32. 肉置について
肉置(にくおき)というのは、簡単に言えば、刀身の鎬地以外の全ての面にある曲面の 事を指すのである。肉付(にくづき)というような一般的な言葉と同義であると考えて頂 ければ良い。「肉付豊かな美人・・・」というような表現も耳にされる筈である。
日本 刀に於いて肉置の状態は、即ち、その刀の健全度に直結すると考えるべきであって 「肉置が乏しい健全な刀・・・」とは絶対に言わない。
併し、ここまでの理屈は頭で理解していても、実際、刀を手にとって、その各部分の 肉置がどうなっているか、つまり、豊か(凸状)についているか、平面状になっているか、 又は、凹んでいるかは、その確認方法を知らない方が多い。
この肉置について一番敏感なのは研師である。研師はこの肉置を如何に処理して、錆 や疵を取り去るかで全神経をすり減らすのである。もっとも、そんな事はお構いなしに 肉置を取り去っている”研屋”ならぬ”減らし屋”が多くいる事も事実であるが・・・
では、研師がどのようにして肉置を見定めていくのか、これをお話しておこう。
日本刀をみる場所には、必ず前方に白熱電球を設置するが、私は拙著に必ず「頭上もしく はやや斜め後方からも光線をとる」と書いておいた。一般の方は前方の光線で匂口(刃文) を見るのであって(地肌は殆ど見えない)、では何故に斜め後方からかというと、これで地 肌と肉置をみるのである。ベテランの方もこの事を勘違いをしているし、又は知らないケ ースも多い。
この斜め後方の光線は蛍光灯(管状)が最適であって、理想としてはこの管を刀身と十字 に交差する様に見たい所に写し出すのである。すると、その管の太さが歪んで一定に近い 太さに写らない部分は、その部分の肉置が凸凹して歪んでいるのであって、肉置が叢(む ら)になっているのである。
この作業をハバキ元から切先の先端まで、ゆっくりと行っていけば刀身全体の肉置が大 体判明する。但、鎬地は全くの平面が基本であるから、鎬地に写し出された管の太さが叢 になったり、歪んでいれば研磨(下研・整形)が不十分ということになる。
管状の電球がなく球形であっても、その球の丸さが大きく歪めば歪む程、前述の通り叢 のある肉置となっていると考えて良い。逆に球が少し締まって縮まった様になり、どこも 歪まなければ、極めてよく整えられた少し凸状の肉置となっているのである。
では、斜め後方の光線がない時は一体どうするのかといえば、天井等のどこか直線にな っている所を探す、又は障子建具の直線部分を利用していけば十分代役はつとまる。 当然、鎬筋から刃先にかけては凸レンズの様な肉置になっていなければいけないが、概ね 軟らかい地肌部分の肉(地肉)は平面に近い凸状になっているが、刃の部分(刃肉)は地肉よ り肉置が豊かに付いているケースが多い。
この理由は簡単である。つまり、刃部には焼が入っているので硬く、砥石でも減りにく いからである。逆に地肌の部分は刃部より柔らかいので自然と減りやすくなる。新々刀や 現代刀の丁子乱や大乱で、前方の光線に刃文を透かしてみると、刃文の部分がまるで地か ら浮き上がっている様にみえる例が多くあるが、これは前述の理由によって起こる所作である。但、入りくんだ刃文に挟まれた部分(地)は確かに砥石をあて難いのであるが、根本 的にいうなら下研の際の整形が不十分(少なくとも研師の技術が下手か、もしくは手を抜 いた仕事)である。
さて、何故、茲まで肉置についていうのかといえば、日本刀は肉が減れば減る程、老朽化し ていくのであって、例えば地肌の綺麗な細かい地肌が減ってゆくと、下から芯鉄が出てく る可能性が極めて高くなる。肥前刀の”アンコ”や”来肌”や”青江のナマズ肌”などは全て芯 鉄である。
これらは出ない方が良いのであるが、何百年も経っているのに、全くそれらが微塵も出 ていないのは、却って?なのである。なのに、来の刀に来肌がないと不思議な顔をする人 がいるが、全く理解しがたい。こうした人達は入札鑑定会で作者名を当てる事のみに終始 するだけで、日本刀を楽しんでいないし、楽しもうという気の無い可哀相な人達である。
つまり、地肌に疲(つかれ)が出た刀より、出てない刀を尊ぶのは致し方のない事で、刀 自体の強度や柔軟性という武器としての条件をも減点せざるを得なくなる。
又、刃部にしても刃肉がどんどん減らされていくと、刃文の結晶が段々と鈍化して、包 丁に近づいていくのであり、そうした減りの激しい刃部(殊に刃縁)の匂口は”ボヤー”っと してくる。この状態をみると”匂口が疲れている”とも表現し、老朽化の目安とされている。
要するに、刀の真実は唯一であって「刀は最初に作られた時から短く、薄く、細(ほそ) くなっていく」という事である。その唯一の原因は研磨による減(へり)であって、その減 を見つけるのが肉置である。日本刀はどんな名人が研磨しても肉は付かない(豊かにならない) のである。これを愛刀家は肝に銘じて欲しい。
本阿弥光遜は名研師ではあったが、減った肉(刃肉)を見事に元に戻したという逸話を聞 いた事があるが、物理的に不可能であって、恰も肉が付いたかの様に細工をしたのであ る。その細工、つまり”ごまかし方”が本阿弥光遜は天才的に上手であった。勿論、こうし た細工は超高技量でなければ出来ないし、刀の構造と人間の眼の盲点を知りぬいた技術で あったと私は解釈している。
最後に、日本刀は極力減らさないで後世に伝える事が、私達の義務である事も茲に厳に付記 しておきたいと思います。
(平成二十三年八月 文責 中原 信夫)