鬼鶴の系譜 元禄編 第一回

鬼鶴の系譜 元禄編 第一回 森 雅裕

 棒手振りの蕎麦屋が前を歩いていた。あんな重そうな屋台をかついで歩くのだから、たいしたものだ。

 森縫之助は夜道を歩きながら、ぼんやりとその後ろ姿を見ていた。あれなら武術の鍛錬にもなりそうだ。そう思って観察すると、蕎麦屋が徒者ではないようにも見えてくる。

 元禄のこの時代、車輪がついた移動式屋台などは普及していない。天秤棒の両端に道具入れになる縦長の箱がつき、この箱の上に雨よけの屋根がのせられたつくりになっている。天秤棒に桶やカゴをさげただけの他の商売よりも趣向を凝らしており、蕎麦屋は体力勝負の商売である。

 火事を恐れて、幕府は火を使う「振り売り」には再三の禁令を出しているが、効果はない。飲食店などは数が限られ、蕎麦屋も店を構えるのは稀であるから、庶民の胃袋は棒手振りの行商に依存している。

 しかし、まともな武士は棒手振りなどに見向きしない。太閤秀吉はそばがきが好物だったというが、そもそも蕎麦は低級な雑穀と見られている。目の前を歩いている蕎麦屋も、夜鷹やその客を狙った商売だろう。

(とはいえ、食ってみたいものではある……)

 元禄十五年(一七〇二)の年の瀬が近づいている。夜道は冷えた。品川の知人宅で不幸があり、そこへ顔を出した帰りだった。縫之助は一応は旗本であるが、供など連れていなかった。一人歩きが好きなのである。この男もまともな武士ではないのかも知れない。

 

 

 堀割沿いに道路が交差するあたりで、蕎麦屋は屋台を下ろした。近くに誰もいなければ、縫之助も足を留めたかも知れない。だが、町人が先客となり、蕎麦屋に声をかけた。彼らの脇を通り抜けながら、縫之助は薄闇の中で、心にひっかかるものを見た気がした。

 客となった町人の顔だ。見覚えがあるような気がする。そうは感じたが、歩調を変えずに歩いているから、たちまち距離が開き、振り返るのは面倒だった。

 誰だったかと考えていると、堀割の対岸で犬が吠え、悲鳴のようなものが聞こえた。縫之助はのんきな男ではあるが、反応は早い。駆け出した。

 蕎麦屋の近くまで戻り、小さな橋を渡る。客の顔は屋台の陰で、縫之助には見えなかった。縫之助と同じく、蕎麦屋も屋台を置き去りにして走り出していた。手に持っているのは釜の蓋のようだ。

(何だ、あいつ……)

 武家屋敷を囲む塀の先で、女が野良犬数匹に襲われていた。着物の袖口を噛まれ、引きずり倒されようとしている。

 生類憐みの令という悪法に江戸市民は悩まされていた。身を守るためであっても、犬に乱暴すれば、これは重罪である。しかし、縫之助は躊躇しなかった。

 犬の腹を蹴り飛ばし、女から離れさせると、脇差を抜いた。吠えられる前に黙らせるつもりだったが、この犬は逃げ去った。蕎麦屋はと見ると、これまた一匹を蹴り、一匹を釜の蓋で殴って追い散らし、それでも向かってくる一匹を首投げした。起き上がった犬は闇雲に縫之助へ向かってきて、彼の脇差に自ら突き刺さるように飛び込んできた。いやな手応えがあった。

「大丈夫か。けがは?」

 蕎麦屋は女に訊いた。月明かりの下で見る彼女は、十六、七だろうか。身なりは町娘だが、それでも、まともな家の者なら一人で夜歩きしない。しかし、夜鷹にも見えない。

 蕎麦屋は手拭いで娘の傷口を縛り、縫之助は堀割に犬の死骸を蹴り込んだ。

「早くここを離れた方がいい。俺たちはお犬様を手にかけた」

 蕎麦屋は落ち着いている。

「お武家。俺は屋台を置いていけない。この娘を家まで送ってやっちゃくれませんか」  

「お前……武家だな」

 困窮した浪人が刀を捨て、棒手振を身過ぎ世過ぎとしているのか。有り得ることだ。しかし、それだけだろうか。詮索している余裕はないので、縫之助は娘の背を押し、その場を離れた。

 娘はただ芝白金に住んでいるというだけで、ほとんど口をきかなかった。寺地を抜け、しばらく歩くと、雑木林と塀ばかりが続く地域に入った。

「おい。ここらは武家地だぞ」

 大名が下屋敷を構える土地である。ここに至って、ようやく、

「お前さん、名前は?」

 縫之助は質問した。

「イトと申します」

「このあたりの産か」

「いえ。生まれは下総松戸です」

 だが、それ以上は語らない。何やら事情があるようだ。

 娘は住居を知られることを警戒したのか、門前まで送られることを拒み、ついには足を止めてしまったので、縫之助はやむなく、

「じゃあ、ここまでだ」

 別れを告げた。娘の後ろ姿が曲がり角に消えるのを見送り、縫之助はそのあとをゆっくりと追った。曲がり角の先には常夜灯が少ない。武家屋敷の塀が続き、その切れ目に広がる暗闇は百姓地の畑である。娘の姿は見失ったが、彼女が入ったであろう屋敷は見当がついた。当然、武家は表札など出さない。

 辻番へ寄り、この先の屋敷はどなたのものかと尋ねた。旗本の釣谷一之進の屋敷という返答だった。縫之助には面識などない旗本だが、屋敷の規模は森家よりも大身である。

 近くには、寺地に囲まれるように米沢藩上杉家の下屋敷があった。縫之助には、かつて上杉家に仕えていた友人がいる。二十年近いつきあいになる。そいつなら、釣谷について何かわかるだろうか。

 縫之助は屋敷を四谷に構えている。帰宅すると、武鑑で調べた。釣谷一之進は松戸に領地を持つ旗本である。役職にはついていないが、無役の旗本の中でも格上と見なされる「寄合」である。一方、縫之助は小性(姓)組の番士であり、無役ではないし、由緒ある家柄ではあるが、幹部ではないから武鑑にも載らないのである。

 

 

 数日後、縫之助は本所に友人を訪ねた。名は小林平八郎。まだ若いが、吉良家の家老職にある。主人の吉良上野介は昨年三月、江戸城松之廊下で浅野内匠頭に斬りつけられ、咎められる筋合いではないのだが、世間の風は冷たく、隠退を余儀なくされている。

 吉良家の屋敷はもともと呉服橋にあったのだが、事件の半年後に本所の旧旗本屋敷へ追いやられた。幕府にしてみれば、厄介払いである。

 世間では、赤穂の浪士たちの襲撃を恐れて砦のように改築されているという噂だが、古い家屋は傷んだまま放置されており、砦どころか塀の隙間から野良猫が出入りする有様である。

 そんな屋敷内にしつらえられた待機所で、平八郎と会った。もとは上杉家の家臣だった男である。

「お前のようなあやしい男をここまで通すとは、家臣どもは油断しているな」

 事前の約束なしに武家屋敷を訪ねるのは無礼である。そうした無礼者は門前で待たされても当然だが、縫之助はとりあえず門内に入り、長屋の前に据えられた縁台に座ることを許された。水茶屋のように葦簀で囲った粗末な待機所で、壁はないから、屋敷と庭の一部が見える。庭といっても、手入れされている庭園は垣根の向こうで、視界にあるのはただの広場である。

「身なりは貧乏旗本でも、人品卑しからぬ武士だと見抜いたのだろう。なかなか人を見る目がある家臣たちではないか」

「ふん。こないだ茶会があった時には、そのへん歩いている煮売り屋を引き入れて、賄いの手伝いをさせていたぞ」

「その煮売り屋を赤穂の間者だと疑って、吉良家の家老が拷問にかけたと江戸市中では噂になっている」

「とんだ与太話だ。拷問なんかせずとも、間者かどうか見抜く眼力はある」

 平八郎は縫之助と並んで、腰を下ろした。

「お前、そんな話をしに来たのではあるまい」

「うむ。芝白金に釣谷という旗本の屋敷がある。米沢藩下屋敷の近くだ。知っているか」

「俺は上杉家を離れて十年以上になるのだぞ。下屋敷の周辺のことなど知るものか」

「そうよなあ」

 吉良上野介の長男・三之助が上杉家へ養子に入って四代藩主・上杉綱憲となったため、後継者がいなくなった吉良家へは綱憲の次男・春千世が入り、吉良義周となった。その折、平八郎も付き従ったのである。

「知りたいことがあるなら、上杉家の知人に訊いてみる」

「いや。何となく気になる……という程度なのだが」

「気になるというからには、それなりの理由があるのだろう」

 縫之助は先夜、品川で出会った娘について語った。お犬様を手にかけたことは黙っていた。

「夜鷹もどきの娘が出入りする旗本屋敷か。面白くなるんだろうな、その話」

「お前が面白がる話なら他にもある。お前、蕎麦が好物だったな」

 平八郎も名門の家臣に似合わぬ変わり者である。もっとも、外食ではなく屋敷の賄い方に作らせることが多いようだが。

「一緒に食いに行きたい蕎麦屋がある。どうやらワケありらしい棒手振りなんだが」

「棒手振り? この本所界隈か」

 吉良邸は本所松坂町。このあたりには行商人や按摩に身をやつし、吉良邸の様子をうかがう者たちがいる。いや、「いる」という具体的な根拠があるわけではないが、世間が「そうであるべきだ」と期待する空気なのである。吉良の家臣たちは警戒していた。

「いや。品川の方だ。赤穂の連中なら、あんなところで商売するかどうか……」

「まったくの素人がいきなり本所で商売したのではあやしまれる。どこかで経験を積んでいるとは思うが……。それより何より、生計を立てるためには場所を選んでいられないという事情もあるだろう」

 平八郎は怜悧な三白眼から放たれる視線を宙に泳がせた。

「棒手振りなら、出るのはお化けと同じく夜だろう。俺は自由勝手に出歩くことはできぬ」

 それはそうだ。武士は「有事」にそなえて、夜は屋敷に待機するものなのだ。ましてや、緊張状態にある吉良家の家老職である。

 縫之助は顔の真ん中に才気煥発と書いてあるような平八郎とは違い、つかみどころのない表情である。ボソボソと低い声で、抑揚なく話す。

「その蕎麦屋の客を通りすがりにチラリと見た。町人のなりではあったが……赤穂の浪人ではないかと思う」

「何だと」

「神崎与五郎という人物だ。浅野家に仕える前は美作津山の森家家臣だった」

「お前の家の本家筋だな」

 戦国以来の大名家である森家には、江戸に分家の旗本が四家ある。元禄十年(一六九七)、本家の森家は後継者問題で津山十八万六千五百石を召し上げられ、備中西江原二万石、播磨三日月一万五千石、備中新見一万八千石へと分散、減封された。その折、禄を離れた藩士のうち数名が、森家と親交あった赤穂浅野家に召し抱えられた。神崎与五郎もその一人である。

「神崎殿は俳人として知られている。江戸にいる森の一族にも俳句の好きな連中がいて、浅野家改易の前には交誼よろしくつきあいもあった。神崎殿が江戸滞在の折には、俺も幾度となく会っている。むろん、先日は夜道で擦れ違いざまに見ただけだから、間違いないとはいえぬが」

「ふむ……」

「いっておくが、これは密告ではないぞ。お前とて、赤穂の浪人が町人に身をやつして、江戸市中で蕎麦を食っていたからといって、それを何とかしようとは思うまい」

「それはそうだ。わざわざ足を運ぼうとは思わぬが、ついでなら寄ってもいいな」

「ほお。気になると見える」

「上杉の下屋敷には御前(吉良上野介)の奥方様がおられる。時々、俺は御機嫌うかがいに行く」

 上野介の正室・富子は米沢藩二代藩主・上杉定勝の娘である。上野介が本所の破れ屋敷へ移転した折、彼女は同道せずに米沢藩下屋敷へ移っている。

 別居の理由は、上野介との不仲や赤穂浪士の襲撃を恐れたとか見る向きもあるが、本所の吉良屋敷が粗末だったことも見過ごせない。

「それから、下屋敷には畑がある。作物は吉良屋敷にも届けられる。その手配かたがた出かけて、蕎麦屋の様子を見てみよう」

 平八郎は勘の鋭い男で、何かを予感したようだ。

「だが、棒手振りの蕎麦なんぞ食うのは、武士の沽券にかかわるぞ」

「そいつが本物の蕎麦屋かどうか、味を検分するのだと考えればよかろう」

「なるほど。そうしよう」

 平八郎は冷静に、そういった。格式ある武家とは面倒なものだ。

 

 

 後日、芝白金の米沢藩下屋敷に隣接する高野寺前の水茶屋で平八郎と待ち合わせた。

 平八郎は縫之助と肩を並べて歩きながら、ぼそりと呟いた。 

「天狗か」

 縫之助が手にさげている土鈴だ。高野寺の門前で買ったもので、天狗の顔をかたどっている。

「おのれの慢心を戒めるために玄関にでも飾るのか」

「買いかぶるな。俺は慢心なんかできるような身の上じゃないぜ。いつも自分のふがいなさを嘆きながら生きてる」

 平八郎は聞いていない。話題が変わった。

「上杉家の者に訊いたが、釣谷という旗本、あまり評判はよろしくない」

「ほお」

「領地の松戸から百姓家の娘を連れてきて、働かせているらしい。それがイトという娘だ。もともと身寄りがなく、百姓家でも下女としてこき使っていたそうだ」

「生まれは松戸だといっていたが……釣谷家へ来て、待遇がよくなったのだろうか」

「とんでもない。釣谷家には三人の息子があり、家臣もそれなりの数を抱えている。イトはそいつらの慰みものになっているらしい。要は、奉公人と暴欲のはけ口、その両方を兼ねているようだ」

「なんだとお……」

「夜鷹ではなかったわけだが、たいして変わらん。イトは昼から夕にかけては品川の『猪之松』という料理屋で働いているそうだ。釣谷が金を出している店らしい」

 屋敷の一部を賃貸物件としたり、商売っ気のある旗本は少なくないから、飲食店を経営していても驚くことではない。

「その猪之熊とやらいう店で、くわしい話を聞いてみるかな」

「縫之助。どうして、その娘に関心を抱く? 気の毒な身の上かも知れんが、お前には何のゆかりもなかろう」

「果たして、そういいきれるかな。俺ばかりでなく、お前にもゆかりがなくもない娘かも知れん」

「ん? どういうことだ?」

「松戸出身のイト。思い当たるフシがあるような、ないような……」

「美人であれば、いつでもどこでも思い当たるのだろう」

「美人だとは一言もいっていない」

「違うのか」

「……違わない」

「お前、嫁をもらったばかりというのに、よその娘に関わっている場合か」

 半年前、縫之助は同じ御小性組に属する日下部三十郎の娘を娶ったばかりなのである。

「惻隠の心は仁の端なり。羞悪の心は義の端なり。うちの嫁はそれくらいの性根は持ち合わせている」

 縫之助は平然と、いった。

 冬のことで、夕闇が迫るのが早く、常夜灯に火が入り、地上に冷気が広がっていく。

 蕎麦屋が出るのは大抵は夜と決まっている。この界隈の船着場を探し歩き、提灯の淡い光の中に目指す顔を見つけた。すでに夜鷹らしい数人の客があったが、彼女たちが離れたところで、縫之助と平八郎は屋台に近づいた。

 あらためて見ると、縫之助や平八郎と同世代の三十代前半である。

「いつぞや、一緒に娘を救ったな」

 声をかけると、蕎麦屋は営業的な笑顔を返したが、目には警戒の色が宿っていた。

「はい。覚えております」

「俺は小性組の森縫之助という」

「私なんぞに名乗らずともようございます」

「よせやい。お前、武家だろう。名は?」

 蕎麦屋はもう愛想を捨てている。

「木原武右衛門」

「俺が尋ねているのは本当の名だ」

「…………」

「おい。俺たちはともにお犬様を成仏させた仲だろ」

「あなたは共犯だが、そちらの武家は違う」

 そっぽを向かれてしまった平八郎が、

「小林平八郎。吉良家の者だ」

 そう名乗ると、蕎麦屋の気配が変わった。

 平八郎も静かに眉をひそめたが、こちらは少々理由が違った。

「おい、縫之助。お犬様だの共犯だのと何の話だ?」

「聞かぬがお前のためだ」

 縫之助は天狗の土鈴を屋台の軒下に吊した。

「土産だ」

 蕎麦屋は表情に迷惑しか浮かべていない。

「天狗か。俺は密教にも山岳信仰にも関心はないぞ」

「風鈴でも吊すと客寄せになるかも知れないな。だが、歳末の真冬じゃ売ってなかったよ」

「歓迎されぬ客もある」

「先夜のこの屋台の客、神崎与五郎殿とお見受けしたが、あの仁なら歓迎するのか」

 その言葉で、蕎麦屋は武士の顔つきとなった。

「俺は毛利小平太。播州浪人だ」

「そんなところだと思ったよ。赤穂だな」

 取り潰された浅野家の遺臣たちが復讐の機会を狙っているという噂が、江戸市中でささやかれている。

「まあ、どういうわけで棒手振の蕎麦屋に身をやつしているのか、訊かずにおこう」

「何か用か」

「蕎麦を食いに来た」

「吉良家の家臣に食わせる蕎麦はない」

 それを聞いた平八郎もまた、カケラほどの愛想も洩らさず、いった。

「まずいものを食わせて、本物の蕎麦屋ではないと見破られるのが恐いか」

 縫之助は嘆息した。

「おいおい、御両人。往来で喧嘩はやめろよ。こんな話を知っているか。江戸で喧嘩をすると野次馬が集まって滅茶苦茶にしてしまうが、大坂では野次馬は出て来ない。というのは……」

「食っていけ」

 と、毛利小平太がさえぎったが、縫之助の言葉はすぐには止まらない。

「というのは、大坂の町人は臆病だからではなく……えっ?」

「食っていけ!」