29. 小道具に関して少し
かなり以前から、小道具の話を本欄に取り上げて欲しいとの声があったのであるが、小道具は刀と違って別の難しい面があって、私もなかなか書く気がしなかった。刀の本はたくさんあるが、小道具の本は実は一向にあらわれないのである。
このような訳で、少しでも役に立つ小道具に対する考え方、捉え方をと思い、思いきって少し書かせて頂く。但し、「刀の鑑賞」のように一冊に纏めるのには、多くの資料と時間がいる。今の私には無理であるので、本当にワンポイントとしての、そして最大効力のある観点をお話したい。従って、定説や既成事実とされているのを否定せざるを得ない結果が多くなる事を承知の上、本欄をお読み頂きたい。
小道具というと、鐔、目貫、小柄、笄、そして拵というものを、やや曖昧に一緒に含める事が多く、又、正式な区別も確立していない。今回は小柄に焦点をあててみたいと思う。
小道具で一番先に理解して欲しいのは、図柄の上手さである。その程度に従って名工か否かに別けられている。
さて(A)と(B)と(C)を見比べて頂きたい。この3点ともに有名な宗珉の所謂、「一輪牡丹の図柄」である。この(A)の解説に「同図は数口現存するが、いずれも花弁の開き方が一様でなく、少しづつ異なっているなど実に写実的に作られている。」とある。宗珉作の重美指定は10点以上があるが、それらの解説を読むと、宗珉の写実の素晴らしさや、彫技の細かさを褒めているようである。
だから、それらの重美が全て高彫になっていて、宗珉の得意とされている片切彫は重美に指定されていない。さて同じ重美には、「睡布袋(ねむりほてい)の図柄」の小柄も「寿老人の図柄」の小柄も各々2点づつある。その内、睡布袋の図柄の小柄も、他に数点、同図柄があるとされていて、私も過去に何点かそれらを拝見しているが、この同一作者の同図柄が、何点もあるのかが第一の論点である。
つまり、同一作者に同じ図柄が何点もあるという考え方。これが小道具社会を根本的に毀している。以前、「刀剣美術」の口絵であったと思うが、一輪牡丹の小柄を数点写真で掲載(今回の3点も多分含まれていると思う)した事があり、その説明に「各々の牡丹の形、例えば葉の形に差のあるのが
数点あり・・・」という旨の解説があったと思うが、これが同一の図柄で少しづつ異なったというものである。
併し。果たしてそれが本当であろうか。小柄という極めて限られたスペースに収めるのであるから図柄の形(花、葉、枝の配置と大きさ)には名工であればある程、神経を使う。
凡工は一切お構いなしである。但し、名工の作とされる作品に凡作が交じっているとしたら、どうであろうか。最近の中国のキャラクター物がそうである。本歌に少し余計?な飾りをつけ足すだけで堂々と公開し、果ては逆にそれは本歌とは違うとし、独自の形と強弁する。この考え方と、解説に書かれた「同図柄は数点ある」とか「葉の形が少し違う数点がある」という解説そのものは、美的な理解力と真贋認識は全く中国と同じレベルである。
そもそも写実が全てではないのである。限られたスペースに如何に効果的に図柄を収めるか、つまりデッサン力が最大限要求されているのであって、宗珉は写実のみではない。むしろ写実を基にしたデッサンに多く基づいている。
従って、少しづつ形の違う図柄が数点も存在することはない。つまり、一点しか存在出来ない程に宗珉は極限まで図柄を考えぬいていった筈、それがデッサンである。その一点が本物、本歌なのであって、あとの少しづつ異なる同図柄は中国のパロディー物と同じ。
この考え方が理解出来ないと、一流工の作は理解出来ない。 講談話かもしれないが、紀伊国屋文左衛門に宗珉が金を投げ返したという話は、以上の点を理解すれば、宗珉が仕事をしなかったのではなく、その図柄の構想に多くの時間を要した筈。従って、名工とされる作者が揃金具などを多く製作出来る筈もないので、あれば?工房作の筈。そうした極めて大事な点はもっと再考するべきである。
当然、成り上がりの文左衛門にそうした事がわかる筈もないが、絵画を専門としている方なら、前述の考え方はすぐ理解して頂ける筈。
宗珉は小柄のスペースに牡丹をどのように収めるか、膨大な数の下図(下絵)を描いた筈。そして最後の一枚を最終結論、これ以上の変更不可能な設計図として仕事にとりかかった筈である。余計なつけ足しや、更なる削除、変更はもう一箇所もない。
では、その最終結論の図柄がなぜいいのか。それは人間の眼でみて全く違和感がない図であるからであり、もっと逆説的にいえば、人間の眼の盲点をついているともいえる。小柄のスペースは平面に近いものでありながら、立体感と躍動感があり、いかにも一本の牡丹花があるかのように存在感を見せる。それが技量である。
イチゴとクリームが一杯のデコレーションケーキでさえも、何でも多くつければ良いのではないのである。盲点というのは唯一のものである。つまり一つしかないから焦点ともいえるが、全てはそこに集中する。従って、くどいようだが、少しづつ異なった葉の形をした同図柄の宗珉などは存在しなかったといっても良い。
有名な横山大観の赤富士の絵が高級料理旅館ならいざ知らず、安旅館に掛かっていたとしたら、それは偽物か巧芸版である。それと全く同じである。
さて、(A)と(B)と(C)ではどちらが出来が優れているのであろうか。私は(A)と確信している。写真ではおわかりになりにくいかも知れぬが、(B)の花の全体、殊に上の方が小柄の天地(上下)間の上方はかなり狭くなりすぎているし、枝葉の大きさに比しても大きすぎ、右端の葉が少し存在感が乏しい。(A)は花弁が全開になる少し前の状態で表現されていて、躍動感があり、右端の葉も大きさが効果的に存在感がある。そして、左右の葉で相乗的にやや中央に位置させた花を結果的に上手に目立たせている。
又、枝葉を含めた牡丹全体の左右の中心は、(A)と(B)は微妙にズレていて、(A)の方がよりうまく小柄のスペース内に収まっている。つまり、(B)は花のみを殊に大きく高肉彫にして、満開そのものにして、より一層アピールしたかったのである。花ばかり目立っても何もならない。
(C)は(A)(B)とは全く別物である。枝の左側(切り口)と葉の左端の位置を3点見て頂ければ、各々微妙に違っていて、この3点は別であると確認出来る。(C)では(B)と全く反対に花が小さく、まるで右側の葉にただ載っかっているかの様になってしまい存在感がない。そして花も小さすぎて、上方へあがってしまって浮いているように見えるので不安定な図柄となっている。しかも左側の葉のみが何となく主役の様なボリュームと位置を占めているようでもあるから、構図としては劣る。
つまり、唯一で大事な点は花と葉と枝とのバランスであり、ひいては小柄のスペースとのバランスであり、拵に装着された時の実用と装飾を兼備しなければならない。だからこそ設計変更が絶対に不可能という所まで構図(図柄)を追求しなければならないのである。現代中国人的発想は日本には絶対にない。出来るだけコンパクトに、そして最小限の彫技で最大限の効果を見せる。これが全て。江戸の「粋」であった筈。
さて、次に片切彫である。今回、適当な写真を提示出来ないのであるが、私は片切彫が工人の技量が一番あらわれている技法と思う。まさに写実から出発して、最後にはその写実を全く省略してデッサンそのもので写実をあらわす手法である。
つまり余計な線は省く。省くのはいいが、それでは形や立体感、躍動感は出せない。それはそうである。象嵌などを一切使用しないで平面に唯、一本の線で彫ってゆくだけだから。併し、それが出来るのである。線の強弱、細い太い他、鑚の角度を変えて傾けてゆく。これは板に彫刻刀(V型)で色々と線(直、曲線)で図柄を彫ってみると案外すぐに理解できる。併し、素人が趣味として悪戯でやるのは何度彫り直して良いだろうが、最終結論で決めた構図で金属に彫るのだから彫り直しは出来ない。一発勝負であるからこそ、工人の技量が十分に出るのである。ただ、象嵌などでゴテゴテした飾りがないだけに見向きもされない。見向きをしても、余計な多くの線がないシンプルな図柄を評価しない。シンプルなものはワンポイントと同じでスペースを考え、空間(空白)を考えてある。こうした点が生命(いのち)であることを理解して欲しい。
それにしても昔から指定(審査)をする人達は飾りの多い見るからにゴツゴツと高肉彫にしたケバケバ しい物をお好みになるようです。同じ様に”チンパンジーのなぐり書”の絵をほめたり、デッサンのまるでなっていない芸能人の絵をほめるのは如何なものでしょうか。併し、小道具もそれと同じ事が平然と通されてきたのですよ。
以上、反対論はあると思うが、私の言いたかった点をよくかみしめて下さい。人のほめたものを無条 件で受け入れないで下さい。
(平成二十三年二月 文責 中原信夫)