8. 美濃伝について

日本刀の五ヶ伝鑑定法における中で、この美濃伝はかなりの誤解があります。つまり、正確に言いますと、美濃伝の殆どすべての刀が末関伝とも言うべき物ですから、必然的に日本刀の中では在銘品の多くなる室町中期以降の伝法となって参ります。

併し、直江志津兼氏などの南北朝期の作はどうなるのかとの意見もありましょうが、良く考えてください。兼氏をはじめ直江志津一派の在銘正真の日本刀がいったい何振りあるで しょうか。兼氏の片切刃(太刀)をはじめ、短刀に数振り、他の直江志津一派に至っては、極めて少数です。

こんな状態で、果たして兼氏を初祖とする美濃伝として確立出来るでしょうか。

加えて室町初期にいたっても、善定兼吉や外藤などにも少ししか在銘品がないとなれば、前述のように、俗にいう、美濃伝とは末関伝であると言わざるを得ない事になるのは明白であります。

併し、末関伝とはいえ備前伝に次ぐ日本刀の古刀の二大伝法であることには全く異論は見出し得ません 。

では末関というのをもう一度冷静に考えて見ましょう。つまり、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康という”天下盗り”の武将はすべて、現在の名古屋近辺の小豪族から派生しています。末関はそれら三人の天下盗りに大いに貢献したはずであります。

つまり、膨大な量の日本刀が末関刀工群から供給されたと考えるべきですから、必然的に現存する日本刀の中で、在銘品も多くなる訳であります。

更にいうならば、この三人の武将は最初から裕福ではなく、当然高価な刀剣を軍備には回せませんから、それなりに安価な日本刀を求めた筈であり、その要求を十分に満たしたのが末関刀工群であったと考えられます。ただ長船にも日本刀を求めたでありましょうが、輸送コストや当時の勢力関係(群雄割拠)からは、かなり利便性に欠けるのであり近隣の末関刀工群からの供給に大いに分がありましょう。

さて末関は膨大な需要を満たすために流通経路、形態のみならず作刀工程にも大いに改良を加えていった筈で、そうした結果が現在の日本刀における末関刀工の特徴として良く知られているものと考えられます。

つまり、その一つとして、末関は刃文の表裏が揃う(同じ)という点がありますが、これなどは、いちいち手間のかかる土置の工程で恐らく一定の形をした定規のような型枠を使った結果と解釈できましょう。

こうした方法で手作業を極力に省力・合理化しコストダウンに徹したと思われます。

又、流通に関しては”座(組合)”を早くから組織していたようであって、長船とはかなり違った形態を取ったと考えられます。

当然、日本刀は戦場での消耗品になりますから、数物(粗製品)や数物に近いものが殆どであったでしょうが、こうした形態から生まれたエッセンスは長船刀工の衰微と共に入れ替わって末関の盛況となっていったのであり、殊に秀吉時代からはそれが著しくなったと考えています。

我々、刀剣界は従来から、刀工そのものだけしか考えなかったのが一番の欠点であります。

日本刀の古刀期は政治状況や経済状況との複合した間に生きていたものであります。

つまり、日本刀は戦略物資でありますから、当時の最先端技術であり、現在のハイテク製品と全く同様と考えるべきでありましょう。

従って末関刀工群は、この三人の武将を生んだとも言い得ますし、逆に三人が育てた刀工群とも言い得ましょう。

また、この末関刀工群が新刀に及ぼした影響には甚大なものがあり、絶対に避けて通れない存在なのであります。

但し、誤解を招くといけないので茲にはっきりと言っておきたいことがあります。例えば 「末関は安物で入念作はない……」 などという間違った考え方が現在に至るまで多く残っていますが、日本刀の歴史上、四百年以上にわたり健全に伝わってきた事自体が大変貴重な事であります。

長船の数物は大事にするが末関の正真健全作を軽んずる事は片手落ちであり、極めて重大な間違いであります。

“末関は刃文が同じ形をしているから面白くない”などと書いた本を決して鵜呑みにしないで下さい。そんな事をいうなら末備前の”蟹の爪”の刃文はそれらと同様ですよと申し上げておきたい。

《関刀工における最大の未解決点》

末関刀工には”兼”のつく刀工が多いが年紀を刻したものが極めて少なく、また同銘で代を重ねた家(刀工)も多くあって、その時代推定と代別がやや不可能に近いものがある。従って、銘振りや作風から末関(古刀)とされているものの中に、日本刀の新刀期以降にかかるものが混入している可能性が指摘できます。これについては「座」の資料などからもかなり解明できる点があるかと存じますので、是非共、地元の研究に期待することが大きいと考えております。

《村正について》

村正というと妖刀というイメージが一般にも強くあります。この一因が徳川家に代々祟ったとされる事であります。併し、これも良く考えると不思議でも何でもないことであります。

村正は関から桑名へ移住したとも言われています。桑名は当時の交通の要衝でありますから当然、日本刀の需要も多くあったと考えられます。系統的には、村正は関からみれば分家のようなものであります。従って名古屋(尾張国)近辺に当時から多くの作刀が存在していた筈ですから、徳川家康の親あたりの時代にも普遍的に多く使用されていたと考えるべきでありましょう。まして尾張徳川家に村正数振りが伝来していた事実は”村正は徳川家に不吉”という俗説が何の根拠もない事を如実に説明しています。つまり、誰かが針小棒大に面白おかしく作り上げたデマに近いものであるということでしょう。

《”無銘、直江志津兼氏”極めについて》

前述のように、美濃伝の始祖は兼氏とされている点でありますが、その刀剣の形状は”大切先、身幅が広く互の目乱れ……”というお定まりのものであります。

大切先、身幅が広いという点からは南北朝期の姿とされていますから、こうした極めが昔から現在に至るまで日本刀の無銘を極める上で堂々と行われています。
つまり末関伝を美濃伝として、喧伝しなければいけなかった理由が茲にあるのであります。美濃伝ではなく時代の下がる末関伝では膨大な”兼氏極め”等が出来なくなるのであります。

何百年の昔ならいざ知らず、こうした巧妙なゴマカシを現在に至るまで何の疑いもはさまず、まさに”お人好し”的に引き継いでいるのは実に嘆かわしいといわざるを得ません。

殆どの無銘、直江志津兼氏一派の極めの刀を精査しますと相州上位刀工の極め物と同様に磨り上がった形跡は殆ど見られず、むしろ生中心かそれに近いものであると存じます。

こんな事をいつまで続けるつもりでありましょうか。

因みにある古伝書には「村正は直江志津に見紛るるなり」との注記がありますので、箱乱れの村正はともかく、沸えの強い互の目乱れの村正は昔から無銘にされ直江志津に極めを付されたのではないかという事も事実として直視するべきでありましょう。

この古伝書の言は、まさに金言に近いものであり至って重要です。また直江志津の居住地と桑名(村正の居住地)は至近距離であることも重要でありましょう。

(文責 中原 信夫)