5. 相州伝について
相州伝とは正確に何を定義とするのであろうか。本阿弥光遜は”大板目肌に大乱の刃文を以って相州伝とする”旨を度々にわたり、その著書に示しているが、果たしてそれで本当に納得出来うるであろうか。つまり本阿弥光遜は正宗を意識しての相州伝と言いたいのであろうが、では仮に正宗が存在したとして、正宗の先輩達(鎌倉鍛冶のルーツ)、つまり新藤五国光・国広・行光に”大板目に大乱”という作風があるであろうか。答えは「ノー」である。ならば貞宗にその様なものがあるか。答えは同じである。次いで秋広・広光になりやっとその様な作風が出ているが、厳密にいえば秋広・広光は皆焼刃である。因みに広光 (二字銘)に直刃がある様だから、この点は後述したい。つまり皆焼刃を相州伝と定義すれば、その現存刀は極めて微々たるものであり、決して五ヶ伝(本場 物)の中に入れられる様な存在ではなくなる。つまり、本阿弥家(桃山・江戸時代)は存在さえ危うい正宗を如何に表に出し、存在を誇示し名刀感を植え付け、その揚句に無銘正宗を濫造した。否、せんがために相州伝なる架空の掟を正当化、誇大化していったと考えられるのである。極言すれば本阿弥家(本家)の主たる役目は正宗をどの様に極めるかであったとさえいいうるのである。新藤五国光・国広・行光のよく詰んだ地肌に小沸出来の直刃を焼いた作は明らかに相州物(鎌倉)であるが、大出来(大乱)のものではない。従って本阿弥家は山城伝刀工の鎌倉への移住によるものと解釈を加えているが、その三刀工の現存刀にしても短刀が殆どであり、何らかの特殊事情があったと考えるべきが順当である。さらに新藤五国光の太刀が数振存在するが、平然と”余り出来は良くない”などと専門書に解説されるに至っては、もう茶番劇以外の何物でもない。新藤五国光・行光には、細直刃・丸棟・倒れた鋩子等があるが、これらの所作は本阿弥家の定義によれば田舎物(場違物)の最たる特徴であるとしていながら、但し、相州上位刀工(新藤五一派等)にはあるとの特別条項とわざわざ断っているのは、本阿弥家が、大体において新藤五一派(鎌倉鍛冶)等を本場の刀工達と見ていない本音が伺い知れる。つまり、すべては正宗を褒め上げる為に、又、正宗を中心に鎌倉鍛冶を考える為にその周囲も同様に名刀工にしなければ辻褄が合わなくなるからであろう。私は以前から新藤五国光・国広・行光のあとに広光・秋広が直に続くのであり、正宗はたとえ存在したとしても、上手ではない傍系の刀工であると考えるべきであると主張してきた。これは直刃出来と正宗の銘字と出来という点をも加味した上での推測ではあるが。
*正宗について
相州伝を語る時は必ず正宗が出てくるが、現在、短刀の四振が在銘正真とする説が引用される。それらの当否はともかく、本阿弥の御家芸であった正宗を戦後になって多くを国宝指定にしたが、その折、正宗抹殺論等をも一掃すべく『新札往来』(南北朝頃に成立か)、『尺素往来』や『桂川地蔵記』(室町時代に成立したとされる)の文献に正宗の名前ありとして正宗の存在が確実に証明されたと決論した。併し、その三つの文献はともに転写本のみの現存で明治期の『続・群書類従』や江戸時代の『群書類従』に所収の三つのこれらの文献には確かに正宗ではなく五郎入道の名前があり、貞宗とされている彦四郎の名前もある。但、これらは講談調の俗称で、この様な呼称は他の有名刀工にはなく明らかに違っている(『春霞刀苑』佐藤幸彦氏)。 又、室町最末期の刀工も記述に交じっている事は、つまりは江戸期に入っての加筆(後の書入)の可能性が極めて高く、資料批判(文献の信用度)的に言えば、これで有名工、正宗の存在の最後の根拠は希薄になったに等しい。江戸時代の”田沼折紙”といわれて本阿弥の正宗の折紙が今に至るも笑い物にされているが、戦後から今に至る正宗に対する指定と評価は、田沼折紙の比ではない。
さて、正宗在銘の四振(すべて短刀)の銘であるが、鎌倉時代の銘字とみるには力不足であり筆法にも納得しがたいものがある。むしろ、新藤五国光・国広から行光そしてすぐに広光・秋広に至る銘字を率直にみると筆法等に一貫した流れを強く感じさせるとは言えないだろうか※(別図参照)。 これは、刀銘を見慣れたある程度以上の識者には十二分に納得して頂けると思っている。私見ではあるが、相州鍛冶(鎌倉鍛冶)を考えると規模は極めて弱小にして存続期間も短く本場物とは口が裂けても言えないとするべきである。因みに、源義経の伝説に出てくる奥州の”金売吉次”なるものは、”金”を黄金と解釈せず”カネ”つまり、”鉄”(玉鋼・和鋼)と考えては如何であろうか。つまり、吉次なる人間ではなく、戦略物資である鉄のルートは奥州から鎌倉へ開けていたとの説を考える必要があろう。つまり相州鍛冶(鎌倉鍛冶)のルーツは京ではなく、奥州にありとする考え方(以前どなたか失念したが研究者であったと記憶する)が適切ではないか。鎌倉は海岸で良質の和鋼は仲々生産出来ないと考えるべきである。
さてこの様に相州伝とは全く正体のない不明確なものであるとの結論にならざるを得ない。私の考え方は、無銘は信用するべからず。又、一振も在銘正真がない貞宗・郷(江)義弘に至っては全くの論外である。そもそも日本刀の五ヶ伝なる掟は無銘の極めを如何に理屈づけるか、納得させるかのための玉手箱であり、在銘正真にはしばしば適用不可能になることを強く認識するべきであろう。
(文責 中原 信夫)