14. 慶長新刀について
慶長という年号ほど不確かな存在はない。殊に日本刀について言うなら安永六(1777)年に『新刀弁疑』(鎌田魚妙著)が”慶長以来”というサブタイトル を付して出版した本からその後、慶長(1596)以前を古刀、以後を新刀(アラミ・新刃)と呼びならわしただけにすぎない。
つまり、何の根拠もなく他人のせいならぬ他書のせいにしただけであって唯々、漫然とダラダラと何となくそのような風習に従ってきた感が強い。
さて本論に入りたい。結論からいうと私は三十年ほど前から便宜的に日本刀に古刀と新刀の区別を敢えてするならば寛永(1624)で区切るのをベストに近いベターと公言してきた。
世人は慶長新刀いやむしろ新刀という表現に極めて敏感である。その理由を言うならば日本刀の末古刀(古刀末期)と新刀との間には大きな差異があると勝 手に考えている。差はほとんどないのにである。
無銘刀を新刀と極められればその刀剣の持ち主は「新刀のいつごろですか」と不服そうに質問する。「そうですね、どちらかというと寛文(1661)頃に近い でしょうね。。。」すると「古刀とはいいませんが、せめて慶長新刀にはなりませんか。。。」こうしたやりとりが昔から多くある。この笑い話的会話が慶長新 刀の現在の位置を見事に言い表している。
慶長新刀とはまさに妥協の産物的な語句ともいえるが私は最後の実戦刀、そして最後の古刀という意の捉え方をしている。
つまり江戸幕藩体制が固まっていく寛永頃までは恐らくまだ大きな天下分け目の戦がある、ある筈、するべきとの考えが大名の間にあったのであり、慶長新刀はそうした色彩を十分に反映している。まさに刀そのものである。
さて新刀の祖として埋忠明寿、堀川国広が世に喧伝されているが何の根拠もない。殊に埋忠明寿は白銀職彫刻の名人であるが刀剣の作刀は下手である。初代忠吉 が弟子入りしたというが作刀の勉強ではなく恐らく埋忠彫りを習いに行ったとというのが真相であろう。忠吉の方が日本刀の作刀技術はずっと上であることがそ れを証明している。
では、堀川国広はというと慶長末頃(京都に定住)には国広の事実上の作刀は晩年で終焉を迎えている筈である。国広は日向国から平高田の豊後国を経て足利学校、小田原篭城を経て京都に入っている。 京都に入るまでは平高田、末相州、末関そのままの作風である。しかし京都に入ってからは作風が一変してしまっている。従って国広ではなく堀川一派ならば受け入れられる。
では他に誰を持って慶長新刀の代表格とするのか。私は初代忠吉と初代伊賀守金道をあげておきたいのである。つまり最初期の肥前刀と三品一派が慶長新刀のキーパーソンである。この点を明確に捉えて頂いて、もう一度慶長新刀の置かれている状態を眺めてみよう。
慶長新刀とは実質は半分は古刀である。つまり人間にたとえれば手足は従来の実戦の刀・古刀であり、目玉は次代の新刀の方を向くというスフィンクスのような状態ではあるが極めて重要なものである。
勿論、堀川一派をキーパーソンに入れる事に全く異論はないが堀川一派はむしろ寛永以後の大阪新刀に極めて大きな影響を持つものであろう。つまり親国貞と親国助が果たした役割であるがこれについては別の機会にしておきたい。
さて刀剣社会では「新古境」という言葉があり、これは”しんこさかい”と読むのであるがこの語句の中身に属するのが慶長新刀であり私も天正(1573) 頃の古刀最末期の姿と慶長新刀の姿は殆ど同じといって解説する事が多い。例えば昭和六十三年と平成元年の文化の差を問われても絶対に答えられないどころか 同じですと返答せざるを得ない。これと全く同じであって慶長新刀とは全く不確かな語句であり不当表示であることはおわかり頂けよう。
つまり、末古刀から新刀の移行期間であって次代への最も重要な要因であると理解して頂きたい。何故なら日本刀は実戦の刀から武士のステイタスシンボルへの移行があった訳でまさにこうした移行(価値観の逆転)は単なる流れではなく極めて大きな変化・変革である。
いづれにしても慶長新刀というのは反面、良い日本刀という一つの暗黙の了解のようなものも従来からあるようで古い愛刀家は慶長新刀を高く評価してきた。しかし、現存刀が割りに少なく入手難の傾向があって現在では寛文新刀に世人の目が向いているとも思われる。
何故に少ないのか。これは前述のところに解く鍵がありそうである。つまり、いわゆる慶長新刀は古く見える傾向にあって、それ故。。。。。と解釈しておかざるを得ない。
決して刀剣の生産数を抑制する社会状況ではなかった筈であるし、むしろ増産体制が然るべきであったと考えられるからでもある。
とにかく慶長頃の刀剣は日本刀として上手ですよと力説しておきたい。 ただし、日本刀も寛永頃を境に古く見える作風の刀剣は激減していくのが私の実感である。従って寛永頃をもって新古の区切りとするという私の説は成り立っているのである。
(文責 中原 信夫)