9. 豊後刀(その一)
*高田刀工について
高田刀とは鎌倉期から幕末に至るまでの間、豊後国高田地区(現大分市鶴崎近辺)で産出された日本刀のことであり、殊に古刀期の室町時代のものを平高田と言い、新刀期以降を藤原高田と俗称する。
その高田地区は、現在の豊後高田市ではないことを付記しておきたい。因みに豊後高田市は昔は豊前国の領分である。
さて、豊後高田は大友家の所領であり鎌倉、吉野朝以後の高田刀工と大友家は密接に関係がある筈であるが、それらを証明する資料(文献等)は皆無に近い。
まず古刀期の最初は多くの偽物がある”行平(紀新太夫)”の刀であるが室町期に成立した日本刀の目利書にすでに”似せたる物多し”とある。「似せたる」とは偽物のことである。私は国指定品の刀をはじめ行平の正真作とされているものをかなり経眼したが出来は?である。
つまり行平として正真物か否かという前に日本刀として不合格であるという事である(但し、一~二本経眼していない物もあり、あくまでも私見として断っておきます)。
では一体何故に日本刀として不合格かというと第一に必ず焼落があるからで、この焼落は古い目利書にも注記は必ずある。焼落と再刃は非常に密接に(すべてではない)に絡むものであり、第二に匂口が鎌倉期の日本刀の匂口とはとても思えないものであるからです。
行平にこれらが許されて他の刀工には駄目というのでは理屈は全く通りません。他に英彦山の僧と言われる”定秀”という刀工がいますが、行平と同様の理由で?でありましょう。
次に南北朝に入り”友行”がいますが、この友行には優れた作、殊に小脇指によい作例が残されています。昔は友行を”豊後左”と言った事もあります。つまり、筑前国左一派と一脈を通じる作風であったと解釈できます。
このように書くと”左”と高田友行が...という気持ちを強く持たれるでしょうが、室町最末期の目利書には友行の項で”筑前左一派に見紛れるる...”という意味の注記があり、まさに至言というべきでありましょう。
併し、これには歴史的事実が裏付けしています。つまり元寇以後に徐々に大友家は筑前国博多(港)を半分掌中に入れていったのであり、残りの半分は少弐氏の勢力下であり両方でうまくやっていました。
その少弐氏の抱工が左一派でありますから当然に至近距離にある両者に交流があったと考えられます。これで前述の至言に一層の真実性を加える事になるでしょう。
当時、大陸貿易で莫大な関税を落とす博多は大内、大友はじめ島津に至るまで喉から手がでる程に欲しかったのであり、博多を占領(室町期に入り激しい争奪戦を繰り広げる)するには軍備であり武器(日本刀)であった訳であります。
刀工は趣味として刀を作ったのでははなく雇い主たる豪族の下で刀を産出したのであります。ですから少弐氏の滅亡と同時に左一派も消滅しています。更にいうなら左一派は筑前国の単なる一刀工群に過ぎないのであり、古くから正宗十哲云々として言われる程の大刀工群とはちょっと違うという見方もしなくてはならないかも知れません。強いて言うなら、九州地方の歴史は博多の争奪戦の歴史といっても良いのであり、それに刀が裏で絡んでくるのであります。
室町期に入り、殊に末期に至り九州は騒乱の絶える年がなく、当然に日本刀が莫大に消費された訳で大友家(義鑑、義鎮)の場合は大内、毛利、龍造寺、鍋島、島津、菊池氏と激烈なる戦争を数多く起こしています。
その武力を支えたのが銘に平□□と切るのが殆どである平高田といわれる刀工群でありまして、それこそ膨大な日本刀を産出したのであります。従って現存刀も確率として数が多いと考えられます。それがひいては安価な値段しかつかない理由の一つであります。尤も戦場で使用されるのが目的ですから殆どが数物(仕入物)であったろうという事は明らかであります。
併し、他国の刀工群の刀も全く同じ条件であり、長船にしてさえも数物が大半の産出であった筈であります。
長船がすべて良い刀で平高田はすべてが駄目であると身勝手かつ理屈の通らない見方で、この平高田刀工群が十把一束にして扱われていったのであります。平高田の中でも”平長盛”と俗称される刀工はそれこそ末備前の一流刀工と肩を並べるような名作を残しています。
確かに平高田の刀は備前刀に比べて大肌(芯鉄)が出易いし刃文も崩れているのが多いのですが中には備前の一流とまではいかなくとも二流刀工、またはそれ以上の言うなら1.5流の上出来のものがかなりあるのですから、そうした平高田刀を何故に評価しないのかというのが、私の年来の主張であります。
日本刀を本当に理解し愛好し得ていない人、否出来ない人達の世迷い言を真に受けてはいけません。
例えば、”大左(左文字)”を見ますと決して上手と思えない程に刃文が崩れたのがあり同じ派の”左行弘”の短刀(国宝、観応年紀)などは頭の下がる上手さがあります。知名度の低い行弘が上手で頭領とされている大左には大して上手なものがないなどと言うことは、まさに笑い話に過ぎないとしかいえません。
日本刀は出来そのもので判断するべきであり、刀剣番付の高低や知名度での判断は明らかに間違いであります。
以前、知人所有の平長盛の刀を鑑定刀として使いましたら、ベテランの方が始めすべて末備前一流刀工に入札されました。そこで皆さんから二流刀工を使うなんてひどい、騙されたとの文句が出されましたが、その中に「平長盛なんてランクの低いものは鑑定刀には無理。末備前ならまだしも……」との意見がありました。
こうした人達は平長盛を自分で勝手に末備前一流刀工と見た事を棚に上げていますが、平長盛は末備前一流刀工と同格という事を自ら証明しているのにも拘らず無理に知名度で拒否反応を示しているという事に気づかないのであります。平高田でも出来が健全で良いものは積極的に認めて愛好するべきであります。
こうした点をよくよく理解して頂ければ”末備前一流刀工に見紛う平高田”を楽しめる訳でありまして、まさに日本刀の醍醐味を十二分に感じて頂けるかと思っております。
さて、高田刀工が何故にこの高田地区に本拠地を構えたのでしょうか。大友家は代々、府内(大分市)に本拠を置いています。府内より東の方になる高田地区でなくてはならない理由は何でしょうか。それは大野川という一大河川の河口近くにあり別府湾、瀬戸内海、豊後水道に近接しているという好条件のためであります。
日本刀を作るには玉鋼(和鋼)と木炭は不可欠であります。その二つを同時に兼ね備えているのが現在の豊後竹田市の南、祖母傾山系の麓であります。
昔から国東半島が鉄の産地であり、この地方の豪族から大友家へ鉄を献上した史実がありますが、国東地方の砂鉄の質と松木炭の量では高田刀工の要求量は満たせないと見るべきであります。
玉鋼は鉄の中でも最高のものであり、鋤、鍬、鎌、包丁などの鉄とは全く品質が違います。玉鋼を作る砂鉄は人家のない、要は生活廃水(つまり燐の入らない所)のない場所から産出したもの、そして塩分を同時に一番嫌うからです。備前長船刀工が中国山地の山奥で作った玉鋼を使用したのも同様の理由と考えられます。
このような点から高田刀工は大友家の勢力拡大の源となったのであり、当然に実用刀として品質も優れていたという事になるのであります。
併し、政治的には豊臣秀吉による九州統一が結果的に大友家の崩壊につながり豊後国は小藩分立となるのであり、加えて慶長元年の別府湾沿岸を襲った大地震(瓜生島沈没)でも大津波により長期間、平高田刀工は大打撃を受ける事になり平高田刀工は壊滅状態になります。これは、吉井川の大洪水(玉鋼増産による上流部の山林の乱開発によるものか)で壊滅した長船刀工と全く軌を一にしています。
(文責 中原 信夫)