鬼鶴の系譜 甲賀編 第一回

鬼鶴の系譜 甲賀編 第一回 森 雅裕

 近江国甲賀郡千手山の心釈寺は室町後期の創建だが、安土桃山の頃には廃寺となっていた。慶長の初めに再建され、住み着いた者たちがあった。その主は六十過ぎの尼僧で、落飾した高級武家の妻女である。心釈寺は尼寺だった。

 山の高台に寺の主要な建物があり、そこには女たちしか住んでおらず、その下には武士が居住する館が配置されていた。地元ではそれぞれ女館、男館と呼んだ。寺というよりも隠居所だった。

 山村の住民は、ここに「わけあり」の女性が隠棲していることは察していたが、詮索はしなかった。交流がなかったわけではない。境内の小さな観音堂を参詣するのは自由だったし、住民と寺の者たちは一緒に農作することもあった。詮索などすれば、そうした友好関係がこわれるかも知れない。戦国乱世は栄枯盛衰の時代である。昨日の権力者が明日は世捨人となる。庶民にしてみれば、自分たちに迷惑をかけることがなければ、それでいい。

 寺の主は月華院様と呼ばれていた。尼僧ではない侍女たちが傍らについており、カナデ……漢字で書けば「奏」はその一人である。甲賀の里で育ち、数えで十七歳になる。

 慶長五年(一六〇〇)十月。山の朝は少々寒いが、歩き回るにはいい気候だ。昼前、食材の調達から戻る途中、カナデはいつもと違う何かが漂っているのを感じた。匂いや気配ではなく、山を見回し、あのあたりに何か違和感がある、という直感である。それは帰り道からはずれた林の中だった。崖になっていて、木々に覆われた底は暗い。谷川が流れている。

 水汲みに下りてみると、武士が木陰にうずくまっていた。全身血まみれだった。心釈寺男館の者ではない。見たことのない顔だ。武士がやってくるような場所ではないが。

「どうなさいました?」

 声をかけながら止血を試みたが、深手だった。男は目を開いたが、視線にはまったく力がない。

「……心釈寺のどなたかを呼んでもらえぬか」

「私はその寺の者ですが」

「村の善作という老人の家に、わが主人がおります。心釈寺を訪ねてまいった。どうか……」

 あとの言葉は聞き取れず、絶息してしまった。

 とりあえず、カナデは心釈寺から男館の武士たちを伴って戻り、死体の始末をまかせて、村への山道を下りた。

 善作は村の長老で、朽ちかけた百姓家に一人で暮らしている。みすぼらしい老人ではあるが、若い頃にはどこぞの武将の足軽隊で働いたこともあるらしい。カナデの顔を見るなり、

「お客様がお待ちだぞ」

 先に立って歩き出し、村はずれへと案内した。水車小屋がある。

「ここに?」

「隠れておられる。どうも追われているようでな。昨日あたりから、どこぞの侍どもが、武家の奥様の一行を見ておらんかと聞き回っておる」

「武家の奥様? それがお客様なのか」

「ああ」

 水車小屋に入ると、奥の物置に声をかけた。そこから現れたのは高級武家らしい妻女と侍女一人だった。カナデは頭を下げた。

「心釈寺で月華院様に仕えるカナデと申します」

 妻女はまだ二十歳くらいで、疲労しているが、凜とした美しさがあって、育ちのよさを漂わせていた。

「細川越中守忠隆の妻、千世です」

「細川様……」

「はい。大坂から逃れてまいりました」

 豊臣時代から、大名の家族は人質の意味もあって、大坂に集められている。細川家は丹後宮津の城主。先代の幽斎は丹後田辺城に隠居し、当代は忠興。忠隆はその嫡男である。

 関ヶ原の合戦はこの日より一月前、九月十五日に行われ、負けた西軍(石田方)の武将の妻なら居場所がなくなることもあろうが、細川家は東軍(徳川方)である。

「山中で、武士が斬殺されました。御家中の方ですね」

「警護の者です。私はここで待つから、と心釈寺へ使いにやりました。そうですか。追っ手に殺されたのですね」

「追っ手?」

「同じ細川家の者が、私を追っているのです」

 カナデはその事情など尋ねず、

「それで、心釈寺に御用の向きは?」

 愛想もなく、訊いた。細川忠隆の正妻ならば、身分からいえば、カナデには平伏すべき貴人なのだが、恐れ入ったりしなかった。もともと山育ちで、行儀作法などろくに仕込まれていない。ただ、顔立ちは可愛らしく声も明るい。

 そのためか、千世はごく自然にカナデと会話していた。

「お濃の方様に助けていただきたいのです」

 お濃の方とは月華院が寡婦となる以前の呼ばれ方だった。十八年前、彼女の夫は本能寺で横死している。

 カナデは初めて、柔らかな微笑をこぼした。

「とにかく、心釈寺へ。追っ手がうろついているなら、お着替えになった方がいいですね」

 百姓家から着る物を借り、千世と侍女を村娘に変装させて、山道へ入った。日没には間があるが、陽は傾いており、森の奥は暗い。

 心釈寺の手前で、カナデは千世に木陰へ寄るよう、指示した。

「隠れていてください」

 それだけいい、カナデは歩調を変えずに歩く。木立ちの間から一人の武士が現れた。カナデを少女と見て、居丈高に訊いた。

「お前は寺の者か」

「ならば、何?」

「さるお方の妻女がお越しではないか」

「さて……」

「とぼけるな。痛い思いをするぞ」

 武士は刀の柄に手をかけたが、半ばまで抜いたところで、カナデにその手首を押さえられ、次の瞬間には身体が反転し、転倒していた。どういう技なのか、こんな小娘ではあるが、腕を取ってねじ伏せられると、武士は身動きできなかった。

「お、おのれ……」

「動くと腕が折れる」

 忠告したが、武士は無理に身をよじった。鈍い破壊音が聞こえ、彼は悲鳴をあげた。カナデは武士の腰から脇差を抜き取り、その喉元へ当てた。

「心釈寺に害をなす者は殺す」

「おやめなさい!」

 千世が声をかけ、近づいてきた。

「追っ手とはいえ、この者も細川の家臣。殺すのは忍びない。放してやってください」

「左様ですか」

 命令ならカナデには従う義理はないが、依願なら聞かぬでもない。

 武士は千世を見て、

「奥様。お戻りくだされ。さもなくば……」

 叫んだが、カナデに脇腹を蹴られ、悶絶した。武士よりも千世の方が悲鳴をあげた。

「お、お前様は何者ですか」

 かまわずにカナデは歩き出した。

「この男の仲間が現れる前に……急ぎましょう」

 追っ手は一人や二人ではないらしい。

 心釈寺に着くと、月華院は侍女たちと一緒になって食事の支度をしており、身なりを整えて、客を迎えた。 

「お濃の方様。千世でございます」

 と、千世は頭を下げた。月華院の俗名は奇蝶。美濃の斎藤道三の娘であるから、武家社会では「お濃の方」と呼ばれた。故・織田信長の正室である。表舞台とは絶縁して長いため、月華院と千世に面識はない。

 突然来訪した無礼を謝ろうとする千世をさえぎり、

「何がありましたか」

 月華院はよく通る声で尋ねた。

 千世が語り始めた話は、夏にまでさかのぼる。この年の六月、徳川家康は諸大名を率いて、会津の上杉討伐に向かい、大坂を留守にした。その隙を突いて、七月、石田三成は家康打倒の軍を挙げた。まずは諸将の妻子を大坂城の人質とするべく、大名屋敷へ迎えの軍勢を送り込んだ。真っ先に目をつけられたのが細川忠興の妻・ガラシャこと玉子である。三成と忠興はかねてから不仲だったし、美貌の玉子は諸将の間でも注目度が高い。しかし、かねてから忠興はこうなることを想定し、玉子に「恥なきよう計らえ」と念を押して出陣している。それに従い、七月十七日、玉子は屋敷に火を放ち、自害した。

 同居していた千世も自害しようとしたが、玉子から諭されて、炎上する細川屋敷を逃れ、隣接する宇喜多秀家の屋敷へ避難した。秀家の正室は千世の姉(豪姫)なのである。

 ガラシャのあっぱれな死に様に石田方も衝撃を受け、他の大名たちから人質をとることを中止した。徳川方は上杉討伐を中止して、北関東から反転、九月十五日、関ヶ原で石田方と会戦した。徳川方が勝利すると、玉子の死は美談となった。武士の妻の鑑と賛美され、細川家ではこれを「義死」と表現した。当然のごとく、千世に対する評価はまったく逆となった。

「自害させよ」

 と、忠興は忠隆に命じた。愛するわが妻は「義死」したというのに、息子の嫁は生き恥をさらしている。しかも千世が逃げ込んだ屋敷の主は、関ヶ原で敵軍の副大将として対戦した宇喜多秀家である。

「もはや裏切りである」

 と、忠興は決めつけた。忠隆とて、母を失った悲しみは同様である。当然、反発した。

「つまりは、内府殿(家康)に裏切り者と難癖つけられるのが恐ろしいということでございましょうが、わが妻を侮辱することは父上といえども許しませぬぞ」

 敢然と父の命令を拒否した。

 千世は前田利家の娘である。避難先の宇喜多屋敷に長居するわけにいかず、実家の前田屋敷に身を寄せていた。利家の没後、家督を継いでいる利長に忠興は協力を求めたが、承知するどころか、妹の千世に屋敷からの立ち退きを宣告した。

 家康が天下人となりつつある現状で、前田家も生き残りに必死なのだ。秀吉亡きあと、遺児・秀頼の後見人として重きをなした前田利家は昨年三月に没しており、武将たちの力の均衡が崩れた。

 後継者の前田利長に父親ほどの器量はなく、昨年九月に家康暗殺を計画しているといいがかりのような嫌疑をかけられると、弁解と謝罪につとめ、今年五月に母親を人質として江戸へ差し出している。

 そんな利長だが、関ヶ原合戦においては、七月末から九月半ばまで加賀と越前の間をうろうろと往復しただけで、家康の東軍に参加していない。隣接する小松城の丹羽長重と交戦していたとか、弟の前田利政が東軍に加担することを反対したとか、これまた利長は弁明に必死である。おそらくは東軍と西軍のどちらが勝っても前田家が存続できるよう、兄弟は分裂を装ったのだろうが、日和見をしたと糾弾されかねない。前田家としては、この上、細川家から見捨てられた忠隆と千世をかくまい、家康の不興を買うことはできないのである。もともと、家康は前田家と細川家の婚姻による接近を喜んでいない。

 かくして、忠隆は千世を大坂から逃がした。

「お玉(ガラシャ)様から、行く先なき時は、お濃の方様を頼れと遺言を賜っております」

 細川忠興と玉子の結婚を仲介……というより命令したのは織田信長である。あの時、二人は同い年の十六歳だった。

「そうよなア。お玉殿には私も浅からぬ因縁がある」

 月華院は懐かしげにいったが、どこか沈痛の響きがあった。ガラシャは明智光秀の娘で、光秀は月華院の従兄弟である。幼馴染みであるが、その光秀は信長を殺した仇敵でもある。

「お玉殿が私を頼れというたか。よほどお人好しと見られたようじゃなア」

 月華院は暑くもないのに扇子を使った。照れているのである。

「で、千世殿の逃避行を知った舅の忠興殿が、息子に嫁が殺せぬなら俺が、と追っ手を差し向けたという次第か」

「私ども、多勢では目立つゆえ、警護の家臣二人と侍女一人という供連れでございましたが、家臣の一人は逃亡いたしました。裏切って、我らの行く先を追っ手に洩らしたかも知れませぬ。今一人はここの山中で討たれました」

「理不尽よのう……。千世殿。お子は?」

「おりませぬ」

「おればおったで、戦場へ送ったり人質にやったりあの世へ道連れにしたり、心痛ではある。じゃが、それが戦国の武家に生まれた者の宿命。家を守らんがため、命を捨てるのは当然のこと」

「はい。私とて命を惜しむものではありませぬ。夫のためならば喜んで死にまする」

「しかし、舅のためには死ねぬ、か」

 細川家の目は内の家族よりも外の権力者に向いている。「主人をかえるのは武士の器量」というのが細川家の生き残り策である。先代の細川藤孝はもともと足利義昭に仕えていたが、あっさりと織田信長に乗り換え、信長が本能寺で弑逆されると、親交あった明智光秀(ガラシャの父)を見捨て、豊臣秀吉の顔色をうかがうため頭を丸めて隠居し、幽斎と号した。後継者の忠興も父親譲りの処世術を発揮し、秀吉に切腹させられた豊臣秀次との関係を疑われると、徳川家康の協力でこれを乗り切り、秀吉の没後には、いち早く家康にすり寄っている。

 しかし、前田利長が家康暗殺の嫌疑をかけられた時、忠興もその仲間だと風説が流れたため、利長と同様、弁明につとめ、三男の光千代(忠利)を人質として江戸へ送った。

 のちの慶長十年(一六〇五)、次男の興秋を忠利と交代させようとしたが、興秋はこれを潔しとせずに逃亡した。後年の大坂の陣では、あろうことか豊臣方に参加して奮戦、落城後に切腹して果てることになる。

 天正十年(一五八二)、明智光秀が天下の謀反人となった時、娘である玉子は自害をも考えたが、子供たちが成長するまでは、と思いとどまった。夫の忠興は世間体を取りつくろうために離縁し、領地の宮津に近い丹後半島味土野の山中に彼女を幽閉した。二年後に秀吉の許しを得て復縁するが、忠興は玉子に外出を禁じたという。

 細川忠興は文武に秀でた武将ではあったが、家族愛には恵まれぬ男だった。玉子がキリスト教の洗礼を受け、「ガラシャ」となったのは天正十五年の夏で、秀吉が伴天連追放令を発布したのとほぼ同時である。九州の島津征伐から帰還して、妻の受洗を知った忠興は驚愕、激怒し、キリシタンであった乳母の鼻と耳を削ぎ落とし、侍女二人の髪を剃り、追放した。玉子の生前には、その美貌に見とれた下男を手討ちにしたと伝わる忠興である。もともと、キリシタン大名である高山右近を尊敬し、キリスト教を玉子に語り教えたのは忠興ではなかったか。こうした彼の仕打ちが玉子を自害へ追いつめたともいえるし、息子たちの離反をも招いたのである。

 石田方の軍勢は細川屋敷だけでなく黒田長政や加藤清正の屋敷も囲んだが、奥方たちは脱出している。玉子も脱出できたものを敢えてしなかった。それには、こうした背景がある。

 息子の忠隆が家名より妻を守ることを選んでも、無理からぬことではあった。

「まあ、それぞれの家にそれぞれの事情があろう」

 世捨人の月華院はいちいち「事情」など知りはしない。しかし、目の前の千世に好感を持ったらしい。何より、退屈しのぎになる。

「忠隆殿とそなたの夫婦愛に免じて、追い返すことはするまい。粗末な荒れ寺じゃが、好きなように過ごされるがよい」

「ありがたきお言葉。ただしかし、追っ手どもが迫れば、心釈寺の皆様に御迷惑をかけぬよう、首を差し出す覚悟でございます」

「迷惑かの?」

 月華院はうしろに控えているカナデに訊いた。カナデは柔和な表情だが、口調は強い。

「それは追っ手の出方次第。彼奴ら、この寺に逃げ込まれては厄介ゆえ、その前に何とかしたかったでしょうが……」

 それが間に合わなかったとなれば、千世の引き渡しを求めてくるだろう。それを断られたら、追っ手どもはどうするだろうか。腕ずく力ずくということになったら……。

 月華院は笑ってさえいるような声で、いった。

「男館の者どもではちと頼りないのう」

 男館に居住している武士たちは織田家の旧臣で、人物は信頼できるが、年寄りばかりだった。若い男手が必要な時は、甲賀の里から呼び寄せるのである。

 カナデは無愛想だが明るい声で、いった。

「月華院様。明日、里に使いをやって、警護の人数を集めましょう」

 心釈寺から里まで、往復に半日かかる。自分なら夜でも山道を歩けるが、月華院のそばを離れるのが心配だった。明朝、男館の武士を行かせようと、カナデは考えた。

 こうしたカナデの言葉と態度に、千世は珍奇なものでも見たように訊いた。

「ところで、こちらは何者でございますか。ただの侍女とも思われませぬが」

 月華院は、誰のことかという表情で千世を見つめていたが、

「ああ」

 忘れていたことを思い出したように、いった。

「カナデか。勝蔵の末娘です」

「かつぞう……?」

「森長可」

「あ。森武蔵守様の?」

 信長麾下で「鬼武蔵」と畏怖された美濃金山城主である。長可は軍規違反を犯すことも多かったが、信長は苦笑するばかりで特に処分を下すこともなく、多士済々の家臣団の中でも信頼、寵愛された武将であった。

「その森武蔵が長久手で戦死した時、カナデはまだ母の腹の中にいた。母は甲賀の伴家の者でな……」

 長可の正室は池田正恒の娘で、カナデは妾腹である。母の実家・伴家は忍びの家系で、森家とのつながりが深い。本能寺でも森長定(蘭丸)らとともに伴の一族が戦死している。その時点で、森家の唯一の後継者となった長重(のち忠政)は安土城にいたが、迫り来る明智軍から彼を逃れさせ、甲賀の里にかくまったのも伴一族である。その縁で、長重は家督を継ぐと、甲賀衆を正式に召し抱えている。長重は長可の末弟で、天正十五年(一五八七)に忠政と改名している。その忠政にはカナデは姪ということになる。

 長可はその遺言状で、妻には「大がき(大垣。妻の実家)へ御越し候べく候」と戻るように指示し、弟の仙千代(長重のち忠政)に跡目を継がせることは「くれぐれ、いやにて候」、そして娘については「京の町人に御とらせ候べく候」と書き残している。

 長可は主人の信長ばかりでなく、父と四人の兄弟をも戦場で失っており、武家に嫌気がさしていたと解釈される文面だが、時の権力者であった秀吉の顔色をうかがう打算も見え隠れする、したたかな遺書である。しかし、長可戦死の折にはまだ生まれていないカナデについては、何も触れられていない。

「カナデは侍女というより、私の娘のようなもの。甘やかして、わがまま放題に育った娘です」

 お濃の方こと月華院に実子はいない。信長死後、妾腹の次男である織田信雄の京都屋敷に身を寄せていたが、天正十八年、信雄が秀吉の怒りを買って改易されて以降、月華院は流転の数年を過ごし、甲賀に隠遁した。その世話をしたのが森忠政である。そして、里育ちのカナデが仕えるようになった。

 森忠政は関ヶ原の合戦直前の慶長五年二月に金山から川中島へと転封となり、京都からも甲賀からも遠く離れてしまった。今やカナデは月華院がもっとも頼りとする身近な者なのである。

「この娘は寺でじっとしておらず、釣りや狩りに駆け回ってばかりじゃが……。あ、そうそう」

 月華院は切れ長の目を見開いた。

「千世殿。腹が空いておろう。今、用意させる。カナデが獲ってきた川魚じゃ。今の時期は卵を持っておるから、これをしょうゆ漬けにしたものも美味じゃぞ」

「魚を食するのですか、この寺では」

「お釈迦様の頃の仏教では肉も魚も食うたそうな。『四分律』にも書かれておる。正食とは、飯、魚および肉、それから……何だったかの、カナデ」

 背後へ声をかけたが、返事はない。

「カナデ殿なら、とうに出て行きましたが」

 千世から教えられても、月華院は振り向きもせず、しばらく沈黙していた。そして、千世をまっすぐに見据えたまま、いった。

「出された食べ物はすべていただくのが道理というもの。お釈迦様は施しを受けた肉の食あたりで亡くなられたというからなア。僧侶どもの中には、食事の時に袈裟を脱げば、肉食も可だと建前をいう者もある。ある時、親鸞上人が袈裟をつけたまま食事をしていたので、幼児だった北条時頼が、何故袈裟を脱がぬのかと尋ねると、自分が食する鳥や魚に功徳を与えてやるためだと答えたそうな」

「はあ……」

 千世が返答に窮していると、

「そう固くなるな。気楽に過ごせ」

 月華院は裾を翻して部屋を出て行き、廊下の向こうから、突然の笑い声を響かせた。