40. 刀剣・日本刀中心の鑑別法 再刃編(その四 刃幅から見る古名刀の再刃)
前回迄は中心の保存状態からみた方法を主に述べてみたのであるが、今回は刃幅からみた方法を前回と違う実例をあげてみたいと思います。
刃幅といっても別に難しい考え方ではないのであるが、これに引っかかる作例(事例)が民間団体の指定品のみならず、国指定品まであるとなればそのツケは誰が払うのであろうか。
今回は長い刀(太刀)よりも短刀の例をあげた方が解りやすいので、順次説明していくことにする。
では押型(1)を見て頂きたい。刃長八寸余の鎌倉期の在銘短刀で、四国の某大名家の伝来、しかも元禄の古折紙付きという。勿論、重要刀剣指定であり、某権威者(とされる故人)の鞘書があった。
この短刀の反をみて頂きたい。所謂”筍反”又は戦後は俗に”内反”とも言われるものである事を十分に認識して頂かないと話は進められない。刀身の右横に直線をひいておいたので、刀身の反状態はよくわかる筈である。
現在の刃区の所からフクラ辺に至る刃先の線の曲がり具合を見て頂きたい。刃区から三寸(9センチ)程上の所までに一番顕著にあらわれているが、刃先の線が大きく棟の方へ曲っているのがわかる筈である。(この押型は私がとったもので十分に正確にとったつもりである。)どうしてこのように刃先の線が棟の方へ曲るのか、それは研磨によって刃コボレが取り去られて整形されたからである。併し、いくら区上三寸程辺が刃コボレによって整形されたとしても、その曲った刃先と同じ刃幅で直刃が残されるであろうか。
刃先が棟の方に曲った(つまり刃幅が減ったということ)にしても、刃文はその減りに応じて棟の方へは移動してはくれない。刃文が移動してくれれば研師は苦労しないのであり、絶対に無い事である。
つまり、この短刀の現在の刃文は、刀身がある程度減った時点で曲った刃先に平行して直刃が焼き入れされたという事、すなわち典型的な再刃という事が物理的に証明された事になるのである。(刃先が棟の方へ曲っている事そのものと、再刃という見方とは全く別の事である。)
さらに、この短刀は筍反の姿であるが、俗に言う”内反”状態でもある。内反というのは反が刃の方へ俯いた状態を言うものとされて、戦後は市民権を得た用語となった。
併し、本阿弥家では”筍反”という用語を昔から使ってきたのであって、それは”反は無い状態か、若しくは先の方が少し刃の方へ俯く”状態を言ってきた。
但、これには”フクラが枯れるか、枯れ心になる”という付帯条頃が必ずあるのである。本阿弥流の教(おしえ)に敵意のみを剥き出しにした戦後は、この付帯条項を全くといっていい程に教えず、内反とのみ単純に呼んできた。では何故にこの付帯条項がついていたのか。それは鎌倉期の短刀は最初から筍反の姿ではなく、反があった短刀姿であったという事を示している。
つまり筍反になるのは先の方が欠損(短刀は突くのが主目的)すれば、先の方の棟部分を刃の方へ減らして、フクラ辺の刃幅を極力減らさない様にしたからで、そうすると先の方が刃の方へ俯いた恰好(姿)になる。併し、フクラ辺の刃コボレは刃幅を減らして取り去る外はないのである。これが筍反の発生理屈である。
従って本阿弥家の筍反の考え方(筍反の姿は刀身が減って整形された姿)の方が正しいという事は明白となる。製作当時から筍反の姿にして作っていたら、七〇〇年もの間にどういう形になってしまうか、容易に想像はつく筈である。
さて、押型では刃幅が一番深いのは何処でしょうか。正解はフクラから切先にかけてです。下の方よりも上の方の刃幅が深くなっています。一番欠損しやすい上の部分(フクラから切先にかけて)の刃幅が広くて、逆に原形が残されやすい下の方の刃幅が狭い。こんな馬鹿な事が物理的に考えられますか。更に、鋩子の返(かえり)が残されています。
併し、先の方がこれ程に俯いているのですから、本来なら焼詰になって当然です。逆に現状を元に戻すと鋩子が倒れて、極めて長い返となり、不合理であります。
以上の事を全て勘案し、総合判断して下されば、この短刀(1)は「再刃されたものである」という事になるしかありません。(図(2)は自然な姿と刃幅)
この様に従来の考え方を一度全て捨て去って下さい。殊に戦後の考え方が多くの害をたれ流しているのです。併し、指定者側に実害は及びません。全て皆様に及んでくるのであります。否、もう及んでいるのです。恐らくこの短刀も大手を振って通用しています。そして「この短刀は糸直刃であるが、素晴らしい糸直刃である。姿も上品で実に鎌倉期の優美な品格をたたえた優品・・・」などという宣伝文句で大事に扱われているのではないでしょうか。
併し、その内実は前述の通りのものであります。本欄で取り上げた例の来国行の太刀?といい、この短刀といい、指定者・鞘書者が、その内実を知りませんでしたと弁明すれば素人以下の鑑識力となり、知りつつ指定・鞘書したとなれば詐欺の片棒を担いだことになる。
読者の皆様には心して考えて欲しい。
(平成二十四年八月 文責 中原 信夫)