参考資料:外国船に乗って来日したヨーロッパ人(1542年~1562年)
参考資料:外国船に乗って来日したヨーロッパ人(1542年~1562年)
下記のリストは1542 年から1562年までの間で、史料で確認できる、日本への来航船である。
来航について、一番知られている研究書はC.R.Boxer(The Great Ship from Amacon)Jose Luiz Avarez-Taladriz (Alejanndro Valignano S.J.Sumario de las cosas del Japon)、Josef E. Schutte (Valignano’s Mission Principles)。そしてGeorg Schuhammer(Gesammelte Studien、Francisco Javier)らによるものである。また、前掲の『日本通信』や、ルイス・フロイスの有名な『日本史』も、参考資料として頻繁に使われている、しかし、『日本史』に描かれたキリスト教布教の最初期において、フロイス本人は日本に滞在していなかった。そのため、最初期の記述においては、時として著作内の記述と書簡との間に、年代のずれがみられることがある。
最初1542年には、琉球から中国船に乗って、その後、1546年から次第にポルトガルの船で、ヨーロッパ人が来航した。
1542-二人のポルトガル人(詳細は不詳)が中国の船で、琉球に到着した。
1543-ポルトガル人のアントニョ・ダ・モタ(Antonio da Mota), フランシスコ・ゼイモト(Francisco Zeimoto)とアントニョ・ペイショト(Antonio Peixoto)が中国の船で来航した。
1544-スペイン人のペドロ・ディエズ(Pedro Diez) そして、数名のポルトガル人(不詳)が五隻の中国船で、鹿児島の大隅半島に来航。
1545-ジョージ・デ・ファリア(Jorge de Faria)そして、6,7人のポルトガル人が、中国船一隻で府内の沖ノ浜に来航。
1546-ジエゴ・ヴァズ・デ・アラゴン(Diego Vaz de Aragon)、中国船一隻で府内の沖ノ浜に到着。
以下は日本に到着した、最初期のポルトガル船である。
1546-ジョージ・アルバレズ(Jorge Alvarez)薩摩の「やまがわ」に到着。その後、日本人アンジローがアルヴァレズと共にマラッカまで行った。
アルヴァロ・ヴァズ(Alvaro Vaz)薩摩に到着。
ヘルナンド・デ・メネゼス(Henrnando de Meneses)薩摩に来航。
1547-48-史料不足のため、不詳。
1549-アワン(Awan)、フランシスコ・ザビエル、コスメ・デ・トレスとジュアン・フェルナンデスと共に鹿児島に来航した。アワンはマラッカ在住の倭寇であった。49年にポルトガル船は頻繁に倭寇に襲われたため、当時ポルトガル船は一隻も日本に来る予定がなかった。ペドロ・ダ・シルヴァというマラッカの有力な商人の取次ぎで、ザビエル宣教師達はアワンに移送の願いをせざるを得なかった。1549年6月22日、ガゴ宣教師宛の手紙で、ザビエルはペドロ・ダ・シルヴァとアワンとの取引について、下記のように述べた。
史料
“Mandou aperelhar hum junco de hum china por nome Ladrao, gentio aqui casado, o qual se obrigou a levarnos a Japao. E o cappitao lhe fez deixar huma fianca em que dizia que se recado meu nao trouxesse de Japao, que sua molher e quanta fazenda tinha fosse perdida…”
翻訳-“(ペドロ・ダ・シルヴァは)ここ(マラッカ)にいる、El Ladrao「泥棒」と結婚している中国人異教者の船を準備させ、(私達を)日本に行かせた。そして保障のため(アワンの)財産を一部預かり、「もし日本から私が(無事に着いたという)連絡をもって来なかったら、財産と奥さんを失うことになる」といっていた。”
ちなみに日本への往路途中で、激しい嵐のため、アワンは小さい娘を亡くした。そして彼は鹿児島で殺された。その悲劇的なエピソードがザビエルの1549年11月05日、ゴア宛ての手紙に記してある。
史料
“…maneandose mucho el navio, aconteciouna hija del capitan caer en el mar . E por ser los mares tao bravos no podiamos valerle…”
翻訳-“(中略)船が非常に揺れていたので、カピタンの娘が海に落ちてしまった。海が荒々しすぎたため、(娘を)助けられなかった。”
1550-フランシスコ・ペレイラ・デ・ミランダ(Frncisco Pereira de Miranda)平戸
ヘルナンド・デ・メネゼス(Hernando de Meneses)島原
1551-デゥアルテ・ダ・ガマ(Duarte da Gama)豊後。この同じ船でザビエルがマラッカに戻った。
1552-デゥアルテ・ダ・ガマ(Duarte da Gama)種子島に来航。
マヌエル・プレト(Manuel Preto)山川に来航。
1553-デゥアルテ・ダ・ガマ(Duarte da Gama)平戸に来航。
1554-来航はなかった。
1555-デゥアルテ・ダ・ガマ(Duarte da Gama)平戸
1556-フランシスコ・パリャ・マスカレニャス(Francisco Palha Mascarenhas)豊後
1557-ギリエルも・ペレイラ(Guilhermo Pereira)平戸
フランシスコ・マルチンス(Francisco Martins)平戸
不詳の人物-平戸
不詳の人物-平戸
1558-リオネス・デ・ソウザ(Lionel de Sousa)平戸
ギリエルモ・ペレイラ(Guilhermo Pereira)豊後。1559年11月1日、ガゴ宣教師宛ての手紙では、ペレイラが自分の船にいた病人達を、府内の病院に連れて行ったと述べている。
1559-ルイ・バヘト(Rui Barreto)平戸
1560-マヌエル・デ・メンドンザ(Manuel de Mendonza)豊後
アイレス・ボテリョ(Aires Botelho)平戸
1561-五隻 史料で確認できる人物は、
1-フェルナン・ソウザ(Fernao Souza) 平戸。 この年、ソウーザ商人以下、13人のポルトガル人が平戸で殺された。
2-アイレス・ボテリョ (Aires Botelho)平戸。
3-マヌエル・デ・メンドンザ(Manuel de Mendonza)平戸。
4-アルフォンソ・ヴァズ(Alfonso Vaz) 平戸。1561年12月に阿久根に滞在し、年末に山川で殺された。
5-不詳
1562年-ペドロ・バヘト・ロリン(Pedro Barreto Rolin)横瀬浦
不詳-横瀬浦
不詳-横瀬浦
1563年-ペドロ・ダ・ゲーハ(Pedro da Guerra)横瀬浦。この船でルイス・フロイスそして、他の宣教師達が日本に到着した。
フランシスコ・ガスタン(Francisco Gastao)横瀬浦
ゴンザロ・ヴァズ・デ・カルヴァリョ(Gonzalo Vaz de Carvalho)横瀬浦