39. 刀剣・日本刀中心の鑑別法 再刃編(その三 刃幅から見る再刃の見分け方)

江戸時代が終る迄は、例え焼身となっても刀は再刃して実用に供した可能性が大である。現代とは全く感覚が違うのであって、そうした点は、はっきりと認識しておいて欲しい。

さて、今回は刃幅という点から再刃というものを見別けてみたいと思う。前回迄の刀剣を教材に使っていく。

では(1)図を見て頂きたい。(この(1)をプリントアウトした上で見て頂ければ、一番良く理解出来る。(図を出して右クリック→画像を印刷するで印刷出来ます。))中心の刃方の(A)の位置から上に向かった直線方向に、(B)の直線方向の先端を目で追いかけて頂くと(A’)と(B’)の間がほぼ直線になっている。さらに(B’) の位置から刃区に向かって目で追っていくと殆ど直線状態になっている。但、この(1) 図は押型(平面)なので、実際の中心の形(立体的、つまり中心の厚みがある)では(A’)か ら(B’)、そして(B’)から刃区まではもっと直線状になっている筈である。

これは押型をとってみた方は良く理解して頂ける現象であるが、併し、今回はそこまで考えて頂かなくとも(A’)から(B’)迄、そして(B’)から刃区迄が曲線ではない事を認識して欲しい。さて、何故にこうした直線が中心の刃方に出現するのか。答えは簡単である。つまり磨上た時に削られているからである。こうした事は何故に起こるのか。それは刃区を少し作らないとハバキがかけられない(止められない)からである。

中心の刃方を削ったという事は本来は(A’)から刃区までの横幅はもっとあったという事につながっていく。この太刀?は恐らく二寸五分前後の磨上と一応解釈していくことにすると、当然、磨上る前の生中心の時は現在の刃区附近の身幅も刃幅ももっと広かったと考えるのは難しくはない。

では、現在の刃区附近の刃幅は鎌倉時代初期~中期頃の刃幅としては、狭くはないし、むしろ広い方というのが正解であろう。ならば、(A’)の辺りから削ってなければ、現在よりももっと刃幅が広かった事になり、そんな深い刃幅の刃文があるとは絶対に考えられない。まして、(2)図を見て頂けば物打辺(横手下辺)と、刃区附近の刃幅は同じである(むしろ広い所がある)。物打辺と刃区附近が同じ刃幅になるという事自体が、何かの異常である事を示している。さらに物打辺の棟角(C)の辺から切先へ向かって目で曲がり具合を追って頂くと、小鎬先までの棟角の線が殆ど直線状になっている事が明らかである(棟筋の線「一番右端」は反状態をあらわさない)。

これは切先辺が欠損した結果、先反をとって切先の鋩子(フクラ)の刃幅を極力保存した結果であって、当然、物打辺の刃毀もある筈だから、刃幅は狭くなってきて当然である。しかも、この太刀が押型通りであったとすると、鋩子の返りが深めにありどう考えても不合理となる。物打辺の反が直線状態(つまり先が直刀状態、反が俯さった状態)なら焼詰か焼詰に近い鋩子の返となるのが合理的な減り方、変化である。しかも刃区附近の刃幅と物打辺の刃幅が同じとなれば、結論は一つである。つまり、再刃したからこそ、こうした不合理つまり矛盾だらけの刃幅になったのである。

又、刃区附近の刃幅にしても浅い互の目状の刃文を二つ焼いてある先の方(中心尻に向かって)はむしろ刃文の方向が鎬寄りに向かっている。しかも、(B’)から刃区迄の中心の刃方を削らなければ、今よりももっと刃幅が広くなり、全体の姿からみると深すぎる刃幅となる。これらの現象は全て本刀が再刃されたものであって、それ以外の何物でもない事を証明している。

本欄で以前触れた(その一、その二)中心の凹凹状態とあわせて考えれば、再刃という事しか選択肢は残っていない。併し、この考え方に反論する人は必ず最後に”再刃する現場を見ていたのか”と言うであろう。私はそんな人達を相手にしないのであって、もっと冷静にみて欲しいだけである。刀身の減り具合と刃幅には密接な関連があるので、次回は端的な例を紹介したいと思っている。尚、今回の(1)、(2)図は縮小したものである事をお断りしておく。

(平成二十四年七月 文責 中原 信夫)