31. 棟焼(みねやき)について

 棟焼(みねやき)は日本刀にとってどの様な位置を占めているのであろうか。

 まず、研磨の方からいえば、棟焼のある日本刀は研ぎにくいのである。と書くと、必ず、読者の方は 一様に「?」とされ筈である。もっともな事ではあるが、基本的に申せば、棟の殆どが庵棟「行の棟」 であるが、棟筋の左右の斜面を左右均一(対称)に、そして各斜面を真平(まったいら)に、全くの 平面に研ぐのは棟焼がなくとも高技術を要するのである。

 かなり以前、刀職達の催事があって、一人の若い研師が公衆の面前で長時間、汗水たらして、庵の 錆取りに挑んでいたが、殆ど錆を除去できていなかった。揚句の果てに音を上げこの若い研師は、次の 研師に強引にバトンタッチしてしまったという事例があった。

 これをみても刀の棟を完全に造形していく研(下研、整形)が如何に難しいかがわかる。ある意味で研の 上手下手は棟の処理をみてもすぐわかるといっても良い程である。読者の皆様で、これから棟を上から 下まで篤と御覧になれば、棟の庵がまるで蒲鉾の表面のように丸くなっていたり、デコボコ(棟に焼が ある)している日本刀が如何に多いか、気付かれる筈である。

 つまり、それ程に難しい棟に部分的にでも焼があったり、又は残っていたら、つまり棟焼があったと したら、棟焼の無いケースよりも、もっと難しい下研(整形)になる事は明々白々である。これを必ず 頭に入れておいて欲しいのである。

 さて、それを証明する例を・・・
新刀の名人、肥前忠吉(初代)や同国の伊予掾宗次への注文文書があるが、そこには抱主の鍋島藩主から 「みねにゆばしり之れ無き様に焼き申す可き事」などという一文が入っている。つまり、鍋島藩主が 将軍家や大名家への贈物等にする日本刀を製作する際に、事細かに法量、作風(刃文)などを指示したので ある。

 こうした指示は、明らかに棟焼を明白に意識している訳であるが、この鍋島藩主の意図は、棟焼(ゆ ばしり)があれば外見上、見苦しいという美観上の点があったと思われるが、それ以外に棟焼のある刀 は折れ易いという風評を気にしたのであろう。

 このようにみると、棟焼は刀にとって厄介そのものであるが、どうして棟焼は出来るのか?という 事に論点は移ってゆかざるを得ない。

 端的にいえば、どんな名工が刃文を焼いても土落ちによって日本刀に棟焼は大なり小なり入るのである。
そうであるから、焼入した後で修正(注文通りの寸法の反に調整)する際に、棟焼を消し去ってしまう ケースが多いのである。従って一流名工の作にはこの棟焼は殆どないに等しく、地方や二流刀工には、 よく棟焼があるという事につながっていくとされている。

 入札鑑定では棟焼が多いのは、日本海側の刀工や地方刀工とまで言われている程であって、成程、 古刀の一流所の備前物には余り棟焼は残されないのである。前述の初代忠吉の作には殆ど棟焼はないが、 伊予掾宗次には結構多くみられる。この事は、忠吉系は明らかに棟焼を意識していたが、全く系統や 作刀方法の違う伊予掾宗次系は棟焼など意に介さなかったとしか考えられないし、実用上も差支えが なかったのであろう。

 又、古刀でも皆焼などは棟焼がなければ成立しない刃文形態であるから、そんな日本刀が折れてしまった かといえば、若狭の冬広、越中の宇多、伯耆の広賀、相州の綱広、美濃の末関諸工を始め、備前の 諸刀工、殊に最高峰、与三左衛門尉祐定にさえ皆焼が残されている。この事は、棟焼のみで刀が折れる という説が一方的すぎる考え方であるとも言えよう。

 つまり、刀工は余り神経質には棟焼を嫌わなかった可能性もある。

 そうした考え方の他に、もう一つ大事な事がある。前述のように、棟焼がたとえあったにせよ、研ぎ にくいので研師が取り去るか、あるいは砥石がある程度喰いつくようになる迄、棟に熱を加えて焼き戻 した可能性が大である。まして現在は刃文があろうがなかろうが、スイスイと鉄を削れるセラミック (人造)砥石があるが、そのような便利な砥石が無い戦前迄は、下研の最初は天然の荒研であり、これで は中々思い通りに棟焼のある棟は研げなかったと思われる。

 殊に、古い刀ならまだしも新々刀や現代刀はなおさらである。いきおい、熱を加えて棟焼を取り去る ようになっていく。江戸時代でも同じような細工は必ず行われていたと思われる。

 もう40年近く前に、ある俄か研師がいたのだが、客から依頼された刀(現代刀)を研いでいたが、刃が 堅く棟焼もあったので、七輪の火であぶって焼を少し戻していた最中に来客があり、玄関で応対してい たので、刀を七輪の上に置いたまま数分目を離した。気がついて慌てて刀を見ると青黒く変色、つまり、 刃文も無くなる程の加熱状態となっていた。下手な技術では研げないので、所謂、「アイ」を取ってし まう所を、不注意で元も子もなくしたという話を本人から聞いた。

 もっとも、この日本刀はすぐ作者に依頼して再刃したそうで、持主は「直刃の刀と思っていたら、研いだ ら互の目乱になって・・・」といって逆に感謝されたという実際の笑話がある。

 このように棟焼というのは研師にとっては好まれざるものであるし、加えて、従来から刀の権威者と されている方々の著書や話の中で、「この日本刀には棟焼が多くあって下品な作風・・・」などと解説して いるケースも多くあり、これを真に受けて、刀をそのような目でみてきた傾向が多い。

 考えてみて下さい。棟焼は必ず焼入の際の土落ちで、多かれ少なかれ入るという事さえ認識して頂い たら、棟焼がないのは後日消した可能性もあるという事になりませんか。ならば、棟焼があるというの は、そのままか、それに近い状態で保存されてきた可能性もあるという事であります。

 では、室町末期の双刃短刀を考えて下さい。上から下まで棟焼と同じ”返(かえり)の刃文”があります。
となると、双刃短刀の場合は、焼入した後はすでに殆ど修正不可能になっているのであり、実に計算さ れ尽くした高技術な作刀でもあるといえます。

 但し、棟焼といっても、庵の所にのみはっきりと刃文のように(匂口のように)なるものと、俗にいう”湯走”状のように沸がモヤモヤと集まっているような状態がある。さらに庵から棟角を越えて、鎬地や 平地にまで入っているような場合もあります。ですから、庵と鎬地をタンガロイという金属の棒(極めて 硬い)で肌目を潰される(磨くのではない)ので、そのような所作も判別しにくくなっている。

 逆に棟焼が烈しいのは、タンガロイでなければ全く歯が立たないのである事も事実であって、戦前迄 は、この便利な?タンガロイがなかったので、いきおい、前述のように棟部の所作を可能な限り消して いかざるを得なかったのではないかと推測される。まして、キチッとした整形を要求される時代におい ては尚更であろう。

 恐らく戦国、江戸最初期あたりまでは、そんなにわずかな形を厳しく整える考えも必要も少なく、本 来は実用のみであったからであろうと思われる。但し、気の遠くなるような時間と手間を十二分にかけ て整形した研師も昔はいたと思われる。

 さて、入札鑑定や無銘の極(きわめ)の折によく使われるのに「来」と「粟田口」の区別方法があるよ うで、”粟田口には棟焼はないが、来には棟焼がある”と云われている。筆者にいわせれば、何となくこ じつけの気がする。つまり、七〇〇年も前の日本刀であれば、元の棟焼は果たして残り得るかという点であ る。しかも、来に棟焼があるとされている根拠は古伝書に”来は棟やくるなり”というような表現がある のをうまく利用しているフシがある。

 そうした一要因のみで免罪符的に来と極めるのは牽強付会ともいえる。もっとも来の棟焼は俗にいう”湯走”状の沸の集合した如きもので、刃文の如き棟焼ではないとされているが、その前に、来にも粟田 口にも果たして無銘があるとは中々考えにくいのである。

 つまりは都合の良い部分をつなぎ合わせた論理であって、冷静に考えて頂ければ、粟田口にも棟焼は 入ったでろう事は、前述の考え方からいけば十二分に肯き得るのである。確かに四〇〇年前、古伝書が 書かれた時はそうであったかも知れないが・・・・。もう今日では確証、決め手にはならないといった 方が妥当であろう。

 とにかく、このように日本刀を研ぐのは隠れた苦労がつきものであるから、真面目な研師の皆様に対して、 愛刀家は十分な理解と支援をお願いしたいのである。

(平成二十三年五月 文責 中原 信夫)