34. 目貫の陰陽根(いんようこん)について

 私はどうしても刀が好きなのであるが、意外に小道具も同じ様に好きである。殊に古い小道具が大好きで、私の一生のテーマは古い小道具の見方の確立を目指している。
勿論、このテーマは果てしなく深く、そして根拠のない先入観との血みどろの戦いとなる。

 さて、先入観ということでやや唐突ではあるが、表題の陰陽根について今回はお話しをさせて頂こう。

 「目貫の根(ね)」なる物は(A)の如く、目貫の裏から出ている”出べそ”の如きものであって、この根の形には角棒状と丸棒状のものがあり、その他に陰陽状、つまり丸棒状と筒状がワンセットになっている(B)のがある。

 一応、陰陽根は古い時代に限られるとされている(時代が下がっている作にもあるが)。
唯、この陰陽根が目釘の役目をしていたという考え方がいまだに流布していて、全く困ったものである。江戸時代後期に出版された「金工鑑定秘訣」に陰陽根の記述と図示があるが、目釘の代わりとは書いていない。

 目釘の役目をしいるという考え方を大々的に宣伝したのは「後藤家十七代」(雄山閣・昭和48年刊)であり、三人の共著となっている。少々煩雑ではあるが、その内容を引用してみると「室町時代の上三代(乗真の後期のものを除く)のものは、根が陰陽根で出来ていることに特徴がある。この時代のものは、桃山期になってからの形式としてのみ残された陰陽根とは異なり、実際に実用に必要欠くべからざるものであったことをあげなくてはならない。すなわち、目貫の文字が示すとおり、陽根の根が長く刀の茎を貫いて反対側の陰根の中に入れて止めたのである。であるから、今日の目釘の役目も同時に陽根がしたわけである。‥‥」

 このように堂々と目釘の役を目貫の根がしていたと書いている。引用文中の上三代とは後藤祐乗、宗乗、乗真のことで、室町時代の工人とされている。勿論、同書は色々と目釘の役目が出来るように細工が陰陽根に施されていると書いているが、私にとっては絶対に受入れられない絵空事であり、日本刀のみならず拵の事を全くご存知のない、極めて幼稚な考え方である。

 このような著者によって現今の小道具界が作り上げられてきたと思うと、心底情けない。尤もこうした私の指摘は、私が昭和五十四年から平成十年にわたり刊行した「とうえん」誌上で触れているので、決して今回も欠席裁判ではない事を断っておく。

 では、何故に根のみならず、陰陽根が目釘に出来ないのか。第一に「刀の茎を貫いて」とあるが、室町期といえども、太刀も短刀も同様に目釘孔の大きさは陰陽根の比ではなく、かなり大きい。目釘と目釘孔の間に隙間があれば、如何なる結果になるかは、皆様はよくご存知のことである。目貫の陰陽根が一体となった太さと、目釘孔の大きさの違いは一目瞭然であろう。

 太刀、刀や短刀の目釘孔と同じ太さの陰陽根は絶対にない。しかも、目貫の根は目貫本体に鑞付(ろうづけ)されているだけであり、根の周囲に力金(ちからがね)又は支金(かいがね)を配していても、日本刀の打突の衝撃には耐えられない。仮に、根自体は打突の衝撃に耐えても目貫本体はもたない。

 それから、柄の表裏同じ所から目貫の陰陽根を差し込んだとしても、柄は必ず糸か革で巻いた筈。しかも目貫は表裏少しズラして柄に巻き込んでいるから、目釘には絶対に出来ないし、こんな無茶苦茶な話しはない。

 ならば出目貫(だしめぬき)にしたらという人がいようが、どんなに陰根と陽根の間に革を詰めようが、両方の根を金属棒でとめようが、日本刀を実際に使っているとゆるむ。まさか、目貫の上を握って戦うんだとはいわないでしょうね。

 このように「陰陽根が目釘の役目であった」などは荒唐無稽の絵空事である。

 併し、確かに目貫と目釘が一体のものである作例はある。春日大社の”菊造腰刀””柏木兎腰刀”などがそれであるが、これらは目貫というよりも、むしろ目釘飾とでもいった方がよく、共に目釘孔附近の柄の上に筒金がはめられた方式で、春日大社の”菱作打刀拵”も同様である。が、実用上の手ざわりは果たしてどうであろう。

 古い神社伝来の古い太刀拵で、目貫を柄下地(木)と柄皮の間に封入して固定してその上から革等で柄を巻いて、しかも目釘は別にある例もままあり、目貫は必ず目釘の役をしていたとするのは誤りであろう。

 さて、先日であるが、知人からこうした陰陽根について質問を受けた。つまり、知人は「室町期の目貫を見たが陰陽根になっていないので‥‥」という事であった。この知人は古いものは陰陽根であり、それが目貫の時代鑑定の基本と思い込んでいた、いや、思い込まされていたというのが正しい。

 陰陽根の有無のみでは時代は鑑定出来ないが、果たしていつ頃からいつ頃までの時代と捉えて良いのかという点も残念ながら不明である。が、ある程度の時代は肯定するべきであると考えている。但、一つ言える事は目釘の役目をするものではないという事は断言出来る。

 では、目貫には何故に根が必要なのかという点にも触れておきたい。基本的に目貫は一枚の薄い金属板から作り込んでいく。従って表面から力が加わると潰れないとも限らない。それを防止する為に根を付けたのであろうし、もう一つは柄の曲面に固定しやすくする為とも考えられる。

 恐らく金無垢(概ね14k~16kぐらいか)の目貫は板そのものが他の金属製よりもさらに薄く脆弱でもある。これは材料代の問題であって、古い時代程、金は極めて高価。時代が下がれば安くなる傾向にあるので、分厚い地板の金目貫は古い時代には殆どないとされる所以である。後藤家各代の金目貫の地板の厚さを解説した記述があるが、簡単にいえば以上の訳である。

 又、目貫の作り込みには様々な工夫がある。目貫は必ず柄に装着される。まずその形であるが、周囲が概ねラグビーボールのような外形(楕円形)になるのが良いとされる。
(C)を見て頂きたい。この事は「後藤家彫物亀鑑」という写本(一七四九年に書かれた)にも記述されているが、何のことはない。このラグビーボールのようなような外形なら、柄を握った手が目貫を巻き込んである所へきても掌に余り支障にならない形である。

 因みに手の掌を柄を握る様にして御覧になれば、掌の中央はラグビーボールのような形となった凹状になっていますよ。この外形以外には掌の中で不用な当たりとなって、柄の機能が不全になる。しかも、曲面になった柄(大体鮫皮が貼ってある)にぴったりと吸い付く様に目貫は作ってある。

  (D)図参照、目貫の小口(こぐち)又は際端(きばた)、つまり立上(たちあがり)の様な数ミリの厚みが必ず周囲全体にあって、そこが”ククリ”と云って中の方へ少しすぼめた様にしてあるので、一段と柄に固定しやすくなるように作ってあるのが実用時代のものであり、これらに当てはまらないものは、古い時代のものではなく、実用から離れた表の彫刻のみをみせる単なる飾りとなっているとされても致し方ないし、大量生産の数物(多くは鋳物)という見方も成り立つ。

 さて最後に、少し話が相前後したが、陰陽根はどうして出現したのか。勿論、推論であるが、私は日本文化のエッセンスでもある”強弱””表裏””陰陽”という考え方からのものと考えている。目貫には表目貫と裏目貫という形式で出来上がっていて、それで一対となるのである。鐔にも表裏という考え方があり、縁頭の縁にも表側、裏側があり、図柄も必ずそのように考えぬかれている。

 これが日本文化である。つまり、陰陽の思想によってこれらは発生したと思われるのであり、目釘とする為のものではない。小道具は日本刀以上に解明されていない点が殆どであって、何よりも金属の非破壊検査が完全に確立される事を望むのであって、それまでには何とか古い物(小道具)への大体の概念を確立していきたいと常々考えている。

 それには中身の刀、そして小道具、それらの総合である拵、これらを一体に考えていかなければいけない。鎌倉時代の太刀の中心は絶対に入れられない中心櫃の形と大きさの甲冑師鐔で、堂々と鎌倉時代や室町時代の製作と称するのが極めて多くあるが、それらの製作年代を自分勝手に推測して釣り上げ賞美した人達は、日本刀、小道具、拵を一体として全く考えない中途半端な偏った人達であって、又、このような人達は臆面もなく如何にもわかったように本を出版してきたので始末が悪い。それらの人達の主張の不合理 と間違いに気づき早く目覚めて欲しいと願うのみである。

(平成二十三年九月 文責 中原 信夫)