」

「仙台候の……?」

 これは因縁というものなのか。伊達綱宗との出会いを思った。数日前まで、夢にも考えなかった舞台に、自分が引き出されている。

「正宗を腰に帯びていなければ、大名には肩身の狭い風潮がござる。かつて、貞山公(伊達政宗)が江戸城内において、加藤左馬助(嘉明)様から、陸奥殿(政宗)の差料はさだめし正宗であろうと尋ねられ、むろん、とは答えたものの、伊達家に正宗の刀はあれど脇差はなかった」

 武士が城内で常時たばさむのは脇差ということになる。

「奥州の盟主が嘘をいうわけにはいかぬ。長い刀を磨り上げ(切り詰め)、脇差に仕立て直して、これに『振分髪』と号をつけた」

「在原業平ですか」

「左様。くらべ来し振分髪も肩すぎぬ君ならずして誰かあぐべき――」

 少女が人妻となって髪をあげることにかけ、名刀を磨り上げることができるのは伊達政宗のような名将だけ、という意味でつけられた号だろう。

「その振分髪を写してもらいたい」

「振分髪が選ばれる理由が何かおありなのですか」

「お上の思し召しだ。なにしろ、酉年の大火でも焼け残った縁起のよいお刀でな」

 将軍の命令なら、否応はないが、それにしても、どうして自分なのだろう。保科正之の領地である会津からは長道が参府しているではないか。彼の鉄の沸かし(火床での加熱)を見ていると、才能ある刀鍛冶とわかる。彼を差し置いて、自分にお鉢が回る理由は何なのか。

「写すには、本歌を手に取って見なければなりませんが……」

「明日、愛宕下の伊達家中屋敷へ行かれよ。仙台候は、助広殿なら重宝に触れさせてもよい、と仰っておられる」

 伊達綱宗の指名なのか。しかし、助広が綱宗に目通りして、わずか二日にすぎない。一体、いつから助広の名が幕閣や大名の間で評判になったというのか。

「陸奥守様が指名なさるなら、奥州に親しんでいる安定師かと思いますが」

 疑問を口にした。白戸屋が助広の横顔へ向かって、懸命に目くばせを送ろうとしている。わかっている。助広は理屈をこねすぎる。人に好かれる性格ではない。

 しかし、加須屋左近は泰然と、いった。

「その大和守安定が仙台候におぬしを推薦したということだ」

「あ……」

 意外ではあったが、一本気な助広は、これはもう疑ったり迷ったりしては申し訳ない、自分に対する人々の期待だと感じ入った。好意と解釈するほど、うぬぼれた性格の助広ではないが……。 

「身に余るお話なれど、先に申し上げました通り、相州伝に用いる鉄をどう調達するかという問題がございます」

「ほお。助広殿は正宗と同じものを作る自信がおありか」

「そういう御依頼ではないのですか」

 単に姿形を真似ただけの写しもので充分と軽く考えているのだろう。しかし、助広の考えでは、作位も本歌に迫らねば、写しとはいえない。

「どこまで正宗に近づくかは、助広殿の問題だ。正直申して、われらには正宗の地鉄がどのようなものなのか、わからぬ。しかし、素人にわからぬところで工夫を凝らすのが職人技というものであろう」

「確かに」

「江戸の鉄問屋に手配するくらいは簡単だが、助広殿の意にかなう鉄が入手できるかどうかはわからぬな」

 鉄は産地によって性質が違い、刀作りには試行錯誤をせねばならない。

「しかしな、仙台侯も力を貸すといっておられるのだ」

 となれば、助広の答えはひとつしかない。

「このお話、受けさせていただきます」

「おお」

 と、歓声をあげたのは白戸屋善兵衛だった。

「助広師匠も、江戸で、人の顔を立てることを覚えられましたな。あとひと月も滞在されたら、もっと世渡り上手におなりですぞ」

 
 
 翌日の寛永寺での仕事は昼過ぎに終えた。自分の仕事はせず、他工の先手を買って出た。自分もまた助けを借りるつもりでいるし、彼らの鍛錬方法を観察もしたかったのである。

 そのあと、外堀沿いに江戸を南へ縦断した。

 大名屋敷の居並ぶ愛宕下大名小路の中でも、仙台屋敷は群を抜く壮大さだ。明暦の大火で、この中屋敷だけでなく、外桜田上屋敷と本屋敷、芝下屋敷も焼失し、麻布白金台や品川高輪へと移転した屋敷もあるが、愛宕下は再建された。したがって、まだ新しい。

 助広は櫓門の奥の番所で案内を待ち、庭を抜けて、書院へ通された。静謐なたたずまいである。

 伊達家の偉容よりも、

(江戸の職人はたいしたもんや)

 そちらに感嘆した。各地から職人が参集したのだろうが、壊滅的な火災から復興を遂げてしまった技術と体力が、柱一本の立て方からも伝わってくる。

 端座して、しばらく待っていると、娘が一人、現われた。笄髷を結い、飾り立ててはいないが、奥女中の身なりでもない。長い桐箱を抱いている。刀だろう。

 ろくに顔を見ずに頭を下げた助広だが、

「津田助広師匠ですね」

 声をかけられ、目が合うと、奇妙な懐かしさがあった。

(会うたことがある――)

 それに気づくと、胸許を蹴られたような衝撃があった。

(すみの……!?)

 記憶というより、直感だった。しかし、昨夜、隅田川で行方を絶ったのではないのか。

「まさの、と申します」

「あ……」

「仙台藩御刀奉行・楢井俊平の娘――というのは表向き。実は義山公(伊達忠宗)の妾腹。つまり、すみのとは双子の姉です」

 十年前のすみのの面影を呼び起こすには充分すぎる容姿だった。瞳が明るく、小粒に揃った歯並びが美しい。

「私は家臣の養女に出されたのですが、妹は母とともに大坂へ行きました」

 助広には、そんな話は初耳だ。興里虎徹と興光が双子なら、まさのとすみのも双子というのか。

「陸奥守様は、すみの様と長年離れ離れでも、妹とわかると仰せられましたが、その決め手は、なるほど……」

「この私の顔だったというわけです。しかし、薫が大坂にいたすみのであるという話の確認のために、助広殿にも会っていただきたかったのですが……」

 では、この娘、腹違いの綱宗と似ているだろうか。よくわからない。雲上人の綱宗と美貌の娘盛り。いずれも助広が無遠慮に凝視できる相手ではない。ただ、綱宗は比較的小柄だったが、この娘は背丈がある。

「養父の楢井は今、仙台におりますので、私が助広師の御用をつとめるよう、お屋形様(綱宗)から命じられました」

「で、すみの様の捜索は……?」

 まさのと名乗った娘は首を振り、助広はさらに問うた。

「襲ってきた船の正体は……わかったのでしょうか」

「船宿という船宿、漁師や荷運び船まで、当家の家臣たちがあたったようですが、どうせ船を出した者も口止めされているでしょう。何ら手がかりは……。手際よさからすると、襲ったのは侍でしょうけれど」

 まさのは、傍らに置いた桐箱から塗箱を、さらにその中から刀を取り出した。二尺に満たない脇差である。拵ではなく仮鞘に納まっている。古い鞘ではない。江戸前期、白鞘はまだ普及していない。

「振分髪です」

「拝見いたします」

 大名の所蔵刀など、無闇と人に見せるものではない。室町以来続く将軍家御用の鑑定・研磨師である本阿弥さえ、敷居越しに隣室から拝見するというほどである。

 助広は一礼して受け取り、抜いた。名刀は一寸も抜けば、直感できるものだ。背筋に走る何かがあった。しかし、「名刀」を抜いた時のいつもの衝撃とは違う気がした。

 刃長一尺七寸弱。地鉄も刃も明るく冴え、いかにも強靱だ。強靱すぎる、といってもいい。刃文は沸えづいて乱れ、地肌もそこそこ出ている。しかし、柾目の傾向が強い。表に腰樋、裏に護摩箸が彫られており、簡単なものではあるが、刀身を引き締めている。
 許可を得て、柄をはずし、茎を見た。もともと正宗の在銘品は限られ、短刀に数本、刀は一本が知られるのみである。しかも磨り上げて、茎を切り棄ててあるのだから、当然、無銘である。ただ、「振分髪」の号が金象嵌されている。

 しばらく無言で見つめ、鞘へ戻した。助広は感想をいわない。

 まさのは、そんな助広から視線を逸らさず、いった。

「かつては太閤殿下の所蔵で、大坂城落城の折、他の宝物がことごとく焼けても、これだけが焼け跡に無傷で残っていたそうです」

「では、その後は戦利品として将軍家に?」

「ええ。しかし、慶長十年(一六〇五)、貞山公(伊達政宗)が台徳院様(徳川秀忠)上洛に供奉の際、権現様(家康)から伊達家に下賜されたとか」

「そのような由緒あるお刀を磨り上げてしまわれたのですか」

「権現様が、そうせよと仰せられたのです」

「加藤左馬助様から、伊達殿の差料は正宗であろうと尋ねられ、面目のために、長い刀を脇差に磨り上げたとうかがいましたが」

「つまらぬ面目ですね」

 まさのはいってのけた。政宗は伊達家にあっては神にも等しい存在だろうに。

「しかし、いかに貞山公とはいえ、権現様から拝領のお刀を勝手に切り詰めることは遠慮なさいます。第一、偽物の正宗で充分。それを看破できる者など、いないのですから」

 確かに。名家旧家には格付けのための名刀が必要だが、需要を満たすだけの本物は世にないから、金の力で本阿弥に折紙(鑑定書)をつけさせた偽物で間に合わせる。大名とはいえ、本物を所蔵しているとは限らない。

「貞山公は適当な偽物を正宗に仕立てて、差しておられました。そんなことはお見通しの権現様が――」

 ある時、政宗にいった。

「中納言殿(政宗)は正宗の刀を脇差に直して、差しておられるそうじゃな。かつて、総見院様(織田信長)も磨り上げた正宗を差料とされ、それを細川幽斎殿が『振分髪』と名づけた。さすがに中納言殿は剛毅かつ風雅。諸侯の間では、わしが与えた正宗を磨り上げたと評判のようじゃが」

 見せよ、と迫った。政宗が差し出した脇差は、むろん、そんな由緒ある名刀ではない。

「奥州の盟主たる中納言殿にこのような鈍刀を贈ったことにされては、わしが笑われる。かまわぬ。本物の正宗を切り詰められるがよい」

 刀などしょせん道具である。宝物としての格式はあるにしても、武士の体面を保つための道具にすぎない。徳川家康も伊達政宗も、それを充分に知った合理主義者だった。

「伊達家の家臣の中には、反対する者もありましたが、お抱え鍛冶の国包に命じ、二尺三寸余の正宗は磨り上げられました」

 国包は大和保昌派の後裔で、柾目鍛えを家伝とする。初代は正保二年(一六四五)に隠居し、当代である二代国包は大和守安定の教えも受けている。

「ですが、明暦二年の春に、お上(徳川家綱)が疱瘡を患われた折、快癒を祈願して、将軍家にお返し申し上げました。そして、霊験あらたかに……」

「御快癒あそばされましたか」

 助広は、昨日、東叡山で拝謁した青年将軍を思い出した。疱瘡の痕跡があった。この時代であれば、生死にかかわる病である。その当時、保科正之は日に二度も登城して、病床を見舞っている。

「ところが、翌年、大火が起こりました」

 明暦三年正月の「振り袖火事」だ。明暦の大火。酉年の大火――。

 江戸城の天守閣、本丸、二ノ丸、三ノ丸をも焼失し、宝物蔵も罹災したため、刀剣類は三十振り入り刀箱三十個のうち、二十五個が灰燼に帰した。名だたる名刀、実に七百五十振りが焼け身となり、公儀では、このうちわずか十三振りだけを越前康継に再刃(焼直し)させている。致命的な焼け方でなければ、こうした修復も可能だが、刀剣としての価値は激減する。

「振分髪を納めてあった刀箱も焼け崩れた蔵に埋もれて、粉々になっていたというのに――」

「またしても、この振分髪は焼け残ったのですか」

「ええ。鞘は煤けて黒くなっていましたが」

 現在の鞘は新調したらしい。

「雙」第7回

「雙」第7回 森 雅裕

 江戸城に近い葺屋町東側「五町」に広がっていた吉原は、明暦の大火ののち、浅草寺の裏手へ移転して、新吉原という別天地を築いている。

 そこへ至る道筋は三つ。下谷坂本から金杉入谷を通り、三ノ輪から日本堤へ出る。浅草寺の東側の馬道通りあるいは裏側の田圃道をたどって、日本堤へ出る。または船で隅田川をさかのぼり、山谷堀から日本堤へ上がる。

 伊達綱宗は船を使った。芝の伊達家上屋敷は江戸湾に臨んでいる。船宿の多い汐留も間近だ。

 明暦の大火直後は、船という船が江戸再建のための資材運漕に収用され、船遊びどころではなかったが、ようやくこの万治三年、涼み船が川面を賑わすようになっている。

 柱を立て、屋根をのせ、幕や簾または障子を張り回した屋形船が次第に華美になり始めるのも、この頃である。もっとも、屋形船といういい方は元禄以降のもので、当時は御坐船という。普段、大名たちは専用の御坐船を船宿に預け、必要な時に船頭を雇って、漕ぎ出す。

 助広は、両国橋上流の船宿で待つようにいわれている。神田川が隅田川へ合流する川口の北側に建っており、助広が着いたのは夕刻近くだった。夏の西陽が川面で跳ね、岸辺を濃い茜色に染めている。やや上流の対岸には公儀の御材木蔵(のち御竹蔵)が居並んでいる。

 寛永年間に現在の熊谷市久下で荒川の瀬替えが行なわれ、河道が入間川に移されて、隅田川は荒川下流の本流となった。荒川放水路(現在の荒川)が造られて隅田川が分流に縮小されるのは明治末の洪水が契機であるから、江戸時代の隅田川は現代よりもかなり大きい。ただ、橋は川幅の狭いところを選んで架けるので、この御材木蔵付近から両国橋方向へは川幅が狭まり、蛇行している。

 船宿の二階では、安定、安倫の師弟と伊達家家臣数人が、吉原から戻る伊達綱宗の御坐船を待っていた。遊女を身請けするとなれば、引祝いと称して、祝儀、配りものなど、大盤振舞いせねばならない。ましてや大名である。助広には想像つかない段取りがあるのだろう。綱宗は早くから吉原へ繰り出している。

 行きも帰りも、この船宿で乗り換える手はずだった。船着場には、定紋入りの幕を張った堂々たる御坐船が係留されている。

 大名たちは華美を競い、屋敷がそのまま浮かんでいるような御坐船が続々と建造されている。だが、そんな派手な巨船で、吉原へ乗りつけるわけにはいかない。大名の遊興がお忍びである分には公儀も目をつむるが、寛容なわけでは決してない。

「汐留から目立たぬ船でお出ましになれば、乗り換えずともよろしいのでは……?」

 助広は首をかしげたが、

「大名には見栄というものがある」

 安定が一笑に付した。

 船宿の裏手が川べりへ張り出し、涼み台の造作になっている。陽が落ち、助広は茜色から紫へと色を変えていく空に、燃え立つ雲を見ていた。

「あんなふうに、ふわりとした匂口の刃文を焼きたいものです」

 呟くと、安定がさらに苦笑を転がすような声で、いった。

「おぬしは、見るものすべてを刀作りに結びつけてしまうのだな」

「それはそうです。刀を作ることが私には一番楽しいのですから」

 安定の頬が不快げに隆起した。

「わしとて、刀作りが一番楽しいことに変わりはないわ」

 何故、安定の機嫌をそこねたのか、助広にはわからない。

 安定はそっぽを向くように、

「安倫」

 と、傍らにいた弟子へ声をかけた。

「助広殿が江戸にいる間、せいぜい勉強させてもらうがよい」

 安倫こと余目五左衛門は元来が伊達家家臣だから、周囲の侍たちとも面識がある。時折、挨拶は交わしていたが、特に話し込む様子はなかった。

「おとなしいな」

 と、助広。安倫は小さく頷いた。

「主家を脱したことになっているんですよ。大きな顔はできません」

「山野加右衛門様は、もうおぬしのことは忘れたといっていた。あの脇差ともども帰参したらどうだ?」

「脇差は主家へお返ししました。でなきゃ、この場にいられませんよ」

 盗んだ脇差を返せば、それですむというものでもないだろう。許可なく禄を離れるのは主従関係を揺るがす重罪なのである。やはり、この男が主家を脱したというのは方便にすぎない。

「食いませんか」

 饅頭が箱で差し出された。黄色に黒味さえあるのが見慣れた小麦粉の饅頭だが、光沢ある白い饅頭だ。丸い形で、両端が尖っている。

「今朝から陸奥守様の家臣たちとともに準備に駆け回っておりましたが、出先で買ってきました。吉原の入口、浅草待乳山の名物となりつつある米饅頭です」

 饅頭は安いものではなく、享保期までは店売りもまだ少ない。

「名前の由来は、よねという女が作り始めたからとも、皮に米粉を使うためとも、女郎の俗称を『よね』と呼ぶからとも、いいます」

 口へ運ぶと、なるほど名物にもなりそうな饅頭だ。止雨の菓子とどちらがうまいだろうか。助広は胸の奧で、止雨の求肥や羊羹と比較した。

「待乳山の鶴屋という菓子屋のものです。かの由比正雪が十七歳で奉公にあがり、やがては養子にもなったが、不首尾があって、勘当されたという店ですよ。むろん、真偽不明の噂話ですが」

 米饅頭を食いながら時を過ごすうち、川面に薄闇が流れ、西の空は濃紺に色を変えた。暗くなると、船の交通量は目立って減る。

 川岸に待機していた伊達家家臣たちが、そわそわと動き始めた。まず、供侍や小者たちが乗った小型の屋根船が着岸した。

「お戻りのようだ」

 安定が、夜の色となった川面を指した。先着の屋根船よりだいぶ遅れて、灯りをともした御坐船が現われた。格別に大きな船ではない。侍臣が分乗する供船をもう一艘、後方に従えている。大名の御坐船は人数分の槍を船端に立てるというが、それもなく控えめだ。しかし、あたりの船とはさすがに風格が違う。

 夏のことで、障子ははずしてある。簾を半分ほど巻き上げ、人影が見える。姿や形はわからないが、あの中にすみのがいる――。

 たちまち、助広の心拍が落ち着かなくなった。そして、それは胸騒ぎに変わった。

「あの船も、お付き衆でしょうか」

 奇妙な動きを見せる三艘がある。追走してきたのではなく、逆方向から隅田川を上ってきて、すれ違いざま、御坐船の前後に回ったのだ。

 安定が口を尖らせるように、いった。

「お付き衆なら、吉原から従ってくるだろう」

 一艘は葦簀(よしず)で屋根をかけた小型の屋根船で、二艘はごく普通の荷運び船だが、荷は空のようだ。その舳先は御坐船を包み込もうとしているとしか見えなかった。

 川岸の誰もが声をあげた。荷船二艘が御坐船と供船それぞれの進路をふさぎ、同時に衝突した。荷船へのし上げる形となった御坐船は大きく揺れ、その揺れがおさまらぬうち、周囲が赤く染まった。御坐船は炎に包まれた。横に並んだ屋根船から、火を投げ込まれたのである。

 船宿の周辺は騒然となった。助広は何が起きているのかもわからず、またわかったところで、なすすべもなかったが、とりあえず立ち上がった。周囲がそうしたからだ。

 もつれあう船の間で、槍らしきものを振り回す者もあった。傾(かし)いだ船から人影が次々と水面へ転がり落ち、水柱が立った。

「これはいかん」

 安定が叫び、涼み台から駆け下りた。安倫も伊達家家臣たちも続いたが、助広は突っ立っている。茫然自失しているわけではなく、自分が右往左往したところで、何の役にも立たないとわかっているからだ。傍目には、こうした性格が冷淡とか傲慢と見られるのである。

 綱宗の御坐船に従っていた供船が舳先をふさいだ荷船をおしのけ、ようやく追いついて、落ちた者たちに手を差し伸べている。

 川岸にいた家臣たちも、係留してあった複数の船へ飛び乗り、船頭を怒鳴りつけながら、漕ぎ出した。

 衝突した二艘の荷船は転覆し、もう動いていない。乗っていたのはおそらく船頭だけで、その船頭は残る屋根船に拾われたのだろう。屋根船はすでに御坐船を離れ、下流へと足を早めている。夜の帳(とばり)の奥底へとその姿は溶け消えた。

 御坐船は派手に燃えていた。救助の船を照らし出す炎が漁火のようだった。

 ようやく助広も川岸へ下りた。安定が、冷たく振り返った。のんきな男だ――。そんな眼差しを向け、いった。

「陸奥守様は、どうされたかな」

「叫んでおられます」

 助広は愛想なく、いった。

 しばらくすると、怒号とともに一艘が岸へ近づいてきた。叫んでいるのは、綱宗だった。救い出されたのである。

「戻せ! 戻せ!」

 水中にまだ人がいるらしい。それを引き上げるために船を戻せというのだ。しかし、救助の船は他にも出ている。

 綱宗は岸へ上がった。家臣たちの、

「とりあえず、着替えを」

 という声を振り切り、ずぶ濡れのまま、仁王立ちして、

「薫を探せ! あきらめるな!」

 叫び続けている。

 とても近づけた空気ではないのだが、安定は声をかけた。

「おお。お前たちか」

 振り返った綱宗の目許がきびしい。

「船がぶつかったと思ったら、油をまかれて、松明が投げ込まれた。槍も突き立てられた」

「すみの、いえ薫様は……?」

「一緒に飛び込んだが、水中で手が離れた。傷を負ったようだったが……」

「何者でしょうか、あの屋根船は」

「すみのに吉原から出てこられては困る輩がいる、ということよ」

 続々と濡れた者たちが岸へたどり着く。

「お屋形様が濡れたままでは、他の者たちも着替えるわけにまいりませぬ」

 と、家臣が数人がかりで、綱宗を船宿へと促した。それを見送りながら、安定が助広と安倫へ、いった。

「どこかの岸に上がっているやも知れぬ。手分けして、探してみるか」

 助広は安倫に小声で尋ねた。

「このあたりは深いのか」

「背が立たないだけの深さがあれば、充分に深いといえますね」

 溺れるには、という言葉が省略されている。着衣のままでは泳げるものではない。

 龕灯や松明をかざして、男たちは川岸を駆け回った。隅田川の蛇行を考えると、対岸の方が漂着しやすい。かなり迂回することになったが、両国橋を渡り、見回りもした。

 芝の伊達屋敷からも応援の船が駆けつけた。しかし、一時(二時間)ほど費やしても、すみのの姿も手がかりも見つけられなかった。野次馬が増えるばかりだ。

「今夜はもはやこれまで」

 綱宗が打ち切りを告げた。屋敷から届けられた小袖に着替え、袴をはき、颯爽とした若侍という出で立ちである。

「夜明けとともに、家臣を繰り出して、川沿いを捜索せい」

 焦燥しているが、声は強い。 

「あの屋根船もどこのものか、きっと突き止めよ」

 焼け焦げた御坐船は半ば水没した姿で、船着き場へ引き寄せられている。人目につかぬよう、早々に処分されることになるだろう。

「役人が乗り出すと面倒ゆえ、今夜のこと、他言せぬよう」

 綱宗の侍臣から、助広たち、船宿の者たちに釘が差された。江戸初期に牢人を大量発生させた大名取り潰し政策は過去のものではある。しかし、江戸市中で問題を起こせば、家名の危機となりかねないことに変わりはない。

「両国橋から遠目だったのが不幸中の幸いだな」

 安定が独りごちた。

 両国橋は現在の橋よりも下流寄りで、隅田川が大きく蛇行する真ん中に架けられており、事件現場の一部は死角に入るばかりか、五町(約五四五メートル)ほども距離がある。でなければ、人目が増えただろう。 

 
 
 両国広小路は明暦の大火後の防災対策として、市内要所に作られた火除地のひとつである。江戸中期の明和・安永年間には見世物小屋や茶店の建ち並ぶ盛り場となるが、両国橋もまだ仮橋しか架かっておらず、その完成は二年後となるこの頃、さしたる賑わいもない。今夜の船火事を面白がる通行人たちの声が一瞬だけ、風に混じった。

 その広々とした夜道を歩きながら、三人の刀鍛冶は互いの重い足音を聞いていた。助広は本所、安定と安倫は神田へ戻るのである。両国橋までのほんの数歩の道連れだが、あっさりとは別れられなかった。

「先刻の陸奥守様の御言葉ですが――」

 助広が切り出した言葉が終わらぬうち、安定は気短に応じた。

「何かな」

「すみの様に吉原から出てこられては困る輩がいる、と仰せられたのは――」

「決まっておる。すみの様と顔を合わせれば正体が露見してしまう者がいるということだ」

「虎徹師ですか」

「いうまでもない」

「しかし、天下の伊達様の船を襲うというのは――」

 やり方が派手すぎはしないか。一介の刀鍛冶にできることではない。

「虎徹には、うしろだてがいるのだろうよ」

「打ち首になったとか、替え玉とさえいわれる虎徹師に、うしろだてが……?」

「いや。うしろだてがいるからこそ、打ち首になった虎徹に替え玉を立てることが可能だったとも考えられる」

 安定はそういったが、助広には南蛮の言葉を聞いている気さえした。自分とは関わりのない世界のように遠いのである。すみのの安否を除けば――。

「すみの様のことは、明日の捜索に望みを託すしかないな。我々は手助けできぬが」

 と、安定。明日から、彼らには御前鍛錬が始まる。

 安定の言葉には助広の心中の動揺を探るような気配があったため、彼は冷静であろうと意地になった。

「今夜は充分に寝ることにします」

 助広は曇りのない声で、いった。

「助広師匠」

 安倫が背後から声をかけた。

「太守……お屋形様はお休みになれぬと思いますよ」

「私は御前鍛錬のために江戸へ来た」

 両国橋西詰にある番所の明かりが近づき、助広は振り返った。安定師弟との分かれ道だった。

「明日は火入れ式です」

 
 
 翌日。

 東叡山に据えられた鍛錬場の火入れ式が、将軍・家綱臨席のもと、執り行なわれた。五人の刀工のために作られた五基の火床、それぞれに火を入れていく。

 刀工たちは金敷の上で長い釘を叩き、それだけで赤く発熱させる。これで付け木に火をつけ、火床の炭へ移す。

 あざやかな職人技を見せつけられ、家綱は身を乗り出した。まだ少年の面影を残す二十歳の四代将軍である。蒲柳の質で、何度か生死にかかわる病をくぐった体躯には肉が薄く、頬に疱瘡のあとを残している。しかし、目の輝きは強い。

 注連縄をめぐらせた各自の火床で、刀工たちが鞴を吹くと、花が開くように紫色の炎が噴き上がった。熱が回るにつれ、炎は橙色となる。ここまでは孤独な助広にも可能だが、ここから先の鍛錬となると、手が足りない。他の刀工たちには弟子たちが先手(助手)についている。しかし、助広は弟子を伴っていない。

 白戸屋が手配してくれたのだが、どういう手違いがあったのか、この場に現われなかった。

「私があとでお手伝いしましょう」

 そういったのは、安定の弟子の安倫だった。しかし、手は空きそうにない。刀工たちは将軍御前で、鎚音の高さを競うように、火花を散らしている。鉄塊をつぶし始める者、下鍛えを始める者、それぞれだ。

 とりわけ、派手な鍛錬ぶりを見せているのが虎徹だった。もちろん、大鎚をふるうのは弟子たちで、三人の若者が交互に打っていた。横座に座る師匠は小さな鎚で金敷を叩きながら彼らに合図を送るわけだが、一糸乱れぬ呼吸の合わせ方を見ると、よく鍛えられた弟子たちであることがわかる。

 助広にしてみれば、下鍛え済みの鉄を大坂から持参しているので、この場で鍛錬の必要はないのだが、それとは別に実演披露のための南蛮鉄も用意している。ひとつひとつが瓢箪形をした鉄塊である。

 さほど大きなものでもないので、ひとつずつ箸にはさみ、火床へ入れて、赤めてはつぶした。もともと南蛮鉄は平べったい形状であり、力自慢の刀鍛冶だから独力でも何とかなるが、できれば、先手の大鎚に頼りたいところだ。

 形だけの臨席だろうと予想された家綱だが、腰を据えて、刀鍛冶たちを見守っている。意外な長時間の作業となった。

 助広はつぶした南蛮鉄を熱いうちに水へ入れ、焼入れする。水ベシと呼ぶ工程だ。これがある程度の量になると叩き割り、割れ口から鉄質、炭素量を選別していく。日本刀は皮鉄と芯鉄の二重構造であるから、良質の鉄は前者に、劣る鉄は後者に用いる。場合により、炭素量を調整して卸し鉄とすることもある。

 今の助広にできるのはここまでである。割り揃えた南蛮鉄は下鍛えに回すなり、上鍛え段階の和鋼に混入するなりするわけだが、一人ではそれはかなわない。

 家綱は寛永寺法華堂の広縁に設えられた席を立ち、庭へ降りた。若き将軍の好奇心の強さに、侍臣たちは当惑している。鍛錬の場に近づけば、炭塵にまみれ、飛び散る火花を浴びることになる。

 刀工たちは遠慮して、仕事の手を止めた。

「かまわぬ。間近で見たい。続けよ」

 侍臣を通じて、そう命じられはしたが、途端に鎚音がおとなしくなった。が、虎徹だけは挑戦的とも聞こえる音量で、鍛錬を続けている。自然、家綱の目と耳もそちらを向く。

 そんな光景をよそに、照れ性の助広はせいぜい小さくなっていた。しかたなく、つぶした南蛮鉄を割り続けていたが、人とは違うその作業が、かえって目立った。虎徹の散らす火花から顔を逃がした家綱が、助広に着目した。歩み寄った。

「それは何をしているのか」

 お答え申せ、と腰物奉行が促した。

「鍛錬前の鉄をつぶしましたので、割れ口から性質を見極め、選り分けております」

「どのように見極める?」

 助広は家綱ではなく腰物奉行の鼻先に南蛮鉄を示した。が、奉行は遠慮し、家綱が覗き込んだ。

「このように鋼の部分はきれいに割れます」

「おお。割れ口が白い」

 南蛮鉄はタタラ製鉄で生まれる和鉄ほどには部位による性質のばらつきはないが、そのまま鍛錬できるほど均質でもなく、不純物を含んでいる。輸入時期、輸入経路によっても差違がある。

「雙」第6回

「雙」第6回 森 雅裕

 助広は呆然と床板の杢目を見つめている。彼がついていける話ではない。すみのは大坂での彼の幼馴染みである。それ以外のすみのなど知らない。

「私が存じているすみのは、興光という職方の家におりました。それが今、吉原で薫と呼ばれ、陸奥守様の妹君であると仰せられますか」

「いかにも。わが父、大慈院様(伊達忠宗)の情けを受けた女子が――あきの殿というたな――奉公を終えてまもなく、産んだ娘じゃ」

 助広の知るすみのは、興光の妻の連れ子だった。その妻の名は記憶にないが、伊達家先代の手つきだったというのか。そのような貴種がどうして苦界へ身を売るはめになったのだろうか。興光は彼女の血筋を知らなかったのか。大名家ゆえに騒動の火種となることを危惧して、母のあきのは口をつぐんでいた――いや、口止めされていたということは有り得るが……。

「そして、あきの殿は興光と、それ、世間でいう所帯とやらを持った。すみのを伴って、な。あきの殿存命のうちは東下を避けていたが、亡くなってから、興光は江戸へ出た。が、借金を作って、その工面のために、すみのを吉原へ沈めた。大火の年――今より三年前のことじゃ。翌年、興光は死んだようじゃが、むろんのこと、すみのは死に目にはあえなかった。義理の父娘ゆえ、どのくらい情が通っていたかはわからぬが」

「もっとも、興光の死に目にあった者がいるという話は聞いたことがございません」

 と、安定が愚痴でもこぼすように口をはさんだ。

 助広は低く声をしぼり出した。

「陸奥守様。長く離れ離れであった薫様が――」

 薫とやらに敬称をつけるしかない

「どうして妹君に間違いないといえるのでございますか」

「会えばわかる。決め手はある。いずれ……」

 綱宗はそれだけをいった。いずれ、助広にもわかるというのだろうか。

「そのような妹君がおられることは、以前から御存知だったのですか」

 なら、今まで、どうして放っておかれたのか。

「行方の知れぬこと、わが父が亡くなる時に聞いた」

「それにしても、陸奥守様が自らお出ましにならずとも、御家来のどなたかの名前で落籍(ひか)せればよろしいのでは……」

「そうした卑怯未練な大名ではありたくない」

 この程度の方便を卑怯未練というのだろうか。潔癖さは政治の世界ではたいした役には立たない。助広は、この青年大名と伊達家の将来に少々不吉なものを感じた。むろん、後年の「伊達騒動」など予見できるはずもなかったが。

「陸奥守様がこのようなお家の事情を私ごときに打ち明けてくださる理由がわかりかねます」

「お前は薫の――いや、すみのの幼馴染み。それが理由じゃ」

「それはつまり、面通しをせよとの仰せでございますか」

「うむ」

 伊達家の血筋であるかどうかはともかくとして、すみのと薫が同一人物か否かを助広に確認させようというのだ。助広の記憶にあるすみのは九歳の少女だが、面影くらいは見出せるだろう。

 苦界に沈んだ幼馴染みを目にするのは気分のいいものではなさそうだが、助広はもう後戻りできない。

「では、吉原におられるということは、どうして御存知になったのですか」

「伊達家当主となって以来、気にかけていたが、ようやく興光の兄にたどり着き、興光に多額の借金があったことは突き止めた。そんな男に娘がいれば、行方は想像できよう。評判の美貌であったそうじゃからの」

「兄とは……興里虎徹でございますか」

 その名を出すと、

「この助広は昨日、興里虎徹の仕事場を訪(おとな)ったようでございます」

 安定が補足した。

 綱宗の細い顎が、やや上を向いた。

「何か刀作りの秘伝でも盗み見たか」

「そのようなことは別に……。しかし、いささか気になるものを目にいたしました」

「何か、それは」

「枡です」

「枡……?」

「刀身彫刻など行なう工作場に、二つ三つございました。台所にあったならば米でも計るのでしょうが……」

「そんなものが気になるのか」

「虎徹師は下戸とも聞き及びます。酒を酌まぬなら、枡を何に使うというのか……」

「そんなことに着目するからには、何に使うかを知ってのことであろうな」

「鐔作りに使うのでございます」

「鐔……? 枡を、か」

「鐔は肉置きや面取りが命、と申します。特に耳(外周の縁)は目立ちますので、素人の目にも上手下手がわかります。この部分に一定の角度でヤスリがけを行なうために、鐔を枡へはめ込むように斜めに入れるのです。そうすれば、工作中の鐔は安定します。場合に応じて、通常の一合枡ではなく浅い枡を使うこともあります。虎徹師のところには、上部を切り取った枡もありました」

「なるほど。枡を使うとは面白い」

 笑っても、綱宗の端整な顔立ちは崩れない。

「面白いのは、つまり余人が考えつかぬ工夫だからでございます」

「ふむ。なら、どうしてお前にはわかったのか」

「以前に枡を使う職方を見たことがございますゆえ。長曽祢興光です」

「虎徹の弟ならば、技法を教え合うこともあったのではないか」

「しかし、虎徹師のところにあったのは京枡でした」

 織田信長、豊臣秀吉が容積の公定を図った京枡だが、江戸には江戸枡があって、一定していない。京枡に全国統一されるのは寛文九年(一六六九)のことである。その京枡も豊臣時代の古いものは若干小さい。

「ちらりと見ただけですからはっきりは申せませんが、古いもののようでした」

「ふむ。江戸枡でないとなると、その枡は興光が上方から持ってきた遺品ということも有り得るが……」

「とはいえ、安定師匠」

 と、助広は寄せた眉を安定へ向けた。

「虎徹師はなかなかに器用な人物のようですが、鐔をも作るのでしょうか」

「刀工が鐔を作ることは昔からある」

 古くは、刀を一本打ち上げるごとに刀鍛冶自らがハバキ(刀身と鞘を固定する金具)と鐔を鉄で作り、添えることがあったようだ。分業が進んだ江戸期でも刀鍛冶が鐔を作ることはあるが、あくまでも余技である。したがって、武骨すなわち素朴を身上としている。本職の金工のような濃密な彫刻はもちろんやらないし、肉置きや面取りも精巧なものではない。

 助広は鐔は作らない。余技に精を出す暇があったら、刀作りを研究したいと考えている男である。これは性格の問題であって、職人としてどちらが正しいかの問題ではない。

「虎徹は多芸を誇るところがあるから、枡を使って、精巧な鐔を作ってもおかしくはない。あの男の刀身彫刻を見ると、見事なものだ」

 安定が、いった。

「昔から器用な職人ではあったわけだが、もはや余技の域を越えている」

 綱宗も涼しい目許を助広へ向け、説得でもするように、いった。

「余技ではなく、本職かも知れぬな」

「刀工ではなく金工かも知れぬということでございますか」

「今の虎徹は興里ではなく興光……という風聞が立つのも無理からぬことじゃ」

 綱宗の耳にも達しているらしい。となると、もはや一笑に伏すべき風聞ではない。

「興光師の墓所はどうなっているのでしょうか」

「興里虎徹の住む池之端近辺なら、上野山内が手っ取り早いだろうが、東叡山の諸院は天台宗だ。長曽祢の一族は法華宗ゆえ、ここらではあるまいな」

 と、安定。過去帳も疎漏なきものでは到底なく、墓所だからといって、埋葬の記録が残っているとは限らない。

「しかし……わかりませぬ。どうして兄弟が入れ替わらねばならぬのでしょうか」

 助広は低いところから疑問を口にしたが、綱宗は、

「まあよい」

 と、一言で振り払った。

「薫が吉原を出たなら、虎徹にも会わせればよい。他人に見分けがつかずとも、興光に育てられた娘ならわかるはず」

 めまぐるしいほどに、行く先々で話が飛躍する。これが江戸という土地柄なのか。助広は綱宗の屈託ない微笑の前で、頭を下げるしかできない。

 
 
二・地鉄研

 翌日は寛永寺で御前鍛錬の最終準備をすませたあと、助広は三善長道と肥前忠吉に誘われ、山野加右衛門を訪ねた。

 このあと、助広は吉原からの帰り船を迎えに出向くことになっている。が、黙っていた。とはいえ、気になることがあった。あるいは加右衛門なら、何か教えてくれるかも知れない。

 加右衛門の屋敷は本所に開削されたばかりの横川の東岸にある。白戸屋の寮がある隅田川寄りの地域とは、同じ本所とはいっても格段の差があった。まだ沼地と田畑が多く残り、ところどころに雑木林がわだかまっている、そんなところだ。閑静というより陰鬱なたたずまいだった。

 長道の声がそんな空気の中に響いた。

「虎徹も以前は本所に住んでいたという。神田鍛治町にもいたらしい。落ち着かん男だな」

「本所には山野加右衛門。神田には大和守安定。行く先々でそうした知己を作り、さっさと離れる。それが虎徹の生き方なのだろう」

 と、助広。

 忠吉はそんな会話には加わらず、破れた黒板塀の先に現れた門構えを見ている。

「人斬り屋敷と近所では呼ばれているらしい」

 忠吉は、いった。が、けろりとしている。

「誰も近づかない」

 加右衛門は公式にも首斬りではなく人斬りと呼ばれている。

 助広は開け放しの門を先頭に立ってくぐった。

「なのに、新三郎さん、藤四郎さん、どうして近づく?」

「俺たちは刀鍛冶だ。刃味の奥義を授けてもらわねばならん」

 そういったのは長道だ。のちに彼が「会津虎徹」と称揚されるのも、本家の虎徹と同じく山野加右衛門及び養子の山野勘十郎による実用面での指導の賜物である。

 江戸後期の柘植平助方理の『懐宝剣尺』及び山田浅右衛門吉睦による『古今鍛冶備考』の刃味位列では、忠吉、長道はともに虎徹と並んで第一位の最上大業物に列せられ、助広はどういうわけか青年期の楷書銘の作が大業物(第二位)、壮年期の草書銘の作が業物(第四位)という評価にとどまっている。もっとも、この位列は刃味を称揚される安定が良業物(第三位)でしかないという、いささか偏向した内容ではあるが。

 名門の三代目ともなると、愛敬を振りまかずとも世渡りできるのか、忠吉は求道者風だ。それに対して、長道は垢抜けている。むろん、忠吉に比べれば、という程度ではあるが、丸顔に稚気が残り、親しみやすい容姿の持ち主だ。声もいい。芸能面での才能がありそうだ。

「無抵抗な肉塊を斬り刻んだところで、刀としての評価のすべてが決まるものかね」

「何を斬るかによって、刃の固さ、刃角のつけ方も異なる。人体ばかりが相手とは限らん」

「それはそうだ。戦となれば、相手も得物を振り回して抵抗する。打ち合った場合の強靱さも刀の値打ちだろう。刃味が悪くとも、鉄棒で殴れば、人は倒れる」

「大体、人を殺すなら、斬るより刺す方が確実だ。斬れ味なんぞ、たいした意味はない」

 こんな話をしている刀鍛冶たちも充分に「誰も近づかない」人種だった。

 玄関で案内を請うと、屋敷内には思いのほか、人気(ひとけ)があった。加右衛門には後継者・勘十郎ばかりでなく門人たちがいる。

 牢人とはいえ、旗本並みの拝領屋敷である。荒れてはいるが、広い庭で、彼らは巻き藁を斬ったり、太い木刀をふるい、土壇へ撃ち込む稽古をしていた。山野家では、朝三百回、夕八百回、首をはねる稽古をするという。

 山野勘十郎成久(のち久英)は二十六歳。養父にもまして、肩の筋肉が発達している。彼が手にしていた抜き身を見せた。刃先の鉄色が生々しい。

「寝刃(ねたば)を合わせてある」

 刀は磨き上げた状態で使うものではない。刃先に微細な疵をつけた方が、摩擦係数が減り、刃味は向上する。そのため、実用の前には刃先に軽く砥石をあてる。それが寝刃である。理屈ではそうなのだが、助広の経験では、磨き上げた刀と格段の差はない。

「斬る対象によって、寝刃にあてる砥石の角度を変える。また刀によって、砥石の使い方も違う。備前物は名倉砥で大筋違いに研いだ上を合わせ砥で仕上げ、相州物は名倉砥で研いだあと、合わせ砥で横に――」

 勘十郎の説明を忠吉は熱心に聞いているが、長道は稽古の方法に興味があるらしく、門弟から太い木刀を借りて、振り回している。気鋭の刀工たちは貪欲に何かを吸収する気だ。

 助広は彼らからやや距離を置いていた。この屋敷の主、山野加右衛門も門弟たちから離れ、

「……その気にならぬ刀鍛冶はおらぬ」

 二日前、寛永寺で聞かされた言葉を繰り返した。「気が変わったら、いつでも拙宅を訪ねられよ」という誘いのあとの言葉だった。

「やはり来たな、おぬしも」

 いいながら、池を見ている。多くの巻き藁が放り込んである。青竹を人骨に見立てて藁を巻き、これに一晩、水を吸わせると、ほぼ人体に近い手応えになるのである。

「助広殿。手を貸してくれるか」

 それを引き上げるのを手伝わされた。そして、台に立てる。江戸前期には横たわった死体ばかりでなく生きた罪人でも試し斬りを行なうので、相手が立っている場合も想定しているのだ。

 助広は周囲に人がいないのを見計らい、いった。

「虎徹師が小伝馬町で打ち首になったという話を聞きました」

「…………」

「二年前だとか。もしや、山野様が御存知ではないかと、こちらへうかがったのですが……」

「虎徹は今、生きておるではないか」

「はい。ですから、それが――」

「わしはな、すでに六千の首を斬った。勘十郎にお役を譲るまでには、あとどれほど斬ることか。どこの何者を斬ったか、いちいち覚えてはおられぬ」

「…………」

「虎徹が刑死したなら、その工房が今なお鍛冶職を続けているというのもおかしな話だ」

「そうです。連座しそうなものですが」

「もっとも、罪の軽重はお上の裁量だ。町人の場合は連座もさほどきびしくはない」

『公事方御定書(御定書百箇条)』の成立は八代将軍・吉宗の寛保年間で、それまでは前例に従う慣習法である。 

 気づくと、長道が思わぬ近くにいた。

「杏子の木が何本も植わっていますね。実を取ってもよろしいですか」

 そのあとに続けた。

「山野様はお役目とはいえ、罪人につながる身内――女、子供もお斬りになるのでしょうな」

 長道の言葉は遠慮がない。しかし、どういうものか、表情の豊かなこの男には、憎めない空気がある。加右衛門も気にさわった様子はない。

「そうよな。女、子供も数知れず斬った。誰もが知っている例をあげれば、慶安の変だ」

 天下を震撼させた由比正雪を首魁とする謀反事件である。慶安四年(一六五一)七月。三代将軍・家光が薨じた三カ月後のことだ。

 正雪は駿河出身の楠流軍学者で、神田連雀町に道場を開いて、旗本や大名家臣の声望を集めた。彼は幕府の牢人対策を憂えていたという。

 幕府転覆の壮大かつ無謀な計画は――一味は二手に分かれ、正雪自らが駿河の久能山を攻略し、駿府城も乗っ取る。江戸では塩(煙)硝蔵に火をかけ、江戸の町々にも火を放つ。あわてて登城する幕閣をも襲撃する、というものである。しかし、直前に訴人する者たちが相次ぎ、正雪は駿府の宿を包囲されて、自害した。

「一味の身内、三十数人が鈴ヶ森と小伝馬町で処刑された。磔になった者もいたし、打ち首となった者もいる。二歳、五歳という子供たちも目こぼしされなかった」

 その幼児の首を加右衛門がはねたのだろうか。さすがに、それは訊けなかった。

 加右衛門はしかし、明瞭な声で、いった。

「この屋敷が抹香臭いのは、年中、仏壇の罪人どもに焼香しているからだ」

「実の成る木が多いのも、その匂いで抹香臭いのをごまかすためですか」

 と、長道。ちぎった杏子の実で、左右の袂をふくらませている。

「果実は止雨殿の菓子用だ。杏子は果肉をつぶして、寒天に交ぜ、竹の皮に延ばす。あるいは砂糖漬けにする」

 助広は加右衛門に尋ねた。

「止雨殿はおいでですか」

 彼は山野家の居候と自称していた。

「ほお。助広殿はあの菓子師に関心がおありか」

「いささか」

「裏の離れが止雨殿の住まいになっておる。が、今は来客中だ」

「どこぞの茶の宗匠でも……?」

「下総佐倉の堀田上野介様の御用人だ。この屋敷に大名、旗本の使いは珍しくないが、わしよりも止雨殿を訪ねる方が面白いらしい。刀の試し斬りを依頼すると、その足で離れの方へ行ってしまう。おぬしら、止雨殿の菓子が目当てなら――」

 加右衛門は門弟に命じて、菓子を運ばせた。紙に包んである。

「これを進ぜる。羊羹だ。室町の頃より伝わる、小麦粉と赤小豆餡を練ったあとで蒸すものではなく、赤小豆に砂糖と心太を合わせて煮た新しい試みだ。ただし、茶は出さぬゆえ、持ち帰って食されるがよい」

 人斬り山野加右衛門、変わった男だった。

「近江国長曽祢庄には、晒し屋の井戸というものがあるそうだ」

 唐突に、そういった。

「晒し屋……?」

「染物屋のことだ。由比正雪は駿河由比の染物屋の倅だが、その父がもとは長曽祢の住人で、石田三成の佐和山城が落城した折、多くの職人と同様、他国へ逃げた。その父が使っていた井戸だそうな」

 正雪は駿河、虎徹は越前の生まれだから、むろん、二人に直接の接点はない。しかし、両方の親が長曽祢の出身というのは、何かの因縁なのだろうか。

「斬ってみるか」

 加右衛門は巻き藁を立て並べ、離れていた忠吉も誘った。三人の刀鍛冶は普段の差料としている自作脇差を持参している。交替で斬った。そして、それぞれの作について、加右衛門からいくつかの指導を受けた。

 その帰り道で、

「有意義な訪問だった」

 忠吉は素朴に目を輝かせていた。

「ところで、二人は山野様と何を話していた?」

「杏子の食い方を教わった」

 長道はそう答え、助広は、

「長曽祢の井戸の話だ」

 簡単に、いった。

「それは焼入れによい水質の井戸の近くには杏子の木が育つというようないい伝えか何かなのか」

「違う」

 助広と長道の返事が重なった。

「雙」第5回

「雙」第5回 森 雅裕

 助広は話の接ぎ穂を探りながら、尋ねた。

「安定師は虎徹師と同じ兼重門下とか。つきあいはおありですか」

「ないな」

 安定はまるで自慢でもするように高らかに、いった。

「虎徹が江戸へ現われたのは、慶安の初めであった。鍛冶屋としての腕はすでに持っていたから、刀作りを修得するのに長くはかからなかった。むろん、名刀作りとはまた別だが……。あちこち渡り歩きはしたものの、人づきあいは悪い。特に同業者は」

 そんな虎徹が、昨日は助広を自分の鍛錬場へ招いたのはどういう理由なのか。

「わしもまたもとは越前から流れ始めて、紀州石堂派で学び、江戸へ出てきた。つまり、虎徹にしろわしにしろ、兼重師のもとで、鍛冶屋としてさまにはなったが、年少の頃から寝起きをともにした兄弟弟子ではない」

「長道は、虎徹師が半百の五十歳で江戸へ出たにしては様子が若い、とかいっていましたが……」

「ふん。それは誉めているのではなく、おかしいといっているのだろうな」

「はい。宣伝だとは虎徹師本人も認めておりました」

「宣伝とな。彼奴は言葉まで作りおる」

「売り込みという意のようです」

「ふん。逸話の売り込みは馬鹿にならぬぞ。虎徹が金沢城下にいた頃、加賀中納言・前田利常様の御前で、志摩兵衛正次の刀と虎徹の兜とで試し斬りがあった。まさに斬りつけようとしたその刹那、虎徹は、待ったと声をかけ、兜の位置を直した。気を殺がれた正次は、そのあと斬りつけるのに失敗したが、声をかけねばおのれの兜が断ち割られていたと感じた虎徹は、甲冑師をやめ、刀鍛冶を志したという」

「なるほど。面白い」

「もっとも、場所は越前福居(福井)で、虎徹ではなく和泉守兼重の逸話だとする異説もあり、相手の刀鍛冶は正次ではなく兼巻だとも陀羅尼勝国だともいう。第一、微妙公(前田利常)は二年ほど前に亡くなられたが、隠居されたのは二十年以上も前で、時代が合わぬ。それに、虎徹は甲冑師をやめたわけではなく、今も作っている」

「今も……?」

「もっとも、長曽祢派の職人は江戸に何人もいるから、代作ということも充分に有り得るが」

「虎徹師にはもっと妙な噂もあるようだと聞きましたが」

「長道あたりが何かいっていたか。奴は口が達者なようだ」

「江戸の刀鍛冶から聞け、といっておりました」

「虎徹ははたして虎徹なのか。そんな噂がある」

 安定はあっさりいったが、助広にはその意味するところがつかめない。

「虎徹の出府が五十を過ぎてからというのは誇張だが、若くなかったのは事実だから、彼奴には江戸に旧友もおらぬ。特に、ここ数年は人前に出ることも少ない。われらの師匠の初代兼重が死んだのは万治元年つまり二年前だ。虎徹は葬儀に参列もしなかった。その後、虎徹に会った者たちの間から、以前とは面変わりしたという声があがった。本人は病んだと称しているようだが……。わしも昨日、ひさしぶりに顔を合わせたが、ろくに会話をしておらぬ」

 安定は淡々と語る。

「小伝馬町で百叩きにあったろくでなしが、兼重一門にいた。江戸を追われ、今は消息不明だが、牢の中で、そいつは虎徹に会ったそうだ」

「え……?」

「それも二年前だ。ちゃんと言葉を交わしたという。その虎徹は打ち首になったそうだ。彼奴が欠席した初代兼重の葬儀はそのあとだった」

「それは、つまり――」

「今の虎徹は偽者――替え玉かも知れぬということだ」

「牢に入ったというのは、どういうことでしょうか。何をやったのですか」

「さあ……な」

「虎徹師が刑死したなら、一門は連座しなかったのでしょうか」

「今も鍛冶屋を続けているのだから、そういうことだろう。奇妙なことだ。秘密裏に処刑されたフシがある」

 死罪になれば、家屋敷、家財は闕所つまり没収される。罪状にもよるが、関係者は連座、家族には縁座という累が及ぶことがある。もっとも、連座していないからこそ、真偽がわからず、噂の域を出ないのであるが。

「刑死は何かの間違いでは……? 忽然と江戸に現われた刀鍛冶ですから、いろんな憶測が流れるのでしょう」

「確かに、江戸に現われる前の虎徹を知っている者は、この町にはいない。弟子たちの中には、虎徹が越前の甲冑師だった頃から師事している者もいるが、師匠に秘密があっても、口外するまい」

「身内はどうなのですか。家族は……」

「いない。したがって、弟子の中から興正を選んで養子にした」

「しかし、替え玉に刀が作れますか」

「おぬし、昨日、虎徹のところへ行ったのだろう。元気な盛りの弟子たちを見たはずだ。虎徹こと長曽祢興里には興正を初め、興久、興直といった腕のいい弟子たちがいる。刀はそいつらに作らせることができる」

 機械化されていないこの時代、刀剣はどんな名人でも一人では作れない。師匠が監督する工房の作といえる。むろん、師匠がどこまで自ら手がけるかは、場合によって差があるが、すべて弟子による代作ということも、職人の世界には珍しくない。それは贋作とは違う。助広自身、十代後半から、父である初代助広の代作代銘を行なっている。

「しかし、今回の御前打ちは人前での鍛刀です。それも、公方様じゃありませんか」

「公方様は初日の火入れ式と最後の献納式に臨席なさるだけだ。他の幕閣、役人たちも作刀の一部始終を御覧にはならぬ。われら刀工がやってみせるのは、数日に及ぶ工程の一部だけだ。おぬしとて――」

 安定は目を細めるようにして、助広を見やった。

「すでに下鍛えした鉄を持参している、というたではないか」

「はあ……」

 そもそも、風通しのよすぎる仮設の火床では火力が安定しない。満足いく仕事ができる保証はないのだ。

「どうせ、制作中の刀は監視されているわけではない。むろん、鍛錬場は役人たちが警固しているが、刀には素人ばかり。刀鍛冶が失敗作を成功作にすり替えることは容易。虎徹の鍛錬場は池之端にある。東叡山寛永寺の麓だ」

「では、虎徹師になりすましているのは……」

「誰だか、いうまでもあるまい」

「双子の興光師ですか」

「虎徹にそういう弟がいることは以前から知っていた。実をいえば、顔を見たこともある。先日、おぬしには黙っていたが……」

 その先日、安定が「人の世は面白いもの」といったのは、このことだったようだ。

「興光師は二年前の春に亡くなったと、虎徹師から聞きました」

「さて。死んだのは虎徹の方かも知れぬ、ということよ」

「安定師匠。そこまでいえば、噂や憶測を越え、他人への中傷に聞こえます」

「そうよな。身内の証言が聞きたいところだ」

「しかし、虎徹師に身内は……」

「興光の身内だ」

「え……?」

「興光には娘がいた」

「はい」

「妻の連れ子だがな。その妻はすでに……」

 大坂で没している。それは助広も知っている。

「そして、興光は血のつながらぬ娘を棄てた。いや。売ったのだ」

「売った……? まさか」

「その、まさかだ。娘は吉原におる。三年前の夏に売られ、禿を経ずに『突き出し』で見世に出た」

 助広は驚くよりも、咄嗟には理解できなかった。

「今や吉原京町二丁目山本屋で、薫という評判の格子女郎となっておる」

「格子女郎……というのは?」

「太夫の次の位だ。もっとも、つとめを続けておれば、遠からず太夫に出世するはずの傾城だ」

「その薫とやらが、自分の素姓をぶちまけたとでもいうのですか」

 下級遊女ならともかく、太夫の次位ともなれば、気安く身の上話をするとも思えなかった。

「にわかには信じられまいな」

「吉原へ行けば、会えるのですか」

「一介の鍛冶屋がいきなり行って、会える端女郎じゃねぇ。会える人間は限られ、しかも、身の上話を聞くことができる人間はもっと限られる。おぬしもまず、そうした選ばれたお方と近づきになることだ」

「どこのお大尽ですか」

「お大尽なものか。殿様だ。お大名だ」

 大名道具といえば、遊女の世界では太夫を指す。宝暦年間に絶えるまで、最高位の遊女であり、茶の湯、活花、和歌、音曲などを嗜む教養婦人である。吉原では七十余人の太夫を数えるという。それらを差し置いて、大名を惹きつける格子女郎がいるのか。

「あ。では、安倫が仕えていた……」

「いかにも。仙台候だ」

 仙台伊達家の当主・綱宗は独眼龍と畏怖された政宗の孫である。万治元年に没した父・忠宗のあとを継いだ。それから二年。

「今年で二十一歳におなりだ」

 そんな歳で、吉原通いをしているのだろうか。

「理由があるのだ。いろいろと」

「理由とは……?」

「お大名の事情をわしの口からいえるものか。聞きたければ、じかにうかがえ」

「しかし、仙台候などとは……」

「仲立ちしよう。わしが」

 安定は仏頂面で、いった。しかし、唇の端が自慢げだ。

「わしはこう見えても、陸奥守様(綱宗)お気に入りの刀工でな」

 引き合わせたいお方とは、伊達綱宗のことだった。  

 これが江戸の刀工なのか。大名とつながりがあることに、助広は敬意よりも生臭さを感じた。

「これよりお目もじにまいろうというのだ。何か不服か」

「いえ。しかし、突然のことで……」

「おぬしには突然でも、陸奥守様に突然でなければ、かまわぬさ」

「どういうことですか」

「おぬしのこと、すでに殿様のお耳には入れてある。引見してくださるとのこと」

「あ……」 

 安定は、こうした勿体つけた話の運び方をする男らしい。

(苦手やな、こんなん……)

 助広は半ば放心状態で、安定の勝手ぶりに抵抗することさえ忘れている。大体、仙台六十二万石の当主が大坂の刀鍛冶なんぞに目通りさせてくれる理由がわからない。若いとはいえ、西に島津、北に前田、東に伊達と称せられる天下三侯の一人であり、家臣からも「お屋形」「太守」と呼ばれる大大名である。

 が、謁見の理由など訝れば、また生意気といわれるだろうから、口には出さなかった。もっとも、黙っていれば黙っているで、張り合いのない奴、といわれるのだが。

 谷中から中仙道へ出て、南へ下ると、長大な侍長屋を連ねる加賀前田家江戸屋敷の向かいに、寺地が広がっている。

「本郷丸山本妙寺だ」

 門は林の奥だ。その前にさしかかり、安定がいった。

「酉年の大火の火元だ」

 明暦三年(一六五七)正月十八日、この地から起こった火は、前年十月末以来、一滴の雨も降らない井戸涸れの江戸にたちまち広がり、神田、日本橋、八丁堀を焼いて、対岸の本所、深川にまで飛び火した。一旦は鎮静したが、翌十九日には小石川の新鷹匠町から再び出火、市ヶ谷、番町、京橋、新橋まで焦土と化し、江戸城天守閣をも類焼。さらに夕刻には麹町から三度目の火があがり、外桜田、日比谷、芝までが灰燼に帰した。江戸市街をまるごと焼き尽くし、海に至って、ようやく鎮火したのだった。焼失した大名屋敷五百(百六十とも)、旗本屋敷七百七十、町屋四百町、焼死者は十万を越えたと伝えられ、遺骸収容と供養のために本所回向院が建てられた。

 後年いう「振袖火事」である。寺小姓に恋し、焦がれ死んだ娘の振袖が古着として売られ、それを着た娘たちが続々と死ぬので、本妙寺で大施餓鬼を修し、振袖を燎火に投じたが、一陣の龍巻が火の粉を散らす振袖を吹き上げた――という怪談めいた因縁話だが、むろん後人の創作であって、事実ではない。この当時の記録には「丁酉の火事」「酉年の大火」と表記されている。

「本来、失火は寺格取り上げの重罪であるにもかかわらず、本妙寺はおとがめなし。おかしな話よ」

 安定が何をいいたいのか、助広にはわからない。

 しかし、大火後、多くの寺が市街化計画によって移転させられた中で、本妙寺は動かず、こののち寛文七年(一六六七)には法華宗八派のうち七派の触頭職という寺社奉行の通達役に任じられて、寺格が上がり、境内も広げることになる。江戸の大半を壊滅させた火元としては、腑に落ちない話ではある。

「大火に乗じた者もおる。虎徹は焼け跡から古鉄を買い集めてはならぬという禁を犯して、かなりの量を仕入れた。彼奴の作刀が見るべきものとなるのは、それ以降だ。酉年の大火が名刀を生んだともいえる」

「他の刀鍛冶は大火に乗じなかったのですか」

「金儲けはさせてもらった」

 江戸には幕臣だけでも二万以上の武士がおり、彼らがまたそれぞれ家臣を抱えている。諸大名の江戸詰めの家臣をも含めると、江戸の武家人口は五、六十万に達し、彼らが焼失した刀剣は厖大な数になる。その復興需要が発生したのである。江戸鍛冶の隆盛は大火の恩恵ともいえる。

「大火の折、大慈院様(伊達忠宗)は武装した家臣五百名を率いて、江戸城へ駆けつけ、桜田門を守ったという。若き藤次郎様――あ、今の陸奥守様だが」

 安定は伊達家とのつながりを誇示したいのか、わざとらしくここで言葉を切った。藤次郎は綱宗の通称である。

「若き陸奥守様は伊達家江戸屋敷の蔵刀を井戸へ放り込ませ、火から守った。智も勇もそなえた若殿だ」

 居並ぶ武家屋敷の間を抜けると、森が覆う神田川の崖だ。足場が組まれ、工事中だった。二人は御茶の水の崖沿いに坂を下る。夏の西陽が木々の間から彼らの横顔を焼いていた。

「独眼龍貞山公(政宗)が台徳院様(徳川秀忠)と碁を打ちながら、江戸を攻めるなら本郷台地から、と脅かしたもので、御公儀は伊達家に台地を削り、御茶の水を開削することを命じた。口は散財のもと。それにちなみ、神田川のこのあたりを仙台堀あるいは伊達堀という」

「では、仙台候のお屋敷はこのようなところにあるのですか」

「とぼけたことをいうものだな。伊達家の江戸屋敷は上屋敷が芝、中屋敷は愛宕下、下屋敷が麻布白金台と品川高輪だ」

「では……」

「陸奥守様は今年二月から、小石川堀の堀浚えと土手修復を課せられておいでなのだ。偉大な祖父の仕事を引き継がれたわけだな」

 牛込門から筋違門まで(和泉橋までともいう)およそ六百六十間(約一・二キロ)の距離を船が運航できるよう拡張せよ、という公儀の命令である。下命直後の二月に準備が始まり、五月末には普請鍬始めが営まれ、六月から工事は本格化した。これ以降、工期十カ月、総工費五万両に及ぶことになる大事業である。

 一日あたり六千二百人の土工人夫を動員するという、さすがの伊達家にも大きすぎる負担であったが、若き当主は張り切り、陣頭指揮に乗り出している。

「普請小屋は市ヶ谷、江戸川(神田川中流部)、桜馬場など五箇所に建てられておる」

 安定は台地の森を指した。

「この向こうが桜馬場だ。このあたり、馬場と湯島天神の飛び地が入り組んでいる」

 森に囲まれているので、桜馬場の普請小屋は視界に入らない。安定はそちらへは背を向け、水道橋の方向へと堀沿いをたどった。

「本陣というべき普請小屋はあちらだ」

 明暦の大火で罹災し、駒込へ移転準備中の吉祥寺が水道橋の北岸にあり、その門前に普請小屋が建てられていた。小屋とはいっても、伊達家の前線基地であり、公儀の普請奉行や石奉行を接待する場所だから、貧弱な造作ではない。

 しかし、贅沢はしていない。派手を意味する「伊達者」の由来となった本家でありながら、飾り気はなく、調度品も最低限なら、通された部屋には畳も敷かれていなかった。

「陸奥守様は、ここを戦場と思し召しだ」

 安定はそう説明した。「藩」祖の政宗から三代目なら、当然、実戦は知らない。大名たちには軍事力ではなく政治的手腕が必要な時代となっている。

 豪傑肌の殿様であれ、戦に憧れるだけの苦労知らずであれ、助広は自分とはどうせ無縁の人物だと思っている。人間関係にはあきらめがよすぎる男である。したがって、伊達家当主と聞いても、緊張もしなかった。

 しかし、現われた綱宗はひ弱ではない。予想より小柄で細めの体躯ではあるが、さすがに血筋というものか、華奢というのではなく、屈強な筋肉をまとっている。そして、美形である。睫毛が長く、唇が赤い。

 許しを得て、助広は名乗った。

「津田助広でございます」

 越前守、とは称さなかった。従四位下左近衛権少将陸奥守という本物の大名の前では、刀鍛冶の官位など虚飾でしかない。

「よう来た」

 綱宗の声は柔らかく、落ち着いている。その声で侍臣たちに、

「ここはよい。仕事があるであろう。戻れ」

 凛々しく命じた。

 助広と安定を残し、人払いのあと、

「これで気兼ねはいらぬ。いいたいことを申せ」

 一直線に助広を見やった。しかし、その視線は助広を突き抜けて、遠くを見ており、どこか浮世離れしている。

「大坂から、江戸の刀鍛冶に喧嘩を売りに来たか」

「将軍家のお膝元で切磋琢磨している江戸の刀鍛冶には、かなうものではございません」

「それはどうかな。武家すなわち客の少ない大坂の刀鍛冶こそ、よほどの腕でなければ、生計を立てられまい」

 綱宗という若殿、頭は切れる。父祖の余徳に浸かっている凡庸な三代様ではなかった。大坂の武家人口はわずか一万という推算があり、江戸の五十分の一にすぎない。

「助広よ。薫が吉原にいることを聞き、そんな突飛な話があるものかと、わしのところへ確かめに来たか」

「恐れながら……。しかし、私が知っている娘は薫という名前ではございません」

「いうてみよ」

「すみの、と申します。今、十九歳かと……」

「薫の実の名がすみのじゃ。歳も十九歳。わしよりふたつ下。すみのの顔を見たくば、明日、船宿で引き合わせる」

「では、すみのは吉原の外へ出られるのですか」

「わしは薫ことすみのを身請けいたす」

「え……!?」

 綱宗の目許はあくまでも涼しい。

「女色に溺れる放埒な大名がここにおる」

「世間はそう見ましょうな」

 と、相槌を打ったのは安定である。

「しかし、苦界に墜ちた妹をお引き取りになるのは、兄として当然のこと」

 そうも、いった。

 助広は、

「何のことでございますか」

 そう尋ねるしかない。

「すみのは腹違いのわが妹。そういうことじゃ」

 綱宗は二代仙台「藩」主・忠宗の六男で、正室の子ではない。しかし、母は側室とはいえ公家・櫛笥隆致の次女・貝姫で、その姉・隆子は後水尾天皇の側室となって、後西天皇をもうけている。つまり、綱宗は伊達家においては部屋住みの冷飯食いとして育ったが、母系からすると、天皇の従弟という尊貴性を帯びているのだ。

「すみのも妾腹である。とはいえ、身売りは一族の不名誉。そんな恥を世にさらさずとも、わしが不行跡な『お屋形』になればすむこと」

 そこまでして守りたい秘密を初対面の助広に打ち明ける理由があるのか。

「雙」第4回

「雙」第4回 森 雅裕

  目を奪うといえば、刀身彫刻のヤニ台、無数のタガネなども作業机にのっており、倶利迦羅を彫りかけた脇差があった。不動明王を象徴する、剣に巻きつく龍である。器用なものだ。

「彫りはよくやられるのですか」

「得意だ」

 助広は不得手である。刀剣を飾る彫刻は宗教的なものに限られ、それを邪道とはいえないが、地鉄そのものが鑑賞に値すれば、彫刻など必要ない。それが刀剣の本質だ。助広はそう考えている。ただ、彫刻は創作的技術としては面白く、興味がないわけではない。

「南蛮鉄を使った刀では、固くて彫れまい」

 と、虎徹は指摘した。それも事実だ。南蛮鉄は和鋼よりも固い。

「虎徹師匠は、古鉄を卸して使うゆえにコテツと称されていると聞き及びましたが……」

「そうよな。そうした宣伝は必要だ」

 そのままでは刀作りに適さない鉄を一旦溶解し、吸炭あるいは脱炭させて鋼に変えることを卸し鉄という。虎徹はその技に長けている。

「虎徹師が五十を過ぎて、刀の修業を始められたにしてはお若いと、今日も噂する者がおりましたが、それも宣伝ですか」

「むろん」

 助広とは人種が違うようだ。

「武家ごっこを面白いとは思わぬのでな」

 刀鍛冶たちが大名のように官位を受け、国名を受領することをいっている。助広の「越前守」のような肩書きも宣伝のひとつといえるから、虎徹が彼なりの売名を工夫しても、侮蔑はできない。

 棚の隅に枡がいくつかあった。山野加右衛門が、虎徹も相手によっては飲むのかも、といっていた枡だ。

 むろん、枡の用途は酒を酌むだけとは限らないし、仕事場で酒を飲むわけもないから、何かの儀式にでも使うのだろうか。それにしては薄汚れている。

 助広は気づいた。一合枡だが、上部を水平に切り取られ、容量を減らしたものもある。となると、これは仕事の道具だ。

「師匠。止雨様が」

 弟子が声をかけた。客を案内してきた――というより、勝手に入り込んだ客があることを告げたのである。

 止雨、と呼ばれた男が工作場の入口に立っていた。虎徹と旧知の仲らしい。

「おお。今、大坂の同業者が来ているところだ」

「お会いしたことがある」

 と、その男は助広をまっすぐに見やった。お互い、あの日の雨の中で記憶した顔だ。

「止雨です。菓子師をやっている」

 菓子職人にしては、安倫――余目五左衛門をあしらった態度、風鈴作りの技に徒者ならぬ何かがある。

「今日は求肥餅(大福)を持参した」

「おお。さっそくいただこう」

 無邪気に喜ぶ虎徹に微笑を与え、止雨は助広を見やった。

「私は時々、ここの鍛錬場で、悪戯をさせてもらっています」

 それなら、風鈴ばかりでなく刀剣も作ることがあるのだろうか。

「止雨様は――」

 名目だけとはいえ、助広は朝廷から越前守を受領しているのだから、単なる町人でも職工でもないが、風格ある初老の菓子師には、言葉も丁寧になる。

「絵もお描きになるとうかがっていますが」

「この仁の描いた宝船ほど売れた絵はあるまい」

 と、虎徹。

「宝船……?」

「正月の初夢を願って枕下に入れる宝船だ。大伝馬町の書肆・鱗形屋孫兵衛にそれを売り出させ、大儲けさせてやったのが止雨殿だ」

「絵としては、つまらぬものだ」

 止雨は忘れていたような口ぶりだ。

「あれもこれも、悪戯のようなもの。しょせん、私はひとつを極めることはないのかも知れぬな」

 母屋の縁側へ三人が並んで腰を下ろすと、弟子が茶を運んできた。

 虎徹は、求肥を満足そうに口へ運ぶ。甘党らしい。

「酒はつきあいで口にする以外は、特に飲みたいとは思わぬ。目によくない」

 と、虎徹。助広は逆だ。つきあいで飲むのは気が進まないが、一人なら飲む。

「虎徹師は安定師と同門だとか」

「先代の兼重師匠のもとで、な。しかし、甲冑師あがりのわしは弟子というより客分だった。江戸の刀鍛冶には、将軍家お抱えの康継以下、兼重、安定、そして、わしと越前の出が多い。そのつながりで、多少の交流もある」

「安定師は奥州とのつながりを大切にしているようですが」

「山野加右衛門の仲介だ」

 止雨が、そういった。

「山野様が……?」

「あれはもともと仙台の出です。安定に仙台東照宮の奉納刀を作らせたのも山野殿だ。奉納刀の銘にもその旨がしっかり刻まれている。山野殿は安定の刀で多くの試し斬りを行ない、その名の流布につとめた。もっとも、彼ら二人がよしみを通じていたのは過去の話です」

 今は不仲なのか。加右衛門の生命を狙った余目五左衛門をかくまう安定だから、そうかも知れない。

 それにしても、加右衛門がもとは仙台伊達家の家臣ならば、かつての主家からの試し斬りを断わるものだろうか。いや、主家だったからこそ断わったということか。

「安定は山野加右衛門を金の亡者といっているだろう。何、山野殿は少々性格がねじけているだけだ」

「止雨様は山野様とは、どういう……?」

「客分といえば聞こえはいいが、実は山野家の居候だ。人斬り加右衛門の屋敷を訪ねる者などめったにおらぬ」

 首斬りではなく、加右衛門の呼び方は人斬りなのである。公儀の記録でも、そうなっている。

「おかげで、静かに暮らしている」

 この菓子師はただの町人ではない――。止雨は加右衛門を呼び捨て、もしくは「殿」で呼んでいる。同格もしくは目下に対する呼称だ。助広はすでに直感していた。武家か、それに近い学者の出だろう。もっとも、趣味の道は武家の次男、三男が陥るものと決まっており、親から勘当されて、師匠、親方と呼ばれる指導者のところへ居候を決め込む。珍しいことではない。止雨の場合は、それが山野加右衛門の屋敷なのだろう。もっとも、この二人はどちらが師匠なのか、わからないが。

「わしを山野様と引き合わせてくれたのも、この止雨殿だ」

 と、虎徹がたてつづけに求肥を口へ押し込んだ。

 助広も食った。うまい、といいたいが、感動が大きいほど、言葉は出にくくなる。かわりに、

「安定師のところで、虎徹師の作を拝見しました」

 そんなことをいった。

「江戸鍛冶の恥の見本として、ではあるまいな」

「古鉄銘で、絃唯白色……という長い添銘がありました」

「ふむ……。古鉄銘なら、明暦初めの作だな。今は虎徹銘を用いておる。その頃のものなら、野暮ったい片削ぎ茎であったろう。今はもっと垢抜けておる」

「どなたかとの相打ち(合作)ですか」

「鍛錬から、つきっきりで教えたが、要所はわしがやった。焼入れはわしではない」

「どなたですか」

「助広殿は銘が読めぬのか」

「…………」

 というからには、あの長い銘は人名ということだ。しかし、助広はそれ以上、訊く気を失った。工作場にあった枡の用途も尋ねなかった。

 縁側に座り込んだまま、母屋の座敷へ上げてくれる気配はない。助広は求肥を食い終え、辞去の言葉を探し始めた。

 すると、虎徹は軒下から風鈴を下ろし、助広の鼻先へ寄こした。

「お気に召したようだから、差し上げる」

 虎徹という男、親切なのか不親切なのか、わからなかった。

「止雨殿、おぬしの作だ。よろしいな」

「かまわぬ」

 止雨は何かを振り捨てるような話し方をする。眼光の強さを懸命に隠し、ここではないどこかを見ているようだ。

「ありがとうございます、止雨様」

「『様』はいけない。年長者を立てるお気持ちはありがたいが、せめて『殿』に」

 止雨は照れたように、いった。別れ際にそういわれたことは少々うれしかった。同格と認められたわけであり、また会おうという意味だからである。

 助広は風鈴を手許に鳴らしながら、別れを告げた。

 
 
 御前鍛錬の前々日。

 寛永寺の鍛錬場に道具類が搬入され、公儀が手配した炭も届いた。鍛錬用には、これを一寸(約三センチ)角くらいに切り揃える。

 刀工はそれぞれ複数の弟子を率いているから、総勢およそ二十人が鉈をふるい、炭切りに取りかかると、あたり一帯に猛烈な黒塵が舞い立った。

 付近に塔頭のない林に囲まれた空地を炭切り場としてあてがわれたのだが、その林全域がどす黒く霞んで、浮遊する炭塵が陽光にきらめいている。

「すごい眺めだ。こんなの初めて見た」

 助広の向かいで炭を切る肥前忠吉が、ぼそりといった。忠吉は切れ長の目に鋭さがあり、無口で、一見は近寄り難いのだが、一文字の唇がたまに開くと、人なつこい響きがある。もっとも、その口許は今、手拭いで覆われ、双眸だけが覗いている。

「役人も坊主も、皆、このあたりから逃げていった」

 刀鍛冶たちは落盤事故に遭った鉱山人夫のように、真っ黒になっている。こんな有様では表を歩けないから、境内に作られた風呂を使うことになっているが、使用後の風呂場の床や湯の色を見たら、寛永寺は金輪際、境内を刀鍛冶に提供しないだろう。

 助広はこんな場所で無駄口を叩く気にならないが、自分の手許を見ながら、いった。

「楽しそうですね、忠吉殿」

「新三郎でかまわん。橋本新三郎が通称だ。九州の熊でもいい」

「新さん」

 そう呼んだのは三善長道だ。

「汚れ仕事は楽しいよな」

 子供の泥んこ遊びと同じだ。雨降りのあと、わざと水たまりを選んで歩く。刀鍛冶という人種はそんな稚気の持ち主だ。

「役人や坊主ばかりでなく、蚊も逃げていって欲しいものだ」

 刀鍛冶たちをもっとも悩ませたのは、蚊の多さだった。

「まったくだ。そもそも、なんだって、夏に御前鍛錬をやるんだ?」

 火を使う鍛冶仕事は夏にはつらい。またこの時期の多湿は鍛錬する鉄の脱炭、酸化に影響する。もっとも、夏は熱が安定するので、鍛錬に向くという鍛冶屋もいるのだが、人間の方が耐えられない。

「この御前鍛錬が決まったのは、春の終わり頃と聞いている。俺たちは六月の初めに、ここへ集められた。急すぎると思わんか。それにな、もともとの予定は秋の九月だったらしい。それが変更されたんだとか」

 助広、長道、それに忠吉、若手三人がそんな話を交わしていると、

「津田助広殿はおいでか」

 役人に案内され、武士が現われた。 

「私です」

 助広は炭塵を散らしながら、手拭いを顔と頭から取り、立ち上がった。どういうわけか、長道もそうした。

「や。そのまま、そのまま。続けよ」

 いわれて、長道は炭切りに戻った。他の刀鍛冶たちも作業を続けているから、炭塵をかぶり、侍の衣服はたちまち黒ずんでいく。案内の役人は逃げ去ったが、この男は怯みもせず、

「保科肥後守家用人・加須屋左近と申す」

 悠然と名乗った。神経が太い。五十代後半というところだろう。

 保科肥後守正之は会津二十三万石城主。なるほど、保科家の用人なら、お抱え鍛冶の長道が挨拶をするわけだ。しかし、加須屋左近の視線は助広に向いている。

「お話がござって、まかりこした」

 刀鍛冶といえども、自分が炭切りの手を止めてしまえば、炭塵の中にはいたくない。助広は、

「とりあえず、ここを離れましょう」

 加須屋左近を風上へと促した。足跡さえ、見事に黒い。

「助広殿。御前鍛錬でどのような刀を作るか、指図を受けることは可能か」

「お上には、作刀についての御希望、御注文がおありだということですか」

「そうだ」

「それはその内容にもよります。地元を離れての仮設の鍛錬場では、何かと不自由もございますれば」

「たとえば、相州伝だ。正宗の写しを作れ、といわれたら……?」

「本歌があれば、姿形は同じものを作ることができますが、地鉄となると、手持ちがございません」

 大坂からは下鍛え済みの鉄を持参している。作刀はこれで行なうことになる。詰んだ杢目となるのが助広独自の地鉄で、素材は江戸鍛冶が使うものとは異なる良質の南蛮鉄である。御前鍛錬では、鍛錬の様子も披露することになるから、素材の南蛮鉄も持参しているが、相州伝には性質の異なる鉄を混入し、肌模様を出現させねばならない。

 むろん、助広はいつも南蛮鉄ばかりを使っているわけではなく、目的に応じて、様々な鉄を用いる。しかし、鉄の性質は一様ではないから、それぞれ試用、実験が必要だ。そればかりでなく、炭の性質もまた重要である。

「助広殿は備前伝丁子刃が本領かと思うたが、相州伝もお作りになるか」

「地鉄のめどがつけば……」

「わかった」

 加須屋左近は大きく頷くと、蹴るように踵を返した。

 今のところめどがつかないことが「わかった」にしては、軽やかな足取りだ。大体、将軍家の御前鍛錬で、どうして会津侯用人が現われるのか。

 炭切りに戻ると、長道が教えた。

「加須屋様は弓術では天下三射人の一人にあげられる名手だ。もとは紀伊様の家臣だったが、暇を出され、会津侯に迎えられた。あ、そういやあ、持弓頭兼奏者番という職名もお持ちだった気がする」

「左近」は通称で、後世では本名(諱)の「武成」で知られる。

「江戸屋敷で新規召し抱えの者があると、加須屋様が人物の鑑定をなさる。それほどの仁だ」

 高名な武士にしては若輩の助広ごときに物腰の丁寧な男だった。そういう人柄らしい。

「人物はわかったが、御前鍛錬との関わりがわからんな」

「この御前鍛錬の発案者が会津中将様だ」

 保科正之の官職は左近衛権中将。二代将軍・秀忠の庶子で、現将軍・家綱の輔佐役である。

「すると、夏に御前鍛錬をやらせる張本人だな」

 横から、忠吉が不遜なことをいった。

「その張本人から、助広いやさ甚さん、何か白羽の矢でも立てられたか」

「さあ。何か注文があるような口ぶりだったが……。どうして私なのか、それもよくわからんな」

 会津侯お抱えの長道に対する遠慮からそういったが、当の長道は気にする様子もなく、うそぶいた。

「御前鍛錬で、自分のところのお抱え鍛冶を贔屓するわけにもいくまい。それに不始末をしでかしたら、会津侯の家名に泥を塗ることにもなる」

 
 
 夕刻近くになると、炭切りを終えて、風呂へ向かう者たちもいたが、弟子を伴わない助広は切った炭の量も少なく、鉈をふるい続けていた。

「そろそろ仕舞いにせぬか」

 声をかけたのは、安定である。安定にしろ虎徹にしろ、炭切りは大勢の弟子たちにまかせ、姿を見せなかったのだが、傾きつつある陽差しの中に現われた安定の姿は、いやにすっきりしている。このまま、めでたい席にも出られそうだ。

「炭なら、うちの弟子どもに切らせればよい。早う風呂へ入って、さっぱりされよ。わしと同道してもらいたいのだ」

「……御用件は?」

「引き合わせたいお方がある」

「どなたです?」

「おぬしは……」

 安定は笑ったが、眼差しが醒めていた。

「生意気だと人にいわれるだろう、その口のききようでは」

「はあ……」

 当たっている。

「とにかく、道々、話す」

 江戸に来た以上、社交が繰り広げられることは覚悟していた。助広とて、世捨て人ではない。人脈を広げることも必要だろう。

 
 
 上野から谷中へ、無数の塔頭が密集する下り坂を西へと抜けながら、安定はいった。

「江戸で知り合うた刀鍛冶たちと、なかなかうまくやっているようではないか。長道や忠吉のように歳が近ければ、話も弾むだろうが、虎徹の仕事場にも行ったようだの」

 噂が走るのは早い。

「虎徹師が大坂にいた興光師とあまりにも似ているので、驚きでもあり、また懐かしくもありました。双子だということでしたが」

「そうか」

 双子と聞いても安定は驚きもしない。

「雙」第3回

「雙」第3回 森 雅裕

 江戸城の鬼門を守る東叡山は、寛永年間に多くの塔頭が建てられたため、これらを総称して寛永寺という。年号を寺名にするのは延暦寺や仁和寺など由緒ある寺に限られ、江戸では寛永寺が唯一であり、東西にも南北にも数十町に及ぶ境内を広げ、江戸の町を睥睨している。

 御前鍛錬を三日後に控え、参加者の顔合わせと打ち合わせが行なわれる日であった。助広の視界にまず現われた知った顔は、山野加右衛門である。

 一目も二目も置かれている「首斬り」であるから、入れ替わり立ち替わり、加右衛門の前では挨拶が繰り広げられている。助広には近づき難い雰囲気だった。普通の人間なら、挨拶する方が知らぬ顔を決め込むよりも簡単なのだが、助広はあえて精神的労力の大きい方を選ぶ性癖がある。

 しかし、前回、加右衛門に無礼を働いたのは事実である。筋を通さねば――。その思いが何よりも優先した。

「先日は失礼いたしました」

「忘れたな。おぬしも忘れた方がよい」

 加右衛門はあっさりしたものだ。人間が練れているというより、世慣れている。無益な出来事は忘れることができるようだ。

「今日は杖をお持ちでないのですか」

 武器としても有効だったあの杖だ。助広には気になっていた。

「先日は雨降りだったので、杖を携行した。万一、身に危険が迫った時、雨の中で刀は抜きたくないからの」

 助広はその答を予想していた。加右衛門は、刀を濡らさぬこと、鯉口(鞘口)に水を入れぬことを心がけたのだ。ある意味、この男も職人気質だった。

「さて。あらためて、酒席をもうけるか」

「あいにく、不調法でございまして」

「おぬし、虎徹と気が合うかも知れぬな」

「え……?」

「あの男も酒は飲まぬ」

 刀鍛冶で下戸、というのは珍しいかも知れない。

「そのくせ、奴の仕事場には枡がいくつも転がっている」

「枡……ですか。御覧になったのですか」

「おお。奴も相手によっては飲むのかも知れぬな」

「虎徹を……御存知なのですね」

「江戸の主立った刀鍛冶なら、皆、わしは知っておる。どのような刀が折れず曲がらずよく斬れるものか、誰もがわしに尋ねるからの。わしの方から仕事場を見ることもある」

 虎徹を個人的に知っていながら、伊達家が依頼した虎徹銘の――個人作ではないかも知れないが――脇差の試し斬りを行なわなかったのか。この男には、人のつながりよりも経済が優先するのか。

「虎徹に興味があるか」

 加右衛門は唇の片方を吊り上げるような笑いを見せた。

「今日、来ておるぞ」

「え……?」

「虎徹も御前鍛錬を行なう」

「あ。江戸からの参加は、安定師と虎徹師、お二人ですか」

「将軍家お膝元ゆえ、それも当然であろう」

 将軍家には、今は三代目となっているお抱え刀工の越前康継がいる。しかし、御前鍛錬には刀鍛冶たちの競争という意味合いもあり、幕府工を江戸の代表とするわけにはいくまい。上総介兼重も江戸在住ではあるが、津藩工という立場上、人選からはずれる。

「安定や虎徹よりもっと若い者を、それも彼らのごとき同門ではない刀鍛冶を選ぶべきだと、わしは腰物奉行に進言したが、今回の人選には、もっと上の意向が働いたようだ」

「もっと上……」

 それが幕府のどのあたりを指すのかも心にひっかかったが、

「安定師と虎徹師は同門なのですか」

 その方が助広には興味深かった。安定はそんなことはいっていなかった。

「同門のようなもの、というべきか。江戸鍛冶の多くは直接と間接の違いはあれ、越前がらみでつながっておる。康継も兼重も安定も虎徹も越前出身ゆえ」

 彼らの作風には似通ったところがあり、合作など交流の記録も後世まで残されることになる。したがって、師弟関係は混乱している。

「そういえば、おぬしが受領しているのは越前守だな。名前だけは彼奴どもの親玉だな」

 確かに。越前という土地が徳川一門の領地で、格式も文化水準も高いことがこうした職人たちにも影響しているのだ。

 しかし、その親玉にしては、

(まったく、俺は何も知らんわ……)

 助広は取り残された気がした。

 もちろん、越前派閥ばかりが江戸鍛冶ではなく、刀工の数では近江守正弘を筆頭とする法城寺派が最大であり、この時代には少ない備前伝丁子刃を焼く近江出身の石堂派など、有力な刀鍛冶は他にもいる。

「山野様は、安定師、虎徹師の実力をいかにお考えですか」

「買っておるさ。いや、買ってくれたのは向こうかな。両名とも、わしにだいぶ金を使ってくれたからの」

「優劣をつけるとしたら……?」

「虎徹が上だ」

「それは虎徹師がより金を使ったということですか」

 加右衛門は目を細め、その奥を隠すように笑った。

「助広殿。不調法などといわず、気が変わったら、いつでも拙宅を訪ねられよ。その気にならぬ刀鍛冶はおらぬ」

 
 
 寛永寺に東都随一といわれる根本中堂が建立されるのは元禄十一年(一六九八)のことだから、まだその壮大な姿はない。しかし、承応三年(一六五四)、尊敬(守澄)法親王が入山して以来、事実上の天台宗総本山であり、将軍家菩提寺の性格も帯びているだけに、上野の山を埋め尽くすどの建造物も壮麗を競うものであった。

 これでも一部は三年前の明暦の大火で罹災しているのだが、市内各地で焼失した寺院の多くが移転してきたため、東叡山全山の規模は以前よりもむしろ大きくなっていた。

 寛永四年建立の法華堂の中庭に御前鍛錬の準備が進められていた。鍛冶屋によって、設備の使い勝手は違うが、ここまでは江戸鍛冶が指図したようだ。鞴と火床が五基据えられて、雨風を避けるためだけの簡素な板壁と屋根が、大工たちによって、設えられている。

「まるで、長屋の惣後架(便所)だな」

 そんなことを呟いたのは、およそ刀鍛冶らしからぬ愛敬に満ちた若者だった。

「お前様も刀鍛冶かね」

「大坂の助広と申します」

「これは御丁寧に……」

 苦笑いをこぼした。よく動く目が妙に人なつこい男だ。助広のような無愛想には、どういうわけか、こういう人物が近づいてくる。

「俺は奥州会津の山猿だ。長道という」

「では、陸奥大掾殿ですか」

「よしましょう、そんな呼び方」

「では、長道殿」

「やめてほしいのは、『殿』をつけることだが」

「…………」 

 のちに「会津虎徹」と賞讃される業物刀工だが、本家の虎徹自身がまだ無名である。初代長道もこの年、二十八歳にすぎない。しかし、すでに万治元年、陸奥大掾に任じられている。初銘は道長だったが、受領の際の口宣案に長道とあったので、そのまま長道にあらためたという。

 後年、長道は助広の弟子筋にあたり、受領の推挙も助広によるものだという巷説が生まれるほど因縁浅からぬ二人である。しかし、助広は以前から彼の名を知っていたわけではない。今日、寛永寺へ来て、ようやく参加する刀鍛冶の名前だけ聞いたのである。

「ここに火床が五つ……ということは、刀工も?」

「五人だ。そんなことも知らないのかね。大坂の刀鍛冶は世間離れしているな」

 大坂の刀鍛冶ではなく、助広が世間離れしているのである。

「肥前佐賀からは三代忠吉。あそこで、大工たちにうるさく注文をつけているでかいのがそうだ」

 精悍さと朴訥さが同居する背の高い男だった。忠吉は江戸初期の巨星・初代忠吉(武蔵大掾忠広)の孫である。父は近江大掾忠広。この父も名工だが、若き忠吉はそれを凌ぎ、祖父と肩を並べる腕だと声望が高い。この年の十月には、この三代忠吉も陸奥大掾に任じられ、翌年には陸奥守を受領することになる。助広と同年の二十四歳である。

「将軍家お膝元の江戸からは、大和守安定」

 すでに見知ったその安定は、弟子たちに指図して、火床に炭粉を敷き固め、高さを調節している。

「そして、長曽祢興里――虎徹だ、あれが」

 その男は、入道と称するのだから剃髪していた。小さな顔に大きな目が鋭く、口許に生気を漂わせ、表情の隅々に意志の強さを年輪のように刻んでいる。引き連れた弟子たちは動きに無駄がなく、いかにも優秀そうだ。

「虎徹師匠があのようなお歳とは思わなかった」

 越前の甲冑師から転身したというのだから、若いとは思っていなかったが、五十歳を越えているように見えた。

「そうかね。俺はむしろ若いと思うが」

「若い……?」

「虎徹の作刀には、『至半百居住武州江戸』とやら添銘したものがあって、刀工を志して江戸に出たのが五十歳と称しているらしいが……。さて、どうかな」

「どうかな……とは?」

「甲冑師だから鉄の鍛錬は習熟していたとしても、刀剣の修業はまた別だ。五十歳から江戸で何年も修業したにしちゃ、若くないか、あの様子は」

「ふむ。独自の年齢の数え方をお持ちのようだ」

「独自なのは年齢だけかな」

「どういう意味です?」

「虎徹には、もっと妙な噂もある」

「それは……?」

「迂闊なことは会津の山猿ごときの口からはいえぬよ。江戸の刀鍛冶から聞け」

「…………」

「ともあれ、あの師匠、なかなかの宣伝上手だと俺は見ているがね」

「長道殿」

「よせ、といった。藤四郎で結構だ」

「素人(トーシロー)……?」

「ふざけた名前だが、三善藤四郎というのが通称だ」

 鎌倉期、粟田口派の名工・藤四郎吉光にちなんでいるのか。何にせよ、そうすぐに呼べる助広ではない。

「私は、あの虎徹師によく似た人物を知っている」

「ほお。どこの何者だね?」

「以前、大坂にいた近所の金工だ」

「なるほど。忘れ難い面魂ではあるな」

 法華堂の広間へ集合の声がかかり、端座した刀鍛冶たちの前に腰物奉行が現われた。ようやく、参集した彼ら五人が正式に引き合わせられた。各地を代表する刀工たちである。ただ虎徹だけが異質だった。名門の嫡流でもなければ、官位も得ておらず、有名でもない。しかも最年長である。

(宣伝上手と長道はいうたが、そればかりではなさそうやなあ……)

 法華堂から再び内庭へ下りると、関係者たちの人垣越しに、助広は盗み見るように虎徹の様子をうかがっていたが、ふと視線が合ってしまった。逃げようとしたが、なにしろ弟子も連れず、孤独な助広には、行き場もない。虎徹の方から近づいてきた。先刻、名乗りだけは互いにあげている。

「助広殿……だったな」

「あ。お見知りおきください」

「場違いな刀鍛冶がいると、お思いのようだが」

「いえ。知人に似ていらっしゃったもので、つい……。失礼いたしました」

「ほお。知人……」

「長曽祢興光という名前を御存知ありませんか」

「弟だ」

 虎徹は、あっさりといってのけた。

「鍛冶の仕事をせず、切り物師として、大坂で開業していた」

「はい。十年ほど前に江戸へ出られましたが」

「うむ。わしの近くに住んで、行き来もあったが、死んでしもうた。明暦の大火の翌年――今より二年前の春だった」

「あ……。左様でしたか」

「同じ頃、わしも病を得てな、面変わりがしたといわれるのだが……興光はわしに似ていると思うか」

「はい」

 助広が知っているのは十年より以前の興光である。その子供とは幼馴染みといえる。しかし、親の方は、職人仲間とはいっても、助広はまだ少年だったし、社交性にも乏しいから、記憶に曖昧な部分があるかも知れない。が、同一人かと思うほど似ている。

「双子だ」

 虎徹は、そういった。目つきも口調も穏やかで、引き込まれるものがある。しかし、つけ入る隙のないきびしさも含んでいる。常人なら隠居の年齢で刀工を志したというのも、この人物なら有り得るかも知れない。

 助広はこの男に珍しく、会話に意欲的となった。

「興光師の一作金具で拵えた脇差を持っております。法華堂の控えの間へ置いてありますが……」

 今は腰物奉行の前に出るので、儀礼用の黒一色の脇差を帯びている。

「ほお。見たいものだな」

「では――」

「拙宅へお持ちにならぬか。池之端だ。ここから目と鼻の先だ」

「あ」

 人づきあいは苦手だとばかりはいっていられない。

(虎徹とは、どれほどの刀工か)

 研究心と好奇心が、助広の孤独癖に勝った。

「では、お邪魔させていただきます」

 

 池之端を吹き渡る風が、鉄の風鈴を打ち鳴らしている。軒下に揺れるその風鈴へ手をのばし、

(器用なもんや)

 助広は感嘆した。鋳造ではなく鍛造となると、鉄板を赤めながら叩いて、釣鐘状にしぼるのだから、簡単ではない。

(鉄味もええ)

 錆が見事な黒紫色だ。いい鉄を使っているということか――。

 母屋と鍛錬(鍛冶)場が向き合う内庭へ案内され、助広は縁側の風鈴に見入った。こんな風鈴にもほほえましい銘がある。だが、「長曽祢興里」でも「虎徹入道」でもなく、「止雨」とある。

(山野加右衛門様と一緒におった菓子師や……)

 その菓子師の名前がどうしてここに刻まれているのか、助広には疑問だったが、この男の性格で、口には出さない。

 虎徹はその風鈴がささやく縁側に庭先から腰を掛け、助広が手渡した脇差に見入っている。視線は興光の金具よりも助広の刀身にこそ向いていた。安定がそうだったように。

「よい地鉄だ。江戸では、南蛮鉄が全盛でな。御公儀が鉄砲作りのために大量に輸入したものを康継が刀作りに使って以来、猫も杓子も『以南蛮鉄』と銘を切るようになった」

「私のその脇差も南蛮鉄を使っています」

「ほお。大坂では江戸よりもよい南蛮鉄が入手できるようだ。江戸鍛冶の刀は、これほど地も刃も明るく冴えぬ」

 南蛮鉄はインド産のウーツ鋼に類するものだが、寛永十六年(一六三九)の鎖国以降、まとまった量の供給は絶えている。貴重な輸入鉄だが、産出地によって、品質に差がある。

「刀鍛冶の腕はいい鉄をいかにうまく処理するかにかかっている。悪い鉄は名人にもどうにもならぬ。御前鍛錬でも南蛮鉄を使うのか」

「はい。下鍛え済みのものを持参しました」

「なるほど。鍛錬ぶりを見られたくないか」

「いえ。南蛮鉄そのものも持参していますから、鍛錬もやります」

「以前は海の向こうへのあこがれから、南蛮鉄も重宝されたが、今は冴えぬ刀を作る言い訳にすぎぬ。南蛮鉄を使うのは助広殿の勝手だが、銘にはそのことをうたわぬことよ」

「…………」

「いや。よけいな口出しだったな」

「虎徹師匠」

 助広は、胸にひっかかっていた質問を切り出した。 

「興光師は亡くなられたということですが、御家族はいかがなされたのでしょうか」

「妻は大坂で死んでいる」

 それは助広も知っている。妻の死後、それをきっかけとしたかのように、すぐに江戸へ下ったのだ。

「娘さんがいらっしゃいましたが……」

「妻の連れ子だった娘だな」

「それは私の知らぬことですが」

「このあたりにはおらぬ」

 意味がわからない。確かめようとしたが、虎徹は背を向け、縁側を離れている。

「仕事場を御覧になるか」

 鍛錬場へ招かれた。

 弟子たちが作業中だ。邪魔にならぬよう、肩をすぼめながら観察した。奇抜な造作でもなければ、変わった道具があるわけでもない。が、生気を感じる仕事の場だ。

(できる……)

 そう直感させるものが漂っている。

 鍛錬場の隣の建物は板の間になっていて、框を上がると、刀剣の仕上げに使う工作場らしく、鍛冶押し(荒研ぎ)用の研ぎ台が据えられている。

 鍛冶押しなどほとんどやらずに研師へ回してしまう刀鍛冶もいるが、それでは姿形を決めるのは研師になってしまう。虎徹はしっかり下地まで作る方針らしい。 

 荒砥がかけられた刀を手に取り、光に当てると、互ノ目が整然と並んだ刃文が浮かぶ。しかし、単調ではなく、足が刃先へ抜けそうなほど深く入り、沸えが強い。

「数珠刃とわしは呼んでいる」

 虎徹は、いった。安定のところで見た脇差とは雲泥の出来だ。研師に預ける前のこの段階では、地鉄のよしあしまではうかがえないが、刃がこれなら、地鉄も凡庸ではあるまい。さすが、御前鍛錬に選ばれる技量ではある。

「数珠刃……ですか」

「もう少し高低のついた瓢箪刃をさらに進化させたものだ」

 安定のところで見た例の脇差がその瓢箪刃だった。

「沸えづいたのたれ調の互ノ目を連ねるのが江戸のこれからの主流だ。もっとも、数珠刃のさきがけは上総介兼重だ。しかし、いずれ世間はそれを忘れる」

 虎徹の方が技量が上なら、確かに世間は兼重よりも虎徹に目を奪われるだろう。

「雙」第2回

「雙」第2回 森 雅裕

「弟子を一人だけ同行させたのですが、箱根で、水を求めて崖から落ち、足を折ってしまいました。やむなく、宿に置き去り、私が単身で江戸へまいりました」

「それでは、鍛錬ができまい」

 刀は刀鍛冶一人では作れない。向こう鎚をふるう先手(助手)が必要である。

「いえ。実は、下鍛えをすませたものを大坂から持参しております。御前鍛錬の仮設の鍛冶場では、思うような仕事ができぬかと思い……」

 そうした鉄、道具類は白戸屋の寮宛てに、先に送ってある。

「正直な」

 安定はいったが、誉めているわけではないことを醒めた視線が語っている。

「他の刀鍛冶たちも似たようなものではあろう。下鍛えどころか、すでに完成した刀を用意している者もいるとさえ聞く。しかし、いわぬが華だ。それを口にすれば、御前打ちにならぬ」

「…………」

「それにしても、上鍛えや素延べには先手が必要であろう」

「力自慢の若者を白戸屋に探してもらおうと考えてはおりますが……」

 刀鍛冶は地方の有力者に招かれて、旅することが多く、行く先々で臨時の先手を雇うことは珍しくはない。むろん、誰にでも務まるわけではないが。

「心得のない素人では心許ない。何なら、うちの弟子の中から、お貸ししようか」

「そんな……」

「遠慮は無用だ。それとも、江戸鍛冶ごときは頼りにならぬか」

「滅相もない」

「お疑いなら、わしの刀をお見せしよう」

 それなら、ぜひとも願いたい。安定の実力を疑うわけではなく、刀に対してはいつも好奇心が働いているのだ。

 刀を見る前に、

「では、適当な人手が得られぬ時には、お借りいたします」

 これでも胸襟を開いたつもりで、いった。恐縮している。初対面の同業者に甘えるわけにはいかない。しかし、世の中にはこんな親切な人間もいるのだ、とあっさり受け入れるのが、助広の性格である。人がいい。

「わしの作刀の他に、例の脇差もお目にかけよう」

 と、安定は五左衛門に指示した。

「あれは御屋形様(伊達綱宗)の御蔵刀です」

 五左衛門はわずかに異を唱えた。「例の脇差」は仙台藩主の所有だ。勝手に他人に見せてよいものではない。

「どうせ盗んだものだろうが。かまわぬ。お前が腹を切ればすむこと」

「では、その節は安定師匠に介錯をお願いします」

 五左衛門は二本を運んできた。刀剣保存用の白鞘が普及するのは元禄以降のことだが、それに類する仮鞘に安定の作刀は納まっていた。もう一本の「例の脇差」とは、山野加右衛門の前で抜くことができなかった脇差――つまり、伊達家から盗んだことになっている問題の一刀だ。

 助広はまず安定の作を一礼して受け取り、抜いた。刃文の高低差が激しく、箱がかった互ノ目乱れである。

(面白い――)

 自分もやってみたくなる。しかし、何よりこの刀は地鉄がいかにも強く、凄味がある。

「茎を御覧あれ」

 柄を抜くと、誇らしげな金象嵌の截断銘がある。

「三ツ胴截断 万治三年五月廿五日 山野加右衛門永久」

 加右衛門の試し斬りにより、凄絶な刃味が証明されている。

「江戸の刀は、大坂から見れば、野暮ったくござろう」

「いえ……」

 反りが浅く、元と先の身幅差が大きいのが江戸鍛冶の特徴だ。慶長以前の古刀期にはない姿である。

「安定師匠、覇気あふれる作柄でございますな」

「まだまだ途中でござるよ」

 安定はすでに功なり名遂げた刀工である。それなのに過渡期の作風というのだ。たいした向上心と創作意欲だった。

「江戸の刀はこれからもっと変わっていく」

「どのように……ですか」

「御覧(ごろう)じろ」

 二本目を寄こした。こちらは五左衛門が帯びていた脇差だから、拵に入っている。

 抜くと、五左衛門の養父が腹を切ったという痕跡が、ごくわずかな刃こぼれとなって残っている。よほど深く刺し、背骨に当たったのだろう。血を吸った刀は匂いが残るものだが、入念に手入れされたらしい。血腥さはない。

 地鉄は今しがたの安定の作と似ているが、刃文は大きく乱れず、瓢箪のような互ノ目が並んでいる。しかし、一部が沸え崩れており、うまい焼入れではない。姿は安定よりも江戸鍛冶の特徴が強く、いかにも野暮ったかった。

「その刃文は瓢箪刃と呼ばれておる。誰の作か、おわかりか」

 安定が訊いた。

(上総守兼重……)

 助広の脳裏に浮かんだのは、その名前である。先年、没した和泉守兼重の子で、伊勢津藩主・藤堂家のお抱えだが、江戸在住である。父の存命中は代作をつとめていたが、この万治年間、ようやく自身の作品が世に出始めていた。前例のない互ノ目を焼く刀工である。しかし、兼重なら、もっと整然とした互ノ目のはずだし、こんなに下手ではない。兼重と同派同門の誰かの習作だろうか。

「わかりません」

 そう答えた。

「では、銘を御覧になるがよい」

 安定の許可を得て、柄をはずした。

 まず目に入ったのは、片削ぎになった茎の形状である。加州茎といい、加賀の刀鍛冶に見られる特徴だ。

「長曽祢興里古鉄入道 絃唯白色剛無刀有室不至視不見」の銘があるが、制作の年紀はない。

「長曽祢……古鉄」

「古鉄を卸して使うゆえにコテツと称し、虎徹とも銘を切る。御存知か」

「いえ。聞いたことがありません」

 当然だった。のちに刀剣界の横綱として、東の虎徹、西の助広と並び称される両雄ではあるが、虎徹の作刀が現われ始めたのは明暦の初め、つまり五年ほど前に過ぎず、全国的にはまだ無名なのである。

「加賀の刀鍛冶でしょうか」

「いや。金沢あたりにいたこともあるらしいが、加州茎は初期作に限られる。今は入山形に近い栗尻に変わっておる。本国は越前福居(福井)で、名は興里。明暦の初めに入道して、コテツとなった。江戸では知る者ぞ知る刀工だが、大坂までは名前は聞こえますまいな」

(この程度の作で、注目されているのか)

 助広の表情にそんな色を読み取ったのだろう、安定はむっつりと頷いた。

「名刀には見えまい。無理もない。しかし、そんな脇差が伊達家に納まっているということは、何かしらのいわくがあるのかも知れぬな」

「この絃唯白色……という銘がそのあたりの事情を語っているのでしょうか」

「おそらく」

 虎徹が一人で作ったものではなく、誰かとの合作かも知れない。この焼入れは素人臭かった。

「が、そんなことより、作風に着目されたい」

「兼重師につながるものを感じますが……」

「兼重に限った作風ではない」

「では、これが江戸のこれからの刀と……?」

「その脇差は傑作とはいえぬが、目的とするところは同業者ならおわかりになろう。江戸のみならず、全国に広がるやも知れぬ作風だ」

「この虎徹という刀工、長曽祢と称するからには甲冑師の系統でしょうか」

 長曽祢派は室町末期、近江国長曽祢庄に発生した鍛冶集団で、戦国時代の終焉とともに越前へ移住した。何でも作る雑武具鍛冶ではあるのだが、とりわけ甲冑の制作が目立っている。

「いかにも虎徹の前身は甲冑師と聞くが……。助広殿は長曽祢派を御存知か」

「実は、大坂でも、長曽祢を称する職方を一人、知っておりました」

「鍛冶屋か」

「いえ……。その仁は刀装金具、切り物(彫刻)を生業としていましたが……」

 助広は、自分の腰に視線を落とした。彼は町人の体だが、脇差を差している。町人でも脇差だけなら許されるし、助広は官位さえ受領している身である。しかし、むき出しで帯刀する神経は持ち合わせず、質素な袋に納めてあった。それも一尺そこそこの寸延び短刀で、大仰なものではないから人目は引かない。が、安定は最初から気づいていただろう。

「なるほど、わかった。その腰のものに使われている金具の作者ですな」

「はい。長曽祢興光といっておりました」

「ほお。興光……」

「あるいは、この興里入道……虎徹とやらの縁者かも知れません」

「助広殿。そこまでいえば、その腰のものを見せてくださるのが普通ですぞ」

「あ……。失礼いたしました」

 助広は腰から抜き、鞘ぐるみ、安定に差し出した。気がきかないというより、押しつけがましいことができない性格なのである。

 安定は拵の外装金具を見やった。

「なるほど、大坂の洒落心というものか」

 梶の葉、唐墨に筆と七夕図でまとめてある。王朝時代には短冊でなく梶の葉に想いを記したという。江戸前期の、まだ侍たちに武張った美意識が生きている時代には、こうした優雅な画題の刀装具は珍しい。

「刀身は御自身が打った作かな」

 安定の興味はむしろそちらにあるようだ。

「お目汚しながら、御覧ください」

 夜である。室内には、弱い灯火しかない。しかし、安定が鞘を払うと、そこに仄青い光が射した。

「……鮮やかな丁子刃だ」

 のちには押し寄せる波頭のごとき濤瀾刃を創始する助広だが、若いこの頃は父譲りの備前伝丁子刃を焼いている。

「なるほど。刀身にも洒落心が現われておる」

 誉め言葉なのかどうか、わからない。

 五左衛門もしばらく真剣な表情で覗き込んだあと、脇差は助広の手に返されたが、

「腕のいい彫り師ですな」

 安定が口にしたのは、刀身ではなく金具についての感想だった。

「刀装金具は鉄とは限らぬが、固い鉄に手慣れた鍛冶屋の出身なら、他の金属の扱いも自家薬籠中のものということか……。その興光とやら申す工人、助広殿とは親しかったのか」

「家が近くでしたから、親同士、子供同士は親しかったのですが……」

「幼馴染みというわけか」

「私より五つ六つ年下の娘がおりました」

 助広は赤くなりかけた。余計なことまで話したと気づいたためだ。その娘に対する記憶のためではない。助広はそう思っている。

「その金工、江戸でも大成しそうな腕だ」

 と、安定。江戸の方が大坂より高水準だという意味ではあるまい。客筋が違うということだ。

「当人もそう考えたらしく、十年ほど前に江戸へ出ております」

「それで……?」

「以後の消息は聞きません」

「ふむ……」

 安定は助広を見据えた。目鼻立ちのすべてが大振りで、これで真顔になられると圧迫感さえある。

「人の世は面白いものだな」

 ちっとも面白そうには見えない安定の表情だ。

「長曽祢興光の名前……。以前にも聞いたことがある」

「あ。それは……」

「いや。わしの方に話すことは何もない」

 安定は突き放したが、薄く笑いを浮かべている。

「ところで、助広殿は今後も丁子刃を続けておいでか」

「いえ……。ただ、備前伝の丁子刃が鍛錬も焼入れももっともむずかしく、これを会得しておれば、他伝も行くとして可ならざるはなし、と考えております」

「ほお。では、相州伝など苦もないと申されるか」

 安定の語気に皮肉が混じる。

 戦国期以前の古刀には地域別に大きく分類して、山城、大和、備前、相州、美濃の五カ伝がある。幕府御用の研磨師にして鑑定家でもある本阿弥は、鎌倉期の正宗を頂点とする相州伝を称揚しており、江戸の刀鍛冶たちも相州伝を理想としている。

 江戸ばかりではない。刀が実用の道具ではない平和な時代には、刀剣界は鑑定家主導となっていく。匂い出来の備前伝はすたれ、沸え主体の作刀が全国に広がっていく。

 刃文を構成する粒子の細かいのが匂い、荒いのが沸えである。とはいっても、多くの刀はその両方が混在する。

 安定の機嫌をそこねたことに助広は気づき、

「あ、いや」

 笑おうと努力さえしながら、いった。

「江戸の刀工は相州伝とはいっても、鎌倉期を目標にして作刀しているとは思われません。江戸には江戸独自の流行というものが――」

「流行とは、また軽く見られたものよな。時代が変われば、武器の有様も変わる。馬に乗り、甲冑をつけて戦うことのない今の世に、反りの浅い無骨な刀が生まれ、より刃味と強靱さを求めて、直刃に互ノ目足入りという刃文が工夫されるのは当然のこと。それを流行の一言でかたづけるか」

「いえ」

 若き刀鍛冶は師伝の継承と古名刀の写しに試行錯誤するものだが、助広の場合、父譲りの丁子刃は数としては多くなく、古作にならった作品もない。そもそも、助広の丁子刃は鎌倉・室町の備前伝に拘泥した作風ではなく、結局、助広もまた彼なりの相州伝を追及していくのである。

「私も互ノ目の刃文はやってみたいと思います。ただ、もう少し――」

「何だ」

 大海原の波濤のようなゆったりとした大互ノ目――といえば、のちの助広の作風だが、まだそこまでは自分でも思い至っていない。

「もうよろしい」

 安定の機嫌は直らなかった。風貌そのものは剽軽であるだけに、この男が怒ると、相手はいたたまれない。

 助広にしても、取り繕う努力をした卑屈さとそれが失敗したことで、猛烈な自己嫌悪に陥りながら、辞した。

 余目五左衛門が表まで見送りに出た。

「また御前鍛錬の場で、お目にかかります。助広師匠さえよろしければ、私が向こう鎚をつとめますが」

 助広は答えない。

「お気になさらないでください、助広師匠。うちの師匠は少々変わり者ではありますが、悪意はないんです」

「ありがとう、余目様」

「その名はもう捨てました。安倫とお呼びください。刀工としてはあなたが先輩。おつきあいいただけるなら、ていねいな言葉遣いも御無用に願います」

 助広は頷き、歩き出した。もう雨はあがり、夏の星空が涼やかに広がっている。

 

 明暦の大火後、本所・深川の地へと人家がのび、今年(万治三年)から、この地は本所築地奉行の支配となった。町奉行の管轄外であるから、まだ江戸市内に組み入れられてはいない。下総国葛飾郡である。昨年、仮橋が架かり、工事が本格化した大橋が両国橋と俗称されるのも、ふたつの国を結ぶことによる。本所が武蔵国に編入されるのは貞享三年(一六八六)、町奉行の管轄に入るのは享保四年(一七一九)だ。

 小名木川、竪川、横川など多くの水路が整備され、割下水の開削が進んでいる最中である。助広が逗留する白戸屋の寮の目前まで、そうした土地開発が迫っている。寮といえば聞こえはいいが、農家を改築したもので、いずれ開発のために取り壊されても惜しくはなさそうだ。

 戻ると、

「助広師匠。お待ちしておりましたよ」

 白戸屋善兵衛が迎えた。白戸屋江戸店の責任者である。店と本宅は日本橋だから、普段、この男は寮へは現われないのだが。

「何か御用でしたか」

「そんな言葉は、今日一日が平穏無事であった人がいうことです。山野様をすっぽかして、その山野様を襲った賊をかばうなんて……。つきあう相手はお選びなさい」

「出合い物、という言葉を知っていますか」

「梅に鶯、竹に雀など、釣り合うものという意味でございましょ。食べ物でも、山椒と昆布、筍とわかめなど……」

「ただ釣り合うのではない」

 出合うことによって、双方がより向上する相乗効果を生む。そういう関係をいうのだ。

「今日は江戸で知り合いができた。これも出合い物といえるかも知れぬ」

「助広師匠の出合い物は山野加右衛門様のはずだったんですよ」

「悔いがあるとしたら、食い物にありつけなかったことくらいだ。腹が減った」

「菓子なら、ございますよ」

 善兵衛は紙包みを寄こした。

「山野様のお連れからいただきました。あの方がお作りになったものです」

「ほお。職人風には見えたが……」

 菓子師にしては、白刃を前にして、度胸がよすぎた。

「今、江戸では知る者ぞ知る菓子師でございますよ。もっとも、店なんぞ持っちゃおりません。あちこちの菓子屋を指導したり、大名家に呼ばれて腕をふるったり……。めったにお目にかかれないお方ですが、私もお菓子が好きで、山野様にお連れいただきました。お名前は止雨様と申されます。その名もむなしく、今日は雨降りでございましたが」

「絵描きの号みたいだ」

「絵もお描きになるようですよ」

 紙包みは煎餅だった。

「米粉の煎餅です。上方じゃ珍しゅうございましょ。あっちは平安の昔の唐菓子にある小麦粉の煎餅から進歩しておりませんからね」

「そうかね」

 助広は聞き流している。食材に乏しく、文化的な歴史も浅い江戸は、料理においては上方の比ではない。先代の善兵衛の父は京都の本店から江戸へ差し向けられたのだが、息子の舌は上方を知らないのだ。

 しかし、口に入れてみると、なるほど、江戸を見直したくなるいい塩味だった。

「お茶が欲しいな」

「台所で、勝手にお淹れなさい。その前に……お召し物を持参いたしました」

 善兵衛は傍らに置いていた包みを開いた。御前鍛錬のための礼服である。肩衣(裃)袴だった。

「烏帽子直垂なら、大坂から持ってきましたが」

「どうせそんなことだと思って、用意いたしました。肩衣袴を着用せよ、との御腰物奉行からのお達しだそうでございますよ」

「大坂では、そこまで聞いていなかった」

「左様でしょうよ。急な出府だったようでございますから」

 もともと、今回の御前鍛錬には、大坂からは助広ではなく二代目和泉守国貞にお召しがあったのだ。のちに井上真改と改称し、「大坂正宗」と賞讃される名工である。が、一転、助広が指名された。大坂城代・水野忠職や大番頭・青山宗俊の推薦だったとも、国貞は彼の主人である日向飫肥藩伊東家が出府を許可しなかったとも、助広は聞いている。真相は不明だ。ちなみに、青山宗俊はのちに大坂城代となり、助広を召し抱える信州小諸藩主である。助広の実力は認めている。

「私が聞いていないことを、よく白戸屋さんは知っていたものだな」

「山野加右衛門様からうかがっております」

「ああ。あの人も御前鍛錬に関わっておいでらしいな。役人や刀鍛冶に顔が広いようだ」

「顔がきく、というべきでございましょうな」

 のちに『鉄鍛集』という鍛刀技法書をも著し、試刀家ばかりか刀剣研究家としても一家言を持つ男である。

「お会いになったら、今日の無礼を詫び、きちんと挨拶なさいませよ。――まったくもう、何で私が世話女房みたいに気を回さなきゃならんのですか。大坂から御内儀をお連れになればよかったものを」

「そんなものはいない」

「なら、いっておきますが、押しの強い女がよろしゅうございますよ、師匠には。わがままなくらいの女がよろしい。師匠は無愛想なようで、妙に気を使いすぎるところがありますからな。放っておいても、好きなように振舞う女の方が、かえって楽です」

 さすがに商家の主人ともなると、多少は人を見る目があるようだ。

「女よりも先手が必要だ。頼んでおいた力自慢は見つかりましたか」

「見つかりません」

「随分とあっさりいうものだな」

「いくつかの野鍛冶をあたってみましたが、刀鍛冶は嫌われておりますな。鍛冶屋の中でも別格だと威張るからですよ。そんなお偉い刀鍛冶を公方様の御前で手伝うなど、恐れ多いとか」

「私は威張った覚えはないが……」

 しかし、一般の鍛冶屋から反発を食った覚えは多々ある。 

「引き続き、探してはみますが」

「今日の出合い物だった刀鍛冶から弟子を借りられそうだ」

「あ。なら、私は御内儀にふさわしい娘を探しましょうか。しかし、それまた難題ですなあ」

「……台所へ行く」

 助広は煎餅の包みを抱えて、善兵衛の前を離れた。この男は、座敷で上げ膳下げ膳されるよりも、台所の板の間でつまみ食いしたり、お茶を飲んでいることの方が多い。

「雙」第1回

「雙」第1回 森 雅裕

一・霜露

 職人気質という言葉は、頑固一徹で世渡り下手な職人への誉め言葉だろう。しかし、職人の社会にも政治があり、富や名声を得る者は権力に阿(おもね)り、他人を貶(おとし)めることに熱中し、職人気質とは対極の世界に住んでいる。

(苦手やなあ、こういうの……)

 男はもう半刻(はんとき)も茶屋の店先を動かない。視線の先にある料理屋が、その「対極の世界」だった。彼が待ち合わせた相手がそこにいる。なのに、料理屋の前で、

(こういうの苦手や……)

 足が動かなくなった。

 男の名を甚之丞という。世の通り名は津田越前守助広。大層な名乗だが、まだ数え年二十四歳の刀鍛冶だった。

 寛永十四年(一六三七)、摂津打出村の産。初代助広の子で、四年前の明暦二年に二代目を継いだ。すなわち、今は万治三年(一六六○)六月。数日前、この男は江戸へ着いたばかりだった。

 雨が降り出し、この男が飛び込んだのは、目指していたはずの料理屋ではなく、向かい側に見つけた茶屋だった。

 雨雲に夕暮れが重なって、あたりの色が洗い落とされ、薄闇の底へと流されていく。

 浮世のしがらみを忘れさせるような雨だ。そのせいで、助広はますます現実から逃避しそうになる。

(丁寧に頭さげて挨拶して、御高名は常々、とお世辞のひとつも奉って、まあ一献といわれたら、受けさせてもろて、それでもどうせ生意気な奴いわれんのや。いつものこっちゃ――)

 会いたいと希望したわけではない。世の中には人を紹介したがるお節介がいるのだ。

 うつむきながら視線をめぐらすと、茶屋の客はもう一人いた。若い武士である。その若者も助広と同様に、料理屋の出入口を睨んでいる。しかし、視線は助広よりもさらに暗い。

 職業柄、助広は相手の佩刀へ目が行く。大は腰からはずして、傍らへ引きつけている。

 この時代、「藩」という概念はあっても公称ではないが、各藩にはお国拵というものがあり、腰の差料を見れば、どこの家臣か、わかる場合がある。柄は頭(かしら)が小さめで、立鼓(りゅうご)が強く、中央が大きくくびれている。

 仙台侯伊達家の拵(刀の外装)ではないか、と思った。柄も鞘も黒一色で、粗末とも質実ともいえる拵である。

 しかし、腰にたばさむ脇差は、柄も鞘も雨よけの革をかぶせている。そして、長い。二尺(約六○センチ)近い。脇差というより、ほとんど刀の長さである。

 正保二年(一六四五)に刃長一尺八寸(約五四センチ)を越える脇差は禁止され、以後、一尺八寸が脇差の定寸となっている。もっとも、禁令の効果はなく、武士、侠客たちには長脇差が流行し、助広にも大坂の富裕商人から長脇差の注文が多い。

(いわくありげな脇差やな……)

 目が合いそうになり、逃がした視線の先では、料理屋から出てきた男たちが傘を開いていた。

 武家一人と町人二人。助広が会う約束をしていた男たちである。帰るには早いようだ。大坂の刀鍛冶ごときに待たされる気はないのだろう。

 歩き去る彼らから、助広は顔を隠した。

 茶屋にいた若侍が傘を手に立ち上がっている。雨はさらに強くなっている。雨宿りしていたわけではなさそうだ。

(血相変えて、雨の中を飛び出していくとなれば、掛け取りに追われているか、親の仇でも見つけたか……。剣呑やなあ。これが江戸かいな)

 

 神田川に架かる浅草橋を南へ渡ると、神田・日本橋側には町屋と武家地が混在している。男たちの足は表通りをはずれ、武家地に入っていた。板塀と林に囲まれたこのあたりに人気は絶える。

 若侍は、前を行く三人の男たちに声をかけ、前へ回った。六十歳を越えたほどの侍が、彼らの中心である。

「山野先生。かようなところで失礼いたします」

 深々と頭を下げ、相手がそれに応じた瞬間、若侍は傘を捨て、抜き打ちに斬りつけている。

 山野、と呼ばれた男は左手に傘を差していた。右手には杖をついている。この老いてさえ見える侍は、その杖で相手の一撃目を払いのけた。落ち着いている。よろけた相手の腰を打ち、ぬかるみの中へ倒してしまった。

 町人のうち、商家にしか見えない男は悲鳴をあげ、傘を放り捨てて、板塀へ張りついた。もう一人の町人は職人風だった。この男も冷静だ。傘を拾い、

「濡れるぞ」

 震えている商家の男へ差し出した。

 山野は刀を抜かず、傘を差したまま、片手に杖を構えている。赤樫の頑丈な杖だが、こうしたものの助けを必要とする足腰には到底見えなかった。

 若侍は立ち上がり、果敢に二撃目を繰り出したが、打ち合うと、彼の刀は折れ飛んだ。

 山野の頬が不快を浮かべて、歪んだ。

「いやはや。あきれはてた鈍刀よの。そんなもので、このわしを斬れると思うたか」

 若侍は腰の脇差の柄に手をかけた。しかし、抜かない。

「どうした。そのつもりで用意した長脇差であろう。遠慮はいらぬ。抜け。それとも、また折られては困るような宝刀か」

 挑発され、若侍は柄袋をはずした。

 雨音が変わったのは、近づく助広が足を早めたためだ。

「もうおよしなさい」

 傘の上に雨足を躍らせながら、声をかけた。

「あ。助広師匠じゃありませんか」

 板塀に張りついていた商家の男が叫んだ。やや非難が混じった。

「や、約束は暮れ六ツ(午後六時頃)でございましたよ。山野様は待ちきれずにお帰りになるところで――」

「あいすみません」

 助広は、杖を手にした侍の前へまっすぐに歩いた。

「山野加右衛門様。このような形でのお目もじ、お許しくださいませ。津田助広でございます」

「取り込み中である」

「ですから、声をおかけしました。勝負はもうついておりましょう」

「この場を納めろというのか。わしが手を下さずとも、この若侍、腹を切るぞ。それが侍の面目というもの」

 その言葉に触発されたように、若侍は折れた切先部分を素手で拾い上げた。しかし、腹へ突き立てるより早く、その腕を職人風の町人がつかんだ。

 筋骨たくましくもなく、若くもない男だが、体術の心得でもあるのか、若侍は動きを封じられ、刃物を取り落とした。掌を切ったらしく、滴る雨が赤い色に染まった。

「侍の面目など世のため人のためになるわけでもない。やめておけ」

 男は、そういった。山野加右衛門よりは年少に見える。五十代半ばだろうか。この時代なら老齢だが、衰えは微塵もなく、せいぜい初老というべきか。目の前で刃物沙汰が起きているのに、まったく無表情だった。

 若侍は駄々をこねるように、叫んだ。

「面目を棄てては、侍ではない」

「ならば、侍をやめるがいい。おぬし、何か好きなこと、やりたいことはないのか」

 若侍が怒らせていた肩が、やや落ちた。

「あるのだな。では、その道へ進め」

 奇妙な説得力があった。若侍は雨に打たれながら、もう動かない。

 加右衛門もすでに杖を下ろし、野良犬でも追い払うように、いった。

「今日のことは忘れよう。わしは仙台侯を相手にことを構える気はない」

(やはり、この若侍は伊達家の家臣か――)

 助広はこの男に傘を差しかけようかどうか、迷った。結局、やめた。余計なことだ。

 加右衛門が助広へ向き直った。

「さて。とんだ初対面になったが、おぬしが助広か。どうする?」

「は……?」

「場所を変えて、あらためて一献といくか、と尋ねている」

「いえ……。こちらのお武家が気になりますので」

「そうか。では、これにて」

 加右衛門と初老の町人は悠然と背を向けた。商家の男があとを追いながら、助広を振り返った。

「師匠。あとで、お話がありますよ。商人にだって、面目があるんです。あなたはそれをつぶしたんですからね」

 煙る雨足の中に男たちを見送ると、助広は傘を若侍に預け、手拭いを取り出して、彼の手の傷を縛った。

「かたじけなし。茶屋にいた人ですね」

「つまらぬ邪魔をいたしましたな」

「いや。救われました……」

 物腰の柔らかな若侍だった。助広をただの町人とは見ていないようだ。

 助広は刀の破片を拾い、懐紙に包んで、この男へ渡した。

「子供たちが玩具にして、けがでもするといけません」

「あなたは山野加右衛門の知り合いですか」

「今日、知り合いにならせていただくはずでしたが、茶屋での雨宿りが長すぎたようです」

「あの商人が仲立ちですか」

「左様」

 白戸屋という呉服太物屋(絹・木綿商)だ。本店が京都にあり、助広が江戸へ下るにあたって、当地の支店で面倒を見てくれることになっている。

「もう一人、一緒にいた男は何者かな」

 助広は尋ねるともなく呟いた。白戸屋の連れではなく山野加右衛門の知己という雰囲気だった。が、若侍は首を振った。

「存じません。加右衛門が交誼を持つのは役人か金持ちと決まっていますが」

「そのどちらにも見えなかったが……」

 若侍は足を引きずり、顔をしかめた。転んだ時、挫いたらしい。

「いけませんな。肩をお貸しいたしましょう」

「造作をおかけします。私は余目五左衛門」

「名乗ると、主家に御迷惑がかかりませんか。仙台侯……と聞こえましたが」

 江戸市中で抜刀するなど、切腹覚悟の蛮行である。本人だけでなく、主君にも累が及ぶことになりかねない。

「何。逐電したことになっております。このお刀を盗んで……」

 腰の脇差を目で指した。使うのをためらっていたのだから、よほど大切な刀らしい。

「で、どちらへ戻られる?」

「神田白銀町へ……」

 武家地ではない。そこまでこの傷ついた若者を送り届けずにすむ理由が、助広には見つからなかった。

 

(同業者や……)

 助広は胸中で呟いた。余目五左衛門の案内に従い、訪ねた先には、鍛冶場が建っていた。野鍛冶ではない。刀鍛冶である。

 そこの主人は、

「冨田(とんだ)宗兵衛と申す」

 と、名乗った。体躯はたくましく、丸顔の風貌には愛嬌があるが、眼光は鋭い。

「世間の通り名は大和守安定と申します」

「……甚之丞でございます」

 安定といえば、その斬れ味を称揚される刀工である。これより二百年後、幕末の騒乱時には、武士たちは争って、その作を求めたという。この時、四十三歳。刀工としては、精力あふれる盛りだ。

 助広は、同業者であることをいいそびれた。隠す気はないが、先輩に対して、わけもなく気が引けた。

「五左衛門が御迷惑をおかけいたした」

「何。おかげで山野加右衛門様の腕前を拝見できました。失礼ながら、余目様のかなう相手ではなさそうだ。なのに、主家を離れてまで、かの仁を討とうとなさるからには、よほどの理由がおありと見える」

「山野加右衛門永久のことはどのくらい御存知かな」

「御様(おためし)御用と」

 罪人の首斬り役である。正式な役職ではなく、牢人扱いだが、本業は首斬り後の死体を用いて、将軍や大名たちに託された刀で試し斬りを行なう嘱託であり、武家社会では一目置かれている。何より、斬った首の数が六千を越えるというから、畏怖されて当然である。

「何。金の亡者よ」

 安定は苦笑した。試し料ばかりでなく、茎(柄の部分)に金象嵌で截断銘を入れるのも安くはない。依頼主が高級武士に限られる所以である。

「安定師匠の作刀にも、山野様の截断銘が多く入れられているのでは……?」

「だから、いうのだ」

 刀工が試し斬りを依頼する場合もある。山野加右衛門の截断銘が目立って多いのは、他ならぬこの安定の作刀なのである。それだけ、貢いでいるということでもあるだろうが。

「斬れ味の評価も金次第。並みの遣い手なら鈍刀でも、加右衛門ほどの練達者がふるえば利刀。金を積めば利刀となり、積まねば鈍刀となる」

「はあ……」

 助広は門外漢ではない。今さら驚くような話でもなかった。白戸屋が助広を引き合わせようとしたのも、加右衛門のそうした社会的な力と近づきになるために他ならない。

 別室でけがの治療を終えた余目五左衛門が現われ、あらためて頭を下げた。

「おかげさまにて、助かりました」

「いえ……」

「この五左衛門が山野加右衛門を襲った理由も、そこにありましてな」

 と、安定は五左衛門に発言を促した。五左衛門は案外、恬淡と語り始めた。

「私の父は(伊達)陸奥守家にて、御刀奉行支配の手代をしておりました。わが太守(伊達綱宗)より脇差一振りを託され、試し斬りを加右衛門に依頼してございます。が、しかし、法外な試し料を求められ……それを断わり申した」

 すると、加右衛門は、この刀は試し斬りに及ばず、と突っ返して寄こした。 

「武名で聞こえた伊達家には値せぬ鈍刀とまで、いってのけたのです。わが主君のお刀を笑われては、御刀奉行手代には立つ瀬がない。父は腹を切りました。その脇差で」

「何と……」

「刃味を、身をもって証明したのでございますよ」

「あなたが盗んだといわれた脇差がそれですか」

「左様です」

「その脇差で、今度は山野様の身をもって、刃味を知らしめようと……?」

「そのつもりでした。しかし、斬り結ぶわけにはいかぬ」

 刀と刀で打ち合えば、疵がつく。刃こぼれも生じる。

「どうせ盗んだ刀なら、疵など、かまうこともありますまいに。あくまでも御主君に義理立てなさる御所念ですな」

 逐電というのは、伊達家上層部も承知の方便だろう。仙台侯を辱めた山野加右衛門を斬るための――。

「あくまで、加右衛門の首を落とすためだけに使うつもりでした」

「だから、抜かなかったのですか。しかし、そんな余裕をもって、立ち向かえる相手と思われたか」

「試刀家は縛られた罪人もしくは死人を斬るのが専門。生きた相手と斬り合うことはまた別。しかも、彼奴は齢(よわい)六十を二つ三つ越えている。そう考えましたが……」

「この五左衛門は伊達家中でも、腕自慢でござってな」

 安定の言葉に苦笑が混じる。

「もっとも、こやつは死体すら斬ったことがない。加右衛門にかなうわけもなかった」

「山野様にかなわなかった余目様が、身と心の傷を癒す場所に、こちらの安定師匠のもとを選んだ理由は何です? もちろん、仙台侯のお屋敷にはもう戻れまいが……」

「以前から、こやつはわしが預かっておりましてな」

「つまり、刀工の弟子として、ですか」

 刀鍛冶は他の職方とは格式が違う。貴人や武家の中にも「慰め打ち」を行なう例は珍しくなく、家臣に刀鍛冶の修業をさせる大名家もある。

 安定は越前の出身だが、奥州仙台との関係は深く、明暦元年(一六五五)に仙台へ招かれ、仙台東照宮への奉納刀を打ち、さらに伊達政宗の霊を慰めるべく瑞巌寺(瑞鳳寺という記録もある)にも奉納している。

 助広の耳には、余目五左衛門以外の安定の弟子たちにも奥州訛りが聞き取れた。

「刀工名は安倫(やすとも)と申します」

 と、五左衛門は名乗った。

「実を申せば、御刀奉行手代は養父です。わが血流は倫助と称した父祖の代から陸奥守家お抱えでございました。私の実兄はこちらの安定師匠に入門し、安倫の名をいただきましたが、五年前に亡くなっております。私は養父とともに手代として陸奥守家に御奉公しておりましたが、実兄のあとを継ぎ、二代目の安倫となります」

 雨の中で腹を切りそこね、好きなこと、やりたいことはないのか、と訊かれた時に、この男の胸中を過(よぎ)ったのは、刀作りだったようだ。

「では、修業を続けて、刀工になられるのか」

「実は、加右衛門に叩き折られた刀も自作。まだまだ未熟です」

「弟子の未熟は師匠の恥」

 と、安定。 

「加右衛門の首を土産にせねば、仙台侯への帰参もかないますまい。せいぜい、わが弟子として、こき使ってやりましょう」

 この師弟は苦笑さえしているが、助広は大真面目に問いかけた。

「もう、山野加右衛門様を狙うのは断念されましたか」

「要は、お家の面目を保てばよいこと。他の方法を考えましょう」

 何をするのか。疑問には思ったが、助広が立ち入るべきことでもない。

「しかし、余目様をかばうと、安定師匠と山野様との仲が気まずくなりませんか」

「わしはもう名を広めた。今さら、彼奴の試し斬りの恩恵など必要とはせぬ。人のことより、甚之丞殿こそ、やりにくいのではないかな。今後も加右衛門とお会いになるだろうからの」

「今後……?」

「上野寛永寺」

 と、安定はいった。寛永寺では、全国から刀工を招き、将軍来臨の「御前打ち」の準備が始まっている。

「そこで打ち上げた刀は加右衛門が試し斬りをすることになっておる。甚之丞殿は、その御前鍛錬に参加のため出府されたのであろう」

 確かに。しかし、助広は名乗っただけで、自分の素姓を明かしていない。なのに、

「御同業ですな」

 安定はあっさりといい当てた。

「それ、その腕の無数の火傷跡。鍛冶屋の看板を掲げているようなもの。しかも、上方訛り」

「恐れ入ります。甚之丞の世間での通り名は、大坂の津田助広と申します」

 あ、と五左衛門が頷いた。

「あの商人から師匠と呼ばれていらっしゃったが、やはりそういうことでありましたか」

 安定は値踏みするような視線で、助広を見据えている。

「わしも御前鍛錬に招かれておる」

 参加者の顔ぶれは事前に知らされているはずだ。はず、というのは助広は江戸の刀剣界に人脈がないため、聞いていないのである。が、安定は助広の参加を知っていた。

「お若い」

 安定の目が、すっと細くなる。

「『ソボロ』の異名をとる、音に聞こえた業物の名が助広でしたな」

「父です」

「ふむ……」

 初代助広はもとは播州津田(姫路)の数打ち(量産刀)工であったが、大坂で初代河内守国助の門に入り、成功した。すでに隠居して、名を息子に譲ったが、作刀に「そほろ」と添銘したものがあり、ソボロ助広の異名で呼ばれている。

「一族郎党、身なりにかまわず、ボロをまとっている故に『諸人惣ぼろなり』と伝えられているが……いや、失礼」

「『中庸』にいう『霜露の隊(お)つるところ』から引いている言葉です。もっとも、確かにボロをまとってはおりますが」

 天の覆うところ、地の載するところ、日月の照らすところ――およそ血気ある者は尊親せざることなし、の一節だが、刀鍛冶風情の知識の範疇ではない。

 しかし、

「天道論だな。おのれの技芸が天下に轟き渡るという寓意か」

 安定は理解した。案外な教養人だった。ありとあらゆる方法で自分を磨いてきた、そんな職人なのだろう。

 霜露は触れれば落ちる露から斬れ味をも意味し、江戸後期の首斬り役・山田浅右衛門吉睦が刃味を順位づけした最上大業物にも、ソボロ助広は名を連ねることになる。

「なるほど。息子もまた業物のお墨付きを得るべく、料理屋で加右衛門に挨拶をなされようとしていたのか」

「気が進まず、逡巡しているところへ、血相変えた余目様に出くわした次第です」

「どうせ、金持ちの紹介でしょうな」

「白戸屋という呉服太物商です。その寮が本所にあり、そちらに逗留しております」

「大坂から引き連れてきたお弟子たちも、そちらか」

「それが……」

 助広は小さく苦笑した。