鬼鶴の系譜 寛政編 第七回
鬼鶴の系譜 寛政編 第七回 森 雅裕
夜が明けても、長谷川平蔵とその一党は現れない。
「あの、鉄蔵って男、遭難でもしたのではあるまいな」
多西が責めるように、いった。
火盗改は奉行所のような官公署として存在するわけではなく、長谷川平蔵の屋敷を役宅として使用しており、そこに小さいながらも白洲や仮牢が設けられ、裁判所の体裁を整えている。
しかし、夜中にそこへ詰めている火盗改の同心は少なく、多くは目白台にある組屋敷で待機する。本所の長谷川邸から近くはない。すぐには招集をかけられないのである。ましてや、石氷を投げ打つような雨だ。
明るくなると、小屋の土間に入ってきた水の量に気づかされた。
「この地域では、雨が降ると水没するのは普通のことなのか」
誠志郎は苦笑まじりだが、
「まずい。実にまずい」
窓際から外を見ていた多西は、切羽つまった声を震わせた。
「境内は川になってる。こんなボロ小屋なんか流されますぞ」
ヒヨリは冷ややかなほど落ち着いている。
「鐘楼は下が石垣になっています。あちらへ移りましょう」
戸を開けると、さらに水が入ってきた。くるぶしまで水に浸かりながら鐘楼へたどり着いた。廃寺なので鐘は撤去されているが、頑丈そうな鐘楼だ。石垣の上が板壁に囲まれた小部屋になっており、その上に鐘が吊られる造作となっている。
ばきばきと背後で破壊音が響き、振り返ると、今までいた小屋の半分が崩れ、建材が水の中に散らばった。ほとんど廃屋だった厠も今や柱だけになっている。
雨は小降りになっていたが、足元の水量はむしろ増している。それに熱を含んだ南風が吹き荒れていた。
鐘楼から本堂の方向を見下ろすと、葵小僧一味が姿を見せた。冠水した境内へと飛び出し、歓声とも悲鳴ともつかない叫びをあげながら、右往左往している。本堂は床が高いから夜明けまで気づかなかったのだろう。
避難しなきゃ危険だと悟り、厠で行方不明になった仲間を探しているようだが、
「厠がなくなってるぞお」
「一緒に流されたかあ」
膝まで水に浸かりながら、げたげたと笑っている。
女も現れ、しばらく周囲を見回したあと、水を蹴りながら歩き出した。鐘楼へ向かってくる。
「妻だ」
多西が唾を飛ばしながら、うれしげにいった。
「だが、何だって、こっちへ来るんだ?」
厠が流失したのだから、鐘楼のどこかで用を足そうとしているのだろう。ヒヨリは察したが、黙っていた。
多西の妻は鐘楼に入り、階段を上がってきた。
「おい」
多西が声をかけると、
「わ」
足を踏みはずしそうになったが、多西がその腕をつかんだ。引き上げられた女は多西に負けず、唾を飛ばしてまくしたてた。
「何でいるの? 何やってるの?」
「助けに来た」
「この人たちは?」
誠志郎とヒヨリを胡散臭げに睨んだ。答える前に、境内にいた連中が叫んだ。
「万蔵が死んでるぞお」
半壊した小屋から死体が見つかった。しかし、死体の有様からは他殺とはすぐに断定できまい。
女は顔を歪めた。
「殺したの? 万蔵を殺した?」
「あいつ、お前と手に手をとって逃げるんだとか、ふざけたことぬかすから……。嘘だよな」
「あ、いや、まあ、嘘というか、何というか……」
夫婦の会話に、境内を窺っていた誠志郎が割って入った。
「一人、近づいてくる」
境内を見回っていた浪人だ。鐘楼には逃げ場がない。浪人は階段を上がってきて、ここにいる男女を見つけ、目と口を大きく開いた。
「何だ、お前らあ」
「雨宿りしてる。おかまいなく」
「何いってやがる。ふざけるな」
男は抜刀しようとしたが、誠志郎の方が迅速だった。一撃で喉元を斬り裂いた。浪人は血しぶきをあげながら、階段を転げ落ちた。派手な音を立てた上、鐘楼から転がり出て、水しぶきとともに倒れた。
境内にいた葵小僧一味が鐘楼を見やった。こちらへ向かう者、逆に本堂へと駆け出す者、それぞれが猛烈な水しぶきを跳ね上げた。視界に入る一味は三人。そのうち一人は浪人風の侍だ。
「気づかれた。もう、やるしかない」
誠志郎は鐘楼を飛び出し、ヒヨリも続いた。抜刀して向かってきた浪人を誠志郎が斬り倒した。それを視界の隅に入れながら、ヒヨリは逃げる男たちを追ったが、気づくと、走りながら吐いていた。胃の中はほとんど空なので胃液だけだが、昨夜からの出来事は刺激が強すぎた。足がもつれ、手近な木にしがみついた。
男の一人がヒヨリがうずくまったのに気づき、手近な材木を獲物に、猛然と向かってきたが、彼女は腰の鉄刀を抜き、すれ違いざまに腹を打って昏倒させた。
残る一人は本堂の階段へ取りついたところで、誠志郎がうしろから腕をつかみ、投げ飛ばした。ヒヨリはその脇をすり抜け、本堂へ駆け上がった。
板扉を開けると、堂内には浪人が一人、悠然と座って、煙草を吹かしている。傍らには赤ん坊が寝ていた。
「騒々しい。ほお、女か。火盗改とも町方役人とも思えんが、何用かな」
「大事なものを引き取りに来ました」
「赤ん坊か」
「他にも」
浪人は手にしていた煙管を叩いて灰を捨て、指先で器用に回転させた。
「こいつか」
「煙管なんぞに用はありませんが」
「そういわずに取りに来いよ」
誠志郎も堂内に入ってきて、自分が行こうとしたが、ヒヨリはそれを制した。
浪人は煙管を掲げた。ヒヨリは無頓着に近づき、受け取った。その刹那、浪人の手元で光が一閃した。腰の脇差をいつ抜いたのかも見えなかった。ヒヨリは手にしていた鉄刀で受けたが、弾き飛ばされてしまった。鉄刀は落としたが、彼女は浪人の射程範囲から逃れた。
誠志郎が浪人の前に立ちはだかったので、二撃目はなかった。
「ふん。気脈の通じた仲と見える。それに、なかなか素早い。どこぞの武門の娘か」
浪人は脇差を鞘に納め、なお座っている。ヒヨリは煙管を見た。火皿、雁首、吸い口ばかりでなく、それらをつなぐ管の羅宇までも金属製となっている延べ煙管である。目を引くのは彫刻で、見事な龍が悠々と這っており、「為長谷川銕次郎 浅井良云」と銘が入っている。銕次郎は平蔵の幼名である。
「もしや、これが長谷川様と葵小僧の交誼の証拠とやら……ですか」
「少しは興味があるようだな。左様。旗本の道楽息子だった頃の長谷川平蔵、同じく落ちこぼれ旗本だった山棚与弥太、それにその浅井良云という金工は道楽仲間だった。しかし、その後の道は三者三様。山棚与弥太は親から勘当され、悪の道に邁進して葵小僧となり、浅井良云の現在の通り名は岩本昆寛という。昆寛は平蔵より一歳年上で、今や誇り高き腰元彫りの名人におなりだ。元来、煙管なんぞ作る職工ではないが、若い頃、煙草好きの平蔵のために特製したものだ。それを山棚が長谷川から譲り受けた。今では葵小僧の形見となった」
「因縁めいた話ですね」
「因縁か。それが人の世の恐ろしさでもあり、面白さでもある。そういえば、かつて、葵小僧が本阿弥の仕事場から奪ってきた短刀、霊力があるとかないとかいわれたが、これがどういうわけか、また俺たちの手元に戻ってきた」
浪人は赤ん坊の枕元から短刀の袋を取り上げた。
「お前たちの目的はこれかな」
本堂のそこら中が不気味な軋み音を発し、震動した。床がわずかに傾いたが、浪人は動じない。
「どうやら、葵小僧一味で残ったのは俺だけらしい。とんだ疫病神の短刀だ」
短刀を投げて寄こした。ヒヨリはそれを拾い上げ、鞘を抜いて確認した。
「それだけでは足りまいな。赤ん坊も取り返したいか」
「できれば」
「返したところで、俺の凶状が帳消しになるわけではあるまい。となれば、子供は御利益ある人質だ。こいつを連れて、逃げさせてもらう」
「外は足元が悪すぎるぞ」
誠志郎がいったが、浪人は赤ん坊を抱えて立ち上がった。
「じっとしていれば、火盗改が殺到してくる。そんなものを待つ気はない」
浪人は鼻歌でも口ずさむかと思うような動きだが、腕利きであるらしく、隙がなかった。傍らにあった刀を腰に差し、悠然と歩き出した。ヒヨリは鉄刀を回収して、あとを追った。
浪人は傾いた板戸を蹴破って、回廊に出た。雨は止んでいる。だが、路上はもはや歩ける状態ではなくなっていた。水位は身長を越え、濁流が音を立てている。これでは火盗改も駆けつけられまい。
「水が引くのが早いか、火盗改が早いか……どちらかな」
誠志郎がいったが、この男の性格なのか、相手に同情しているように聞こえた。
「いずれにせよ、お前たちとはお辞儀をして右と左に別れるというわけにはいかぬようだ」
浪人は高らかに告げ、無造作に誠志郎との距離をつめた。誠志郎もたいした度胸で、まったく退かないから、双方の刀が衝突して火花を散らした。
数度、打ち合い、誠志郎の足が腐った床板を踏み抜き、動きが滞ったところへ振り下ろされた浪人の刃先を、横からヒヨリの鉄刀が食い止めた。しかし、赤ん坊を抱えた相手に対して、迂闊に打ち込むこともできない。その赤ん坊が泣き始めた。
「赤ん坊を巻き込むのは卑怯。お前様もかつてはどこぞの歴とした侍だったでしょうに」
「つまらねぇ貧乏御家人の倅よ。葵小僧一味に加わって、生きる面白味を知ったのさ」
「葵小僧の忘れ形見を危機にさらしてもよろしいのですか」
「お頭の……? ふはは。そうか。そう思っているのか」
笑いは人の心に隙を作るようだ。浪人が口元を緩ませると、足元もグラリと揺らめいた。回廊が傾き、破壊音が響いた。
体勢を崩した浪人へ誠志郎が斬りかかり、浪人はそれを跳ね返したが、踏ん張った足が床板を突き破った。ヒヨリは鉄刀で浪人の刀を叩き落とした。バリバリと床が崩れ、一瞬、浪人と目が合った気がした。咄嗟に鉄刀を捨て、浪人の腕から赤ん坊をひったくった。同時に浪人は濁流に落ちた。
ヒヨリと誠志郎は回廊の残骸にしがみつき、本堂の内部へと転がり込んだ。本堂の外陣も内陣もすでに水浸しだ。
仏像や調度品は撤去されているから、見通しはよく、本堂の隅に梯子が見えた。
「屋根へ上がろう」
屋根裏へ出て、破れた屋根をさらに突き崩し、穴を広げた。先に上がった誠志郎に赤ん坊を預け、ヒヨリは瓦屋根に這い出た。
頂上の大棟近くまで上り、腰を下ろした。眼下は完全に水没しており、濁流の中にいくつかの建物、木々が孤立している。
「あの浪人者、見えませんね」
流されたらしい。周囲を見回したが、昨夜まで陸地だったとは思えぬ光景が広がっているだけだ。
「あの浪人、まだ首のすわらぬ赤ん坊を巧みに抱いていました」
「悪党にも色んな者がおりますよ。根っからの外道もおれば、何かの拍子に道を踏みはずす者も……」
「落ちる刹那、あの浪人はこの子を私に差し出したように見えました」
「おかしなことをいっていたな。お頭の子だと思っているのか……と」
「あ」
ヒヨリは鐘楼を見やった。その屋根には、多西とその妻が避難している。何事か言い争い、手を握り合い、また言い争い、また手を握ることを繰り返している。
「あの人たち、どうなるんでしょうか」
「男と女など、なるようにしかならぬものだと思いますな」
「そうですか」
他にも、境内に立つ楠木の枝上に人影が二つ、取りついているのが見えた。誠志郎が投げ飛ばし、ヒヨリが鉄刀で殴り倒した男たちだった。生き延びたようだが、彼らも身動きできず、水の流れを隔てて、じっと見合った。葵小僧一味の生き残りはこの二人だけのようだ。
濁流が静まり、水位も下がり始めた頃、ヒヨリが屋根裏へ降りて、物陰で用を足していると、
「おおい」
外から声が聞こえた。屋根へ上がると、近づく数隻の小舟があった。火盗改だった。鉄蔵の姿も見える。葵小僧一味の生き残りは投降し、多西と妻も救い出された。
同心たちは舟から降り、水に浸かりながら境内を探索し、指揮をとる長谷川平蔵は誠志郎に対し、
「旗本の嫡男がこんなところで夜明かしか。不届きであるぞ」
と、微妙に唇の両端を吊り上げ、
「無茶をするものではない」
そう釘を差した。続けてヒヨリに恫喝するような視線を向けた。
「森家の姫は家伝の短刀探しですか。見つかったかな」
彼女の帯に差された短刀に目を留めている。その平蔵の鼻先に、ヒヨリは煙管を差し出した。
「長谷川様。これは葵小僧の形見だそうです」
「ほお」
煙管を受け取った平蔵はそこに刻まれた自分の所持銘をしばらく見つめていたが、勝ち誇ったような笑いを浮かべて胸元へ仕舞い、
「いや、この有様では、森家伝来の短刀も流されてしまったであろうな。さもありなん。あきらめが肝心。あはは、ははははははは」
白々しいほど芝居がかった哄笑を振りまき、ヒヨリに背を向けた。かわりにヒヨリと誠志郎の前に現れた鉄蔵は、二人を見比べ、
「何だか、助けに来たというより、邪魔しに来たって感じだなア」
疲れ切った表情で呟き、舟の中にへたりこんで、船縁にもたれて目を閉じたかと思うと、そのまま寝てしまった。
昼には水が引き、永代橋まで引き上げてきたところで、
「後日、事情を聞かせてもらうぞ」
と、平蔵から威圧的な言葉を投げられながら、ヒヨリは彼らと別れた。身なりはひどかったが、町のあちこちが破壊され、似たような泥まみれの者も歩いており、特に奇異というわけではなかった。それでも四谷の屋敷へ戻ると、使用人が目を丸くして、
「風呂を沸かします」
と、支度を始めた。
短刀を兄の部屋に置き、風呂から出ると、気絶するように寝てしまい、目覚めると翌日だった。そして午後、兄が城から戻り、二日ぶりで顔を合わせた妹に対して、
「短刀を取り返したようだな。結構結構」
そういい、ことさら詮索はしなかった。しかし、
「今しがた、あの野良者が当家の前でうろうろしていたぞ。中島伊勢の不肖の息子……鉄蔵といったか」
「そうですか」
嵐の夜にどこで何をしていたか、事情は鉄蔵から聞いたのだろう。だから、兄は詮索しなかったのだ。
「お前に、とことづかった」
政之は風呂敷包みを寄こした。ヒヨリが開くと、唐銅の鏡だ。中島伊勢は松波家からお濃の方ゆかりの魔鏡を入手したらしいが、その品ではなさそうだった。
「何でも、妙見菩薩の魔鏡を手に入れたので、お前に見せようかと持参した……とかぬかしておった。おぬしは妙見信仰があるのかと尋ねたら、画号を北辰斎としたいくらいだといっていた。今の春朗という名が爽やかすぎて、似合わぬことは自覚しているようだ」
「どうもあの仁は仰々しい癖がありますなあ。今度会ったら簡単に北斎とでもしておけといっておきます」
「また会うことがあるのか」
「魔鏡を返さねばなりますまい」
「くれたのではないのか。わが家に男子が出生するようにと祈願をこめて」
どうして、ヒヨリの周囲の男たちはこうも能天気なのだろうか。
「鉄蔵さんは、兄上に子が生まれることなど知りません」
以前にヒヨリが魔鏡を見たいものだといったのを覚えていて、持参してくれたのだろう。鉄蔵はあれでなかなか律義な男である。
「まあ、貸してくれたにしても、向こうが勝手に持参したのだ。こちらから返しに出向く必要はないぞ。短刀さえ取り返せば、あんな野良者とは関わり合いにならぬことだ」
「でしょうね」
その夜、ヒヨリは魔鏡に蝋燭の光を反射させてみた。部屋の白壁にはぼんやりと菩薩とおぼしき人影が映った。上部には七つの点……北斗七星があり、下部は蛇らしき影が取り巻いているが、この蛇は亀と一体化している。この異形の亀は、妙見菩薩の神使で北方の守護神とされる玄武の姿だろう。鏡の表面にはそうした文様はない。
(外面は夜叉に似たり、内心は菩薩のごとし……)
ヒヨリは、自分が鉄蔵からそういわれた気がした。
翌寛政四年(一七九二)の春、森政之に男子が誕生した。親戚一同が胸を撫で下ろし、
「お前、さっさと嫁に行ってもよいぞ」
と、ヒヨリに満面の笑みで告げた。魔鏡の御利益はあったようだ。
鉄蔵とは塩浜で別れて以来、会っていない。訪ね歩くと、この人物は転居癖があるらしく、去年の夏からすでに三度も引っ越ししており、向島の現住地にたどり着く頃には、ヒヨリは江戸の下町の地理にくわしくなってしまった。
堀割に落ちそうな長屋の、傾いた戸を開けると、鉄蔵は汚れた畳の上にうずくまるようにして絵筆をとっていた。
「中島家や勝川一門の方々に聞いて歩きました」
半年ぶりの再会だが、挨拶らしい言葉は互いに交わさない。それどころか、鉄蔵はヒヨリに目もくれず、画紙に向かっている。
「今は宗理と名乗っておいでですか。他にも群馬亭だとか可侯だとか辰政だとか、色々お名前があるようですね」
「ああ。うん」
この男は恐ろしく無愛想な面と駄弁を弄する面がある。今日は前者らしい。
ヒヨリは魔鏡を風呂敷包みごと、上がり框に置いた。
「お返しに上がりました」
素っ気なくされ、訪ねたこと後悔した。帰ろうとすると、
「北斎もいいかも知れねえ」
鉄蔵が絵を描き続けながら、いった。
「は?」
「江戸の町中はやかましくっていけねぇ。いずれ、俺は葛飾あたりの田舎親父になりてぇと思ってる。そしたら北斎と名乗るのもいいな。弟子に画号を金銭で譲るために多くの画号を名乗ってると非難するヤカラもいるが、この部屋のどこに弟子の姿が見える? 今のところ食うや食わずの野良絵師だが、いずれ門前市をなす大物になると世間は見ているようだ」
「せっかく絵師として売れてきても、そう頻繁に改名していては、世間に覚えてもらえないのでは?」
「そこだよ。覚えられたくねぇんだ。こいつはこういう絵師だと覚えられたら、やりにくくっていけねぇ。俺は常に変わってるんだぜ」
「引っ越しが多い理由もそれですか」
「いや。それは身動きとれないほどゴミがたまったら、掃除よりも引っ越すことを選ぶ。それだけだ」
ここもすでに散らかっており、客が座る隙間もなさそうだ。それでも、鉄蔵が以前のように軽口を叩いてくれたので、ヒヨリは嬉しかった。森家の事情など話す気はなかったのだが、心を開いてしまった。
「兄に男子が生まれました」
「ほお。跡取り誕生か。てことは、お前さんも嫁に行けるというわけだ。あの、ほれ、伊上誠志郎といったか」
「一度は流れた縁談を今さら……」
「若い者が体裁なんか気にしてどうする。俺はな、お前さんたち二人の家内安全、子孫繁栄を祈ってやるぜ」
「意外とお節介ですね。よその家の内輪話などに興味ありますか」
「お前さんはどうなんだ。よそ様が何をやっていようが知ったことじゃないか。たとえば、リョウの子供がどうなったか」
「リョウさんの子供? 私たちが助け出した赤ん坊ですか」
「知りたくなきゃいいぜ」
「教えなさい。どうしたのですか」
「赤ん坊は旗本の家に養子に出された。名は……」
鉄蔵がその名を口にした旗本は大身ではないが、格式ある家である。
「リョウさんの松波家には男子が何人もいるんでしょう。出戻り娘の産んだ子が養子に出されても意外ではありませんが」
「その養子の世話をしたのが長谷川平蔵だ」
「え」
「長谷川平蔵にしてみりゃ自分の養子にしたかったかも知れねぇ。だが、長谷川様にはすでに二人の男子がある」
「何をいいたいんです?」
「リョウというのは、かつて長谷川平蔵と葵小僧が取り合った女だ。長谷川平蔵とリョウが最近も旧交を温めていたとしたら……」
「何やらまた胸の悪くなりそうなことを考えていますね」
「リョウが産んだ赤ん坊は長谷川平蔵の子かも知れねぇ」
「お宮参りの日に長谷川様が神田明神に現れたのも、偶然ではなく、我が子と対面したかったから……。葵小僧一味が赤ん坊をさらったのは葵小僧の子だからではなく、長谷川様の子だから……」
「葵小僧一味が比良多屋を襲った時、葵小僧はリョウと再会し、身籠もっていることを知った。有り得る話だろ」
「つまり、一味が赤ん坊をさらった目的は自分たちの頭の子を二代目に育てることではなく……」
「憎き火盗改の頭領の子を盗賊に育て上げる……。なかなか悪趣味な復讐だと思わねぇか」
「本気でいってますか」
「そんな考え方もできるという話さ」
「読本や黄表紙でもあるまいし……。鉄蔵さんの悪趣味な想像力には、いつもあきれます」
「悪趣味で大いに結構。絵師は悪趣味でナンボの商売だ。おい。この悪趣味な絵を誠志郎さんに持ってってくれ」
鉄蔵は画紙の山の中から一枚を発掘して、ヒヨリに寄こした。
「殴り書きだが、描いて欲しいと頼まれていたんでな」
はて。鉄蔵と誠志郎の間には、そんな依頼をする暇などなかっただろうに。
「あ。私は誠志郎様にお会いするつもりは……」
「頼んだぞ。じゃ、出てってくれ。俺は忙しい」
問答無用で部屋から追い出され、戸を閉められてしまった。
渡された画紙を開くと、大黒天の絵だった。この絵のどこが悪趣味なのだろうと首をかしげた。俵に乗って、頭巾をかぶり、打出の小槌を振りかざしている姿である。その形態が男性器を象徴し、子宝祈願に結びつく民間信仰など、ヒヨリが知るところではない。
どうやって誠志郎に手渡そうかと思案しながら、春の陽差しの下を歩き出した。