「雙」第25回

雙 第25回 森 雅裕

五・雙

 いろいろと雑用が発生し、助広が江戸を発ったのは八月の初めで、上方へ入った時には八月半ばとなっていた。伏見立売堀(のち常盤町)の自宅へ戻る前に、考えておくべきこと、覚悟を決めるべきことがあった。

 同道したすみのを父親にどう紹介すればいいのか、東海道を歩く半月もの間、この男は考えようともしなかったのである。刀作り以外のことは面倒臭がる性格だった。逢坂山に至って、この問題を思い出し、京街道を大坂方面へは向かわず、京都の町に入ったところで足が止まった。まだ陽が高いのに、五条の鴨川べりに旅装を解いた。

 それでも考えようとはしない助広の頭脳は、三条に白戸屋本店があることを思い出した。江戸店で世話になった礼はいわねばならない。

 

 白戸屋京都店は、気分の悪くなった客のために床部屋や薬調合庭(ば)まである巨大な店で、二階は女向けの売り場、一階が男向けとなっている。

 これほどの店だから、主人がいきなり応対するわけはなく、まず番頭が呼ばれてきて、店先で迎え、

「御内儀をおもらいやしたそうどすなあ」

 江戸の善兵衛からの連絡が先んじている。

「……で、どちらに?」

 助広のうしろを見回すような表情なので、しかたなく、よそに宿をとったことを告げると、

「何ですの、師匠。うちにお泊まりくださればよろしいのに」

 すみのの顔を拝めなかったことを本気でくやしがり、

「主人は今、金道様のお相手をしております」

 と、いった。

「金道師が来てはるんか」

「へえ……。御挨拶しときなはれ」

 気は進まないが、「逃げた」とあとで嫌味をいわれるのも心外なので、番頭に案内されるまま、奥へ進んだ。

 伊賀守金道の初代は関ヶ原合戦の直前、太刀千本を間に合わせるよう徳川家康の命を受け、在京の鍛冶たちを自分の支配下に入れる条件でこの任を果たし、戦後、家康の周旋にて、日本鍛冶惣匠の勅許を受けた。以後、全国の刀鍛冶たちが官位を受ける時は、金道を通さねばならない。「かねみち」が正しいが、祖の兼道と区別するために「きんみち」と呼ばれる。

 初代は寛永六年に没し、西洞院竹屋町通りに住する当代は二代目である。特に名工というわけではないが、この代から菊紋を許され、鍛冶惣匠の特権は受け継いでいるから、羽振りはいい。白戸屋での買い物も助広の数倍だろう。

「おお。江戸帰りかいな」

 座敷で、金道は白戸屋京都店の主人・高助と碁を打っていた。

 助広は高助に江戸店で世話になった礼を述べ、土産の浅草海苔を差し出した。

「軽いから土産にはええな」

 金道はこんなことをいう男である。

「江戸では、火であぶって食します」

「東海道を歩くうちに湿気ってしもとる。そら、あぶらなならんわな」

 これでも悪意はない男だ。

「御前鍛錬はどないやった?」

「いろいろ学ばせてもらいました」

「いずれ、それをわしにも教えてもらうことにしてやな……。ちょうどええ。われに会いたいと仰せのお方が在京されとる」

 こういういい方をされると、ろくなことはない。江戸で学んだことのひとつだ。

「どなたですやろ」

 どうせ勿体つけて答えまい、と思ったら、

「御老中・松平伊豆守様や」

 金道は素直に名前を出した。

 松平伊豆守信綱は武州川越藩主。家光の側近から引き上げられ、幕政の実務処理の多くはこの男があたっている。寛永十四年(一六三七)の島原の乱では、九州へ下向してこれを鎮圧し、慶安四年の正雪事件を解決処理、明暦三年の大火で壊滅した江戸において、大規模な防災対策、道路拡張、市街地拡大などを進めている。

「大坂城修復の御指図を終えられて、江戸へお戻りの途中やが、京都に滞在なさっておられる。禁裏へ将軍家からの献上品をお持ちになっての」

 六月十八日に大坂城青屋口火薬庫が落雷で爆発し、被害は天守閣にも及んで、死傷者百余人という被害をこうむった。信綱はその修復のために大坂へ差遣され、八月十一日には京都入りしているのである。翌十二日には、禁裏へ太刀、黄金、蝋燭などを献上していた。

「御老中がなんで私を……?」

「さあなあ。刀の注文なら、わしにしやはるやろうし……。われ、江戸で何かあったんと違うか」

「…………」

「宿を教えとき。迎えが行くかもわからん」

「大坂へ戻る途中ですけど」

「あほ。大坂は逃げやせんわ。智恵伊豆の異名をとる天下の実力者にお目通りできる、またとない機会やないか」

 やむなく宿を教えた。

「御老中の御前に出る肩衣袴なんぞ、お持ちやあらしまへんやろ。あとで、お宿へ届けさせますわ」

 白戸屋高助がいいながら、休めていた手を動かし、碁石を盤上に鳴らした。

「あ。あかん」

 苦悶を始めた金道をよそに、高助は助広に笑いかけた。

「御内儀もどうぞ寄こしなはれ。お祝いをさしてくれなはれや」

「おお、嫁はんもろたいう話やなあ……。鍛冶屋の女房に美人は禁物。金屋子様が焼き餅焼かはる……」

 上の空で金道は呻き、碁盤を睨んでいる。

「うちの嫁はんはその点、安心なんやけどなあ……」

 

 宿へ帰り着くと、すみのも京都見物から戻ったところだった。

「神社仏閣をいくつか回ってきました。これだけのお宮や古刹名刹に願をかければ、御利益がありそうなもの」

「何の願をかけた?」

「いえますか、そんなこと」

「白戸屋が、祝いをくれるそうだ。店へお越しやして、お選びくださるよう、御内儀にお伝えください、だと。お前の顔を見る口実だ」

「見られては恥ずかしいのですか、師匠は」

 この期に及んで、まだ師匠と呼んでいる。職人や芸事の世界では、妻子が主人をそう呼ぶことも珍しくないが、助広とすみのの場合は他人行儀でしかなかった。

「恥ずかしいのではない」

 照れ臭いのである。それに、野次馬的な好奇心の餌食となるのも業腹だ。ひねくれている。

 御前鍛錬のために江戸へ出向きながら、帰りに女連れというのは、潔くないとも感じた。ひねくれ者というのは筋を通したがる性格なのである。

 この二人はむろん祝言をあげていないし、まだ身体を重ねてもいなかった。

「お邪魔なら、京都島原へ売り飛ばしていただいても結構でございますよ」

 島原の公称は西新屋敷である。江戸前期の浅井了意『浮世物語』には、

「肥前の天草一揆の取り籠りし島原の城の如く、三方は塞がりて一方に口ある故に、かやうに名付け侍べり」

 と、いう。遊郭ならそれも当然で、吉原も同じ三方ふさがりである。

「馬鹿をいうな」

「馬鹿くらいいわなきゃ、生きているんだか死んでいるんだか、わかりゃしません」

「刀を作っていれば、私は生きていると感じる」

「じゃ、私はどうやって感じればいいんです?」

「島原へ行けば、感じることができるのか」

「吉原では、生きていると感じていました」

「わからんな」

「少なくとも、殿方の役には立っていました」

「そうか」

「男の人は淋しい時、悲しい時、つらい時、それにうれしい時、女の身体に癒され、励まされるんです。心が二の次というのは、女には幸せとはいえませんけれど、いろんなものを背負った男たちを迎えて、身も心も手当して、また送り出してきたんです」

「わかっている」

「何がですか」

 遊女にも誇りがあるだろうことが、である。儒教による貞操観念は武家の封建思想であって、庶民にはそんな人生哲学はなく、遊女が汚れているなどという価値観もない。遊女を妻に迎えれば、粋がる男なら鼻高々なのである。自分はすみののそんな過去にこだわっているわけではない――とは思う助広だが、何もできなかった。

 かつて彼女の客であった男たちとは違うという見栄もあれば、性技に長けた女に自分が通用するだろうかという不安も大きい。つまり、この男を金縛りにしているのは、すみのへの強烈すぎる愛情だった。

「何がわかっているのですか」

 すみのは繰り返し訊いた。

「私も大坂へ戻れば、いろんなものを背負っているということだ」

 だから、すみのが必要だ、という言葉は省略した。

 夕刻になって、二人の武士が訪ねてきた。松平信綱の使者だった。

「明朝、二条城へ参られたい」

 とりあえず、また一日、大坂へ戻る日が延びた。 

 

 明朝、二条城からの迎えが来て、助広は衣服をととのえ、参殿した。

 壮麗な二ノ丸御殿へ入ったが、案内されたのは泉水を囲む庭園である。その西側には内堀がめぐらされ、伏見城から移築した天守がそびえている。 

 松平信綱は一人で、東屋の屋根の下にいた。老中最年長の六十五歳。

「御殿の中では気づまりゆえ、ここで話そう」

 名代役者のような保科正之、悪党の貫禄を持つ酒井忠清、どちらとも違い、信綱は会う者を圧する容姿ではない。言葉にも飾らぬ響きがあった。

「御前鍛錬は、大儀であった」

「身に余る光栄でございました」

 挨拶はそれだけで終わり、信綱は本題を切り出した。

「大坂へ向かう途中で江戸より知らせを受けたが、伊達陸奥殿が放蕩をとがめられ、逼塞の身となったとか。そのようなかぶき者とは思わなんだが……」

「異様」を意味する「かぶき」者の風俗が太平の世を席巻している。

「お前は仙台伊達家と縁あって、吉原でも、陸奥殿の傍らにいたそうじゃな。様子はどうであった?」

「私ごときには、政事(まつりごと)はわかりかねます。ただ、陸奥守様は泰然として、隠居の指図に従われましてございます」

「わずか二十一歳で、隠居か。それも罪人の扱いで……」

 信綱は、庭園を渡る初秋の風に目を細めた。

「雅楽殿(酒井忠清)の引いた図面じゃ」

「は……?」

「幼君を立て、伊達兵部殿が後見役となって、伊達宗家の実権を握る。兵部殿の息子には雅楽殿の養女と婚姻の話がある。雅楽殿も肩入れしたくなるじゃろう」

 信綱は江戸の出来事をこの地から見抜いている。もっとも、この最年長の老中は遠く離れていたわけではない。

「陸奥殿に隠居の沙汰が申し渡された七月十八日は、わしが江戸を発った日じゃ。邪魔者が留守にすると同時に、早業でやってのけおった。わしのような年寄りを大坂城修復に出向かせたのは、それが狙いじゃ」

「そのようなお話、私ごときになされてもよろしいのですか」

「わしから何を聞いたとお前がいいふらしたところで、世間は真面目に取り合うものか」

 それはそうだ。世間の興味は仙台伊達家内部の政争よりも当主の醜聞にこそある。

「それに、わしの口が重ければ、お前の方も軽くはなるまい」

「刀鍛冶風情の口を軽くなさって、何をいわせるおつもりですか」

「その刀鍛冶風情を伊達陸奥殿ばかりでなく保科肥後殿までもが贔屓の様子ではないか。理由を知りたいと思うてな」

「贔屓も何も、伊達家伝来の振分髪の写し作りを命じられただけでございます」

「貞山公(伊達政宗)が磨り上げさせたという、あれじゃな。写しを二振り作り、紀伊様、尾張様に納めたと聞くが」

「その二本の作風の違いについて、会津中将様のお茶室にて、会津様と酒井雅楽頭様に御説明を申し上げました」

「それをここでも申してみよ」

 助広は事情を話した。ただし、あくまでも刀に関することだけだ。迂闊なことはいえない。そのための監視役として、すみのが押しかけ女房になっている。

「振分髪が偽物……とな。それは面妖」

 と、信綱は知的な目許を瞬かせた。

「振分髪は酉年の大火でも焼けてはおらぬ」

「…………!?」

 信綱はまっすぐに助広を見据えた。苦笑さえ浮かべている。

「わしはこの目で焼け跡を検分しておる。江戸城の刀剣類は三十振りずつ三十個の刀箱に納められ、うち二十五個が焼失した。その二十五個の中に振分髪が入っていて、一振りだけ無事であったというなら、なるほど霊器じゃが、残りの五個の刀箱のひとつに入っていたのじゃ。箱はこわれてはおったものの、焼けてはおらなんだ。振分髪は名刀ではあっても、神がかりなものではない」

「……では、将軍家から伊達様にお返しになった振分髪は?」

「本物じゃ。伊達家には本物の振分髪があるはず」

「え」

 思い起こせば、誰も振分髪が焼失したとはいっていない。仙台屋敷で、まさのと名乗るすみのに振分髪の偽物を見せられた時も、保科正之に招かれた会津屋敷の茶席でも、焼失したものと思考を誘導されたのである。

 となると、あの偽物はごく最近、もしや助広が御前鍛錬に参加することが決まってから、急遽、作られたものかも知れない。ならば、柾目が目立つ理由もわかる。偽物と知れるように、あえてそう作ったのだ。つまり、虎徹の刑死の理由は、振分髪の偽物を作ったことの口封じではないことになる。では、保科正之が虎徹を死に追いやったと告白した理由、今の虎徹は替え玉だと欺瞞する理由が、他にあるのか。

「偽物の作者は誰か」

「わかりかねます」

「では、わしがいう。虎徹であろう」

 信綱は知っている。だが、助広に何をいいたいのか、あるいはいわせたいのか。

「伊豆守様。興里虎徹が死罪となったこと、御存知ではありませんか」

「裁決したことは覚えておる。会津中将様が知らぬ者ではなかったようじゃが、諸大名家から所蔵刀の焼け身を買い集めていたゆえ、見過ごすわけにもいかなんだ。大名家の一部にも処断を下した」

 虎徹は古鉄の買い漁りと勝手な試し斬りを罰せられたのだ。それ以外の理由はない。後年の調査にそなえて刑死の記録が残されたわけではなかったのだ。そして、不治の病の興光が身代わりとなった。

 断罪するのは表向きだけで足りる。本人である必要はない。保科正之にしてみれば、かつては嫡子を指導もした虎徹であるから、そんな形でかばい、一門も連座には及ばなかった。口封じの取り引きで、工房の存続を許したわけではないのだ。

「本物の虎徹は死んだことにしたければ、それもよかろう。しかし、助広。振分髪は焼失したことにされて、偽物を見せられた理由は何かな」

「私には刀のことしか申せません」

「刀か。そういえば、本阿弥光温から面白い刀を見せられたであろう」

「あ」

「わしが、見せてやれと光温にいうておいた」

「それはまた、いかなる理由でございますか」

「お前の器量を見極めるためじゃ。人に利用されるだけの愚か者か、他人と折り合いながらも自己を貫く男か。なにしろ、女房をもらうのであろう」

 信綱が虎徹に死罪の裁決を下したなら、保科正之の意を汲んでいるのだろう。つまり、信綱は正之の敵ではない。この人物こそが幕閣の中の協力者だ。それも第一の。

「器量はともかく、頑固者であることはわかった」

「恐れ入ります」

「会津中将様の茶室に酒井雅楽殿が招かれたというなら、そこでどんな会話がなされたかも、わからぬではない。刀鍛冶にはたいして面白い話でもなかったであろう」

 信綱の声は涼しい。力強いのだが、淋しいともいえるかも知れない。幕閣随一の辣腕をふるった男にも老境の落日はやってくる。これより二年後には没する知恵伊豆である。

「わしが少しは面白い話をしよう。あくまでも仮の話として、聞け」

「はい」

「雅楽殿には虎徹に問い質(ただ)したいことがあった。つまり、由比正雪の件」

 それは助広も悟っている。

「考えてみよ。由比正雪の事件は結果として、諸大名に緊張を与え、御三家の発言力を奪い、それによって、大猷院様(家光)薨去後の公儀のあやうい時期を乗り切ることができた。また酉年の大火により、江戸は無秩序であった人家の寄せ集めから東都と呼ぶにふさわしい整備された町へと発展した」

 いずれも信綱のなしとげた事業である。

「事件も大火も、為政者によって仕組まれたものであったとしたら、どうであろうか」

「恐ろしゅうございますな」

「それが仮にわしであるとしても、むろん、一人の幕閣の一存で可能なことではない。が、その一方では、一番新参の若い老中がそうした政事の裏側から疎外されることは有り得る」

「政事の裏側」――それが伊達綱宗のいっていた「闇の政策」か。

「一番若い老中は酒井雅楽頭忠清じゃ」

 任命されたのは承応二年(一六五三)である。由比正雪の慶安事件の二年後、明暦の大火の四年前だ。時を同じくして、松平信綱は老中首座を酒井忠清に明け渡し、次席に降格されている。

「譜代の中でも最有力の家系である雅楽殿は、老中に任じられた時点で、われら先任の老中たちよりも上席であった。大猷院様以来の遺老を一掃するために弱みを握りたいと張り切るのも当然」

 家光の近習から出発し、実績を積み上げて老中にまで出世した「遺老」松平信綱、阿部忠秋とは家柄が違い、近い将来、大老となることが約束されている。それが酒井忠清なのである。

「その雅楽殿が闇雲な探求心を持っているゆえ、お前も面倒に巻き込まれた」

「つまり、雅楽頭様は政事の裏側とやらと由比正雪のつながりを追及しておられると……」

「雅楽殿は由比正雪そのものを追っている」

 助広は耳をふさぎたくなった。

「正雪はまだ生きておる」

 助広は両肩を大きな手でつかまれたような気がした。身がすくんだ。信綱は止雨の存在と正体を知っているのか。

「いや。雅楽殿はそう考えているということじゃ。酉年の大火は正雪一味の残党の仕業といわれた」

「はい」

「一部は事実じゃ」

「え……!?」

「江戸の町をまるごと焼き払ったあの大火は、すべてが失火だったわけではない。放火も含まれておる。火事に乗じ、盗みを働く者どもが多かった。そして、江戸市中を混乱に陥れ、謀反の虚夢を追った連中もいた」

「正雪一味ですか」

「正雪自身は死んだことになっておる。残党どももあの男が生存しているとは思っておるまい。が、日照りの続いた風の強い日に火を放つ――。慶安事件から数年を経ていたが、捕らえた者の自白で、残党どもにそんな企みがあることは知っていた。しかし、わしはあえて泳がせた。どうせ、謀反の兵火というほどの力は残党どもにはない。奴らの目的は、せいぜい大がかりな火事場泥棒じゃ。一方、わしとしては、際限なく膨張する江戸を再構築するために、一旦、更地に戻す必要があった」

「まさか――」

「江戸城までもが西ノ丸を残して、すべて焼失したのは計算外じゃったがの。会津中将様にしても、この火事が御嫡男の生命を縮めることになったのは皮肉というもの」

 これが、経世済民の手腕をうたわれた知恵伊豆の言葉なのか。「闇の政策」とは、このことだったのか。江戸を焼き払う画策に、保科正之以下の幕閣が加担したのか。酒井忠清を除いて。