22. これからの刀剣界の課題
刀剣界(社会)は愛好家・刀剣業者・刀剣職方・そして刀剣審査側に別かれるが、まず業者の方について。
刀剣業者は営利ではあるが、愛好家に出来る限り良心的な刀を提供しているとの自信と自覚をもって欲しい。
つまり認定書等を“隠れミノ”にしないこと。その裏付は愛好家が刀を購入した時、万が一の時の下取価格(現金)を必 らず提示しそして確実に実行する事である。これの実施についての具体的な理念的指導等は刀剣商協同組合に負う所が多くなる筈である。 つまり業者みずから が規律をもつこと。そして口だけではなく実行することである。これにより新しいリピーターの愛好家を育てあげる事が出来る筈である。
つまり従来の業者に不足していた精神面や社会的・道義的モラルのレベルをアップすることになる。世界に冠たる刀を取扱う業者の一般社会からみた評価(レベル)が低いと、何ともはや言うべき事はなくなってしまう。
それと一番強調しておきたいのは業者同志の取引形態である。普通“市”と呼ばれる所での決済は何回かの分割が多いが、これを廃して現金一回払にする事が緊 急かつ最重要である。このいわゆる三回払の“延払”が業者の質を極端に落し、それ以上に時代に即応した価格をつけにくくしている。
刀以外の美術品の“市”はすべて一回払ときく。延払の方が却って不思議なのである。従って刀剣業者は当然に目利にならねば店をつぶしかねないのであるか ら、認定書は二の次となり、刀の本当の価格をつくれる。 つまり業者の最大の武器は価格を自らで作り上げることが出来る。これは刀剣界のどの人達にもない 最強かつ唯一の武器である。一回払にすると資本力の強い業者に刀が独占されるとか、資本金を持たない業者には不公平との意見もあるが、文句をいう前に他の 美術品商と同じ方式にするのが何といっても先決である。業者が顔を向け、耳を傾けるのは日刀保ではなく、刀を買ってくれる人達である。今迄が間違っていた のである。
次に刀職であるが、刀職の方々は愛好家と直接的に接する機会も多く、かつ業者とのつきあいも多い。やはり技術者からみた刀の楽しみ方や保存方法を繰り返し アピールすることが第一であろう。認定書のランクが上になるような仕事を自ら吹聴することなく、先人のすぐれた技術に迫るべく、又追越すべく努力を続けて 頂きたい。尚かつ、裏で業者顔負けのブローカーにはならない事。
さて愛好家側については、刀を楽しむという事のみを大前提にして、刀を求めて欲しいのは言うまでもない。四十年 も前のバブル(刀剣)では素人でも一夜に して儲かった傾向が多く、その夢を今だに忘れられないのでそうした点のみを結果的に追求してはいけない。端的にいえば金銭的損失をしたくなければ刀は絶対 に買わない事。これが真実である。
刀は楽しむものである。従って刀のランクや認定書等は必らずしも左右される事なく、自己の経済力にみあった刀で、最大限楽しめる刀を求めること。刀の銘を 入札鑑定会で当てる事が刀を楽しむ事ではない。どのように刀を楽しむかは前回にこの欄でも述べたし、先輩や刀剣会の指導者の主催する研究会へ出席して、他 人のもっている刀の本当の力を説明してもらえば、自分の目標と楽しみ方がヒントとして語られる筈である。研究会は刀銘を如何にして当てるかを目的とする所 では絶対ない事を強調しておく。
因みに私事で恐縮であるが以上の経過を説明するエピソードを紹介しておく。
かなり以前、私は豊後刀の平高田をよく鑑定刀にしたが其他の刀剣研究会で“末備前は当てられますが、平高田なんて当 りませんよ。こんな二流刀工を鑑定刀にしたって・・・」と不満を述べた人がいた。私はその時「あなたは末備前さえも正しく理解していないでしょう。大体、 平高田と末備前を区別出来ないというが、平高田、否二流刀工をわかる人は当然末備前だってよくわかります。だから一流は二流よりも上とされているのです。 末備前をわかっているフリはよしなさい」と忠告した事がある。
又、残念な事ではあるが、愛刀家(素人)をよそおって、その裏では業者も手に負えないブローカーという二面性の人が時々いるのも事実。これらの人達が一番 よく利用するのが認定書である。大体頭を冷やしてよく考えれば、名刀(当然であるが認定書はついている)を人に売るなんて愛刀家としてはおかしい。業者な ら営利であるから当然ではあるが、愛好家だったら絶対にだれがみても名刀というものなら手離さないものでしょう。“あなただけに名刀を安く・・・」という セリフは、よく世間を騒がせる悪徳セールスで使われていておなじみの筈。事実、安くはなく、極めて高価に買わせられているのである。刀が良ければ高いのは あきらめられるが、悪い刀なら・・・。
では最後に審査側にいる方々である。刀剣審査といっても、それ自体は全くの方便である。
私は江戸時代以来から続いてきた刀の極めについても、大きく変えるべきであろうと考えている。認定書が一番効力を発揮するのが無銘刀である。この無銘刀を如何に扱うかによって、錬金術が発生する。
例をとれば肥前刀の無銘を“来”に極めたような例は多くある。大体、来に無銘が存在すると考える方が甘い。一文字・粟田口などに無銘が多くあると学芸員が 考えているようなら、素人以下である。本阿弥流では無銘刀は一段ランクを上げて極めるとされていたが、私は一段下げるべきと主張してきた。一流に見える二 流を無名にして、一流の極めをつける。又、古刀の古い所にみえる時代の下がった刀に古刀の極めをする。これが無銘極めの正体であるといっても過言ではな い。ここに利権が発生し巨大な利益がある。併し、現在の情況は逆に作用している。何のことはない、元の姿にかえっただけ。それは無銘重要刀剣の現在の業者 値段が証明している。勿論、損をする一番手は愛好家であるが、愛好家は次にそのような刀を買わなければよい。併し業者はそうはいかない。そんな刀を大量に 在庫させておいても売れる見込みはない。かといって“市”に出せばみじめな発句、更に 買う業者もいない。これでどうして業者が日刀保に抗議をしないか不 思議でならない。又、日刀保もこのような現状に立ち至った理由をよく考え、自らを厳しく律すべきであろう。
それにしても、私は昔から考えている事があって、それを最後に述べておきたい。
私は刀が好きである。つまり刀剣に携わる人達は、すべからく刀が好きである筈と思っていたが、どうもそうではないような状況である。どのような職種であろ うと、勿論、学芸員をも含めて“根っからの刀好き”でなければ刀を楽しむことは難しいのではないかとさえ思えてきた。如何なものであろうか。加えて現在は 不況の真最中。併しこのような経済状態の時にこそ今までの不合理な所を直し新秩序を再構築し直し、新しい刀の価格基準を築いていくことが十分に可能なので ある。
むしろ、それを完逐しなければ、刀剣界は零落してしまう。こうした極めて大事な時期に理論的・技術的・精神的に大所高所から指導出来ない団体などは百害 あって一利なしと云われても致し方がない。腐った協会などいらない。愛刀家にソッポを向かれない内に、学芸員諸氏を始め、協会関係者の一層の自浄努力を期 待するものである。
(文責 中原 信夫)