「雙」第26回(最終回)

雙 第26回(最終回) 森 雅裕

「本郷の本妙寺が火元でありながらもとがめられなかったのは、そういう理由じゃ」

「どういう理由でございますか」

「放火に協力し、大火後は残党どもの集合場所となった。そこを一網打尽に捕らえ、単なる放火犯として処刑した。が、逃れた者もおる。もともと正雪一味にはうしろだてがあり、そのうしろだてが彼奴らをかくまった。いや、ただの夢破れた罪人どもごとき、証拠湮滅のために闇へ葬ったかも知れぬ。ありそうなことじゃ」

 うしろだてとは、いうまでもなく尾張家である。尾張もまた「闇の政策」の同調者だ。疑惑の目を尾張でなく紀伊へ逸らさせたのも、その政策のうちだ。伊達綱宗がいっていた「尾張と幕閣は秘密を共用する仲」とはこのことだった。

「そのうしろだてに、正雪は踊らされたということでしょうか」

 ならば、利用された正雪が名前を変えてまでも生に執着する意地は理解できる。

「『うしろだて様』は最初こそ公儀への反発から、正雪を援助もしたであろう。しかし、謀反が成功するはずのないことは明白。公儀が肝を冷やせば、それで充分。うしろだてとしては、危険を冒す気はない。で、幕閣にも色目を使い、両天秤にかけた。そんなところじゃ。いや、あくまでも仮の話よ」

「仮の話にしては、生々しいことでございますな」

「左様。雅楽殿には聞かせられぬな。これでやめよう」

 松平信綱はすべてを知った上で、助広が沈黙を守ることのできる男かどうかを試した――。そのために、二条城へ呼んだのだ。

「女房を大切にいたせ」

 そう締めくくった言葉が、信綱の真意を語っている。

 

 鴨川べりの宿に戻ると、すみのは埃よけと雨合羽を兼ねる浴衣を羽織っていた。手甲、脚絆をつけた道中着である。荷物もすでにまとめられている。

「まだ発たぬぞ」

「なあんだ。二条城で不始末しでかして、追っ手でもやってくるかと思いました」

「私も人と衝突ばかりしているわけではない」

「伊豆守様のお話は何でしたか」

「振分髪は実は焼けてはおらぬという話だ」

「…………」

「ならば、虎徹師は振分髪の絵図などでなく、本歌を見ながら、偽物を作ることができたわけだな」

「ええ。姿形だけは同じに」

 と、すみのは認めた。仙台屋敷でまさのと名乗るすみのに見せられた刀絵図も絵図そのものは伊達家の御刀奉行が採録した本物だとしても、異様にくわしかった寸法の数値は、助広に示すために後補されたものだろう。

「酒井雅楽頭様が由比正雪の生存を懸念しておられる。その追及をかわすために、興里虎徹は死んだことになった」

「そうですか」

 すみのは追及せず、いつものように凛然と背筋を伸ばしている。

「会津中将様が過去の謀反人よりも政事(まつりごと)の安定を優先し、そんな大嘘をでっちあげ、虎徹殺しの汚名に甘んじようとなさっている。その中将様に陸奥守様が協力なさる理由が今ひとつわからなかったが……」

「が……?」

「陸奥守様がまさの殿を手にかけてまでも由比正雪をかばおうとしたとは思えぬ。陸奥守様には正雪との接点も義理もない。かばうなら、もっと近い人物だろう」

「それは……?」

「お前だ」

 あとの言葉は助広の脳裏で空回りした。

 伊達忠宗の側室あきの――すみのの母親は山野加右衛門の娘で、御刀奉行へ下げ渡された。産んだ双子は忠宗の種ということになっているが、忠宗の側室にあがったのは二十年近く前だと加右衛門はいっていた。近く――つまり、十八、九年前ということだ。すでに子を宿していたとしたら、その頃、あきのに近かった男を考えねばならない。仙台侯の家臣だった頃の山野加右衛門が入門した軍学者、今は加右衛門にかくまわれている菓子師……。そう考えれば、辻褄は合う。すべては由比正雪の遺児の存在をくらますための筋書きだった。すみのに小豆餡の作り方を教えたという母――あきの。そのあきのに教えたのは……。

 男どもの勝手にもてあそばれることから逃げたあきのだが、正雪のもとへ走ることはできなかった。正雪に刑死した妻があったことは記録に残っている。慶安事件に縁座したのである。正雪と妻、あきのという男女三者にどんな事情があったのか、今となってはそれはわからない。

 あきのは江戸を棄て、興光へ縁づいて、大坂で暮らした。あきのの存命中、この家族は江戸を避けていたが、興光がすみのを連れて江戸入りしたのが十年前。慶安三年だ。正雪が事件を起こす前年である。

「お前は十二から十六まで佐賀屋敷で過ごしたが、追い出された。つまらぬ理由だといったな。理由は正雪の子だからだ」

「…………」

「徳川嫌いの信濃守様(鍋島勝茂)は正雪の消極的支援者とでもいうのか、何らかの関わりを持っていたのではないか。佐賀屋敷へあがったのも、山野加右衛門様の仲介というより、正雪のつながりだろう。お前が実は正雪の娘であることも鍋島家中では知る者があり、信濃守様の死後は居所がなくなった」

 勝茂次男で小城(おぎ)領主となった硬骨の鍋島元茂が健在なら、まだしもかばってくれたかも知れない。しかし、元茂は父に先立ち、承応三年(一六五四)に没している。

「まさの殿がお前を伊達家中に迎えることを拒んだのも、自分もまた正雪の娘である事実を受け入れたくなかったからだ。おそらくは義山公(伊達忠宗)もあきの殿が産んだ双子が自分の種でないことはわかっていただろう。だから、家臣に下げ渡したとも考えられる。伊達家ではそれを知ってか知らずか、ともかくも秘して、まさの殿を保科家へ嫁がせようとし、先方の長門守様(保科正頼)が急死すると、今度は酒井家との縁談を伊達兵部様は目論んだ。まさの殿もそれを望んでいた。権門へ嫁に入れば、まず後ろ指さされることはあるまい。――かつて、正雪の一族郎党は打ち首となっている」

「まさのも生きるためには必死だったでしょうね」

「伊達兵部様もお前たち姉妹の真の素姓を知っていたのか」

「ええ。そもそも、まさのに出生を教えたのが兵部。無能な人物ではありません。双子の姉妹が義山公の種でないことを察し、山野加右衛門の周囲を調べ、実の父親を知った……。私のことが忌わしいなら殺した方が簡単ですが、義山公の娘ということにしたまま遊女に墜とせば、宗家の恥辱になるという誘惑も棄て難かったのでしょう。万一、実は由比正雪の遺児と発覚しても、吉原に封じ込めておけば、伊達家は絶縁したことになります。そういう打算です」

「その場合、同じ顔を持つまさの殿もただではすまなくなる。気が気ではなかっただろうな。お前が吉原から出てくるのを恐れて、伊達兵部様へ注進に及ぼうとして、陸奥守様に手討ちとなったわけだ。その死体を利用し、生きていては不都合な大罪人の娘であるすみの殿――お前を死んだことにもできた。決して、酒乱の蛮行ではない。そこまでして、陸奥守様は――」

 すみのを守りたかったのだ。そして、もう一人。

「止雨殿は生き恥さらしながらも、見守らねばならぬものがあるといった。それはお前だった」

 綱宗もいった。抱かねば、すみのが鍋島、伊達両家から疎まれた理由を知ることはできない――。それはこの危険なすみのと一蓮托生の身内となれ、ということだった。

 助広は、道中着のすみのに重く視線を落とした。

「白戸屋へは……行かなかったのか。向こうは待っていただろうに」

「嫁でもないのに、祝いをいただくわけにはいきますまい」

「その旅支度は……?」

「江戸へ戻ろうと思います」

「ここまで来て、怖じ気づいたか」

「それは師匠ではありませんか。女が恐い、私が恐い、いえ、私が嫌いというべきでしょうか」

「せっかちだな。出会って、まだふた月ではないか」

「だから……?」

「嫌いになるには短すぎる」

「では、好きになるにも短すぎますか」

「男は女をいきなり嫌いにはならぬものだ。まず好きになり、いろいろあって、嫌いになる。ひと月やふた月は好きになり始めだ」

「…………」

「女は男を嫌いになることから始まるのかな。私こそ嫌われているのではないかと身の細る思いだったが」

「嫌いなら、ここまでまいりません」

「ならば、白戸屋へ行って、祝いをもらってこい。祝言用の衣裳を、な」

「私は伊達家の血筋ではなく、天下の謀反人の娘ですよ。他の菓子はうまく作るくせに、花林糖だけはへたくそな謀反人の」

 すみのは止雨の正体を知っている。しかし、この頑固な二人のことだから、親子の名乗りをあげてはいないだろう。

「江戸で出会った何人もが、お前を守るために懸命だった。誰にも大切ということだ」

 助広は自分の荷物の中から、刀装小道具を取り出した。端午の節句の縁頭と馬の目貫である。

「これで、お前に短刀拵を作る。この縁頭を使うとなると、鐔も必要かも知れん。図柄の合うものを探すにしろ新規に作ってもらうにしろ、しばらく時がかかる。中身の短刀も作らねばならん。鐔がつく小さ刀拵となれば、懐剣よりは大きくなるが、女持ちの短刀ならば、柾目で作るものだ。実をいうと、柾目は得意ではない。だから、完成はだいぶ先になる。江戸なんぞへ戻られたら、届け先がわからぬ」

 こんな会話を続けても埒があかない。助広はすみのの腕を取り、手甲を、旅支度を解き始めた。しかし、脚絆にまで手を伸ばすこと、合羽がわりの浴衣を脱がすことはためらわれた。が、すみのの方から身体を預けてきた。助広の両腕には彼女を逃がすまいと力が入った。

「さきほど、鱧の皮を買ってきました。胡瓜のザクザクと一緒に出してくれるよう、宿の料理人に頼んであります」

「一緒に食おう」

「はい」

「紀伊屋敷へ刀を納めに行った時、会津の加須屋左近(武成)様いわく、押しかけ女房もなかなかよいものだそうだ」

「押しかけというより、押しつけでしょう、この場合」

「鮓に重石をかけて押すのも得意そうな女房殿で、結構だ。病みつきになった早鮓(はやずし)を、これで大坂でも食べられるな」

「そうはいきません。早鮓を作るのは名刀ができた時だけです。『雙』と銘を切った時だけです」

「思い出した」

「何です?」

「京都の寺をめぐって、何の願をかけた?」

「決まっています」

「お前は、初めて会った時、霊験あらたかで焼けぬというなら、刀ばかりでなく多くの寺院仏像が焼失するものかといった無信心な女だぞ」

「あはは」

 助広の腕の中で、すみのの肩が弾んだ。

「霊器といわれた本物の振分髪が将軍家から伊達家に返されたのに、義山公(伊達忠宗)は本復なされませんでしたからね」

「しかし、お前の願がかなうように私も力を尽くそう」

 助広には精一杯の愛情表現だった。すみのは小さく頷いた。

 風が、薫った。

 

 仙台城主の座を追われた伊達綱宗は、品川高輪の下屋敷に生涯、逼塞の身となった。

 逼塞の刑は原則として昼間に限った外出禁止であり、短期で終わるのが通常で、刑期中も夜間の人目につかぬ外出ならば黙認されるものだが、綱宗の場合は正徳元年(一七一一)六月四日、七十二歳で没するまでの五十年間、それが許されなかった。

 綱宗の隠居は、こののち十年以上に及ぶ伊達騒動の発端となり、伊達兵部、原田甲斐らと田村右京、伊達安芸らが対立、寛文十一年(一六七一)三月二十七日、原田甲斐が伊達安芸を殺害し、時の大老・酒井家をも巻き込んだ刃傷事件の果てに、終息することとなる。

 原田甲斐は事件現場となった酒井屋敷で斬殺され、そののち、伊達兵部は土佐高知にお預け、寛文四年七月に酒井忠清の養女と婚姻していた兵部の嫡男・宗興は豊前小倉へお預けとなり、原田甲斐の四人の息子は切腹を命じられた。

 一方、綱宗は好んだ酒を断ち、その力量を芸術に昇華させ、和歌、書画、能楽、茶道、囲碁、弾琴、彫刻、蒔絵、組紐、織物、時計工作に至る、あらゆる趣味に遊んだ。特に精魂を傾けたのが刀剣鍛錬と絵画であった。刀剣の相鎚は国包、兼次ら抱え工であったが、ほとんど安倫がつとめた。

 伊達家御腰物台帳には綱宗の作刀が十六本記載され、紀伊家九代・徳川治貞が好んで佩用し、肥前平戸の松浦家にも伝来していたという。「仙台正宗」と俗称する声もある。

 古川柳にいう。

「高輪に筋目正しき刀鍛冶」

 

 佐藤寒山『武将と名刀』(人物往来社)『武将とその愛刀』(新人物往来社)によれば、振分髪の脇差は終戦まで伊達家に伝来していたが、正真の正宗ではなく、慶長以降の新刀であったという。

 福永酔剣『日本刀よもやま話』(雄山閣)では、振分髪はすでに大正の頃には伊達家を出ており、質屋へ入ったのち、消息不明としているが、同著者の『日本刀大百科事典』(雄山閣)には戦後の所有者名が記されている。前著ではこれも新刀とし、後著では室町期の備前物らしいとしている。

 

 万治三年(一六六〇)を境に、山野加右衛門が截断銘を入れる刀は大和守安定から長曽祢虎徹へと移行していく。虎徹の売名の功労者は加右衛門といえる。寛文四年(一六六四)より「虎徹」は「乕徹」と改められた。

 当初、虎徹の作刀には巧みな彫刻が施されていたが、名声を得ると、それも少なくなり、その刃味をもって、寛文、延宝という武家文化の終焉期を彩る伝説的名工となる。延宝六年(一六七八)六月二十四日、上野東叡山忍岡辺にて没したというが、行年は不明である。その作刀は約三百振りが現存するという。

 が、虎徹の弟子たちの作刀数は極端に少なく、ほとんど師匠への協力つまり代作に終わったものと見られている。

 

 虎徹と同時期、大坂新刀の頂点に立ったのが津田助広であった。大海原のうねりのような濤瀾刃を創案して、のちのち彼に私淑する多くの刀工を生み、江戸後期の鑑定家・鎌田魚妙によって、その刃文は「旭瀾(あさなみ)」と絶賛された。彼の作刀は高級武士たちの垂涎の的となり、幕末には井伊直弼の佩刀も助広であった。

 少年時代から鍛刀一筋だった助広は、生涯に千六百七十余振りを打ったと伝えられ、青年期の作に「雙」と銘を切った作刀が十数本現存している。

 その意味するところは諸説ある。二代目という意、あるいは父との合作、または父である初代助広の没後、「影身に添ふて我が鍛刀を助くるなりとの自覚を有ち、追孝の情やみ難く、依然雙字を切添へし」とする説、「正宗に雙ぶ」の意とする説、「雙」の上に何もないから、天下無雙の意、大小二刀を揃えて作刀したという意、二ツ胴を斬り落としたという意、『宗史』書中の「馳揮雙刀」を典拠とする説など、さまざまである。

 助広は一男一女をなしたが、いずれも早世して、その血流は絶えた。養子を三代助広としたとも伝わるが、その作例を見ないのは既述の通りである。

 天和二年(一六八二)三月十四日、四十六歳(四十七歳とも)で没。幕末に建立された石碑が、大阪市中央区(旧南区)妙徳寺に残る。一族の名は同寺の過去帳に残っているが、何故か妻の名前だけは記録されていない。

………………

記(書籍版あとがき)

 この小説を書き上げた時、世はまだ二○世紀であった。約束していたはずの出版社は完成原稿を受け取ろうとさえせず、他のいくつかの出版社に持ち込んだものの、刀に興味のない編集者は、登場する刀鍛冶たちが実在の名工であることを知らず、濤瀾刃や数珠刃などのイメージも湧かないのだから、内容を理解しろというのが無理で、いずれも門前払いを受けた。

 自費出版の計画も何度となく頓挫したが、とにもかくにも、こうして本の形にできたのは読者の皆様のおかげである。どうもありがとうございます。

 表紙カバーには登場刀工たちの茎を掲げた。伊達綱宗と安倫による合作刀の珍しい写真もあったのだが、諸事情で掲載できなかったのは残念である。

 なお、本書で年齢をいう場合は「数え」である。また、刀剣の正しい数え方は「振(り)」であり、あるいは「口」を用いる場合もあるが、刀剣関係者は日常会話では「本」を用いるので、本書でもあらたまった場面以外では「本」を採用した。

 さらに、考証していく上で、資料に諸説が混乱している場合には折衷せざるを得なかった。一例をあげると、両国橋が完成した年もまちまちで、甚だしい場合には同一書であっても、別頁にそれぞれ「万治二年」「万治三年」「寛文元年」と書いてある有様である。やむなく、本書では万治三年の段階で「仮橋」が架かっていることにした。そのように記された資料もある。

 江戸の風俗から幕府の職制に至る参考文献、資料は無数にあり、列記しかねるが、本作に登場する刀工に関しては『長曽祢乕徹新考』(小笠原信夫著・雄山閣)、『越前守助廣大鑑』(飯田一雄編著・刀剣春秋新聞社)、『日本刀物語』(福永酔剣著・雄山閣)の三著に依るところが大きい。記して感謝します。

         平成十九年仲秋  著者

………………

配信版あとがき

 もう二十年以上も昔のことである。助広の妻の名前が過去帳にないという資料に接した時、何やら胸にざわめくものがあった。江戸期当時は家系図などでも女子の名前が記されないことは珍しくないが、私の想像は膨らんだ。

 しかし、その後の情報では、大阪にあるとされた石碑も過去帳も現存していないようである。私は何を典拠として「何故か妻の名前だけは記録されていない」と、この小説の最後の文を書いたのか。集めた資料はすでに散逸しており、突き止めることはできなかった。

 先人たちが著した刀剣関係書は取材時期が古いことが多く、最近の話かと思ったら戦前の取材だったりする。また孫引きを重ねており、出典が何なのか不明の場合もある。ようやく出典にたどり着いてもその内容に信憑性がないことも多々ある。

 小説はフィクションであるから正確無比である必要はないかも知れないが、嘘は少ないに越したことはない。今回、最後の文は「過去帳は現存していない」と書き改めようかとも考えたが、執筆当時の自分のモチベーションを打ち消してしまうようで、それは忍びなく、原文のまま残した。

 さらにあとがき。

 この『雙』は平成十九年に限定二百部を自費出版したものであります。以後十七年の間に生じた訂正したい箇所を手直ししたものがこの度の配信です。ただ編集ソフトの都合上、断念した部分もあります。また原稿データをHP上でどのような形で掲載するかは刀剣杉田に一任し、著者はタッチしておりません。が、機会を与えて下さった刀剣杉田には感謝しております。

         令和六年季秋  著者