42. 刀剣・日本刀中心の鑑別法 再刃編(その六 総合的に見る古名刀の再刃)
今回は前回の復習をかねて今少し述べておきたいのと、日本刀の中心の錆状態、反、刃幅の総 合的判断のおさらいをしておきたい。
さて、(1)図(備前の短刀)をみて頂きたい。まず第一に現在の刃区から刃文が始まっ ている事に注目して頂きたい。そして、刃先の刃区角(はさきのはまちかど)からフクラ あたり迄の刃先の線の凹み具合をみて下さい。それと互の目乱の谷の部分の全体の線を 目線で見比べて頂くと、その二つの線がほぼ平行した状態となっています。これが重要 な見所となってきます(前回の本欄参照)。
さらに中心に目を転じて下さい。刃方の線が目釘孔の下あたりの所から刃区にむかっ て直線的ですし、むしろ正確にいいますと棟の方へ少し凹んでいます。この状態は何を あらわしているかという事はもうおわかりの事でしょう。上の刀身がかなり研疲れて減 ったため、本来の刃区が無くなり、新たに刃区を作らないとハバキが安定せず、ハバキ の役目を果たせなくなるからです。従って、刃区がなくなってズンベラボウになった所 の刃方を削って、新たに刃区を作ったのであります。
つまり、本来の刃区がなくなる程に本刀は変形(上身も)しているのであります。この 事は、本刀の地肌に当時の備前物にはない流れた肌が出ている点からも証明されます。 研減ってくると刃先の線は当然、棟の方へ凹んできますが、刃文の匂口(形、殊に谷)は 刃先の凹み具合に応じて変化、移動はしてくれませんね。となるとこの刃文は不合理で ありますから、刃文が本来のものとは違う。つまり再刃されたと考えるとすべての点で 不合理ではなくなります。
しかも本刀は鎌倉時代の年紀がありますから、現在の典型的な内反の状態も、かなり 本来の反状態からは変形しているという事になります。併し、本刀の鋩子はフクラ辺よ りも深く、返(かえり)がありますから不合理そのもので、もとの姿状態にもどしてみて 下さい。異常に広すぎる刃幅と鋩子の形という事になってきます。下の方がこれだけ研 減っているのですから、上の方はそれ以上に減っていなければならない事は何度も言っ ている真理です。ならば鋩子はフクラあたりは殆ど無いのが当り前で、たとえあっても (残っていても)鋩子はかろうじて焼詰で残るか、又はフクラの途中で刃文が無くなって いても全く不思議ではないものです。要は変形して減った姿を、元の通りに復元してみ ることが重要なのであります。
さて、次に太刀の例を引用しておきたいと思う。(2)の写真を見てください。長寸で 反の深い(高い)太刀であります。「刀剣美術」誌に刃長は二尺七寸三分、反は一寸とあ ります(私の資料ではほんの少し相違)。「刀剣美術」によると、地肌は「小板目に杢交 じり、流れ肌入り、地沸細かに厚くつき、地景よく入り、地斑調の肌合い交じり、沸映 り立つ」とあるが、私の資料では「板目肌、大肌交じり、処々弱き肌が現れ、地移り心 もあり」となる。
本刀の初見は昭和四十九年夏であるが、その後に研直されている可能性もある。茲で 「刀剣美術」の”地斑調の肌合”が私の”弱き肌”というのに該当し、表現が違うが要は刀 身が減って芯鉄(アンコ)が出ているという状態をうまく表現しただけに過ぎない。”沸 映り立つ”は”地移り心もあり”というのに該当するが、要は刀身の地肌がかなり凹凸(実 際には凹凹)になっている事に尽きる。又、失礼ながら私の記憶でも、当時、既に地肌は かなり疲れた所があった。
刃文は「中直刃調に小乱れ、小丁子、角(かく)ばる刃など交じり、足、葉入り、匂深 く、小沸厚くつき、打ちのけ、細かなほつれ、砂流しかかり、金筋入る」とあり、私の 方は「よく沸え、小丁子乱蕨手(わらびて)となって刃中に金筋稲妻よく働く。焼幅に広 狭あり。」とある。
鋩子は「表裏共に浅くのたれごころに先細かに掃きかけ、小丸に返る」とあり、私の 方は「直状、焼幅狭く、焼詰状に小丸、少し返り、横手から金線が稲妻風にニ筋程強く 働く」となる。
姿を説明すると、物打辺は反がなく直刀状となって、反の中心(最も深い所)は中程よ り少し下である。身幅は先幅が元幅の約半分強しかなく、切先は中切先であるが「刀剣 美術」では「猪首風」としているが、猪首とは先幅(横手の所)が元幅と余り変らないぐ らいに張るとされているから、半分の身幅ではこの猪首風の表現は如何なものであろう か。尤も私は猪首切先は最初から作られていないと考えているが、詳しくは拙著「刀の 鑑賞」を参照して下さい。
また「刀剣美術」では本刀を”輪反り”としているが、反の最大の所は前述のように刀 身中央より下にある。いづれにしても本刀は反が深いのであるが、現在は物打辺が直刀 状態となる程減っている点と、鋩子が残っているとしても物打辺に比べて焼幅はかなり 狭くなっている点をも加味すれば、現在の反よりももっと深かったのが本来の姿となる。 まるでそっくり返るようでは不自然である。
さて、次に中心(3)をみて下さい。一応は雉子股(きじもも)形になっていますが、銘 字とその位置を仮に正真として話をしますと、この中心は生(うぶ)中心となります。中 心の中央(目釘孔)から下(中心尻)迄をみますと、反がふせられているのがわかります(棟 角の線を目線の高さでみると、中心が刃方の方へふされている(内反状態)になっている)。
又、現在の中心の刃方は中程下から上(刃区)にむかって直線状になっています。併し、 これは雉子股になっているためではないかとの反論もありましょうが、上の目釘孔(生孔 )の位置(左右)が刃方に偏りすぎている事から、この中心は本来(生)の雉子股ではない事 は明白です。つまり、刃方の線の凹みを上手く隠した後世の加工であります。すると、 点線で示した刃方の線(最小限度)となりますから、この太刀のハバキ元あたりは相当に 減っている(身幅が狭くなっている)事は明白であります。
従って、この事は物打辺が直刀状態になっている点からみても、本刀は予想以上に身 幅が狭くなっていると推測され、その上、再刃後も研減っていると考えられます。
次に、刃文は焼幅に広狭があると述べましたが「刀剣美術」の押型(4)でもそうなって いますし、私の資料では佩表の物打辺は佩裏のそれよりも広くなっています。つまり、 一番減る(刃幅が狭くなる)所の刃幅がハバキ元よりも広いというのは不合理ですね。で は、下の方が減ってしまって、ハバキ元の刃幅が狭くなったという反論がありましょう が、本刀は生で磨上ではありませんので、その理屈は成立しません。いづれにしても物 打辺の直刀状態と刃幅、そして鋩子の状態が本刀の全てを示しています事はもう本欄を 読んで頂いている方にはピンとくる筈です。何といっても刀身の減り具合と現状の刃文 の刃幅とが、全くつり合わないし不合理なのであります。
そこに加えて、この中心の錆状態(以前に紹介したのも国行でありましたが)は異常で あります。これは本欄で既述の事ですから今回は触れません。本刀の研溜(とぎだまり) 付近は凹凹ではなく綺麗で平面的でありますが、これは研溜と刀身との段差がかなりひ どくなったので、砥石でとり去って、ハバキも入りやすくガタつかないようにした筈で す。押型、写真(5)をみても鑢目は全く看取出来ず、本来、鑢目があるなら、つまり刀身 が減っていないならここには本来(刀工)の鑢目が必ず残ります。それが残されていない というのは、本刀がかなり減っている(下の方も)という事を如実に示しています。
銘は大事に大事にするのでありますから、本刀の銘字の残った状態からみますと、中 心も焼けたと解釈する以外にありませんから、当然、本刀は再刃という結論が出てきま す。
刃先(刀身)の線の凹みと同じ焼幅ではないのに、本刀を再刃というのかという反論は 全く不合理です。要は刀身の減り具合と刃幅との関連が最重要であり、中心の状態、反 具合も次に重要な見所であります。昔から余りにも反が深いものには気をつけろという 伝聞がある事も事実です。再刃を警戒していた証拠です。
尚、本刀は来国行として現在、特別重要刀剣に指定されていると聞くが、私は初見以 来、重要刀剣に指定される直前に再び拝見している。又、本刀には私の師・村上孝介先生極 めの鞘書(来国行として)があった、「昭和名物帳」にも登載されている。但し、現在も 師・村上孝介先生の鞘書が残されているかは不明。
従って、今迄の私の本欄での主張が反日刀保のみではない事もわかって頂きたい。又、 師弟であっても刀の見解では師の見解に対しても”是は是””非は非”であって、安易な妥 協や責任転換はするべきではないと常々考え、身を処している事をも御理解頂きたいの である。
(平成二十四年十一月 文責 中原 信夫)